真朱の仕事
◇◇◇
紅い刃の先、自分の『後ろ』へと向けられた強烈な殺気が獣の敵意を煽るのには数秒とかからなかった。
短い唸り声と共にドッと地を蹴る重い音。次いで背後から人一人を軽々と飛び越える跳躍で自分の頭上を舞う漆黒の獣は、鋭い牙の並んだ大口を開き少女へと飛び掛かかる。
そして、切り離された頭部と共に闇間へ溶けて音も無く消え失せた。
静寂な空間に冷やされて冷静な思考が現状に追いついてくる。
この人の技量と出で立ちは、たぶん間違いなく……。
「あなた、祓師?」
「――え?」
唐突に、予想外に可愛らしい声が掛けられたことに驚き顔を上げる。
そこで初めて気が付いた。今まさに鬼人の如く刀を振るっていた恐ろしい人物は華奢で線の細い少女そのものの姿をしていたのだと。
後ろで一つに束ねられたウェーブがかったロングヘアは清楚なお嬢様を思わせる。
まだあどけなさの残る表情はとても巨大な獣を一太刀に切伏せた後とは思えなかったが、
「ねぇ、どうなの?」
射貫くような紅い眼光と、いつでも貫けるようにこちらへ向けられた刃の切っ先が先ほどまでの鬼人とこの少女が同一人物であることを否応なく物語っていた。
「――すみません。ええ、はい。貴女はもしかして真朱家の方ですか?」
そう尋ねると少女は一瞬だけ表情を厭そうにしかめてから、小さく頷いた。
「私は、深紅。真朱深紅」
それだけ言うと真朱深紅は黙ってこちらを見つめている。
「よかったです。今回の任務に黒緋家から参加します。黒緋玄です。よろしくお願いします」
やはりだ。挨拶を返してからほっと胸を撫で下ろす。
正直最初は辻斬りか暴漢の類かと思ってしまったが、彼女こそがこの街で自分が探していた仕事の元締め、真朱家の人間だったのだ。
偶然の出会いに安堵して、ため息を吐きながら改めて佇まいを正していると少女の訝しそうな視線に晒されていることに気が付いた。
「何か?」と尋ねると返ってきたのは少女の無表情と、ただ一言「弱そう」だった。
◇◇◇
それから、真朱深紅に街に着いてから今まで道に迷っていたことを説明した。
少女の紅い目はあからさまに侮蔑の色を濃くしていたが、しかし彼女は直ぐに携帯電話を取り出して二言三言会話を交わすと改めてこちらに向き直り、
「私が案内するから、付いて来て」と、返事も待たずに歩き始めるのだった。
並んで歩くと言うには少し距離感のある位置で二人は黙々と道を行く。
道案内をしてもらっているだけなのだから特に会話の必要はないとはいえ、初めて会った人間と押し黙って連れ歩くのはいささか息が詰まる気分になってしまう。
うん、よし。師曰く『友好な関係はまず会話から始まる』だ。
「真朱さんは学生なんですか?」
「……そう、だけど」
全然話題が思いつかず、とりあえずそのままの印象を訪ねてみたのだが、思いっきり怪訝な表情を向けられてからたっぷり数秒は間が開いた。
しかし警戒したような顔ではあったが、意外なことに真朱深紅は普通に返事を返してくれる。
「すみません。もうすぐ高校になる妹がいるので思い出しちゃって。……あー、本家の近くだと同じ学校に通うかもしれませんね」
「……県外、だから」
「ああ、そうなんですね。どちらですか?」
「……」
その後も色々と別角度の話題を振ってはみるが、そっけなく返事を返されては会話が途切れてしまう。
気分を害してしまっただろうか。真朱深紅の言葉の端々には微妙な間があり、ぎこちなさというか会話慣れしていない雰囲気を醸し出していた。
真朱家と黒緋家は端的に言うと宗家と分家の関係に当たる。
宗家である真朱の人間と会話する事はこれが初めてだったのだが、はっきり言ってもっと威圧的で尊大な態度を取られるものと思っていたので内心では少し肩透かしを食らった気分だった。
現代日本に於いてそうした因習を重んじている文化がどれ程残されているのか自分にははっきりとは分からないが、時代錯誤なこの関係も宗家真朱に連なる家系の祓師という『特殊性』故の因習だろう。
『祓師』その起源がいつからなのか正確に知る人はいないだろうが、真朱家だけで見ても既に千年近く続く古い歴史がある。
人の営みが根付く地には穢れと呼ばれる陰鬱な気配が淀み溜まっていく。穢れは月日を重ねるとやがて異形の怪異へと派生して怪異は時に人を襲い害を為す。そうした穢れを祓い清める事を生業としているのが祓師と呼ばれる人間である。
所謂、除霊師の一種なのだが、真朱家は純粋な武力を用いてそれらを討ち取る家系であり「赤鬼」と呼ばれて同業者たちからも畏れ知られていた。
何も持たず軽い足取りで前を行く真朱深紅の手をふと見つめる。彼女の掌はとてもあの大太刀を自由自在に振り回していたとは思えないほど小さくて、通り過ぎる人の目を奪う鮮烈な髪色を除けば、その制服姿は何処にでもいるような可愛らしい少女でしかない。
しかし、彼女もまた祓師という異端の家系に生きる人間なのだ。一見普通の学生に見えても初めの立ち振る舞いを思い出せば厳しい風習と指南の世界で生きているだろうことは想像に難くはなかった。
「あー、あの刀は真朱さんの血結びなんですか?」
どうしようかと逡巡したが、沸き立つ好奇心は抑えられなかった。
真朱家の祓師の技に呪縁血絆と言うものがある。
呪いの縁を血で縛る、故に祓師には血結びと呼ばれている。その血で契約し受け入れたものは自身の血肉の一部と成り同化する。そうして破魔の刀や業魔の膂力を器に取り入れているのが真朱の一族の強さという話だ。
ちらりと少女が振り返る。少しの沈黙で間が開き無視されてしまったかと思ったが、考える素振りを見せた後に真朱深紅が小さく頷いた。
「そう」
不躾に声をかけ続けて機嫌を損ねてしまっただろうか、そのまま黙ってしまった彼女に謝ろうと「すみま――」口を開いた時。
「深紅、でいい」
少女の声がそう被さった。
「え?――ああ」
どうやら怒っていたのではなくて、名前の呼び方に葛藤があったようだった。
「すみません、ま……深紅さん。始めて見たので気になって」
それで納得してくれたのだろうか、彼女からさっきまで醸し出されていた剣呑とした雰囲気は少し和らいだような気がする。
深紅は歩きながら何も持っていない右手を振るう動作をした。まるで今も刀を握っているかのように錯覚するほどその動きは堂に入った精密さを持つ。
「あれは私の血結びの器。今もここに在る」
昔師匠に聞かされた話だが曰くその昔、名も無き木っ端な祓師だった真朱の者が鬼の血と交わり血の縁を結んだという話が祓師たちには語られている。
当然だが今も昔も人の身に魔を受け入れる事は禁忌とされている為に、真朱の家系は同業者からも畏れと共に忌み嫌われていた。
そうした背景がこの一族の空恐ろしい雰囲気を印象付け、それは同時に底知れない強さも演出しているという話だ。
遠くで、楽しげに会話しながら歩く女性たちの声が聞こえていた。
目の前で一人歩く少女の近寄りがたい雰囲気の中にどこか悲し気な印象が潜んでいる気がしたのは、そんな狭量な業界の噂話から来ているのかもしれないと考えてしまう。
そう思うこともやはり無礼で失礼に当たるのだろうか。そう考えると何故か寂しい気持ちがじわりと滲んだ。
周囲の景色は次第に閑散と変わっていつしか街の喧騒も遠く、人影も見えない河川敷沿いの道を2人並ぶようにして歩いていた。
静寂は続くが今はそんなに不快でもない。
風と川の音だけが静かにゆっくりと時間を押し流していく。
しばらく無言で歩いていた深紅が唐突にこちらを覗き込むようにして振り向いた。
「でも、真朱の血筋だから、持ってるんでしょ?」
「え?」
一瞬何のことかと考えたが、どうやらさっきの血結びの話はまだ続いていたらしい。
彼女は祓師だとか宗家ということを抜きにしても少し独特のテンポを持っているようだった。
「あー、すみません。いえ僕は、血結びというより――」
出かかった言葉は違和感、無音の重圧によって閉じられる。
気を抜くと狩り取られる。どこからかそんな気配、視線を感じたのだ。
そこはあの大通りから東へずっと進んだ場所、街の南東を流れる河川敷と並ぶ小道だった。見通しは良く、近くには疎らにしか建物が無い。
吹き付ける風は勢いが強く、街中のそれよりも冷たく感じる。
さっきまでは外灯の無い夜道でも満月のおかげで明るかったのだが、真上に昇った大きな月も今は流れてきた薄雲に遮れらてしまい街に寒々しい影を落としている。
進行方向の先にはそこだけ異質な雰囲気を放つ黒く大きな影が伸びていた。
目を凝らし、よくよくそれを見てみると斜に伸びた大きな無患子の木であることに気が付く。もう葉の残っていない枝が風に揺れる度に何か大きな化け物が蠢いている様に見えて少しどきりとした。
さらに近づくとその太い幹に注連縄が巻かれているのが見える。木の傍らには小さな社殿が建っており、その周りの空間を小さく囲う簡素な垣根の内側には大小不揃いの玉砂利が敷き詰められていた。
丁度こちらから向かう先である敷地の正面では、塗装が剝げ落ちて所々が欠けている石造りの鳥居がそこが聖域であることを殊更に主張していた。
段々と社殿へと近づくにつれて朧気だった視線の正体に気が付くと、一瞬どきりと胸が鳴った。そこには大柄な黒い人影が見えた。いや、こちらを見ていたのだ。
……怪異か、人か?
人影は風景に溶け込み不動の姿勢だったが、しかし鋭い眼光はこちらの動きを捉えて離さない。社殿正面の段差に出来た影溜の中でその男はじっとこちらを見つめている。
鳥居を抜けて神社の敷地に入ると闇に佇むその人物の輪郭がようやくはっきりと見て取れた。
◇◇◇
通常少人数で当たることの多い祓師の仕事だが余程想定外の事があったのだろうか、急遽人員の補充要請があり今回は分家である自分にもお呼びがかかったのは昨夜。
入っていた予定全てをひっくり返して、慌てて出向いたのが今日の早朝の事だった。
指示では宵の口にはこの集合場所である神社で落ち合う手はずだったのだが、余りに急な話の展開だった為に遅れに遅れてこんな時間になってしまった。
きっと宗家の厳つい人間が鬼の形相で待っていることだろう。
街に着いてからは食欲がなくなるほど憂鬱な心持だったが、何もかもが急すぎたことに対する不満の方が大きくてはっきり言って罪悪感などは一切涌かなかった。
むしろ労いの言葉でもあって然るべきだと内心では憤慨していたほどだ。そう、いたはずなのだが。
寧ろ「遅かったな」と悪態を吐かれた方が幾分かましだったろうと今は考えていた。
多くを語らない人間の威圧感とは実に息苦しいものだと思う。
闇夜の中で冷たく光る赤い瞳がまるで猛禽類に狙い定められた時のような、本能的な不安を搔き立ててくる。
深紅とは違う圧力、正真正銘の真朱宗家の人間だ。こうして相対しているだけでじりじりと精神を擦り下ろされている感覚に陥っている。
既に社殿の前に到着してから男と対峙して数十秒が過ぎたが、彼の圧倒的な威圧感の前に開いた口からは言葉が出てこなかった。
「…………」
重い静寂の下で三人の間には永く気まずい沈黙が流れている。
よし、ようし。先ずは挨拶からだろう。
心の中で自分を鼓舞して勢いをつける。短く細く呼吸をしてからようやく決意が固まった。
「すみません。遅れてしまい申し訳ないです。黒緋家から参りました黒緋玄、只今からお役目に参加いたします」
告げると同時に深々と頭を下げる。もう後は相手の出方次第に委ねるしかない。
「……」
一陣の風が吹き抜ける。
冷たい空気が地面を撫でつけ無患子の枝をざわざわと揺らす。ざ――っと遠巻きに響く風の音に運ばれて月明かりを隠していた雲の帳が開けていく。
目の前の気配が揺らぐのを感じて顔を上げていた。
まるで昼光のようにはっきりと照らす白い月明かりの中で、決して大仰ではないのだが、それでも重々しく冷たい空気を纏わせた男がこちらへ近づく。
静かに淀みなく、一歩踏み出すだけでその姿は様になる。
「俺は今回の穢れ祓いを指揮する。真朱臙脂だ」
月光の下、まるで舞台に立つ役者のように堂に入った目の前の人物をまじまじと見つめる。
現代に在っては目立つだろう重苦しい深い紺地の羽二重を羽織袴で着こなして、周囲を圧倒するように厳格な雰囲気は歴戦の雄を感じさせる。
そして、猛禽の如き眼は対面する人間が視線を合わせることを躊躇う程に鋭く射すくめているようだ。
生え際から先に行くほど濃い朱に染まる短い赤髪は、獅子の出で立ちを思わせる猛々しさを放っている。容姿はまだ三十代くらいに見えるのだが、真朱臙脂の貫禄と雰囲気は年季を重ねた猛者のそれだった。
まるで現代に迷い込んだ武将の様な男がそこに立っている。
「さて、では簡単に今回のお役目を説明する」
静かに短く、端的にそう切り出すと臙脂は仕草で社殿を示す。
三人が顔を付け合わせる目の前で、階段の上に広げられたのはこの街の地図だった。周囲に外灯などはなかったが、今夜の月明かりならそれでも絵図はよく見える。
「今この街には異常な程の穢れが観測されている。深紅から既に闇獣の群れを祓ったと報告があったが、街全体でああいった怪異が発生し易くなっている状況だ」
そう言うと地図をぐるりとなぞる様に指し示した。
「確かにこの地は霊脈の通り道ではあるが、まあはっきり言って普通ではない。恐らくこの異常の原因となる怪異か現象が潜んでいるものと考えられる」
そこで言葉を区切ると、臙脂は自分と深紅を交互に見つめた。この冷静で鋭い瞳を向けられると思わず姿勢を正してしまうから恐ろしい。
横目で隣を伺うと深紅も同じように緊張した面持ちで立っていた。
正直言って意外だったが、この臙脂という人物の纏う雰囲気がそれほど重いということだろう。
「最初の任務はこの異常の原因と思しきものの探索とその過程での穢れ祓いだ。他三人にはもう行動に入らせてるが、お前たちは二人で組んで北西区の探索に当たってもらう」
そう言いながら臙脂は『学校』『旧家地区』と書き込まれた辺りを指で示すと、これで話は終わりだと言わんばかりに地図を閉じ始める。
「――す、すみません。探索と言ってもちょっと漠然としていて……なにか、原因の見当などは付いていないのでしょうか」
黙っているとこのまま解散しそうな雰囲気だったので慌てて質問をした。
臙脂は特に気にした様子も無く切れ長の流し目をこちらに向けると、少しだけ俯き考えるような素振りを見せる。
そして顔を上げ、ゆっくりと遠く街の先へと目を向けてから、
「……見当か、黒緋玄。お前はどう思う?」
気が付くと燃えるような紅い瞳がこちらの眼をのぞき込むように見つめていた。
唐突に質問を振られてたじろぎはしたが、そう聞かれてこの街に着いてから感じていた違和感を改めて思い返してみる。
「いえ、僕からは何とも……ただこの街は闇の気配が異様に濃い、くらいにしか」
何かを探る様に瞳の奥をじっと観察されることは何もやましいことはないのに疑われている時みたいで、云い知れない不快感が胸を締め付ける。
「――そう。そうだな」
何に納得したのだろうか、臙脂は静かに一人頷くと手早く地図を片づけてしまう。
「お前はそういう気配の察知に優れていると黒緋朱殷から聞いている。先ずは違和感を感じる方を攫ってくれ」
「……分かりました」
臙脂の返答を聞き思うところはあるにはあったが、先ずは今日の務めを終わらせてからにしようと一人頷く。
言い終わるや、音も無く燕尾は既に歩き出していた。
この穢れ祓いは六人だけで行うと聞いている。自分の担当する地区へと向かうのだろう。
「最後に一つ……深追いはなしだ。強力な怪異や事象を発見したら直ぐに他の者へ連絡しろ」
こちらを振り返る事も無く遠退く背中でそう告げると、吹き抜ける風と共に臙脂の姿はふっと消える。
残された闇夜には何の気配も無く、静寂だけがその場に置き去りにされていた。
はっと思い隣に目を向ける。
元々無口と思ってはいたが、ここへ来てから全く気配を発していない深紅の様子がさっきから気になっていたのだ。
「大丈夫ですか?」
「……ええ、うん」
隣に立つ少女は相変わらずの無表情だったが、何故か酷く狼狽しているように見えた。
ずっと握っていたのだろうか、ぎゅっと握られたスカートの裾は恐らく皴になっているだろう。
隙の無い凛とした立ち姿に洗礼された一つ一つの所作。しかし言葉にならない滲み出る雰囲気が彼女の憔悴を物語っている。
「すみません。ちょっと待ってください」
出発しようと歩み出す深紅を制してリュックの中を漁る。確かこっちに入れていたはずだ。
「甘いものは好きですか?」
そう尋ねると、きょとんとした表情で深紅が小さく頷くのが見えた。
「それはよかった。はいどうぞ」
差し出したのは小さなチョコレートだった。
深紅は不思議そうにしながらもそれを受け取ると、こちらを見つめてくる。
「妹が――ああ、いえ、仕事前には糖分を取るといいらしいですよ。僕のジンクスみたいなものです」
そう言いながらもう一つ取り出すと包み紙を剥がして口に放り込む。口の中で溶ける甘さとカカオの風味がさっきまでの緊張した精神を解きほぐしてくれる様な気がした。
「ふふっ」
何か聞こえた気がして深紅の方を見ると彼女もチョコを頬張る所だった。表情は変わらず読み解けなかったが、口の中でチョコを転がす様子からは少し雰囲気が和らいだような印象を感じた。
「――あ」
思わず漏れた声に、深紅がこちらを見つめる。
「なに?」
「チョコレートの食べ方が妹に似ている」何て言ったらきっと怒るか距離を置かれるだろう、咳払いを一つして取り繕うようにリュックを背負い直すと。
「いえ、では行きましょうか」と歩き出す。
今夜はまだまだ長くなりそうだ。
冷たい風に背中を押されるようにして足取りは早くなる、まずは急いで北西地区へ向かうことにした。