闇穿つ紅
◇◇◇
――再び時間は動き出す。
刹那ほどの間に処斬を受け続ける怪異の姿を見せつけられ、恐怖の本能から逃げ出したい体は動くことも出来ず。気付いた時にはじっとりとした厭な汗が全身から流れ落ちていた。
張り付く服の感触がこの上なく不快だ。
「――っん」
思わず息を飲む。交わす深紅の赤い瞳は、最早人とは言い難く寝物語に伝え聞いた鬼のそれは心臓を鷲掴みにして来るかの様な死のイメージを突きつけてくる。
迸る赫、波打つ紅蓮を纏う赤い上位者は嗤うように見下す様に、静かに佇んでいた。
視線を落とせば、芋虫のように這いつくばる哀れな怪異の姿が転がっている。
右脚を斬り飛ばされても尚、崩れ落ちる姿勢のままに伸ばした右掌と触手で深紅に襲い掛かった怪異だったが、一歩踏み出すだけの少女の気軽な足取りで赤い刃はそれらを切り落とす。
瞬きをする間もなく返す刀で左腕と残る右脚も切り捌かれると、怪異の巨躯は地響きと共に崩れ伏していた。
今や四肢も無くただのたうつだけの巨大な獣は、差し込む茜の陽に焼かれ哀れな声で泣き叫んでいる。しかしそれでも……。
「核がいる以上自然に消滅することはない、か」
もうこれ以上状況が整う事も無いだろう。
怪異は弱り、少年との繋がりは薄くなっている。今の深紅が居るなら逃がすことも無いだろう。そして先ほどから内心で焦っている一番の理由。
少年にはもう時間が余りないはずだ。衰弱した体で精神を蝕まれ続け、彼の魂にはもう限界が近い。
……それなら。
「今出来ることを」
黒緋の血で怪異を惹き付けて、少年の躰から引き剥がす。
作戦と呼ぶにはあまりにも拙いただの願いだったが、それでも今可能性があるとするならこれしかない。
もう触手を出すだけの力も残っていないのか、胴だけの躰で大きく身動きしてはこちらを威嚇する怪異に近づきながら小刀を取り出した。
大口を開けて隙あらば喰らい付こうと顎を鳴らす怪異の腿に紅の刀が容赦なく突き立てられる。
猿叫の様な大声に怯みそうになるものの、深紅に抑え付けられて動けない牛の頭を睨み返すと敢えてその眼前で立ち止まる。
今やれる事、自身の精一杯。黒緋の一人として。
この時だけは平静を装い凪ぎを保て、たとえこの身に力が宿っていなくとも、心は祓師たらんと在れ。
「かけまくも かしこきあんやのぬしよ めぐりよどみし まがごと つみ けがれ あらんをば はらえたまい きよめたまえともうすことを きこしめせと かしこみかしこみもうす」
自分のこの言葉に意味はない。
特異な力などなく、術など持たない自分にとっては空で覚えた祝詞である以上の価値はなかった。
それでも、毎日毎日言葉を唱え、思いを想い、今この時は自分に意味を持たせてくれていると己に言い聞かせて、今その意思が自分に動けと勇気をくれている。
祈る様に、拝むように、両手を合わせる様に右掌へと刀を差し込んだ。
刀を抜いた穴からは黒い鮮血が飛沫が上がる。右手を思いっきり振るえば、それは怪異の頭から降り注ぐ。
――――絶叫、叫喚、咆哮。
餌を求め鳴き叫ぶ獣の哀愁がそこに凝縮されているようなけたたましい声だった。
目の前の狂獣は大口を開けて齧り付こうと暴れているが、腿を貼り付けにする紅い大太刀がそれを許すことはない。それでも抗う獣は無き手を伸ばし藻掻き続けるのだが、無情にも赤鬼の拘束から逃れることは遂になかった。
薄暗い建屋に差し込む茜の陽光に照らされた怪異の気配を凝視する。
暴れのたうつ穢れの塊は少年の体から逃れ抜け出そうとしているのか、二つの縁は今にも千切れそうに捩じれ収縮していた。
少し距離を取り、その様を確認していると深紅の焔色の瞳と目が合う。
変わらずに鬼の威圧を湛えた眼光だったがその目は「終わり?」と訊ねている。
「いや、でもこれは……」
手足の無い黒い巨躯が脈動していた。迸る闇は渦巻き、その気配は急速に集中して膨らんでいく。
これはでまるで、闇獣が顕現する前触れの時の様な……。
――次の瞬間。
音も無く、牛頭の怪異に収束していた闇の奔流が爆発したかの様に一気呵成に噴き出した。
◇◇◇
黒い、黒い、黒い、昏い、黒――。
つい今まで赤い日差しに染められていた光景の一切は、漆黒の無明に飲み込まれてしまった。
闇の勢いに押し流されて、今自分が立っているのかも分からない。上下左右の概念を見失ってしまう程の黒い大渦。全方位どこをどう見回しても視界は黒い暗闇の底で埋め尽くされている。
闇の奔流は天を衝く勢いで立ち昇り、周囲一帯は黒い嵐に飲み込まれたかのように漆黒の影が絶えず渦巻いて……。
気付けばそこは、夜よりも深い闇の底だった。
「……失敗、したのか?」
息をしてもいいのか分からないほどの濃い穢れの瘴気に満たされた空間で一人、呆然と黒い空を見上げていた。
何が起きているのだろうか、考えてもわからない。この怪異の事をまだよく知らないというのに、何を勝手なことをしてと、思わず自分に嘲笑が漏れる。
功を焦り失敗して、少年も深紅も巻き込んでしまったのか……。
先の見えない闇に目を凝らす。
核となった少年は無事なのだろうか。深紅は、自分が無事なのだから流石に問題ないと思うのだが……。
視界を埋め尽くす闇の大渦に、段々と思考まで黒く鈍く染まっていくような錯覚に落ちていく。空は閉じ視界は闇、ここが外なのか心の内なのかさえ曖昧になる。
出来ることはやったのか?もう何もないのだろうか?痛みが走る右手にぐっと力を込めた。
痺れるほどの痛みだけが辛うじて意識がここに在ることを教えてくれる。しかしその感覚もまた徐々に鈍く闇に溶けていく。
「あぁ、静かだ」
常闇の優しい安寧に、意識も思考もゆっくりと深く瞼を下ろして。
「…………」
懐かしい匂い、山の香り、ひんやりとした知らない小さな手は心地よく、心は闇の底へ沈んで往く、誰かに抱きとめられているような、心地よい感覚に…………。
「――朱に交わりて……染まれ」
瞼を開き遠くで聞こえた声の方を見た。
何もない。いや、変わらずに闇が渦巻く一面の黒い空間に……一筋の紅い亀裂が奔った。
「嘘でもいい。塞ぐ時こそ動け、って」
今まで闇と同化したかのように熱の抜け落ちていた感覚が彼女から温もりを感じていた。
「……紅は師匠が、最初にくれた一教」
紅蓮の赤髪を翻し、毅然とした足取りで刀を振るう。赤い意思を瞳に宿した深紅の少女が、闇を切り裂き悠然とそこに立っていた。
「あ……あぁ、いい言葉ですね」
出て来た言葉はびっくりするほど適当な感じになってしまった。
驚きのあまり暫く呆けて見ていると、何故か深紅の方が目を逸らしている。
平衡感覚すら見失う孤独な闇の中で、これだけ目立つ人物が真っすぐ目の前に立っている。それだけで自分の軸も戻ってきたように感じるのだから不思議なものだ。
彼女の脇には少年の姿があった。意識を失い横になっているが、幸いまだ息はあるようだ。この混乱の極致に於いて見事に初志貫徹を果たしていたのだ。もう流石としか言いようがない。
その自信に満ちた立ち姿と、今までの眠たげな自分の様を思い比べると、思わず笑いが零れてしまう。
「妹さんが待ってるんでしょ?」
「っ――そうですね」
励ましてくれているのだろうか。深紅は真っすぐにこちらを見つめている。
さっきまで彼女を畏怖していた事が申し訳なくなる程の気遣いに気まずくなり目を逸らした。
「なら、どうにかしてここから出ないとです、ね……」
何かに気付き、目を向けた先は変わらずの黒だった。渦巻く闇は何物も通さず受け入れる。
気配を感じた気がしたのだ。見えない闇の壁の先、熱く、赤く、そして懐かしい気配……。
「深紅さん。そっちの方を斬れますか?」
何もない方角を指さされ、不思議そうに一度首を傾げる深紅だったが、特に質問を返す事も無く刀を霞みに構え直した。
「朱に交わりて……染まれ」
いったい幾たびその動きを繰り返したのだろうか、深紅の動きは流麗で、河が下方へ流れるかのように、極当たり前に刃先を運ぶ。
『紅』
紅い奔流が集中する。刃に収束した赤の波は刹那の間に一閃を書き、目の前の闇を斬り付ける。
その時、剣線の軌跡から赤い炎が吹き上げた。
深紅が斬り付けた空間をこじ開ける様にして揺らめく炎は次第に大きく膨らんでいく。
「え?なに、これ?」
すぐさま間合いを開き切っ先を向ける深紅は、困惑した声色でこちらに視線を送る。
「……遅いよ、朱殷」
「悪かった、な――あんまり時間がない、早く出るんだ」
大人一人分ほどに広がった炎の輪は、闇の渦の一角を丸く切り取りそこにぽっかりと穴を開けている。
その先では、どう見ても呑気な表情でこちらに手を振る朱殷が立っていた。
少年を抱えて炎の穴から外へ出ると、殿で警戒していた深紅も直ぐに抜け出して来た。
まるでそれを見届けるかのようにゆっくりと小さくなっていく炎の輪は、最後に燻ぶりぼぼぼと小さく揺らめくとその役目を終えて渦巻く闇の中へ消えてしまった。
――ぴちゃっ
「ん?」
不意に水が零れるような音が聞こえた気がして、後ろを振り返る。
相変わらずに漆黒の闇は音も無く渦巻いて、空を見上げれば星々が浮かぶ夜の闇は比べて眩しく感じるほどだった。
痺れを感じて目を向けた右手は、まだ痛むが……。落とした視線の先に少し驚く。
黒い瘡蓋で塞がっている傷跡から一筋の血が流れ落ち、地面に赤い点を打っていた。いつもなら完全に塞がっているはずなのに、やっぱりまだ少し体調が悪いのかもしれない。リュックから包帯を取り出して何時もの様に手早く右手に巻き付けながら隣で倒れている少年の様子を伺った。そこには何とも穏やかに寝息を立てる穏やかな顔がある。一先ず暗い帳は抜けたのだ。
渦巻き続ける闇の渦から距離を取ると、少女が見つめる先でスーツのままへなへなと地べたに座り込んだ。きっと今の自分の表情は緊張の抜けきった安堵一色だ。
――ぴちゃっ
再び水音が落ちる。
そこには少女の視線も闇の残滓も残されてはいなかった。