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彩り奇譚  作者: きりど屋
5/23

鈍色の終幕

                     ◇◇◇


 遠くで何かがぶつかり合う響きが聞こえていた。

 真っ暗な底で揺蕩っていた思考は、それに気が付くと覚醒へ向かい急速に浮上する。


 今、自分は横たわっているのだろうか、体は……耐えがたく痛いが、それも慣れ親しんだ億劫さでしかない。

 ゆっくりと薄く目を開くとまず、右一面に壁が広がっているのが見えた。滲む視界の奥では何かが激しく躍動しているようだ。


 ……思考が回らない、状況がよく分からない。


「ん、ぁあ」


 無理やり呼吸をして肺に空気を取り込むと息をする度に全身の骨が軋みを上げた。痛みと共に鳴動する思考を辿る、記憶を戻す。

 とにかく今は考えなくては……。

 静かな呼吸を続け頭を落ち着けていると、麻痺していた脳へ血が巡るように徐々に記憶が鮮明になっていく。


 最後に覚えていたのは校庭の隅で少年を診ていた時の事だ。

 あの時、倒れていた少年が生きている事に安堵して胸を撫で下ろしてから、深紅と会話をしていたはずだ。

その次の瞬間に少年から……。


「――ま、さか」


 改めて目を見開き周囲を見回す。

 なぜ壁に張り付いているのだろうと思っていたが、右に見えていた壁はどうやら地面のようだった。道理で冷たくて痛いわけだ。

 大きく息を吸って、全身に力を籠める。痛みが走るのを無理やり抑え付けながら息を止め、内心で付けた勢いのままに跳ねる様に起き上がった。

 這いつくばるような低姿勢で身を屈めると、周囲を見回して状況整理を優先する。

 今、自分がいるのは校庭の中央付近か。また、盛大に吹っ飛ばされたものだ。


 重低音の異様な音が鳴る。そちらを振り向くと、今まさに真朱深紅と巨大な異形の怪異が激しくぶつかり合い対峙している所が見えた。

 校舎の二階に届きそうな程の巨躯を振り回しているそれは、牡牛の頭で嘶きながら頑強な人間の様な体で拳を振り地面に突き立てる。

 自分の身の丈ほどもありそうな巨大な拳を打ち付けられた場所にさっきまで立っていた少女は、俊敏な動きで怪異の周囲を跳び回り、一歩も後退することなく幾度も怪異の躰に紅い刃を打ち込む。

 しかし、圧倒的な怪異の巨躯が揺らぐ気配は無い。

 大木の様な脚を幾ら切り付けられようとも、身動ぎ一つ見せずに牛頭の怪物は小さな少女へと手を伸ばす。

 一方の深紅は威圧的な怪異の風貌と全身から迸る穢れの気配に怯みそうになってはいるが、それでも鋭敏な彼女の足取りは牛頭の巨体を追いつかせることはない。

 怪異の振り回す拳は寸でのところで躱されて、その都度出来る隙を衝いては深紅の斬撃が巨躯を打ち据えていた。


「――っ!」


 それはようやく出来た一瞬の機会。

 小さな少女に翻弄された拳は大きく空振り、怪異の巨体が僅かに態勢を崩す。

 紅い瞳はその隙を決して見逃しはしなかった。

 牛頭の足元に素早く回り込むと回転する勢いのままに、裂帛の気合と共に強烈な打ち込みが放たれ、深紅の紅蓮の一閃が深々と怪異の右脚に打ち付けられた。


 恐ろしい咆哮と共に初めて怪異が崩れ落ちていく。

 低く這う地響きと共に、まるで首を垂れる罪人のように両手を付いて地面へとひれ伏す巨体の脇から、一つの影が空中へ高々と飛び出した。

 こんな好機を見逃す武人がいるはずも無い、翻された刀身が月明かりに紅く波打つ、のけ反る様な態勢で力を集中させた渾身の一撃が巨大な怪異の首を討ち落とそうと絞られる。


「――だめだっ」


 拙いと思った時にはもう既に叫んでいた。

 大太刀を振り下ろす寸前の少女に声が届く頃、別の意味でまた拙いと後悔する。

 空中にいた深紅は不意に届いた声に驚き、彼女の眼は直ぐにこちらの姿を捉えていた。

 その瞳に映るのは安堵の色だったかもしれない、どちらにせよ彼女の力みはその最悪の不意打ちによって解かれてしまっていた。


 がっああぁ――っっっ


 獣の咆哮が視界を揺らす。

 牛頭が跪いた姿勢のまま嘶いた次の瞬間、その胴体から無数の黒い触手が飛び出した。

 漆黒の触手が明確な敵意を持って一斉に深紅へと襲い掛かり、四方八方から無数に迫る鋭利な刺突の群れはまるで槍の暴風雨だった。


 未だ空中の深紅は、咄嗟に勢いのまま正面から迫る触手の一束を切り落とした。

 次いで器用に体を捻り下からの触手も切伏せたが、しかし――。


「――危ないっ」


 今度はこちらの声が届く暇も無く、後方から穿つ刺突の雨に晒されて深紅の華奢な体はそのまま地面へと叩きつけられる。


「深紅さんっ!」


 足は既に駆けだしていた。

 全身は軋み、痺れる様な腕の痛みは収まる気配も無かったが、痛いだけならいつもの事だ。まだ動かせる幸運に感謝する。

 牛頭の怪異まで100メートルほどか、駆け寄りながら考えを巡らせる。

 叩き落された深紅は牛頭の直ぐ下だ。

 動けないのか、屈んだままの状態でじっとしている。その上では体を起こした牛頭の瞳が既に彼女の姿を捉えていた。

 巨大な拳が振り上げられる。恐らく深紅が立ち上がるよりも早くあの拳は打ち下ろされるだろう。


 ――なら、自分に出来ることはこれしかない。


 まるで祈る様に、自然な動きで左手に握る小刀を右掌に突き立てる。そのまま勢いよく引き抜くと、直ぐに赤黒い鮮血が飛び散った。


 怪異を挟み深紅とは反対側から駆け寄りながら、前方に向けて右手に滴る血を力のままに振り抜く。

 放たれた鮮血の飛沫は、まだ遠い怪異へは届くことがなかったがそれでも、


 ――っ!?


 怪異の意識を惹くには十分な効果を発揮する。

 黒い巨体が冗談みたいな勢いで転身すると、牛頭の瞳は既にこちらを捉えていた。血走る眼と涎を散らす怒涛の勢いで手を伸ばしてくる姿に、ほっと安堵する。


「何とか時間は稼げそう、なら」


 その様を見ると同時に転身する。今度は背中を晒して反対へと駆け出した。

 自身の限界は近い、心臓はもう張り裂けそうだし、右手から響く痛みの伝播で意識が跳ぶ一歩手前だった。気を抜くと一瞬で倒れてしまいそうな感覚を繋ぎ止めているのはただの気合だ。

 引き離さなければ、使命の様な一心不乱な意思でバラバラになりそうな体を前へと進める。


「あ、だめだ」零れたのは声にならない吐息だった。

 後ろを確認する余裕などあるはずもないが、背後から迫りくる闇の気配に感覚は警鐘を乱打し続けている。

 足がもつれて地面へ倒れ込もうかという刹那、振り向きざまに黒い触手の群れが見えた。

 ここまでか……。遠い郷里へ意識が跳ぼうとして、感覚が無重力に引っ張られる。


「ありがとう」


 何の音も聞こえはしなかったが、何故かそう言われた気がした。


「――せぇっい」


 裂帛の気合と共に少女の咆哮が夜の校庭を駆け抜ける。

 勢いのままに、視界の端から舞い降りた紅い影は一切の憂いを消し飛ばしてしまった。


 戦闘技術の乏しい自分にも明白に解る事がある。これ以上先には一歩たりとも踏み入ってはいけない、その先に在るのは死という結末だけ、その予感を雄弁に語る尋常ではない殺気の奔流。

 それを放っているのがあの死地に立つ可憐な少女だということを誰が信じられるだろうか。


 牛頭の動きは完全に止まっている。今なお嘶きこちらを威嚇する獰猛な獣は、深紅の放つ弓弩の様な殺気を一身に受けてその場から一歩足りとも踏み込めなくなっていた。

 怪異と自分の間に降り立った少女は刀の先を相手の首元へ構えたままの出で立ちで、こちらを振り向くことも無く対峙している。


「大丈夫、なの?」


「そちら、こそ……すみ、ません。――僕のっ不用意で」


 深紅から掛けられた言葉に返す声を絞りだすので今は精一杯だった。失態を犯した上に息は絶え絶えの有様は恥じ入るばかりだ。

 後悔は先に立つことなど出来ないが、それでも消沈してしまうこちらの声に深紅は「問題ない」と応えてくれる。  

 彼女の視線は対峙した構えのままで牛頭から決して外れない。


「――あれを殺すのは、まずいと思います」


 細く長く呼吸を整えながら考えていた。

 言葉を選ぼうかとも思ったが、時間を惜しみ端的にそれだけを伝える。返事はなかったが言葉の続きを促す様に深紅が一歩下がった。

 思い返すと、少年を診ていたあの時。自分たち2人は会話の途中だろうとも周囲への警戒を解いてはいなかったはずだ。

 方々には敵意も殺気もなく、穢れの気配も近くには感じられなかった。

 間違いなく遠く霞む程度だったのだ。あの瞬間までは。


「恐らくあれは、倒れていた少年です」


 少年を触診していたあの時、まるで闇獣が顕現する時のような穢れが膨らむ気配を察した自分は、その元を探る為に周囲に目を奔らせようと思った。

 その時見えたのは、自分の手元で倒れていた少年の『内側から』溢れ出す闇が噴き出した瞬間だった。

 眼から、口から、隙間という隙間から、溢れ出した闇の噴出は刹那の間に少年を包み込み、次の瞬間には目の前に現れた巨大な拳が鮮烈な衝撃を打ち付けて来たことを思い出す。

 咄嗟に防御姿勢を構えた腕の上からでもその威力は凄まじく、悠に100メートル以上も飛ばされてしまったらしい。

 今も痺れのような感覚の残る腕を摩ってみるが激痛は感じない。どうやら折れてはいないようだった。

 正直言ってあんな巨大で人型の怪異など今まで見た事も無かったが……。


「……それで、どうする?」


 賢い子だ。それに自分などよりも戦闘勘に秀でている。瞬時に事態を理解しているのだろう短い言葉に彼女の敏活さが伺えた。

 感覚の眼を凝らし、威嚇している牛頭の怪異へ視線を隈なく這わせてみる。

 悍ましい穢れの気配は波打つように揺らぎ、その輪郭が見えてくる。実際に目で見えているわけではないのだが、それは今まで会って来たどの怪異よりも濃縮された存在感でそこに居た。

 本当に具現化されたようにはっきりと質量を持った巨躯。しかし、その中心。首元辺りに重なる様にして小さな人影が囚われている気配を感じる。


「あれはいわゆる受肉とは違うように感じます。人間の肉体を核にして穢れが外装を形作っている様な……見えますか?」


 やはり深紅は微動だにしない。

 こうして会話している間にも、対峙している双方は互いが気を緩めれば瞬時に狩り取りに迫る。そういう緊張感が常に張り詰めているのだ。

 今この時もじりじりと彼女の精神は削られ減り続けているのだろう。無表情に見える深紅の頬には汗が一筋流れていた。


「ううん、私には実態のある化け物にしか見えない」


「……そうですか」


 穢れの捉え方はその人の感覚に左右される。深紅が見えないと言うのならそれはもうどうしようもない事だ。

 初めて見る怪異、経験のない状況。こんな時に朱殷(しゅあん)ならどうするだろうか……幾ら考えてもやはり答えは出てこなかった。

 こんなに絶望的な気持ちは久しぶりだ。体の熱が引いていく、代わりに頭に血が上り思考が圧迫されていく、それでも――。


「……」


 深紅の無言が答えを待っていた。


「深紅さん。あれを穏便に止める事は出来ますか?」


「はっきり言って、今は無理」


「そうですか……」


 幾ら考えたところで、今やれる手はそんなにないのだ。


「ではそうですね、今やれる事をやりましょう。少年のいる胴体から遠い四肢の何れかを集中して狙います」


 覚悟は既に決まっていた。


「……分かった」


 一度も怪異から視線を外すことなく僅かな間だけ沈黙すると、深紅は小さく頷いた。静かに細く深い呼吸が聞こえる。

 紅蓮の切っ先は牛頭の首元から微塵もぶれる事はなく、深紅の足が半身だけ広がった。

 少女は一瞬だけ目を瞑る――。


 見開かれた瞳の奥では紅い炎が揺れていた。赤く激しい決意と意思がそこで静かに燻ぶっている。

 まるで風に揺れる草花のようにゆったりと何処までも柔らかく、流麗な動きで深紅の体が揺れる。――次の瞬間、既にその姿は目で捉えられる域を脱していた。


 そこからはもう常人の理解の外で起こる光景だ。何も見えない、とまではいかないが野生の獣の様に俊敏な深紅の軌道は、その動きを停止するまでそれを人と認識出来る者はいないだろう。

右から左から緩急をつけて、牛頭の視線を誘導してはすぐさま位置を変えて斬りかかる。獲物を翻弄して切り崩す専門家の動きは流石としか言いようがない。

 真朱本家の穢れ祓い、常人の理を超えたその動きは正に鬼気迫るそれだったが、……しかし。


「よくは、ない」


 打ち込み、躱し、翻弄する。一見して深紅の一方的な独壇場に見えるこれもその実、あの怪異には殆ど痛手を与えられてはいない。

 これまで一方的に穢れを圧倒してきた真朱深紅だったが、それでも彼女は人間だ。疲労は溜まるし体力が無限に湧き出ることもない。


「なら、今やれる事を」


 意を決してこちらも行動に移る一歩を踏み出した。

 深紅の戦闘の邪魔にならない距離を見極めながら、静かに、静かに怪異の背後へと忍び寄る。距離を一歩縮める度に被膜の様な殺気の波が全身に絡みつくようだ。

 牛頭の拳を躱しながらも応戦を続ける深紅はこちらの動きに気付くと、それに合わせて牛頭の意識を一方向へと誘導してくれていた。


 闇を惹きつける黒血の呪いの凶悪さは自分が一番よく理解している。形振り構わず喰らい付こうと迫り来る怪異たちには本能以外の感情は消え失せて、餌に群がる野犬の群れと化す。

 どうにかして至近距離まで近づき黒血を浴びせかけて、少年にへばり付いている穢れを引き剥がせれば……。


 目の前では少女と怪異が超常の戦いを繰り広げていた。

 決して見つからないように、気配を殺して牛頭の後ろ側から徐々に忍び迫る。

 どこかの犬の遠吠えを運んできた風が吹き抜けるのと同時に、斬撃が打ち込まれる音が響く。すぐさま牛頭の右拳が反撃として返ってくるが、まともに当たったと思ったそれは斜めに構えた赤い太刀に滑らされ少女の体に触れることなく後ろへと逸れてしまう。

 本当に驚嘆の溜息しか出てこない。この苛烈な異形と対峙して尚、深紅は巧みな技術と身体で相手の猛攻をいなしきっている。

 怪異の意識は深紅に釘付けだ。振るう拳は彼女に掠ることはなく、こちらはあと数歩で怪異の背後に辿り着く。


 これは、上手くいく……いや、上手く行き過ぎている気がする……。

 黒い血の呪いかそれとも陰気な性格に由来するのか昔から良い予感は当たった例がなく、悪い予感はよく現実に引き寄せられるのだ。

 視線を少し上げて怪異の様子を伺ってみた。

 小屋の如く大きな体躯で渾身の拳を振り抜いたが。今また深紅にふわりと交わされた、次の瞬間。


 ――地響きのような獣の嘶きが降って来た。

 怪異の咆哮と同時に、牛頭の胴体から無数の黒い触手が深紅目掛けて飛び出す。

 唖然とした。忘れているつもりはなかったがしかし、この不意打ちの槍は的確に深紅の退路を捉えて逃がさない。

 一つ、二つ、三つまでは眼前に迫る黒い触手を斬り捌いていた深紅だが、迫りくる無軌道な黒い触手が正面と死角を同時に突き立てる。

それでも深紅は超反応で正面の触手を切り捨てその勢いで背後を振り返るが、目の前に迫る黒い刺突に次の構えが間に合うことはなかった。

 刀ごと打ち付けられた追撃の触手は、深紅の体制を崩してまるでゴム毬のように弾き飛ばしてしまう。


「深紅さんっ」


 右手に痛みが走る。だが今はその感覚を反芻している気分ではない。

 左手で突き立てた小刀を引き抜くと黒い鮮血が勢いよく飛沫を上げる。距離にして数メートル、怪異の体にはまだ届かなかったが。


 ――バゥガっ!


 獣の意識をこちらへ惹きつけるには十分だった。


「っぐ」


 思わず声が漏れた。右手の痛みに気を取られた瞬間、足がもつれて体制を崩してしまう。

 怪異がその隙を見逃すことはなかった。巨体ごと振り向いた勢いのままに伸びて来る巨大な牛頭の右手は、あっさりとこちらの体を掴んでしまう。


「あ、あぁっが――」


 まるで重機の様な圧力が全身を締め付けて来る。こうなった人の身に抗う術などあるのだろうか?力のままに掴んだ牛頭の掌は、ぎりぎりと暴れる体を握り込んで離さない。

 内臓を吐き出しそうな圧迫感。肉に埋まる骨はもうすぐ折れてしまうだろう。

 死を強く意識したとき最後に思い出そうとしていたのは、妹の笑顔だった。

 目の前が真っ白に染まる……刹那。



 縦一閃。



 音も無く、紅の一太刀が隙だらけに伸びきった牛頭の右腕に打ち込まれる。


「――――」


 怒気なのか、悲痛なのか、怪異の低い唸り声と共にその樹木のように太い右腕が跳ぶ。

 切り離された手は空中にて何を掴む事も無く、空しく開かれたまま闇へと霧散し消えていった。


「あっ、ぐ」


 開かれた手から投げ出された自分の体は、乱雑な勢いで強かに地面へと打ち付けられる。

 深紅の瞳は既に隙だらけにのたうつ牛頭へ定められていた。力みの抜けた状態で、のけ反る牛頭は天を仰ぎ嘶いている。


「も、ひとっつ」


 無防備に開かれた怪異の左腕に全力で振り抜かれた横薙ぎの刀が届く、寸前。


「んっ――っ!!」


「――っな」


 深紅の視線が怯え切った少年の瞳と交差する。

 驚き力んだ深紅の握力は刀の勢いを無理に殺してしまう。中途半端に食い込んだ刀は怪異の左腕を切り落とすことも出来ずそこで止まってしまった。


 本能のままに暴れる牛頭にどこまでの知能があるのかは解らないが、それはまるで人質を見せつけているかのように、怪異の首元が痛々しく裂けて広がった中からは闇の肉塊に捕らわれた少年の上半身が露出していた。

 絶望と混乱で悲壮な泣き顔の少年が何かを叫ぼうと口を開いた次の瞬間、声を出す暇も無くその裂け目は再び無慈悲に閉じられてしまう。


 ブォッ、ブォッ……ッ


 まるで嘲るような獣の嘶きが校庭へ木魂した。


「ふっ――ざけっ」


 力を込めても引き抜けない刀身ごと深紅の体は、まるで虫でも払うかのように乱雑な怪異の腕振りで無防備に煽られている。

 刀をつかんだまま怪異の腕を蹴りつけていた深紅だが、勢いが最も着いた瞬間に刀が腕からすっぽ抜け、そのまま空中へと投げ飛ばされた。

 軽く数メートル、弧を描き舞う少女はまるで猫のように空中で体制を捻ると音も無く着地する。すぐさま牛頭を睨みつけるその表情は、鬼神のように憤怒に燃えていた。


 しかし顔を上げた深紅が見たものは、いや、『見えなかった』ものは。


「――ま、まって」


 深紅の声はもう届かない。その巨体からは想像も付かない跳躍を持って牛頭の怪異はすでに校舎の屋上へ飛び去っていた。

 獣の嘶く声が響く、それはさっきまでと変わらず凡そ感情の見えない悍ましい声だったが、どこか勝ち誇ったように、こちらを嘲っているような侮蔑の色が含まれていた。

 右腕の無い牛頭は少しぎこちない動きで、それでも何事も無いようにこちらを一瞥すると、背を向けて闇夜の街へと飛び去った。


 音も無く、気配も無く、闇に溶ける影のように怪異の姿は見えなくなってしまう。その後にはただ冷たい風の音だけが残されていた。


「まだ――」


 深紅は駆けだそうと足に力を入れ、られなかった。

 バランスを崩し、前のめりに倒れ込む。さっき飛ばされた時かと思い自分の右足を睨みつけるが、それでも震える脚は言うことを聞かず痙攣するだけだった。


 一連の様を見ている事しか出来なかった玄は、倒れたままの姿で考える。どうすればよかったのか、どうするべきか……いや、今出来ることはもう……。

 ただ解っているのは、自分たちは失敗したという事とあの怪異に逃げられたのだという事実だけだった。

 

 見つめ続けていた視線は瞑られる。


 暗く深い闇の合間で、ただ黒く滴る水音だけが遠く残響していた。

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