色々な人たち
◇◇◇
静寂に包まれた深夜の校庭は透明度の高い真冬の空気が深々と張り詰めていて、息を吸うたびに体の中を満たしてキンキンに冷やされる。
ただぼんやりと東の空に傾いた月を眺めていると薄く感じる土と緑の匂いを思い出して、火照った精神がやんわりと鎮まっていく。
校庭で動くのは三人の人影だけ。
怪異の去った方を見ている深紅と少し離れて座り込んでいる自分、そして……。
「よし、とりあえずはこれで処置完了だ」
「――痛っつつ」
右手に巻かれた包帯をぎゅっと縛られると、その締め付けで傷穴が疼く。
「ま、とりあえず痛いで済んでよかったな」
「――痛っ」
にやにや笑いながら嫌がらせに右手を叩いてくるこの男は、黒緋朱殷。今回のお役目に自分を指名してきた張本人である。
すらっと高い慎重に細身の体、顔にはいつも余裕の薄ら笑顔を貼り付けた年齢不詳、細目の童顔。
どうしても馴染まない自分のスーツもこの男が着るといいのか悪いのか、まるでマフィアの幹部のようにしっくりくるから不思議なものだ。
黒いセミロングの隙間から赤いメッシュと共に似合わない耳飾りがちらちら見えている。
10人に聞いたら10人が詐欺師と答えるだろう胡散臭い人物だが、祓師としての実力は自分が知っている限り超一流の腕前だった。
辺りを見回して溜息一つ吐くと、白い空気は風に流されて直ぐに消える。
「それにしても、ずいぶん無茶をしたものだ」
「……ごめん」
朱殷は一族の落ちこぼれである自分の教育を買って出てくれた師匠であり、最も信頼を置いている先輩だ。
強く咎めるでもなくやれやれと言う口調ではあったが、朱殷に窘められるのは個人的にはとても負い目に感じることの一つだった。
返す言葉も無く、ただ謝る事しかできない自分が更に情けなくて悲しい。
「ま、反省出来るってことは成長出来るってことだから、頑張ることだな」
にやっと笑うと細い眼が更に細くなる。気にしているので本人には言わないが。
「それに比べて、あっちのお嬢様はいかがなものだーなぁ?」
朱殷の後ろに視線を送る。
振るえる足で無理やり立つ深紅は何を言うでもなくこちらを見ている。いや、あれはどう見ても睨んでいるのだが、それでも彼女は黙っていた。
牛頭の怪異が去ってから一刻もしない内に朱殷が到着した時、深紅は直ぐに自分の脚の治療を頼んでいた。
「怪異が逃げる、すぐに追わなくては」と捲し立てる深紅の様子をしばらく眺めていた朱殷は、ただ一言「君は後回しだな」と放って背を向けてしまう。
こちらの治療をしている間、後ろからは散々罵倒の声が飛んできていたが朱殷は一切気にする事も無く後ろを振り返る事も無かったので、こちらは斬り付けられやしないかと治療の間中生きた心地がしなかった。
やがて、何を言ってもこの男が反応しないことを悟ったのか、深紅は完全に黙り込みただひたすらに恐ろしい殺気をこちらへ放ち続ける呪物と化していたのだ。
「脚の、治療」
深紅の声は怒りの籠った低く重い声だ。
「あー、はいはい、私は黒緋朱殷だ。よろしくねお嬢さん」
「何でふざけているの?!子供が連れ去られているのよ!!」
「解っているさ、解っている、が」
朱殷はわざとらしく間を開けてから、未だに震えている深紅の足を指さした。
「治療を行ったとして、君はまだ戦力外と理解しているのかい?」
そこで深紅は黙ってしまう。彼女はきっと足が動くようになれば直ぐにでも夜の街へ飛び出すことだろう。そして万が一にあの牛頭を見つけたなら瞬く間に斬りかかる姿が想像できる。
「ま、どうせ止めても飛び出しそうだしね、とりあえず落ち着くまで待っていたんだけど……」
図星を付かれて返す言葉も無い深紅はそれでも口の中で「でも……」と呟いていた。
「とりあえず応急処置を始めるけども、その前に一つ約束だ」
朱殷が親指で東の空を指し示す。つられて深紅はそちらへ目を向ける。
「まずは、報告と相談だ。今回のボスは君じゃないしね」
濃い黒色の空に薄い紫が流されている。次第に空は明るい薄黄色に染まっていき、山間から眩しい光が差し込んでくる。
夜の帳が開け、もうすぐ街には新しい一日が始まろうとしていた。
「……わかった」
渋々納得するように零れた深紅の小さな声は、白い吐息と共にすぐに消えてしまった。
◇◇◇
南西区に在る小さな神社。そこに真朱の祓師が全員集まる頃には、太陽は東の空に浮かび上がり街に生活の音が響き始めていた。
明るい時間に改めて見る神社の境内はやはり寂しくはあるが、夜中とはがらりと印象が変わって見える。
月明かりの下で踏み入った聖域は厳かではあったが冷たく畏怖を感じる雰囲気だったが、明るい中で見回すここは、よく清掃され手入れの行き届いた気持ちのいい詫び錆を持つ神社に見えた。
土手に阻まれて直接河は見えなかったが澄んだ空気は水の匂いに満たされていて、ここは河を奉り地鎮している場所なのかも知れないと連想させる。
其々が特に挨拶を交わすでもなく、集まった六人を真朱臙脂がそれぞれ簡単に紹介してから話は直ぐに本題へと移行する。
隣で一歩引くように立つ深紅は隙の見えない立ち姿とは裏腹に、俯き黙り込んでしまっているので、
不本意ながらも分家である自分が説明役となってしまう。
昨夜の顛末を説明しながら、頭の中では先ほどの臙脂の紹介を反芻していた。
向かって正面に立つ一際圧の強い壮年の男は、明るい所で見ると一層猛々しい迫力を持つ宗家の祓師、真朱臙脂だ。
その隣に不動の立ち姿で控えているのは、臙脂をそのまま小さくした様な印象を持つ彼の弟子、真朱浅緋と言う小学生くらいの少年だった。出で立ちこそ臙脂と同じだが彼の着物はまだまだ濃い藍色で、萌ゆる様な明るい赤髪が若々しさを物語っている。
幼いながらも彼の立ち居振る舞いからは質実剛健という雰囲気が醸し出されており、あの師にしてこの弟子在り正に宗家真朱の祓師然としていた。
そしてその反対側には、臙脂の隣で手持無沙汰にゆらゆら揺れながら少女が立っている。
祓師と言う生業には基本的に制服はない。余りにも特異である『怪異との戦闘』という行いでは、主に物理的よりも精神面での状態が作用するからだ。
故に各々は効率よりも自身が最も精神的に安定する着衣を装い、その殆どが家々が装束として使用してきた装束や普段着などの自然と落ち着いた服装となる。歴史が重宝される旧家ではそういう『上辺』も伝統となるのは必然なのかも知れない。
しかし、この少女の出で立ちはそんな歴史や伝統に真っ向から反するような、個性的で派手な服装だった。
何と呼ぶのかは知らないが、やたらとヒラヒラしたスカートを翻しここまで遊びに来たかのような明るい軽装はとても昨夜怪異と対峙していたとは思えなかった。
赤系統の地毛ばかりがいる真朱の一族の中でもまるで染め上げたように嘘みたいなピンクの髪色は、彼女の緩い印象を殊更に強調しているように見える。
御所染桃。黒緋家とは別の分家である御所染家から唯一呼ばれた祓師だった。隠匿性の高い祓師の家系は例え同じ一族だとしても他家へ情報が出回る事は少ないが、この御所染家は名前以外の話をほとんど聞いたことのない謎多き家だ。
正直、もっと違う方向での謎多きを想像していたので、まさか家人全員がこういう感じなのかとある意味臆してしまうのだが……。
少女とは言ったが表現としては妙齢といった方がしっくりくる。子供の様な顔立ちであり、時折物憂げな女性にも見える。何とも読めない存在だった。
「――っ!」
それとはなしに見ていたつもりだったのだが、桃はこちらの視線に気付いたのか話をまるで聞いていない呑気な表情でいつの間にかにこやかな笑みを自分へ向けていた。
……違和感にもならない違和感が胸の内を一撫でする。
不用意に祓師の身形を覗くもんじゃない。『暗闇を見続ければ、いつのまにか魅入られる』朱殷の言葉を思い出し胸の内で自分を叱咤する。
それにまあ、こちらの家にも余り変わらない人間もいるしな。
隣をちらりと盗み見ると朱殷が相変わらずの胡散臭い笑顔でそこに立っていた。彼の細い目が何を見ているかは解らないが、時々あの顔で立ったまま寝ていることもあるので考えるだけ無駄というものだ。
「報告は先に黒緋朱殷から聞いていた通りだな」
集まった面々の眼を見回して、臙脂の重苦しい声が場を仕切る。
「牛頭の頑健な怪異……鬼、か」
影の世界に生きている自分たちではあるが、今はもう科学の時代に移り変わってずいぶんと経つ。
夜の暗さは余す所なく照らされて、闇は心の内へと追いやられた現代だ。
神秘や畏れが鳴りを潜めて久しく、今や祓師が逢う怪異とは不定形の『呪いもどき』か闇獣の様な妖的存在くらいが関の山なのだ。
平安時代の魑魅魍魎を知った風に語るのは、真朱家でもこの人を含めてごく少数だろうな。
「人型に近い怪異は知性も高い、闇雲に探したところでそう易々とは見つからないだろうな」
黙り込んだ臙脂が考えているしばらくの間、その場には何とも言えない静寂が屯する。
いたたまれはしなかったがこちらから出せる意見はなく、唯一何か言えそうなはずの朱殷は多分もう、確実に立ったまま眠り込んでいた。
「――――っ」
仕方がないので浅緋の真似をして神妙な顔で立っていようと思いふと臙脂の方を見た時、彼の視線に気付く。
その鋭い眼光は朱殷をじっと見つめていた。
慌てて姿勢を正す振りをしながら朱殷の脇腹を小突く。
「――んんっ、あん?」と変な声を上げてビクンと震える隣の師匠に一人ではらはらしていると。
「黒緋朱殷」
臙脂の抑揚のない重苦しい声が響いた。
責任問題という言葉が頭を過る。静かに目を瞑り人知れず神に祈る。
「もう本家へ連絡は送っているんだったな?」
「ええ、滞りなく。街の警察や行方知れずの少年周りへは本家から既に手が回っているはずです」
まるで「ちゃんと聞いてましたよ」と言わんばかりの淀みない返答に思わず横を見たが、さっきまでと変わらない呑気な笑顔がそこには在った。
今まで胡散臭いと思っていたのだが、いつの間にか本家との連絡役を担っていたとはうちの師匠もちゃんと仕事していたのだなと一人内心で驚かされる。
「……そうだな」
小さく一度頷いてから臙脂は再び一同の眼を見回した。
その瞳の奥深くには赤く燃ゆる意思を感じる。彼の眼光にはやはり本物の力が宿っている。
そして、これからの方針である真朱臙脂の決定が下された。