日常の補色
◇◇◇
土曜日の中学校には人の姿も疎らで、あからさまな部外者が入って行くというのに見咎められる事も特には無かった。
休日の夕刻前とはいえ部活の生徒や教師の姿がもっとあると思っていたので少々拍子抜けではあったが、寧ろ今は都合がいいので心の中で感謝をしておく。
「どこから、探すの?」
ぐいぐい前を進んでいた深紅が振り返り聞いてくる。
無策なのに先陣切ってあんなに進んでいたのか……いや、それでも自信満々に進めるのは才能なのかも知れない。
改めて明るい状態で見回してみる学校の敷地はそんなに広くはなかった。校舎と隣接する体育館があり、正面には同等くらいの校庭が広がっている。背面は小さな雑木林になっており、下るとすぐに北区方面へと続く別の裏道に出る様だ。
当てはなくとも可能性を求めて来たのだ。確信はなかったが、とにかく感覚を研ぎ澄まして闇の気配を探る。
――静かな場所、陽光の日差し、陰気な気配は息をひそめ暖かい活気はそこかしこに広がっている。
正直言って時間が悪いな。陽の気配が満ち満ちているので闇や穢れを感じ取る隙間が見えない。
きっと深紅は真剣にこちらを見ている事だろう。
別にそれでプレッシャーなどは感じないが……。
「…………」
より深く目を瞑り、出来るだけ意識しないように呼吸を整える。
平静を保ち、心に、凪ぎを。
「――っ!」
パッと目を開き周りを見る。
目の前でこちらを覗き込んでいた深紅がつられて辺りを見回した。
「今、僕の袖とか引っ張りませんでした?」
「え?知らない」
きょとんとする深紅を前に改めて周囲を見回した。今、確かに誰かが服を引っ張った感じがした。
気を惹くように、何かを伝える様に、そんな拙い意思を感じたのだ。
不可解な感覚を不思議に思いながら、何処とはなく惹かれる様に視線が彷徨う。
「――あれ、何でしょうか」
視界の先には小さな小屋が見えた。
通路と呼ぶには広く裏庭と呼ぶには狭い空間は、校舎の落とす大きな影に包まれて一際存在感を没している。雑木林の前に建てられた簡素な小屋は壁の片側が金網で出来ていた。
「あれ?ああ、……飼育小屋、じゃない?」
気配を探ってもそこからは穢れ特有の悪意を感じない、闇の気配も――。
なのに、なぜだろうか。あの小屋を直接確認しなければという拭いきれない違和感が胸の内に張り付いて落とせない。
「ちょっと確認してみますね」
「あそこに、いるの?」
深紅が無手の右手を振るうとそこには紅い刀が握られていた。
「いえ、別にあの小屋からは何の気配も感じません」
一歩一歩近づいて行く度に違和感は大きく膨らんでいく。
黒緋の性か、大きな影の中にいるからか心は妙に落ち着いていた。危機を探るために五感は研ぎ澄まされ意識は小屋へと集中する。
しかしもう目の前だというのに、やはりこの中からは悪意も気配も何の音も聞こえない。
「ねえ」
「いえ、怪異はここにはいないと――」
訝しむように見ている深紅に応え金網側から静かな小屋の中を覗き見る。
なんだろう?何か当たり前の感覚が麻痺している気がする。これは穢れとか、気配とか、そんな事じゃなくて、無音、異臭……。
「この臭いって――」
続いて深紅が自分の脇から回り込むように小屋の中を覗き込んでから、二人して言葉をなくしたままそこに立ち竦んでいた。
気配はない、音も無い、それはそうだろう。
だって、小屋の中には動くものはもう何もいないのだから。
そこには至る所に飛び散る羽と動物の毛が散乱していた。
固形物はほとんど見当たらず、何とも言えない生臭さが充満している。
壁や床に飛び散った妙に黒い汚れは、既に乾き固まった血の跡か。
「……」
流石にこれには言葉が出ない。
別に血生臭い現場を知らない訳ではなかったが、休日の学校という日常の一角にまさかこんな猟奇的な一枚が填め込まれているなんて想像していなかった。
その余りの落差に不覚にも心が揺れる。
「そこに、いるっ」
深紅が何かを刀で弾いていた。
そのまま構えた刀が振り抜かれるよりも早く、雑木林を駆け抜ける小さな人影が見えた。
急速に穢れの気配が膨らんでいく、人影を包むように黒い躰が隆起して顕現した牛頭の怪異が細い木々を薙ぎ倒しながら逃げていく姿を目で捉える。
声をかける暇もなく深紅は飛び出していた。その行動に迷いはなく、今は気力もお腹も満ちている。
核となる少年の限界も近いはずだ。絶対にここで逃がしはしないと決意して、自分もその後姿を追い雑木林へと駆け込んだ。