秘密のマトリョーシカ
秘密のマトリョーシカ
私が小学校に上がる前のころだったと思う。お母さんが突然いなくなった。立ち消える煙のように、なんの前触れもなく。いや、前触れはあったのかもしれない。幼い私が気づかなかっただけで。そこから始まったのは、お父さんとの二人暮らし。娘の立場から言うのもなんだけど、私たち父娘は、お互いに助け合いながら生きてこられたと思っている。
漠然とした寂しさはあった。けれど、何かに困ることはなかった。お父さんが、私に不自由な思いをさせないようにと、常に配慮してくれていたのだろうと思う。お父さんの態度からそれが透けてみえるようになって、私も下らない自己主張を控えるようになった。
時々、
「お母さんはどこへ行ったの?」
と、私が問う。するとお父さんが、私の顔をじっと見つめ、
「天国……かな」
と、答える。
「死んじゃったの?」
「そんなようなものだよ」
そうは言っても、家にはテレビのニュースやドラマにあるような、お母さんの遺影もなければ、仏壇もない。
だから、お母さんが死んでしまったとは思っていなかったし、信じてはいなかった。
人は死ぬと除籍扱いとなる。
ある日曜日の午後。スマホを持っていなかった私は、お父さんが昼寝をしているスキを見計らってスマホを拝借し、死について調べていていたので、そのことを知っていた。死んだか死んでないかは市役所に行き、戸籍を調べれば一目瞭然なのだとあったが、かと言ってそれを行動に移して真実をつまびらかにする勇気も持てなかった。
そうこうしているうちに6年の月日が流れた。私は中学生になった。
もしかしたらお母さんは今、お父さんとは別の人と生活しているのかもしれない。そうであればなおさら、この話題でこれ以上、お父さんを苦しめることはできない。
お母さんの話題は禁句。私はいつしか口を噤むようになった。
うちのリビングの出窓のスペースに、一体のマトリョーシカが置いてある。マトリョーシカとは、人形の体の中にもう一回り小さな人形がいくつも入っている、ロシアの民芸品だ。それはお母さんがいなくなる前、家族で温泉旅行に行った先の雑貨屋で、お母さんが気に入って買ったものだ。
「ねえ紗英。これ見て。すっごく可愛いじゃない? このおちょぼ口、紗英みたいだわ」
「ええぇ。なんかイヤだぁ。ヘンなかおー」
「そう? 可愛いと思うけど……紗英見ててごらん。ほうら!」
マトリョーシカが半分になる。すると中には一回り小さなマトリョーシカ。
「わ! すごおい!」
「まだまだあるわよ!」
お母さんは調子に乗り、手にしたマトリョーシカをどんどん開けていく。そしてとうとう雑貨屋の店主に怒られてしまった。
私とお母さんの思い出といえば、このマトリョーシカしかない。
「ぜーんぜん似てないじゃん」
時々、中を開けて覗いてみることがある。文句を言いながらもそうやって、私はお母さんの面影かなんかを追いかけていたのかもしれない。
私が中学1年生の秋のことだった。
お父さんが夜遅くまで帰ってこない日があった。
『紗英、悪いけどお父さん、今日は遅くなるから、カップラーメンでも食べておいて』
『残業?』
『そう』
私は家の電話を切ると、ケトルで湯を沸かし、カップラーメンを作り啜った。
ふと時計を見る。針はもうすぐ夜の9時というところで、コチコチと音をさせている。お父さんが観るとき以外、うちはテレビはOFF。スマホを持っていないから、図書館で借りてきた本を読んで過ごしている。カップラーメンを啜る音が終われば、しんと静寂が訪れた。
お腹は満たされるが、ただ、気持ちはどこかふわふわとしていた。
お父さんの帰りがここまで夜遅くなったのは、これが初めてだったからだ。その後、残業は三日、続いた。
「浮気かもしれん」
三日目の夜、我慢の限界がきて、私は親友の智香に電話した。智香のスマホからうちの家電に掛け直してもらう。
『でも紗英のお父さん、お母さんと離婚してるんでしょ?』
「それがはっきりと聞いたわけじゃないからどうなんだろ?」
『別居が何年も続くと、離婚できるんだよ。うちがそうだったもん』
シングルっ子同士の会話だ。
「じゃあ離婚してるわ」
『でしょ? だったら浮気とは言えんやん』
「突然、彼女とか連れてくるんかな。それはそれでキモ」
『うわキモいキモい』
笑い合ってから次の日に図書館での待ち合わせを約束して、電話を切った。
電話を切ってからが大変だった。
気持ちがぐらぐらと揺らぐ。お母さんのことをそんなには覚えていないくせに、この時ばかりは強烈にお母さんの味方だった。
「キモいわ」
新しいお母さんだなんて最悪。もちろんお母さんだなんて呼んでやらないし、欠点をあげつらって、けちょんけちょんにしてやる。
お父さんはまだ帰ってこない。
私は諦めてお風呂へ入ろうと洗面所へ向かった。ドアを力任せにバタンと閉める。少しスカッとする。もう一度開ける。そしてもう一度、力一杯閉める。
風圧であのマトリョーシカが倒れているかもしれない。いや、お父さんもこの家も全部、吹っ飛んでしまえばいい。そう考えながら、洋服を脱ぎ捨て、シャンプーで頭をガシガシ洗った。
「今度の土曜日、午後からでいいから空けておいてくれ」
はい来たー。そう思ったが顔には出さない。
「悪いけど、智香と図書館に行く約束してる」
予想していたので答えを用意しておいた。嘘だけれど、断り文句は口からなんなく、するっと出た。
「じゃあ午前でいい」
珍しくお父さんが引かなかった。断る理由を二つは用意していなかったから、少し口ごもってしまった。
「……午前も用事がある」
けれどここで折れてはいけない。頭をフル回転させる。
「日曜日でもいい」
「日曜日は智香の誕生日だから、買い物に行くって約束してる」
お父さんは少し考えると、
「誕生日は大切だ。だったら、やっぱり明日の午前の用事を後回しにしてくれないか」
「……わかった」
怯んだところを突かれてしまい、OKせざるを得なかった。
「出かけるけど、紗英は制服でいいからな」
制服。ってことは、やっぱり浮気相手を紹介されるってことか。
フル回転させていたはずの頭は、思考停止。心もキンと冷えていくようだった。
マトリョーシカを見る。その中には小さなマトリョーシカ。けれど、お父さんの中にはお母さんでなく、私でない誰かが存在する。
秘密。
そう思うと、お父さんが途端に汚いものに見えてくる。
いやいや、待て待て。明日の午前には暴露されるのだから、秘密もへったくれもない。
胃がキリリと痛んできて、少しだけ吐きそうになった。
土曜日は早起きした。智香との約束に間に合うようにと、お父さんが配慮した結果だ。そうだった。智香と図書館へ行くという約束、嘘をついた罪悪感からなのか、お父さんがお風呂に入っている間に智香に電話して、本物の約束にしたんだっけ。
時間はお昼過ぎの2時。いつも通り、図書館の玄関前だ。
お父さんは寝室のドアを閉め切り、電話を一本かけていた。耳を集音器のようにそばだてたけれど、もごもごと声がくぐもっていて聞き取りにくい。今から向かいます、という言葉だけははっきりと聞こえ、途端に気分が萎えた。
(やっぱ浮気相手に会いにいくんだ)
車に乗り込んで、渋々シートベルトをした。息苦しかった。
「出発するぞ」
お父さんはゆっくりと車を発進させていく。
「紗英。せっかくの休みに悪いな」
時折、ウィンカーを出すお父さんの横顔。ちらっと盗み見る。頬が引きつっていて、朝から緊張しっぱなしの様子だ。私はお父さんのそんな堅苦しい顔を見たくなく、真っ直ぐ前を向いたまま、道路の先にある信号を睨みつけた。
「ううん、いいよ別に。大した用事じゃなかったし」
「そうか」
少し間を置いてから、お父さんが意を決したように言った。
「どこに行くのか訊かないんだな」
「別にどこに行こうが、どーでもいいもん」
思春期あるあるの下らない自己主張はやめたと思っていたけど、なぜかニョキニョキと反抗心が芽生えてくる。
「クッソどーでもいい」
お父さんがハンドルを回し、信号を右折する。
「クソだなんて言葉遣いが悪いよ。直しなさい」
「みんな使ってるよ。クソムカつくとか、クソムカつくとか」
二回、言った。
「女の子なんだから」
「今どき女だからとか男だからってのは、古い考えなんだよ。お父さん、知らないの?」
いつもの遥か100倍くらい、いが栗かハリネズミのように、言葉に棘が生えている。
今からお父さんのマトリョーシカの中にいる、気味の悪い正体不明な人物、つまり浮気相手に無理矢理対面させられるってだけで、クソムカつくのに。胃がチクチク痛くなり、また吐きそうになった。
「気分わる」
お父さんは少しの沈黙のあと、「お父さんの予定を優先させてしまって悪かったな」と言った。
(はあぁ? お父さんは私が予定を狂わされて怒ってると思ってるの? 全然わかってない! バッカじゃないの! クッッソムカつくわ!)
言葉の棘は、自分をも傷つける。そう理解したのは、その5分後ぐらい。
お父さんを貶めた。悲しい気持ちとともに、胸をぐっと潰されるような苦しみが、襲ってきたからだ。
その痛みを誤魔化すために、ティッシュで勢いよく、鼻をかんだ。
予想に反して、そこは墓地だった。
想像とは違っていた場所に、私は戸惑いを隠せなかった。
駐車場に車を停め、お父さんはカバンを持つと、「少し歩くぞ」と、先へ先へと先頭を切った。私はその後ろをついていく。
前をゆく、お父さんの背中。久し振りにまじまじと見た。丸っこい肩の曲線。スーツの後ろ身ごろのライン。後頭部や襟足に、所々白髪を発見。
カバンを持つ、大きな手。幼いころはよく、その腕にしがみついたり、よじ登ったりしていた。私が手を握ると、いつもその大きな手で、ぎゅっと握り返してくれる。
そんなことを今さら思い出したら、行きの車の中でのことを、無性に謝りたくなった。
お父さんは、墓地の中をずんずんと歩いていく。
落ちた枯葉がそこここで、風の力を借りて、カサカサと地面を行き来する。墓石には、こうべを垂れたお供えの花。完全に枯れたのもあるし、まだまだ生っぽいのもあった。
墓地の駐車場に着いた時点で、お父さんの浮気相手に会わせられるという線は、消えた。それだけで胃のキリキリとした痛みはなくなっていた。
けれど、油断してはいけない。『墓地でサプライズ』があるかもしれない。いや、どう考えてもこれはお母さん絡みだ。『墓地でサプライズ』があるとするなら、やはりお母さんは死んでいた、ということになるのだろう。今度は違う胸の痛みに襲われる。心がざわっと騒いだ。
「もう少し歩けるか?」
「いつも市の図書館まで歩いて行くんだよ? これくらい平気だよ」
さらに歩いていくと、墓地の奥、その敷地の境界線が見えてくる。そこで初めてこの墓地が、腰高の壁で囲われていることに気がついた。
これは、お墓参りなのだろうか。もしかしたらお母さんは関係なく、ただの先祖の墓参りなのかもしれない。いや先祖の墓ってなんなん? 今まで一度だって、先祖の墓参りなんて来たこともないのだから、そんなわけがない。
やっぱり、お母さんだ。
(本当に死んじゃってたんだな)
意外だった。ずっと、お母さんは死んでいないと思い込んでいた。お母さんの死がはっきりとしてしまえば、私に残されたものは、それこそあのマトリョーシカしかない。
お父さんの背中を見る。ふと気づくと、お父さんの背中が遠かった。
その背中に追いつくように、私は一生懸命歩いた。
広々とした墓地の敷地を抜けると、一軒の大きな白い建物が見えてきた。草原の中に建つ、白亜の建物だ。
その建物が、今まさに通ってきた墓地と、まったくと言っていいほどそぐわないことに気がついていた。もし、墓地の墓石が十字架だったり、墓石に刻まれた文字が英語だったりすれば、その建物の雰囲気には合致したのかもしれない。それほど、洋風の建物だった。
「あそこだよ」
お父さんは草原に足を入れ、人の足で出来た小道をそのまま歩いていく。
ああそうか。あの建物でお父さんの浮気相手が働いているんだな。なーるほど。騙された。
まるでジェットコースター。上へ上がっていけば下へと落ちていき、下へ落ちればまた上へ上がっていく。そして、どん底へとレッツゴー。
また胃が痛くなってきた。ストレスって本当に胃にくるんだな。私はみぞおちをさすりながら、足取り重く歩く。
施設の中に入ると、お父さんがやるように真似て、手を消毒し、持っていたマスクをした。
意外にも、そこは病院のようだった。
「砂原さん、こんにちは。今日は娘さんとご一緒に?」
お父さんは受付の職員に、深々と挨拶をした。
「はい。いつもお世話になります」
「やっと決心してくださったんですね。私たちも賛成ですよ」
「ご心配をおかけして」
交わされた言葉は少なかったが、お父さんがここへは何度も来ていることがわかる会話だった。
廊下を歩きながら、丸い背中のお父さんが言った。
「ここはね、認知症の人をお世話してくれている病院なんだ」
「お父さん……」
「そうだよ。いや、違うとも言えるかな……ここだよ」
意味のわからない言葉を残して、奥の部屋、そのドアの前で、お父さんがトントンとノックした。中から、ハイとくぐもった声がした。
ドアを開ける。個室。ベッド。そして。
「……お母さん」
絶句した。頭が真っ白になっていく。
ベッドに横になっているのは、紛れもなくお母さんだった。小学校に入る前までは一緒にいたのだから、私がその顔を見間違えるわけがない。少し老けた感は否めないが、その顔色は良い。
けれどそれが見かけ上、そう見えるだけなのだということは、のちに知ることになる。
「あら。こんにちは」
横になっていたお母さんは、布団を捲り上げてよいしょと起き上がると、ベッド枠に背をもたせかけて座った。無表情。とても無表情だ。虚ろと言ってもいい。
「美紗子さん。あなたの夫の和明が来ましたよ。こちらは紗英だよ」
お父さんがどこか他人行儀な挨拶をする。ベッドの横にあるソファに促され、私はこわごわ、そろりとお尻を下ろし座った。隣にお父さんも座る。
いつもはそんなことはしないのに、お父さんがなぜか、私の肩に手を回して、ぐっと力を込めた。
「美紗子さん。今日も元気そうだね」
美紗子。お母さんの名前で間違いない。ああ、目の前に、私のお母さんがいる。
「私は見たまーんま元気ですよ。元気元気っと……」
胸がいっぱいになって、どうしていいかわからない。
時が止まったような気がした。
「お、お母さん」
声をかけた。けれど、ここで空気は一変する。予想に反して、お母さんはきょとんと変な顔をして、首を傾げたからだ。
「ええと、そちらのお嬢さんは誰でしたっけ?」
衝撃を受けた。
「紗英だよ。キミと僕の娘。娘の紗英だよ」
「夫さんの娘さん? 知らなかったわ。可愛らしい娘さんがいらっしゃるのね」
お母さんはじいっとこっちを見ている。そのはずなのに、その視線は、私とお父さんの間をすり抜けていく。目が。視線が。まったく合致しない。
しかも覚えていない。私のことを覚えていない。覚えていないというか、わかっていない。
私は自分が透明人間にでもなってしまったような気がした。
呆然としたなかで、ようやく出た言葉がこれだ。
「こ、この人……お、おか、お母さんじゃないの?」
ぐっと肩に置いていたお父さんの手に力が入り、我に返った。お父さんを見る。お父さんも私を見ている。肩に回っていた腕をほどき、そしてお父さんは私の手をぎゅっと握った。
「美紗子さん、近いうちにまた来るね」
お父さんが立ち上がった。状況を飲み込めないうちに、私も立ち上がった。その場から逃げるようにして、部屋を出ようとドアへと向かったとき。
「あのぅ……」
その声で振り向くと、お母さんがにこっと笑っていた。
「会いに来てくれて、ありがとうね」
そしてまた、お母さんは無表情になると、そのままもぞもぞと布団に潜り込んだ。
「紗英。黙っていてごめんな」
家に戻った私とお父さんは、ダイニングテーブルに座り、向かい合った。まだ事情が飲み込めていない私は、放心状態だ。
「若年性のアルツハイマーなんだ。最初は家で看てたんだけど、症状がどんどん悪化して酷くなってしまって」
「……うん」
「記憶力がどんどん悪くなっていって、次第に紗英のこともわからなくなってな。お母さん、そりゃ落ち込んだんだ。わかるだろう? 自分のお腹を痛めて産んだ最愛の娘を、忘れてしまうんだからな」
「うん……」
「それでな。ある日ついにお母さん、……お漏らしまでするようになってしまってな」
驚いて顔を上げた。
「え? う、うそ」
制服の、スカートを握った。
「ほんと。紗英が学校行ってるとき、何度もお父さんに電話がかかってきた」
「…………」
「電話をかけてこれるときはまだ良かったんだ。それもすぐに出来なくなって。昼間は、お母さん家に独りだろ? あんな状態で独りにしておくのは危ないと思って、病院に入ろうって提案したんだ。そしたら、お母さんな」
制服のスカートを握っていた手は汗ばんでいた。その手汗をスカートで拭い、そしてもう一度握り直す。
「入院の手続き、自分でしてたんだ。家族に迷惑かけるわけにはいかないからって。気がついたら全部自分で準備してた」
お父さんがひと息ついた。
「紗英、お茶飲むか?」
キッチンへと向かうと、二人分のお茶を入れたマグカップを運んでくれた。テーブルにマグを置くと突然、お父さんは泣き出した。
「お、お母さんがな。紗英には黙っていてくれって。お漏らししてしまうような、こんな情けない姿は見せたくないって。泣くんだ。泣くんだよ。絶対に言わないでって。オムツした自分を見られたくないって。壊れてしまった自分を、紗英を忘れてしまった自分を、……こんなお母さん、お母さんじゃないって紗英に嫌われたくないって」
だから黙ってた。紗英はそんな子じゃないから安心しろって何度も説得した。でも駄目だった。だからお母さんの意思を尊重したんだ。長い間、辛い思いをさせたな。ごめんな……。
私は、どこか冷めた目でお父さんの涙を見ていた。
マトリョーシカの中から飛び出したのは、想像もできないような家族の残骸。いくらお母さん本人の希望であったとしても、こんな酷い現実ってあるだろうか?
「不幸にもほどがある」
呪いの言葉が出てしまった。けれど、構わない。これほど不幸な娘は、この世界に私しかいないだろう。お父さんが涙を拭いながら、呟くように言った。
「……紗英。本当にすまない。謝って済むことじゃないってことはわかってる。けれど、今さらだけど、お母さんな。あと……あと1年なんだ」
「?」
直ぐにはわからなかった。けれど少し間を置いたら、じわりじわりと寒気がしてきて、腕に寒ぼろが立つ。内側から。何もかもが凍ってしまうような気がした。
「し、死んじゃうの?」
「癌なんだ。主治医の先生が……お父さんもこの前、聞いたばかりだ……よ」
そうか。残業と言って遅くなった、あの数日前のことだ。
お父さんは、嗚咽をあげた。我慢の限界がきたのだ。
「紗英、お父さんはもう……紗英に黙っていることはできなくて……それで……」
気がつくと私は、マグカップを投げつけていた。お父さんにではない。壁に向かってだ。なみなみ注がれていたお茶が、床へ壁へと飛び散った。壁に当たって割れたマグ。ガシャンと音がしたはずなのに、そして私も大声でなにかを叫んだはずなのに、耳には入ってこない。
「紗英、さええっっ!!」
私は玄関へ走ると、いつも持って出るカギのついたキーホルダーをにぎりしめ、スニーカーを履いて家を飛び出した。
冷静だ。冷静なつもりでいた。そのまま市の図書館に行き、待ち合わせをしていた智香とともに、平気な顔をして本を1時間、夢中になって読んだ。
こんなにも酷い話が、この世の中にあるのだろうか。お母さんの存在も含む、すべてのことにまったくと言っていいほど現実味がない。はっきり言ってしまえば、あの病院で会ったひとは、私の思い出のなかに存在するお母さんじゃなかった。まるで別人のようだった。
図書館に着いて、智香の顔を見たら少しだけ気分はマシになった。
智香の両親は、生活費を入れるだの入れないだの、浮気だの不倫だのと取っ組み合いの大喧嘩となり、警察沙汰になった父親は傷害で逮捕され、母親と智香はそのまま家を出て、その後離婚が成立している。
(まだマシだ。智香に比べればまだマシだ。世の中にはもっと不幸な人だって、いっぱいいるんだから)
脳内で繰り返す。
自分は最低な人間だとは思うが、そう自分に言い聞かせては自分を立て直す材料にする。
私は自分で自分を救う言葉を探しながら、道すがら家へと帰った。
カギを開けて家に入ると、マトリョーシカが転がっていた。
私が投げつけたマグカップが壁に当たり、どうやらその衝撃で落ちたらしい。
少しの間、拾う気にはなれなかったが、拾う人が誰もいないから、とうとう自分で拾い上げた。じわっと靴下が濡れる。零したお茶が、まだそのままだった。
お父さんはいなかった。私を追いかけたのか、それとも夕食の買い物にでも行ったのだろうか。
濡れたままの靴下で、イスによいしょと座る。手のなかにあるマトリョーシカをぐりっと捻った。中からマトリョーシカ。それもぐりっと捻ると、またマトリョーシカ。
涙がこみ上げてきた。
最後の一つまで出してしまうと、中身は空っぽになってしまって、お母さんとの繋がりがなくなってしまう。それが怖くて、最後まで開けることができなかった。けれど、もういい。
お母さんは生きていて、そしてお母さんは別の生き物になってしまった。あの墓地が悪い。あの墓地を抜けたからきっと、訳のわからない異世界へとワープしてしまったんだ。
夢中になって開けていくと、最後に小さな小さなマトリョーシカがころんと転がった。
涙が止まらない。袖で何度も涙を拭う。けれど、止まらないのだ。
「う、ううぅ」
最後の小さなマトリョーシカを手に取る。
すると、今まで何度もこのマトリョーシカを手にする度に反芻してきた、お母さんとの会話が鮮明に蘇ってくる。
『ねえ紗英。これ見て。すっごく可愛いじゃない? このおちょぼ口、紗英みたいだわ』
『ええぇ。なんかイヤだぁ。ヘンなかおー』
『そう? 可愛いと思うけど……紗英見ててごらん。ほうら!』
『わ! すごおい!』
『まだまだあるわよ!』
まるで魔法を見ているようだった。
お母さんの、あの生き生きとした笑顔。目尻のシワ。盛り上がる頬。興奮した声。動画のように蘇ってくる。
頬を流れた涙が、口の中に入ってきて、塩っぱかった。もしかしたら、鼻水も垂れていたかもしれない。今度はティッシュで、顔を拭った。
小さな小さなマトリョーシカの顔を見る。
「全然、私に似てないっつの」
こじんまりとした顔を、指で小さくデコピンした。
「ごめんね、お父さん……」
お父さんの秘密のマトリョーシカには、ちゃんとお母さんが眠っていたじゃないか。
秘密を抱えて黙っていなければならないのは、とてつもなく辛かったはずだから。けれど、お父さんは苦しみながらも、お母さんの言いつけを忠実に守った。同時に私を守りながら。
そんなことは十分にわかっている。私はもう、駄々をこねてお父さんを困らせる子どもじゃない。
私は鼻を啜りながら、テーブルに転がるマトリョーシカの残骸を、かき集めて組み立てていった。
しばらくすると、お父さんがはあはあと息を切らして帰ってきた。
「紗英!! 探したんだぞ!!」
買い物じゃなかったんだ。そう思うと少し苦笑い。
「お父さん、スマホ買って。私が家出した時、スマホあると便利でしょ?」
お父さんが息を整えながら苦笑したのを確認してから、元に戻したマトリョーシカを掲げた。
「ねえまた今度、お母さんとこに連れてってよ。私、スマホでお母さんと一緒に、写真を撮りたい」
私はまだ暗さを引きずってはいたが、できる限りの、そして精一杯の明るさで、笑った。
私のマトリョーシカには、お母さん。お母さんが眠っていた。
けれど、これはもうただのマトリョーシカだ。
お母さんは、病院のベッドで息をして、そしてすやすやと眠っている。
お母さん。お母さん。お母さん。
どんなお母さんだろうとも、私はきっと、お母さんと呼び続けるのだろう。
「わかったよ。でもな、紗英。まずはこのべたべたになった靴下、洗濯してくれるか?」
二人で靴下を脱いですぐ、競うように洗濯機に向かって、中へと放り投げた。