異世界転移
異世界転移のお話です。
レイはこの時、何を想うのか。
十字架の横断歩道が、レイを詰問するかのように雑踏を投げる。煌めき返す高層ビルの合間から照らす太陽光は、さらに伸びる人々の影で、レイの行く手を暗く染め上げていた。
沢山の人が、レイの横をすり抜け、通り過ぎ、かわしていく。しかし、誰ひとりとしてレイを認める者はいなかった。
レイは、迷っていた。
いや、いつも迷っていた。
このまま進むべきか、それとも立ち止まったままでいるべきか。
信号の「進め」の声がレイをひたすら急かしている。
レイは今のままの状況が心地よかった。誰も見ない、誰もレイに振り向かない、誰も気に留めないこの状況が。
「進め」を無視して、薄暗がりに留まり続けることが何より良かった。
しかし、心の陰の何かが、すがすがしさの足を引っ張っている。
足を一歩前に出してみる。
足は軽く縁石を踏みつけた。
重りを足首にくくりつけられた感覚がまとわりついていたが、そんなことは実際なかった。現代日本で、そんな状況があるはずがない。
バカげてる、と笑い捨てる。それを気にかける人もいない。
やがて諦めたかのように「進め」が点滅しはじめる。そうだ、それでいい。進むのは人だけじゃない。
この時代にはもっと速い、車やバイクなどが人々を進ませている。レイを待っている暇はないはずだ。
もしも自分を見つけてほしくて車の前に躍り出たらと、心臓が一気に膨れ上がりそうなことを思い浮かべる。
当然車はレイを見つけて止まってくれるかもしれない。けれど、その感情はレイを轢き殺すよりもぐちゃぐちゃだ。
だとしたら、レイは見つけてくれない方がマシなのか。
車道の信号は青になり、溜まっていた車を吐き出し始める。待ちくたびれたように走り出す車に、レイは何かを飛ばしてしまいそうになり、気がつく。
俺は何をしようとしたのか?
今一瞬思い浮かべたことのはずなのに、レイは思い出すことができなくなっていた。
そして視線をまた次にくる車に移そうとしてふと気付いた。道路に何か小さな物体が転がり込んでいる。小さな子どもだ。レイは不味いと怖気が走る。
自分を世捨て人のように思う割には、目の前に飛び出した子どもから目をそらすことができない。
その視界の横では、運転席のかなり高いトラックが走り込んでいる。止まる気配もない。どうやら子どもが小さいので気付いていないようだ。
レイの何が働きかけたのかは自分でもわからなかった。ただ、はじかれるようにレイも飛び出し、子どもを思い切り突き飛ばしたことだけははっきりと覚えていた。
目の前の子どもは何をされたかわかっておらず、ただレイに突き飛ばされるまま歩道に転がり落ちている。そして、レイに迫るトラックも気付かずに減速しない。
誰にも認識されるように仕向けてこなかった報いなのか、レイが望んだままに神様がプレゼントしてくれた事実なのか。
まぁ、わからないままでもいいか。
死にたいわけではなかったが、これで楽になれる。
「ほれ、起きなさい」
しゃがれた声が、レイの鼓膜を優しく撫ぜた。
レイは不思議にもその言葉を信じ、目を開いた。
開いた視界ははじめぼやけていたが、だんだんと目が慣れていき、そしてくっきりと姿を現したのは、暖かい一室と呼ぶのがふさわしい空間だった。
そこかしこが木製の家具、壁、そしてランプには瞳に優しく、小さくも力強い炎が揺らめいていた。
どこかのコテージか、あるいは田舎の一軒家を連想させる。
いや、おかしい。
レイはぼぉっとしていた頭に活を入れる。
「こ、ここは――」
「わしの居場所じゃ、転移者くん」
目の前の――お爺さんと呼べばいいのかレイには迷う――白髪交じり、柔らかな髭をふっさりと蓄えた老人は、その身にまとう柔らかい白色を湛えたローブを揺らしながら笑う。
「まぁ、君は来るのが初めてじゃろうが」
そう笑いながら、近くを大仰に回り、説明を加えていく。
「ここへは、君が、君自身の強い意思で来たのじゃ」
微笑みを含んだ口は、まだ続ける。
「ここは君のような……大抵、いやいや、ほとんどの魂が来れるような場所ではないがな? 要するに……君が、君自身の意思で、次の異世界へ行く通過点のような場所じゃよ」
まるで久々に孫にでも会ったように喜色を浮かべた老人にまくしたてられ、レイは意味を飲み込めない。
「それは……生まれ変わる、ということか?」
おっかなびっくり尋ねてみる。
「いいや、少し違う」まるで期待していた回答を訂正するように「生まれ変わるのではなく、そのまま、違う世界に行くのじゃ」
今の状況もまるで呑み込めていないが、レイはなんとかついて行こうと必死に頭を使う。
レイは死んだ。それは間違いない。
あのトラックに衝突されて、まだ生きている方が信じたくない。体がぐしゃぐしゃになった自分を想像しそうになり、またレイは頭を振る。
魂の転生……いや、まだ朗らかに笑うこの老人は、転移と言っている。
つまり、このまま、違う世界で新しい生活をさせられるのだろう。
新しい世界。レイはその言葉を口の中で咀嚼する。
聞こうとすると、老人は言葉を遮って、またも楽しそうに髭を撫でた。
「君がいくのは以前の世界と法則や価値観も違ってくる……人と魔物が争い、そして人同士も剣と魔法で争う、そんな世界じゃ」
レイは嚙み切れない現実をなんとか飲み込む。
死んだ事実をなかったこと同然にできる。
くだらなくはないとはいえ、不本意ながら死んだのは情けなかった。
もう少し、生きていたいとは感じていた。もちろん、あのまま意識もなく一生を終えていたのなら話は別だが、こうして、もう一度生き返らせてくれるというのなら、レイにとっては願ってもない。
「それに、君に頼みたいこともある」
ふと、人差し指を一つ立てた。頼みごとを一つ。
「これから転移する先の国でなにやら妙な動きがある……魔物の大群が押し寄せるのじゃ。しかしわしは残念ながら手が出せない。その原因を探り、絶ってほしいのじゃ」
「……それが、また生き返る条件ってことか?」
「まぁ、そういうことじゃ……わしの目に狂いがなければ」
ほっほっほ。気に障るような笑い声だが、否定もできない。
目の前の老人は朗らかに笑ってばかりいるが、しかしレイの目にははっきりと“困った”表情が見える。
誰にも相談なんかできず、誰にも助けを求められない。ただ問題を傍観しているしかない。一瞬、先の飛び出した子供が轢かれそうになるのを思い出した。
「そのうえで一応聞いておくが……転移は、したいかね?」
もう既に答えが決まっている問いに、首を縦に振る。少し厳しい表情を浮かべた老人は、すぐに顔を緩ませた。
その表情を見て、レイの中にふと疑問が浮かんだように思えた。擦り合わせられない何かが擦れたような気がしたのだが、大仰に人差し指を振る老人に思考をかき消された。
「あぁ、じゃが、今の君に魔法は使えない。当然じゃ。だから、魔法の才能を君に与えることもできる。唯一無二の力じゃ」
「どういうことだ?」
「君は人並み外れた魔法の力を得ることになる。君の言うところの、最強とか、チートとかじゃ。素晴らしかろう?」
良い話には必ず裏がある。あるはずなのだが、この老人に裏があるとは思えない。
底なしに朗らかに見えるその表情からは、レイを騙そうとする気概も感じられない。
だが、レイは別の点で引っかかりを覚えている。
「あぁ、君が今心配に思っているように、タダでとはいかない」見事にレイの心のうちを見透かしてきた。「何事にも、引き換えがいる。君の他にできる道を――この場合は、そうじゃ、君の場合は、武器を握れなくなることになるが」
「それは……困る」
「困る?」
「そんなものを手に入れたら……」
一息詰まる。
「……絶対、こき使われるだろ!」
自分でも驚くくらい、大きな声で拒否していた。
物騒な世界に行く以上、平穏にとはいかないだろうが、レイは頼られ続けるのはごめんだ。そんなチート能力をもらって誇示しようものなら、とんでもないことに巻き込まれる気しかしない。
「だから、そんな最強だかチート能力だかなんていらない」
口を真一文字に結び、答えた。
大体、そんなものを手に入れずとも独りでやっていける自信くらいはある。最初こそ下手くそだろうが、普通の日本人ほど平和ボケをしている自覚はなく、体だって健康そのものだ。
転移はどうしようもないが、そんな力をもらえずとも静かに暮らしていける。
レイの拒否を静かに受け取った老人は、
「そうか……では、お前の望み通りにしよう」
どこか寂しそうだが、笑みは絶やさなかった。
この老人の好意はありがたい。だが、気持ちだけいただくことにする。異世界に行く理由は、ひょんな偶然とはいえ、ちやほやされる為ではない。しかし、どこかチクリと心が痛む。
しばしの沈黙を経て、老人はやれやれと溜息をついた。
「意志が固いようなら、そのまま転移させよう」
コンコン、とどこかから音が響く。目の前の老人がいつの間にか持っていた木製の杖が出す音かと思ったが、部屋が唸るような音にも聞こえた。空間が揺れているのか、自分自身だけが揺れているのかわからなくなる。
「だが忘れるでないぞ。次の転移は、あり得んからな」
次の人生がラストチャンス。そう言いたいのだろう。
望むところだ。レイは拳を握りしめ、まばゆく塗りつぶす世界に飲み込まれていった。
お疲れ様でした。




