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奇跡を見に行かないか?

作者: スカイバード

 「奇跡を見に行かないか?」

このくさいセリフが、陳腐なアメリカのアクション映画の字幕であったら鼻で笑うことができたであろう。しかし、汗ばんだ右手で自分の受験番号の書かれた紙を持ち、いざこれから自分の合否を確かめるという段階において、ぼくと同じ状況にある玉井が言ったセリフであるから、ぼくは何も反応を示すことが出来ない。

 周りには、ぼくと同じように、紙をもった手が震えていたり、口が渇いたのか水を頻繁に飲む人が大勢いた。皆が一様に緊張した面持ちで、自分の明日がどうなるのかを案じている。しかしこの男、玉井だけは緊迫したその空気の中でも、まるでホームルーム前の教室の中にいるように、下らないことを話し続けている。

「知ってるか、百田、鳥取県に、ついにあのコーヒーチェーン店ムーンスターができたんだとよ。昨日のニュースで繰り返しやっていやがったよ。自慢げな店主が、あたかも自分が時代の最先端ですみたいな顔してさ、自慢げに格好つけて話してやがるんだ、笑えるだろ。たかがチェーンの喫茶店の雇われ店長なのにさ。客も客で、馬鹿みたいに行列つくって、やれトールだグランテだ、フラペチーノだって発音の悪い英語で注文して、狭いテーブルに詰め込まれてるんだ。大体なんだよ、フラペチーノって。ここは日本だろ。西洋かき氷って言えよ、なんなんだよ」

 その場の空気に合っていないことを大声でまくしたてる玉井に対して、明らかに周りは嫌悪感を示している。しかし、玉井は嫌われることを気にする人間ではない。

 そんな 彼に対して、「政治家になればいいんじゃないか」と高校二年の時に厭味を言ったことも あったが、すぐに、「百田、何を考えているんだお前は。政治家なんてパフォーマンスだ けで、いざというときにクソの役にも立たない職業なんかごめんだよ。あの大震災の時だ って、結局官僚頼みで、あいつらは何にもできなかっただろ。俺みたいな完全無欠の人間 が政治家になったとしても同じ結果になんだよ。ダメな人間が政治家になるわけじゃない 。政治家という肩書が、人間をダメにするんだよ」 と、意味の分からない屁理屈を言い出したので、ぼくはその瞬間に、先日のヨーロッパサッカーのニュースに話題を移した。


 そんないつでも自信満々、豪快崩落な玉井だから、「奇跡を見に行かないか」と、O大学文学部に合格することがまるでありえないことのように言っていることに対して、ぼくは驚き、反応することができなかったのだ。

「どうしたんだ、自信がないのか、玉井」

「論理的に考えろ、百田。センター試験の判定が E 判定で、二次の出来も芳しくない。合格したとしたら、奇跡以外の何物でもないだろ」

確かに、とぼくは言う。センター試験の判定がB判定で、二次試験もある程度できた自信のあるぼくが O 大学に合格するよりも、玉井が合格することの方が、奇跡だ。そう思った瞬間、マイクをもった係員の声が響いた。

「只今より、O 大学文学部の合格発表の掲示を公開いたします」 その声と同時に、大量の受験生がどっと前に進み出た。その波に遅れたら不合格になるよ うな悪い予感もしたので、ぼくも小走りに掲示板に向かう。途中で後ろを振り返ると、玉 井が天に向けてなにやら祈りを捧げていた。今更神頼みかよ。


 「神様なんているわけないのにな、なんであの教授熱くなってんのかね。前提となる神 が存在しないし、矛盾だらけの宗教のことなんか研究して、お金がもらえるなんて、いい身分だよな。死んだ奴が生き返るわけないし、どうやって処女で妊娠するんだよ。妄想妊娠だろ、妄想妊娠。あの教授は、ずっと妄想のことについて話してんのかよ」

「多分、あの教授もそんなこと百も承知で話してるんじゃない。なんでそんな妄想を世界中の多くの人が信じてるのかに興味をもてば、この講義も少しは面白くなる。だから少し黙っててくれ」

 順当に合格したぼくと、奇跡がおこって合格した玉井は、無事、O 大学文学部に入学して 、三限目の西洋哲学の講義をうけている。エネルギッシュで情報量の多いこの講義は、単位を取得するのが難しいのにも関わらず、講義室は多くの学生で席が埋められ埋められている。次から次へと論点が変わり、ノートをとるのも一苦労なのだが、さっきから唾を飛ばす勢いで大声で話し続ける教授をよそに、隣の玉井は、席が後方なのをいいことに、小声で下らないことを話し続けている。

「大体、こんなことを研究して、何の役に立つのか俺は疑問だよ。だから国立大学から文学部はいらないとかいうことが決められたりするんだよ。もっと世のためになること、世界を変えてやるくらいのことができないもんかねえ。例えば、あの無駄にでかい声を発電装置につなげて、電気をつくるとかさ。だけどまあ勉強ばっかして頭でっかちの奴には、 そんな柔軟な発想はできないか。柔軟な発想といえば玉井、知ってるか、昨日のサッカー の人種差別問題が起こったゲームのこと」

差別、という言葉にぼくは少しつまったが、すぐに小声ですぐに言い返す。

「あの、黒人選手がプレーしているそばに、バナナが投げ入れられた事件のこと?」

 その事件は、昨日のスペイン・リーグのサッカーの試合中におこった。強豪チームの右サイドバックの黒人選手がコーナーキックを蹴ろうとコーナーフラッグのもとに駆け寄った時に、客席から、黒人差別の象徴ともいえるバナナが投げ入れられたのだ。これまでもヨーロッパサッカーの現場では同じような事件がたびたびおこっていた。そのたびに、差別の対象となった黒人選手は怒りをあらわにするか、悲しみの表情を浮かべるかで、後味 の悪い結果になるのが通例であった。しかし、昨日の選手は、予想外の行動に出たのだ。

「あれは笑ったよな、エッて、思わず叫んじまったよ」

 その黒人選手は、なんと投げ入れられたバナナの皮をおもむろに剥き、もぐもぐと食べだしたのである。そして食べ終わるとバナナが投げ入れられた方向の客席に向けて、拍手し たのである。まるで、「差し入れありがとう」とでも言うように。さらにその黒人選手は そのあと、そのコーナーキックを、直接、ゴールした。

「しびれたよな。バナナを食べたのはもちろん、コーナーキックを直接入れちまったんだ から。差別と闘った上に、奇跡までおこしちまったことになる。あの選手の行動で、世界 中の黒人は勇気が出たに違いないね。朝、中学校のサッカー部の朝練を見たら、案の定、 コーナーキックから直接ゴールに入れる練習をしてたぜ、笑えるよな」 玉井がそう言って口角を上げてみせたところで、「じゃあ、今日の講義はここまで」とい う教授の声が聞こえた。

 

 「おい、お前たち、ちょっと調子にのってるんじゃないのか」 ブックオフで安い本をたくさん買って読書家面している奴は、書店で正規に本を買って出 版業界を支えている購買読者たちに一回謝るべきである、という話を、食堂で味噌ラーメンをすすりながら玉井が熱く語っているときに、急に傍で男の声がした。 身長はぼくよりかなり高く、筋肉質な体。目鼻立ちがはっきりした顔の上には、ゆるくパ ーマがかかった茶髪がのっている。知った顔だ。同じ文学部の一年生である。

「さっきの授業中にペチャクチャペチャクチャどうでもいいようなことを話しやがって。 お前らの周りにいる人たちは、みんな迷惑してるんだよ。特にお前、よくしゃべる方のお前だ。もうこれからは黙っててくれよ」

 茶髪パーマは、玉井に一瞥をくれた。先ほどまで味噌ラーメンをすすっていた玉井は、まるで自分が攻められているのは心外であるというような驚いた表情をしてみせ、茶髪パーマにくってかかった。

「おい、茶髪パーマ、俺たちがお前らにどんな迷惑をかけているんだよ。説明してくれよ」

「さっきも言っただろ、講義中にしゃべってるのが迷惑だっていってるんだ」

「おいおい、ちゃんとお前はシラバスを見たのかよ、あの西洋哲学の講義のシラバスには こう書いてある、『講義中に疑問に感じたこと、論点となるようなことは、積極的に議論 をしてもらいたい』ってな。俺たちはシラバス通りの議論をしているだけだ、文句あるのかよ」

ぼくからすれば玉井お得意の屁理屈以外の何物でもなかったが、初めて玉井と話す茶髪パ ーマは、面食らったようだ。

「うそつけよ、講義とは関係のないことばかり話してるくせに」

若干声が震えている。その声のトーンがさらに玉井を勢いづかせた。

「おいおい、茶髪パーマ、この世に関係してないことなんて何一つない、そうだろ?答えの出ないであろう問いに対して、一見関係なさそうなあらゆる分野の事柄からアプローチする。それが文学部の人間のやることだろうに」

先ほどの授業では文学部批判をしていた奴が何をいうか、とぼくは思ったが、玉井は止まらない。 「それに、だ。講義中に迷惑をかけているのは、お前たちのほうじゃないのか。知ってるぞ、講義中にずっと携帯電話を操作して、スクリーンが変わるたびにパシャパシャ音をたてて写真を撮ってるのは。音といえば、メールが来るたびにピコンピコンなるのもうるさいんだよ」

 痛いところをつかれたのか、茶髪パーマはむっつりとした表情で黙り込んだ。確かに、茶髪パーマを中心とした、派手なグループは、いつも席の後ろのほうに陣取って、教授の話 を聞かずに、携帯電話をいじっている。携帯電話をあまりさわらないぼくとしては、あの 小さな箱の中にどれだけ広い世界が広がっているのか想像することもできない。きっと、様々な世界をのぞき込んで、その世界を知った気になれるのであろう。しかし、いくら携帯電話から世界とつながっていても、その世界を変えることなどできない。もう自分の出番は終わりとばかりに、玉井が再び味噌ラーメンを咀嚼し始めると、茶髪パーマが今度は ぼくに向かって話し始めた。

「君は大変そうだな、こんな男といつも一緒にいて。まあ君みたいな人はこいつくらいしかつるんでくれるやつはいないか」

 高圧的な態度、軽薄な口調で語られたその言葉にぼくは胸が苦しくなる。言い返そうにも、親しくない人に向かってあまり話したくはない。茶髪パーマは、満足げな笑みを浮かべ て髪をかきあげ、ぼく達のもとを去ろうとした。その瞬間、バン、と味噌ラーメンのお椀 を机にたたきつけ、玉井は立ち上がり、茶髪パーマの元に詰め寄る。

「おい、いくら身長が低くて声が高いからって、百田のことを悪く言うのはやめろ」

不思議そうな顔をする茶髪パーマ、鼻息荒く今にも殴りかかりそうな顔の玉井を見ながら 、ぼくは胸のつかえがおりていくのを感じる。


 それから二週間がたち、ぼくは朝起きて、大学に行き、午前の授業を受け、玉井の下らない話を聞きながら昼食を食べ、午後の授業を受け、アパートに帰り、夕食を作り、食べ 、勉強をし、風呂に入り、寝る、という新生活のリズムに徐々に慣れ始め、玉井は、個別指導塾でアルバイトを始めた。

「塾の生徒たちは玉井の言うことをちゃんと聞く?」

いつもの調子のままで玉井がいるのなら生徒が心配だと思って聞いてみたのだが、玉井は、「もちろんだろ、いつも通り俺の平常運転で、生徒たちも満足してるぜ」 と得意げな顔で報告するから、玉井が担当している生徒のことが可哀想になる。

 そしてその日玉井と一緒に履修しているフランス語の授業が終わった後、たまにはラーメンでも食いにいかないか、とぼくは玉井に誘われた。週に三回は一緒にラーメン食べに 行ってるじゃないか、とぼくは言おうと思ったが、もう玉井は早足で歩きだしていたので 、慌てて駆け足でついていく。

 ぼくと玉井行きつけのラーメン屋は、かきいれ時であるというのに、客は僕たち以外に 誰もいなかった。店主は、味噌ラーメンを二つ、ぼく達のテーブルまで運んでくると、「 邪魔しちゃ悪いかね」と言って、店の奥に引っ込んでいった。 「別に邪魔じゃねえんだけどな。意味わかんねえよな」 そう言うなり玉井は味噌ラーメンを掻き込む。

 しばらく無言でラーメンをすすりあっていたが、玉井は一足先にラーメンを食べ終わると、フーと息をひとつ吐いて、話し始めた。

「百田、知ってるか、うちの大学祭は、もう二週間後にあるんだぜ」

 興味は全くなかったが、O 大学の大学祭が、五月の中旬、つまり、あと二週間後にあるこ とは情報に疎いぼくでもさすがに知っていた。模擬店やバンドなどのステージ発表、お笑い芸人による漫才、スポーツ大会など、内容は多岐にわたっており、三日間も行われるが 、おそらくぼくはずっと家で好きな映画の DVD でも観ているであろう。

「それで、だ。俺もその大学祭に参加しようと思う」

 玉井が少し気恥ずかしそうに言った。意外であった。そういった行事にはどちらかというと、いや、かなり、面倒くさがりであった彼が、大学祭に出るなどと、どういう風の吹き回しかと思った。女にでももてたいのだろうか。

「何に出るの。バンド?模擬店でも出店するの?」

 玉井は意外に多趣味で、ギターが弾けたり、料理が上手かったりするから、そういう方面 で大学祭に参加するのかと、ぼくは考えた。

玉井はすぐには返事をしなかった。ややあって、 何かを決意したかのように、厳かな口調でこう言った。

「いや、フットサルだ。スポーツ大会のフットサル部門に、俺たちはでる」


 それから二週間後。大学のフットサル場のコートの上に、なぜかぼくは立っていた。 「だから、百田、お前にも俺と一緒に出場してもらいたい」あのラーメン屋で、「フットサル大会に出る」と宣言した玉井は、二言目には、ぼくを誘っていた。まだ残っている麺を食べることも忘れ、ぼくはすぐに拒絶した。

「無理だ、断る」 その返事が玉井には驚きだったのか、両手を広げてアメリカ人のようなポーズをとって、 首をかしげてみせた。

「なんでだよ、百田、つれないな、理由は何だよ、理由は。なんか予定とかあるのかよ」

「理由は単純だよ、ぼくはフットサルの試合なんかに出たくない。見るのは好きだけど、 嫌いなんだよ、スポーツをするのは。運動神経だって悪いし。第一・・・」

「大丈夫だって。中高とサッカー部で不動のレギュラーだった俺がついてる。多少運動神 経が悪いのがなんだよ。多少背が低いのがなんだよ。自信をもてよ。お前、石頭だし」

石頭は全く関係ないだろ、とぼくは言ったが、玉井はいいや、大いにあると言って、「もうお前は逃げられない、エントリーシートにお前の名前を書いたからな。5月15日 土曜日、朝10時にキックオフだからな。忘れるなよ」 と、勝手に話をまとめて、先にラーメン屋を出ていった。

 引っ込んでいた店主が出てきて 、一人になったぼくに向かって、憐れむような目線を向けてきたが、ぼくは無視して、のびた麺をすすって、店を後にした。絶対出るわけがないとたかをくくっていた。実際、今日までの二週間、玉井はぼくと会ってもフットサルの話は一切しなかったため、すっかり 油断していた。甘かった。

 朝7時にぼくの家のインターフォンを鳴らす音がした。友人が玉井以外にいないぼくにとって、その主は玉井以外にありえない、そしてその玉井が今日用事があるとすればフットサル大会以外にありえない、となると、出るわけがない。なので、ぼくは、玉井があきらめるまでベッドの中で時が過ぎるのを待つことにした。玉井は忍耐強いほうではないので 、すぐにあきらめると思っていた。しかし、インターフォンが鳴る音は止まず、5分10 分と続いた。うるさいなあ、ほっといてくれよ、とぼくが内心愚痴っていると、壁の薄い 隣の部屋の住民も同じように思ったのか、壁をどんどんたたく音がした。今日1日の想像 できない苦痛と、これから先続く近所付き合いを天秤にかけた結果、ぼくは苦渋の思い でドアを開けた。


 そんないきさつで、ぼくは大学のフットサル場のコートに立っている。9時30分。ぼく達のチームの試合まであと30分あるが、ぼく達の試合が今日の第一試合なので、アップをすることが許された。フットサルをやるには5人必要なので、当然ぼくと玉井のほか にも3人いる。一人は理学部の、一人は法学部の、それぞれ一年生で、理学部の方は太っていて、法学部の方は眼鏡をかけていた。あまり運動が出来そうにはみえない。二人とも 、玉井のアルバイト先の同僚らしい。そしてもう一人は、口ひげをたくわえた怪しい雰囲 気のある中年男性だった。

「あの人は大学生?」 ぼくは、その中年男性に聞こえないようにこっそりと玉井に聞いた。

「いや、俺のバイト先の塾長だよ。昔サッカー部でゴールキーパーをやっていた経験をかって、選出した」 選出したとは偉そうに、どうせ他に誘う人がいなかっただけだろ、とぼくは思ったが、それを言ったらまたうるさく反論してくるので、もう一つの疑問を呈した。

「ぼく達の大学の学生じゃないのに、大丈夫?」

「まあ、大丈夫だろ。俺たちが参加するのは、男子フットサルだ。基準は満たしている」

「だったら・・・」 ぼくが会話を続けようとするのを遮って、玉井はポンと手を叩いた。

「さあ、アップをしよう。まずはパス回しからだな」


 アップを始めて、2つの不安要素が出てきた。まず一つ目は、中高とサッカーをやって いた玉井以外、まともにボールを蹴ったりトラップできたりする人間がいないということ 。体力的にも技術的にもさっぱりなぼくが言えたことではないが、理学部と法学部の一年生二人は典型的な運動音痴で、走り方も格好悪いし、息がすぐに切れる。まだ5月だというのに、汗の量が尋常ではない。塾長はボールをキャッチするのは得意そうであったが、 ボールを蹴るときに格好つける癖があり、それで何度か空振りしてしりもちをつき、周りの失笑をかっていた。そして2つ目は、ぼく達の対戦チームが、例の茶髪パーマ率いる派 手な集団であったということ。普段の生活が派手そうな彼らはフットサルでも派手なのか 、赤を基調としたおそろいのユニフォームで統一されている。ぼく達は、てんでばらばら の服装だ。塾長にいたっては、「はだかの大将」のようなランニング姿だ。ご丁寧に少し黄ばんでもいる。また、彼らのファンらしき女性が10数人、アップの段階から黄色い歓声をあげていた。時折ぼくの方を見て、なにやらひそひそ話し合ってもいる。彼らのアップは、ぼく達ぼく達のそれとは比べようもないくらい様になったものであった。5人全員の技術 レベルが高く、ワンタッチで華麗にパスを回しの練習をしている。ファンに見せるためな のか、茶髪パーマは、ヒールリフトまでやってみせている。アップの段階ですでにこれほどまでの実力差を見せつけられては、さすがの玉井も戦意を喪失しているかと思って彼を みると、なんのことはない、いつも通り下らない話を塾長としている玉井がいた。話のテーマは、「女流棋士の中で一番性格がきつそうなのはだれか」というものだった。どうでもいい。元気が出た。


 前後半10分ずつの試合の前半が始まった。試合は案の定、茶髪パーマのチームペース で始まった。キックオフはぼく達のチームであったのだが、玉井のグラウンダーのパスを 受けたぼくがトラップを失敗してしまい、簡単にボールを失ってしまった。それからボールのポゼッションは完全に相手チームに渡り、ワンタッチ、ツータッチのパスで、ぼく達 のチームに揺さぶりをかけてきた。

 ぼくと理学部と法学部の1年はサッカーの実力が底辺であることがすぐにバレ、特にぼくは、相手に頻繁に遊ばれるようになった。一回抜かれてああダメだと思ったら相手がまたぼくの前まで戻ってきて、もう一回抜かれる、なんて ことが何回もおこった。その度に相手チームの選手は爆笑し、ファンの女性たちは歓声を上げた。茶髪パーマに至っては、股の間を抜かれた僕に向かって、「可愛いとこあるじゃん」とからかってきた。悔しくて、唇をかんだが、それでどうにかなるものでもないので 、ぼくはそのたびに下を向いた。

 しかしそれでも前半の半分を過ぎたあたりから、徐々に ぼく達のチームも、相手からボールを奪うことが出来るようになってきた。いや、正確には玉井が、絶妙なポジショニングで、危険な地帯に運ばれそうになるボールを何度もかすめとっていった。ただそのあとのパスがなかなかつながらず、ぼく達は相手陣地に ボールを運んでいくこともままならなかった。逆に、茶髪パーマのチームは、玉井が相当な実力の持ち主であることを見抜き、玉井のいる方をさけるようにしてパスやドリブルをするようになった。

 さすがに4人を一気にマークすることは玉井にもできず、ましてやぼ くや理学部や法学部にもできないので、何度かシュートをうたれるシーンはつくられた。 しかし、そのたびに塾長がその太った体躯からは想像できないような俊敏な動きでボールをはじき出し、なんとか失点だけは防ぎ、前半は終了した。

 相手に攻め込まれ、走らされたため、ぼくはゼイゼイ息が上がり、今にも吐きそうだった。実際に法学部の1年は、「 吐く」とだけ言ってトイレに駆け込んでいった。対照的に茶髪パーマのチームの面々は 、点は取れなかったもののまだ余裕たっぷりの表情で、ファンの差し入れらしいケーキな ど食べて談笑している。

「玉井、ごめん。ぼくばっかボールとられて」

 強制的に連れてこられた立場上、謝るのも気が引けたが、水を飲みながらなにやら思案している表情の玉井に、一応そう声をかけた。べつに責められるとも思っていなかった。し かし、玉井は謝罪が当然だとでもいうように、頷き、 「全くだぜ、百田。もうちょっとやれると思ってたのに、がっかりだよ。後半はもう少ししっかり頼むぜ」 と言った。

 なんだその言いぐさはと思い、ぼくは柄にもなく強い口調でつめよった。

「なんなんだよ、その言い方は。どうせあれだろ、ぼくの他にフットサルに誘えるような 人もいなかったから、しょうがなくぼくを巻き込んだんだろ」

「そんなわけないだろ。この5人がベストメンバーだ」 自慢げな顔で、鼻を膨らませて玉井は答える。

「これのどこがどこがベストメンバーだよ。運動がからきしダメな男二人と、シャツが黄ばんでるおじさんと、女なのに男のふりしてるって周りから差別されてるぼくがいるチームで勝てるわ けないだろ」

「お前が男だろうが女だろうが、そんなことは関係ないだろ」

「関係あるに決まってるだろ。中学の時から、あいつは女なのに男みたいに振る舞ってる って差別されて、陰口叩かれて、部活にも入れずに、孤立してたぼくが、まともに運動できるわけがないって、玉井なら知ってただろ。さっきの前半だってそうだ。男子フットサルなのに、ぼくみたいな女がいるから、プレーで遊ばれたり、ひそひそ話されたりして、傷ついてるんだよ。玉井は今日、ぼくを見世物にでもしたいのかよ」

普段は意識して低い声で話すぼくも、この時ばかりは抑えがきかずに、女特有の高い声に なっていた。

「奇跡でもおきない限り、このまま無様に負けていくだけだよ」

 そうぼくは言い、座り込んだ。芝の感触が気持ち悪い。しかし玉井は、ぼくの攻撃にも動揺するでもなく、むしろ、難解な数式が解けた時のような快活な顔になって、大声をあげた。

「そう、奇跡だよ。奇跡をおこすんだ」

「奇跡なんてそう何回もおきない。玉井は、もう大学受験で奇跡をつかっちゃったから、無理だよ」

そうぼくが言うと、玉井はにやりと笑い、ぼくの肩に手を置いた。

「違う、今日奇跡をおこすのは俺じゃない、お前だよ、百田」 そういうと、ぼくの肩をポンポンと2回叩いた。

 そのとき、審判が、ハーフタイム終了の 合図の笛を鳴らした。

「差別がなんだ。お前本当は女だからなんだ。お前は俺の大切な友人だ。だから俺は百田をこのチームに入れたんだ」

 コートに足を踏み入れながら玉井はそう言った。ぼくの目頭が熱くなる。

 そして後半開始のホイッスルが鳴る直前、こう付け加えた。

「奇跡をおこして、お前が世界を変えてみろよ」


 後半も、一方的に茶髪パーマチームが押し込む展開となった。しかし、玉井を中心に、 前半を経て少し相手のやり方が分かってきたぼく達のチームは、守備に関しては安定してきた。しかし、どうしても攻撃となると、すぐにうまくなるはずもなく、せっかくボールを奪っても、すぐにパスミスやトラップミスで相手に取り返されてしまう。

 ぼくが前半から不思議であったのは、明らかにぼく達のチームの中でサッカーの実力がずば抜けて高い玉井が、ほとんどドリブルをしかけないことだ。中学や高校の体育でサッカーをやるとき には、必ずと言っていいほどサッカー部のエース級の奴が、パスをろくにせずに、ドリブ ルばかりして自己満足なプレーに終始していたという記憶がある。玉井はひょっとして、 あえてドリブルを温存しているのではないか。後半のワンチャンスに賭けて、前半や今の 時間帯は、相手にすぐにうばわれること覚悟で、パスしか出していないのではないか。ぼくがふと玉井の方を見ると、玉井はニヤリと笑って、こちらを見返してきた。


 コートのわきに置かれてある電光掲示板が、試合の残り時間があと3分であることを示した。もし引き分けた場合、くじ引きで勝利チームを決めることになっている。圧倒的な力の差がありながら、いまだに得点を奪えずにいる茶髪パーマのチームは、明らかに焦っていた。前半にみせていた優雅なパスワークは鳴りを潜め、強引で単調なドリブル突破に終始するようになった。

 しかしそうなるとこちらの思い通りで、ピンチの数も減っていった 。相手チームの選手は、ミスがおこると大声で言い争うようになり、雰囲気の悪化がぼく達のチームにも伝わってきた。力のないシュートが塾長の元に転がり、それを塾長が大き く蹴りだしたとき、玉井がぼくのもとに近づき、耳打ちした。

「次、俺がボールを奪ったら、一目散に前線に上がれ。いいな」 正直体力は限界を超えていたが、ぼくは力強く頷いた。

 先ほど塾長が蹴ったボールは茶髪パーマがハーフウェイライン付近でカットして、そのままドリブルを仕掛けてきた。周りの仲間には目もくれていない。目の前には、玉井がいるが、背後には広大なスペースがある。つまり、茶髪パーマは、玉井さえ抜ければ、塾長との、一対一の局面になる。茶髪パーマは、ここがチャンスとばかりに、ボールを少し大きく蹴りだして、玉井をぬきにかかった。しかし、玉井がやられるはずがなかった。玉井の左脇を抜けていこうとする茶髪パーマを巧みに肩でおさえ、前にいかせず、最後は足を思い切り伸ばしてボールを引き寄せ、茶髪パーマの体の重心がかかっている反対側にボールをコントロールしてみせたのだ。バランスを崩した茶髪パーマは、しかし、ボールを奪われたことへの恐れは感じていないようだった。

 当然だ。この試合で玉井は、一度もドリブルを仕掛けていないのだから。そしてこの瞬間に玉井がドリブルを仕掛けることを知っているのは、ぼくしかいないのだから。

 玉井が視線を上げた瞬間、ぼくは前線に走り出した。女走りで、しかもスタミナが底をついた状況でひどい顔をしながら走ったのであ ろう、相手チームのファンは大笑いをしていた。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。もう下を向いてなどいられない。しっかりと前を見て、奇跡をおこさなければ ならない。

 後方からは、玉井が猛烈なスピードでドリブルを加速させていた。てっきりパスをするのだと思っていた相手チームの面々は一瞬きょとんとしていたが、すぐにピンチであるこ とに気がつき、玉井の近くに寄せてきた。しかし、そんな相手にも臆することはなく、両足にボールが吸い付くようなタッチで、一人二人とかわしていった。そしてぼくがゴール前 に到着したことを確認すると、今度は右サイドに向かってドリブルを開始した。

 ゴールに向かってドリブルが来ると予測していた僕の隣にいた相手ディフェンスは困惑していたが、サイドで玉井と対峙した方が得策であると判断したのか、ぼくの傍から離れ 、右サイドでドリブルを加速させる玉井の元に寄せていった。

そして、ゴールの前にいるのは、ぼくだけになった。


 この後、玉井がどんなプレーをするのかはぼくには手に取るようにわかった。玉井は、 ぼくに奇跡をおこさせようとしていること。ぼくに世界を変えさせようとしていること。 そして、2週間前のラーメン屋での、「お前、石頭だし」という玉井の言葉。

玉井は、いったん相手陣地の右サイドまで深く入り込んだ後、ふわっとした放物線のボールを、ぼくの頭めがけてけりこんできた。

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