青褐の獣
◇◇◇
坂を駆け上がり、ようやく学校の正門に辿り着いた時には呼吸をするのも精一杯だった。
立派な門柱には『憲房黒茶中学校』と書かれた銅板が埋め込まれており、レーンはあるのに何故か鉄柵は見当たらない。
校内には非常灯以外の明かりが一切なく、静まり返った校舎を見上げるとそれはまるで巨大な生き物がそこで佇み見下ろしているかの様な不気味な印象を感じさせる。
「――ん」
校内へ目を向けると四つの学生鞄が散乱するように落ちていた。
恐らくあの少年たちの物だろう、呼吸を落ち着けて敷地内へ意識を集中する。
騒めく木の枝、軋む窓ガラス、うるさく撫でつけてくる風を掻き分けた夜闇の先で、何かが暴れているような音が聞こえた気がした。
「あっちは、校庭か」
言いながら足は既に駆け出している。あくまで静かに、そして素早く、余計な音を立てず闇夜に紛れるようにして警戒を緩めずに音の方へ向かう。
壁伝いに先へ進むほど建物が落とす大きな影が暗く冷たく必要以上に重苦しく纏わり付く気がした。
息を止めている時のような嫌な圧迫感を払い除ける様に、影の終わりに差し込んでいる明かりを目指して突き進む。
……そこは想像よりもずっと広い空間だった。
校舎脇を抜けると一気に視界が開けて通る。外灯は一つもなかったが、天空に上った月明かりに照らされて校庭一面が白いステージのように光って見えた。
「あそこか」
月光の下で、真朱深紅が舞っている。
焔のように揺らめく髪と共に中空に紅い軌跡を刻み付け、飛び掛かって来る無数の闇獣を深紅の握る紅い刀が次々に切り裂いていた。
木の影、階段の隅、岩の裏、暗闇の中の黒い気配は急速に膨らんでゆき、次の瞬間には明確な獣の形を持って四方八方から少女に牙を突き立てる……しかし、彼女の姿は既にそこには存在しなかった。
紅い輪舞は幾重にも廻る。
ゆらゆらと風に舞う一片の花弁の様に、しなやかな動きで深紅は一線二線と弧を描く。一部の隙も無く一斉に襲いかかる黒い獣とまるで戯れるみたいに舞い踊っていた。
まるで一曲の優美な舞いを観劇していたかの様な刻が過ぎた頃、いつのまにか猛り暴れていた闇獣の姿はすべて消え失せ、その一切が元の闇へと還っていることに気が付いた。
同時に校庭の端で呆けていた自分の姿にも気が付いて、自分を叱咤して頬を軽く叩く。
改めてよく見ると、深紅の傍らに蹲る子供の姿が目に映った。
「――無事ですか」
周囲に滞留していた穢れの気配はもう消え去っている。
駆け寄るこちらに気づいた深紅は周りを一瞥すると刀を下した。
「うん、息はあるみたい」
深紅に怪我をした様子は見られない。
あれだけの人間離れした動きの後だというのにその佇まいに揺らぎはなく、二、三回深い呼吸を吐くと後は何事もなかったかのようにいつもの表情に戻る。
「すみません。ちょっと診てみます」
どうやら心配するだけ烏滸がましいようだった。直ぐに少年の状態を確認する為にしゃがみ込み荷を下す。
「まだ息はありますね……外傷も、ない……」
近くで改めて見た少年は、眠っているように穏やかな呼吸をしているのが分かる。
驚くほど穢れの残滓も見当たらず、闇の気配も遠く微細にしか感じない。
「大丈夫なの、その子?」
顔を上げるとこちらを覗き込んでいた深紅と目が合った。心配そうな表情、には見えないが少年を見つめる眼差しはそういうことなのだろう。
「あなたは優しい人ですね」
「――っえ?」
つい口から零れてしまった言葉に、深紅は珍しく驚いた顔を見せる。「なにを」と口ごもったが直ぐに姿勢を正すと周囲を警戒する素振りをしながら顔を逸らしていた。
失礼な話だが、あの真朱家の人間にこんな優しさがあるなんてついさっきまでは考えてもいなかったのだ。
本当に失礼ではあるのだが……祓師とは、そして真朱家とは本来そういう質の家系だ。だからこそ深紅の人情を余計に嬉しく思う自分がいた。
もうずっと人から外れたと思っていた自分たちが変わらずにまだ人間なのだと、そう教えてもらえたような気がして。
「ありがとうございます」
表情の見えない深紅の背中にそんな言葉を送っていた。
「?――どういう」
唐突に投げかけられた感謝の言葉の意味が分からずに、怪訝な顔で深紅が後ろを振り向くと。
目の前いっぱいに、蠢く巨大な眼が彼女を見返していた。
――――っ
瞬間、小さなステップで後ろへ跳び距離を開ける。
視界が広がって今、自分が立っていた場所。そこには、這いつくばるような恰好で巨躯の『何か』が在るのが分かった。
全長は3、4メートルくらいだろうか?屈む様な態勢のままで巨大な牡牛の頭が深紅の方を見つめている。
背筋にぞっと寒気が伝う。
牛頭の躰は二本の腕と二本の脚を持つ、人間のそれと同じである事がなお気味の悪い、紛れもない異形。
そしてより悍ましい感情を煽るのは、その牡牛の瞳におおよそ感情というものが感じられないこと。
異形の怪異。
野生から迷い込んだような牛の頭と常人の何倍もある筋骨隆々の巨躯は、動かないのか動けないのかその場から微動だにしない。
体はまるで作り物のような異質感を放っているが、荒く短い呼吸がその異形の息吹をリアルに主張している。
「え?」
深紅はそこで初めて気が付いた。
さっきまで、一緒に居たはずの2人がいない。
動揺のあまり狭まっていた視野がようやくその光景を認識する。牡牛は、深紅を見つめたままの態勢で左腕を伸ばしていた。
その真っすぐに伸ばされた拳の向こう。数メートル先の校庭中央で倒れているスーツ姿の人間は、
……黒緋玄だった。
人影は生きているのか死んでいるのか、俯せに横たわりピクリとも動かない。
それを認識した瞬間。頭に血が上る、思考は白く無音に染まる。
心が、ざわつき、手が震えていた……。
「――っぅ」
次の瞬間。一呼吸と共に、感情のスイッチを切り替える。
平静、凪ぎ、虚空。
研ぎ澄ました冷たい精神が深紅の感情を凍らせて、次の動きを瞬時に巡らせる。