緋色の眼差し
◇◇◇
「――ともあれ、今回は単独行動が過ぎたな」
会合は真朱臙脂の重苦しい言葉で始まる。
声を荒げる様な責め立てた口調ではないものの、臙脂の声は事実を並べるだけでも刑罰を告げられているかのような息苦しい圧力があった。
◇◇◇
突如発生した闇の大渦から脱出あと、臙脂たちへの諸々の報告や少年の搬送などの処置を済ませている内に陽はすっかり落ちてしまい街には再び夜の帳が下りていた。
あの廃工場から100メートル程離れた位置に陣取りそちらの方を振り返って見れば、夜闇の中だというのにそこにははっきりと分るほどの漆黒が渦巻いている。それはまるで空間に穴が開いているかの様ななんとも気味の悪い光景だった。
しかし、慌ただしさの中でそんな事よりも自分が最も気になっていたのは。
「…………」
その滞留し続ける闇の渦を眺める、朱殷の何とも言えない瞳の色だった。
いつも何を考えているのかよく分からない男ではあったが、哀しそうな、愉しそうな、昏く感情の見えないあの眼差しが、声をかけることすら憚られる精神的な距離を物語っているように感じてしまい、結局自分はその後姿を眺めている事しか出来なかったのだ。
「今戻った、けど」
朱殷から周囲の警戒と廃工場を囲む結界の準備を頼まれていた深紅が、戻って来るなり怪訝そうな瞳でこちらを見つめている。
「男二人でぼーっとして、何してるの?暇なの?」
「……よし、まずは今後の確認をしよう」
務めて明るい口調で朱殷が手を叩いた。
「周囲500メートル近辺には怪異の残穢なし、結界の展開も問題なかった」
「おっけー、ありがと。まぁあれは簡易結界だから気休め程度にしかならないけどね」
真面目な声色の報告に対して軽い口調で返す朱殷を見る深紅の眼は怪訝な色をしている。
「そっちは、どうなの?」
小さく呼吸をして気分を切り替えたのか、深紅はこちらに向き直り聞いてくる。どうやら朱殷と直接やり取りするのを諦めたようだった。
そうこうしている間に燕尾たちが合流する。
軽い報告と状況のやり取りをしている時に、闇夜の中で音も無く渦巻く大渦を見て臙脂が「黒渦か、厄介だな」と呟いたのが聞こえた。
「さて、黒渦祓いはどうしたものかな……」
ちょうど今思い返していた単語が耳から入ってきたことに驚き、改めて臙脂を見る。
彼の両脇には前回と同じように真朱浅緋と御所染桃が立っているが、浅緋は一歩下がった位置で神妙な面持ちで静かに立っているだけで、御所染桃に至っては話を聞いているのかいないのか明後日の方を見つめていた。
「――っ」
不意に目線が合い御所染桃がにこりと笑う。
笑顔だった。狼狽えてしまうほどの、美人の笑顔だった。……だが、何故かその瞳は笑っていないように思えて、怖れを覚える。
「すみません。確認したいのですが……」
内心の狼狽を振り払うように声を上げた。
ちらりと隣を見やると、朱殷が相変わらずの胡散臭い笑みでこちらを見返している。こっちもこっちで何を考えているのか解らない、まあ立ったまま寝ていないだけ真面目に参加しているみたいだが。
「なんだ、黒緋玄」
話を遮ってしまい叱責されるかとも思ったが、思った以上に臙脂の声は落ち着き穏やかな声色だった。
「黒渦、というのはどういう怪異なのでしょうか?」
これまで技術はともかくとして、別に知識まで素人というつもりはなかった。しかし産業革命以降、科学の明かりに照らされた現世からは次第に闇の棲み処など追い払われていき、現代の祓師が討伐する怪異などは闇獣が関の山、牛頭の大鬼など希少な遭遇であり、ましてやあんな闇の大渦など聞いた事も無いのが現実だった。
「そうか知らぬか、それはそうだな……」
少しだけ妙な間が開く。何事か考える仕草をしている臙脂の視線の先は、何故か朱殷を見ているようだった。
「黒渦は、現代で発生する条件が整う事はまず稀な怪異だろう」
臙脂の視線は遠くへ移る。釣られてそちらを見ると、天を衝くかの様に聳える真っ黒な壁が蠢いている。
「見ての通りあれは闇、穢れの集まりだったものの成れ果てだ。昔と違い、今は全国どの土地も管理担当する祓師が居て、定期的に穢れの吹き溜まりを祓い清めている。故にあんな密度の塊、黒渦が発生したこと自体に俺も驚いている」
「恐らく、発生の呼び水となる原因がいるんだろうけどねー、探しているけどその残滓もまだ見つかっていないんだよ」
すかさず朱殷が補足するように継ぎ足した。余りにも訳知り顔だったからだろうか、浅緋も関心なさそうにしていた御所染桃までも全員が朱殷の話に目を向けている。
「まぁ、あんなの災害だからね。私たちに取れる方策なんて限られてるよ」
朱殷が臙脂へと向き直る。また何事か考えている様子だった臙脂は珍しく溜息を吐くように深く息を吐いた。
「そうだ。あれを討伐封印となると、本家へ応援を要請して二、三日の準備がかかる。幸い今はあの場に留まっているが、黒渦が移動を始めれば我々の対応も――」
「ああ、出来ますよ。封印」
朱殷のあっけらかんとしたその言葉に、真冬の風で空気が凍り付いたかと思うほどの沈黙の間が開いた。
「どういう、事だ。黒緋朱殷」
眼が怖い。口調は変わらずに静かなものだったが、臙脂の眼が紅く欄々と光って見える。
「どういうと言っても、黒緋の専門がそっち方面なので?」
「む、う……準備にはどのくらいかかる」
色々な葛藤を垣間見せる表情を鋼の精神で抑え付けて、臙脂の押し殺したような重い声がそう尋ねる。
「そうですねー、まぁ半日、明日の昼過ぎにはいけますよ」
対して、何故か少し楽しそうに何処までも軽い口調の朱殷が両手を広げた。似非英国人の様なその仕草もまたイラッと来る要因だろう。
こうしてとんとん拍子に話は進んだ。
会合が終わり各自が動き出す中で臙脂は一人、天を喰らおうとしているかのように蠢く黒い壁を見つめていた。
「……なんだ」
「――っすみません。いえ」
後ろから近づいたというのに、こちらを振り返りも反応すら見せずに臙脂の方が先に声をかけて来た。
「先ほどは、師の言動が不快にさせてしまったのではないかと思い……申し訳なく」
「そうか、お前たちは師弟か……」
こちらを振り返った臙脂は素直に驚いた顔をしていた。初めて見せる意外な表情に、こちらの方が驚いてしまう。
「ふふ、師に苦労させられる弟子とは、どこも似たものだな」
そこには、射すくめられる眼光も恐れを抱くような圧力も無く、ただ優し気な眼差しの男の顔があるだけだった。
「見ろ」
臙脂の促す先では相変わらず黒い渦が滞留している。
気のせいだろうか、そちらの方向からは何故か一切の音、気配が伝わって来ないように感じた。
「あれに巻き込まれるという事は、耐性の無い者には無防備に呪いの奔流に晒されるという事と同じだ。疫病や業火に炙られるような苦痛を延々と流し込まれるというのに勘の無いものには見えも感じもしない。逃げることすら儘ならない……まさに厄災だ。絶対に祓い清めなければならん」
そう語る臙脂の瞳は、いつの間にか後ろで荷物の整理をしていた浅緋へと向けられている。
「さあ、時間はないぞ。お前たち黒緋が一番忙しいのだろう」
「はい。真朱家に連なる末席として、励みます」
今だけは、心からそう言葉に出来た気がする。
「うーん。まぁ玄は特にすることないかな?」
肩透かしだった。分ってはいたことだが、技能も無く、術に詳しくも無い自分に手伝える準備など用意されてはいなかったのだ。朱殷の軽い口調が殊更自分の無力を強調させる。
「むしろ玄は本番で一番重要な役があるんだから、さ、それまでにしっかり休憩取って万全にしててよ」
結局、明日何をするのかすら詳しく教えられないまま、厄介払いされるかの如く追い払われた。
「――――――っく!」
先ほど臙脂に見せた気合いの言葉を思い返して急に恥ずかしくなるのだった。