第三章
その頃源司の家でも、四人が言葉の意味を話し合っていた。
「うーん・・。どう考えてみても、わかんねぇや・・。」一樹は卓に広げた便箋を見ながら悩んでいた。
「何とか知恵を絞ってよ。弥生のためなんだからさ。」そう言う咲子と弥生もまた、真向かいでそれに見入っていた。
「まぁねぇ・・。」一樹は便箋を睨んだまま頬杖を付いた。
「・・可愛い弥生のためだもんなぁ・・。」ふとそう呟いた。
その一樹の言葉に、弥生ははっと顔を上げた。
「ああー!一樹!今私の事可愛いって言ったぁ!初めてだねー!」一樹を見て嬉しそうにそう言う弥生に、一樹は目を向けた。
「ああっ?な・・何聞いてんだよ。そりゃあ、まぁ・・可愛い妹の弥生ちゃまだからな。」
「また子供扱いする・・。」そう言う一樹に、弥生はわざとプーと頬を膨らませた。それを見た一樹は溜息を吐いた。
「あのねぇ・・。今、お前のために悩んでんだからさ。まったく。ふくれててどうする。」そう呆れた顔で、一樹は弥生に目を向けた。
そんな中、一樹の隣でぐい飲みを片手に眉間に皺を寄せていた源司がふと呟いた。
「この、表の看板三味線のと言うところが、どうも引っ掛かるのう・・。」
「そうなんだよ。源爺、この辺に三味線屋なんて在ったのかい?」源司に目を戻して一樹は聞いた。
「さぁのう・・。そんな話しは聞いた事も無い。こんな田舎にそんな洒落た店なんぞ、在ったわけが無かろう・・。」
「三味線ねぇ・・。確か三味線って、猫の皮を張って作るんだよねぇ・・。」咲子がボソッと呟いた。
「そう。猫の皮だ・・。だから猫と鼠で、昔在った駐在所、今で言う交番かなと俺も思った訳だ。でも今在るその交番の裏には、上がる所が無い。」と、そう一樹が答えた。
「そうかぁ・・。良い閃きだと思ったんだけどねぇ・・。でも、大昔からそうなの?」咲子はそう思い、源司に尋ねた。
「うーむ・・。そんな大昔の事は分からんが、まぁわしが知る限りでは、あの辺りは昔から平らじゃのう。村の中心に在るでなぁ。」そう源司は、深く思い出して答えた。
「そうかぁ・・。じゃあ駄目かぁ・・。」咲子はその言葉を聞いて落ち込んだ。
「でも・・。三味線って言うんだから、その線の方は?」ふと弥生が一樹に聞いた。その弥生の言葉に、一樹は顔を上げて弥生を見た。
「うん?線?糸の事か?そう言えば、三味線の糸って、何で出来てんだろ?」一樹が目を移して源司に聞くと、源司も首を傾げた。
「さぁのう・・。」
「私も知らない・・。」咲子もお手上げだった。
「それなら、ちょっくら調べてみるか。こうなりゃ何でもだよ。」一樹は立ち上がって広辞苑を持って来た。
「えーとね・・。あ、あったあった。んー。猫か犬の皮を張ると・・。そんで糸は・・と。あー、絹糸だよ。それを染めて使うんだ。」一樹はそう言うと皆を見回した。それを聞いた源司は、ふと首を捻
った。
「んん?絹糸・・?おお、それならば、その絹糸を作っていた工場は、以前は在ったようだのう。昔は養蚕が盛んだったそうでな。随分昔から営んでいたとか・・。確か其処は・・。」源司は思い出そう
として一樹を見た。
「そうだ・・。今は廃屋になってるあれは・・林製糸工場跡!」一樹が思い出して叫んだ。
「そうじゃ。そして、その上には昔は二軒の家があって、更にその上には・・。」
「閻魔堂が在るっ!」一樹は目を見開いて、強く膝を叩いた。
「岩根区がどうかしたの?」山崎の反応に、怪訝そうに悦子が聞いた。
「あ、いや・・。ちょっと知り合いになった人が其処に居るもんでね。」
「ふーん・・。」悦子は思案顔で頬杖を付いた。
「あー!私、分かった!」それまで突っ伏してその便箋を睨んでいた真美が、身を起こしざま叫んだ。
「おう!ビックリした!どうしたんだよ。」その声に驚いた山崎と悦子はビクッと仰け反り、真美を見つめた。
「ああ、驚かせちゃった?でも私分かったのよ。この歌の意味が。」
「分かったって?」悦子が身を乗り出して便箋を見た。
「そう。分かったの。いい?悦子。この最初の橋の下の鼠って言うのは、忌み嫌われた女衒、つまり信佐って人の事よ。その信佐が、おゆうって子の草履を持って行っちゃったの。と言うのは、そのチュ
ッチュク饅頭てのは、多分その草履のことだと思うからよ。そしてそれを食べたのは、つまり持って行ったのは、やっぱりその信佐のことだと思う。
でも其の先、表の看板三味線からはちょっと分からないけど・・。でもその時の事を歌にしたんだよ、きっと。」
二人は黙って真美の解釈を聞いていた。悦子は便箋を見ながら、低く呟いた。
「私達が遊んでいたお遊戯って、とても残酷な歌だったのね・・。」悦子はしんみりとした声で呟き、改めてその便箋を見つめた。
「うん・・。それって、分からない方が良かった?」真美が聞くと、悦子は悲しそうに答えた。
「ううん・・。でも、それ程長い草履隠しなら・・終わらせてあげたいね・・。」
稲村は灯りも点けずに、独り病院のベッドの上であぐらをかいていた。
その病室の窓からは明るい月の明かりが射し込み、ベッドの上へと桜の枝の影を落としていた。
そしてくゆらす煙草の煙は、その光に照らされてまるで舞うかの様に刹那の墨絵を空間に描いたかと思うと、やがて暗闇へと虚ろに消えていった。
そんな変幻する煙の舞を稲村はただ静かに見つめながら、じっと身じろぎもせずに考えていた。
(もう・・終わりなのか?この長い旅路の果て・・。そしてこの、これまで積み上げてきた数々の時間や思い・・その思いが、それがこんな事で終わってしまうのか?
いや・・しかし誰がどうしようと、こんな茶番のような幕引きはさせない・・。その幕を引くのは、自分で無ければならない・・。
だが、今は疲れた・・。こんな忙しない日々がこれまで考え抜いたはずの数々の思いを、全部津波のようにさらって行ってしまった・・。
そして其処にただ自分だけが、その残された瓦礫の中に、独り取り残されたようだ・・。)
稲村はゆっくりとベッドから降りると、月明かりに照らされた窓辺に立った。その窓ガラスに映った自分は、何かしら見知らぬ他人のようにも見えた。
そしてそのガラスに映った自分をじっと見つめていると、そのガラスに映った自分が心に語り掛けてきた。
(人は圧倒的な力にいつかしら惹かれ、そして取り憑かれてゆく・・。それを手に入れる為にはどんな手段をも選ばず・・。そうこれまで生きてきたお前は、そもそも何がしたかったのだ?)
そんな問い掛けに稲村は答えた。
(何がしたかったかだと?それは今お前が言ったように、全ての力を凌駕するような、もっと圧倒的な力が欲しかっただけだ。それが自分の欲望の全てだった。
けれどもその思いも、今は空しく感じられる・・。それは到底及ばない思いであったろうかなと・・。
そう・・これまでの自分の思いを冷静に思い返して客観的に見れば、それは単に物欲主義にも見え、或いは未知なる力を求めての深奥な修行や探究にも見え、或いは・・ただ迷信じみた宿命や運命と呼ば
れるものを打つ壊す為の、果て無き闘争にも見える・・。
しかし・・。今更そんなことを思ってみたところで、どうしようも無いだろうが。ここまでその道を歩んできて、後戻りなどはもう出来はしないのだから・・。
だが・・そんな目には見えぬ力をこの歳まで欲してきたこの生き様とは、一体どう言う意味を持っていたのだろうか・・。)そうガラスに映った自分に問うと、また心の声がした。
(意味などは無い。そう言い切ってしまえば、お前は楽になれるのか?)
その問いに、稲村は目を見開き、ガラスに映った相手をじっと見据えた。
(いいや・・。自分はそうは思わないし、思えない。それではあまりにも虚ろだ。もっと違う道もあったのかも知れぬ。しかし・・この受け継がれた血や思いが、それを許さなかった。それは歩く足元や
蠢く大気の中にも潜むあの幾多の魂が、自分をいつも覗き込んで監視しているのと同じようにな・・。)
(しかしそれをそれを識っている人生と識らないでいる人生とでは、その価値も変わってくるようにも今は感じているのではないか?)と、今度は稲村を肯定しているように心の声は答えた。そしてその
答えに、稲村はふぅと息を吐き頷いた。
(そうだな・・。この常識と言う薄くて脆い皮膜を破れば、如何に己が非常識で不可思議な世界に存在しているのだと言うことを思い知る。けれども人は誰しも、それを体感する事が出来ないでいるよう
にも思う。
そして流れ行くどの様な景色にも、人はただ慣れ、疑問視すること無く、その環境に順応し死んでいく。それに比べればな・・。)けれどもそう自分でも肯定した後、心の声はその意に反して、非情とも
思えるほど冷たく言い放った。
(ふん・・。けれどもやはり、お前もまたそう変わりはしない・・。
ただ否応無しに転がって行く生活と思いが、その限られた人生という時間の中で、埃の様に積もってきただけなのだ・・。)
稲村はそう言うもう一人の自分の言葉に、窓ガラスに写っている自分の眼を厳しく見つめた。それから息を吐くと、その自分の後ろに広がる、真の暗闇を見つめた。その星の瞬きさえ無い暗い闇は、ガラ
スのすぐ向こうから、自分をじっと見つめ返しているようにも思えた。
「じゃあ明日、俺が閻魔堂に入って見て来るよ。」と、そう軽く言う一樹に、
「独りでは危ないのでは無いか?何が起こるやも知れん。」と源司が戒めた。
「そうよ。あんな昼間でも寂しい場所に、独りで行くなんて。」咲子もそう危ぶんで一樹に言った。
「大丈夫だよ、咲ちゃん。それに、この推理が合ってるかどうかも分からないんだよ?ちょっと見てくるだけだからさ。」一樹は咲子に目を向けると、そう楽観的な表情と言葉で答えた。
するとふいに、弥生が顔を強ばらせて言った。
「私も一緒に行く・・。」と。それを聞いた一樹は、その言葉に驚きつつ、けれどもそれには反対した。
「んん?弥生が?はぁ・・。恐がりやの弥生を連れてけば、もっと面倒だよ。」と一樹が突っぱねると、
「だってっ!だって・・。私に言いに来てるんだもん・・。」とそう弥生は訴えて、半べそになった。そんな弥生に、慌てて一樹は声を掛けた。
「ああ、分かった!分かったから泣くな。分かったよ。じゃあ一緒に行こう。な?」一樹はしようが無く弥生を覗き込むと、そう言って弥生を宥めた。
「それならみんなで行けば良いんじゃないの?ねぇ?みんな明日はお休みなんだから。」咲子が源司にそう提案した。
「そうじゃな。それが良い。それならば安心で安全であろうからのう。」源司も咲子の提案に深く頷いた。それを聞いた一樹は、二人の顔を交互に見つめ、そして自分も頷いた。
「そうだね。なんだ、最初からそう言えば良かったよ。ちょっと大袈裟だけどさ。さーて。そうと決まればもう少し呑んで、ほんで早めに・・。あれ?あ、携帯が鳴ってる。あ、山崎さんからだ。もしも
し?」一樹は携帯電話を取り、応対した。
『ああ、一樹君?夜分、それも急にこんな事言って申し訳無いんだけど、これからそっちに伺わせてもらっても良いかな?いろいろ事情があってね。伝えたいこともあるんだけど・・。』
『ええ、それは構いませんが・・。ちょっと聞いてみます。』源爺、これから山崎さんがこっちに来たいって。構わないよね?」
「お一人でか?」源司は少し訝しげに一樹に聞いた。
『山崎さん、お一人ですか?』そう源司に聞かれて、一樹も山崎に聞いた。
『ああ。もちろん一人だよ。』
「一人だって。」そう源司に伝えた。
「それならば構わん。」源司は深く頷いた。
『良いってさ。』
『ああ、良かった。じゃ、これからタクシーでそちらに向かうよ。』
『はい。待ってます。』携帯を切ってから、一樹は首を傾げた。
「どうしたんだろ、山崎さん。なんか切羽詰まってるような感じがしたんだけど。それに何か伝えたいことがあるって言ってた。」
そんな一樹に、源司は事情を説明した。
「うむ。実は皆には話さなんだが、今日その山崎さんから電話があってな。何でも工事が諸事情から停まったらしい。それと、この事件に興味を抱いた二人の部下が、一緒に此処に留まりたいと言うてお
ることとな。」
「ああ。それで一人か?って聞いたんだ。」と一樹は源司に頷いた。
「うむ。」源司は厳しい顔で頷いた。
「なんで黙ってたんだい?」と一樹が聞くと、
「うむ。無駄なことは口にせん方が良かろう。いずれ分かる事じゃからの。そして今は集中すべき、その事があるのでな。」と源司は答えた。
「でも、山崎さんは留まったのよね?」少し心配そうな眼差しで咲子は源司に聞いた。
「そのようであるな。彼もまた、何か思うところがあるのであろうかの。」そう答えて、源司は咲子に微笑んだ。
そして源司は山崎からの電話での話を詳しく皆に話した。そしてみんなに、今一度念を押した。
「こんな事は、わしの今までの生涯の中でも、嘗て無かった事じゃ。そして今こうして、その歌の謎を皆で解いているのも、改めて見れば可笑しな事にも思う。しかし走り出した事態は、如何様にも止め
ようが無いようでな。それは我らを超えた何者かが、何かを起こそうとしているのやも知れん。
じゃから皆には、それに浮かされる事無く、慎重の上にも慎重に動いて貰いたいのじゃ。何か不吉な事が起こってからでは、悔やんでも悔やみきれんのでな・・。」源司は、三人の顔をそれぞれに見つめ
た。
「ああ・・。分かったよ、源爺・・。」一樹が答えると、咲子と弥生も深く頷いた。
そんな時、玄関から呼ぶ声が聞こえた。
「今晩は。今晩はぁ。」
「あ、山崎さんの声だ。」一樹がそう口にすると、咲子は真っ先に立ち上がって、小走りに玄関に出迎えに行った。
「いらっしゃい。まぁ、ビッショリになって・・。」山崎の濡れた姿を見て、咲子は心配そうに声を掛けた。
「ええ、参りましたよ。土砂降りで。」山崎は濡れた髪を揉むようにして、雨水を落としていた。
「あ、ちょっと待ってて下さいね。」咲子は急いでタオルを取って来ると、それを丁寧に山崎に渡した。
「すいませんねぇ、どうも。それにこんな夜分にお邪魔しちゃって。」タオルで水滴を拭いながら山崎は言った。
「いえいえ。まぁとにかくは、お上がりになって下さい。」咲子は微笑んで山崎を囲炉裏端へと誘った。
「うん、ありがとう。あ、源司さん、お邪魔します。」源司を目にした山崎がそう言うと、囲炉裏端に座って居る源司はすぐに答えた。
「おお。よう来られた。かなり降っておる様だのう。強い雨音が絶えんわ。」と頷き、愛想良く山崎に席を勧めた。
「ええ。何でも明日も明後日も降り続くようですよ。菜種梅雨って言うんでしたっけ?でもこんな降りじゃ、何も無くても工事は出来ませんでしたよ。」そう言いながら、山崎は源司の隣に腰を降ろし
た。
「ええ?明日も?そりゃ参ったなぁ・・。」と山崎の言葉を聞いた一樹は渋い顔で呟いた。そんな一樹の様子に、山崎は何気なく聞いた。
「うん?一樹君、明日どっかへ出掛けるのかい?」
そんな問い掛けに、一樹は山崎を真面目な顔で見つめると、一つ頷いてから答えた。
「ええそれが、あの歌の文句が示している場所が、確かじゃ無いけど分かったような気がするんですよ。それで明日、みんなで行って確かめてみようかと話してたんですが・・。」
一樹のその言葉に、山崎は目を見張って一樹を見つめた。
「ええ?場所が?そりゃ朗報だ。何処なんだい?」
「閻魔堂ですよ。この前の山崎さんの話の中にも出て来た、信佐って人が亡くなった場所です。」そう一樹が答えると、山崎は思わず手を打った。
「ああ!成る程!そうか・・それで繋がったよ!」合点がいったように大きく頷くと、更に目を見開いて笑みをこぼした。
「繋がった、とは?」と、そんな山崎の様子に、源司は少し怪訝な面持ちで尋ねた。
そんな源司に、山崎は頷いて答えた。
「ええ、実はさっきまで、その話しを聞かせてくれた小早川さんと、あのスナックに居たんですよ。そこで、あの歌の文句を書き付けた便箋をみんなで見ていたんです。ある人から貰ったパズルだと言っ
てね。そしたら、小早川さんもそこのママさんも、この歌を知ってましてね。最初はみんな首を傾げてましたが、最後にそこのママさんが、これを読み解いたんです。」
そんな山崎の話に、みんな目を見張った。
「ふむ。どのように、であろうかの?」源司も興味津々な眼で問うた。
「それは、ですね。」山崎は真美が語った解釈を話した。
「まぁ・・。そんな恐ろしい歌だったなんて・・。」呟く咲子に、弥生はしがみついていた。
「そうか。その信佐が、おゆうって子の草履を持って追い掛けて行ったんだ。でもなんで草履を持って・・?裸足で逃げたからだろうけどさ・・。」
そんな一樹の問いに、源司はその場面を思い巡らせるように目を細めて答えた。。
「そうよなぁ。女衒というても、気は使ったのであろうかのう。いくら生業とは言うても、小さな女の子が裸足で必死に逃げていくのを見れば、やはり良心も痛み、憐れにも思うたのでは無かろうか。」
「因果な商売だったんだね・・。その・・女衒って・・。」咲子が小さく呟いた。
当時の、そのどうしようも無い貧しい暮らしぶりを一樹は思い描こうとしたが、それすら漠然としたものでしか無かった。
その話を聞いた皆も、それぞれがその風景を思い、口をつぐんだ。
「そしてですね、そのおゆうって子の情報がもう一つあるんですがね。その子は驚くことに、この岩根区の出らしいんですよ。」そう山崎は皆に告げた。
その突然知らされた言葉に、皆驚いて山崎を見た。
「ええ?この区の出ですって?」咲子が叫ぶように聞いた。
「山崎さん、それは確かな情報なのかの?」源司も驚いていた。
「確かかと言われると・・それは何とも・・。その小早川さんが持って来た情報ですからねぇ。誰からの情報なのか、詳しくは聞けなかったもんですから。あ、ちょっとメールで聞いてみます。と、一樹
君、これどうやるんだっけ?」山崎は携帯電話を取りだして、一樹に見せた。二人はそれをいじっていた。
「この区って言っても、十軒くらいしか無いわよ。ねぇ、源爺。」咲子が源司に身を乗り出して聞いた。
「そうよなぁ。そんなもんだのぅ。そして四、五代前か・・。そうじゃ、それでは位牌が残っておるやも知れぬな。」そう咲子に答えた。
「源爺のとこじゃ無いの?」咲子がそう源司に尋ねた。
「いや、うちには無い。覚えておる。そう言う咲子の所には無いのか?」そう源司が聞くと、咲子は首を捻った。
「さぁ・・。全然知らない。お母さんが亡くなった時にお仏壇の掃除はしたけど、そんな位牌の名前まで見て無いもの。」
源司は携帯電話をいじっている二人に混じって、あれこれ言っている弥生を見た。そして咲子に向き直ると、
「咲子、見て来てみよ・・。」とじっと咲子を見つめて言った。
「え?・・。」と咲子は声を漏らした。他の三人もそれを聞いて源司を見た。そしてその意味を瞬時に察した。弥生の顔に、また怯えが生じた。
「え?今?それって・・ねぇ・・。」咲子はみんなを見回した。
「何言うておるのだ。自分の家の仏壇を見て来るだけじゃろうに。」そんな源司の言葉にも、咲子はやはり二の足を踏んだ。
「そんなこと言ったって・・。」と、咲子は顔を曇らせた。そんな咲子の困り顔を見て、山崎は声を掛けた。
「それなら俺も一緒に行こう。隣とはいえこんな時だ。一人じゃ不安だろうからな。」そう言って山崎は咲子に微笑んだ。
「ああ、そうしてもらえるなら、心強いわ。分かった。源爺、とにかく位牌を見て来れば良いのね?」咲子は立ち上がり、念を押した。
「そうじゃ。じゃが昔の位牌じゃぞ?そんなに立派な物では無い筈じゃからな。」
「ええ?どんなの?」咲子にはさっぱり見当が付かなかった。隣に立っていた山崎も首を傾げた。
「分からぬか・・。どれ、ではわしも行くか。」源司が立ち上がると、一樹は源司に声を掛けた。
「源爺、それならみんなで行こうよ。さっきも慎重にって言ってたんだからさ。」
弥生が不安そうな顔で源司を見つめていた。そして源司もその視線に気づいた。
「うん?ああ・・そうよなぁ。それでは皆で行くか。」
雨が降りしきる中、五人は隣の咲子の家に行った。咲子は鍵を開けて灯りを点けると、みんなを奥の仏壇の在る仏間に連れて行った。そして仏壇の戸を開け、皆に見せた。
「ほら源爺、三つしか位牌は無いよ?」咲子は源司に振り向いた。
「うむ。しかしその位牌では無い。もっと奥の方に、小さな木箱は無いか?」
「小さな木箱?んーとね・・。」咲子は腰を屈めて奥を手探りした。そして、カタッ・・と鳴る音がしたかと思うと、咲子がキャッと叫んで手を引っ込めた。
「どうした、咲子?」源司はそんな咲子の仕草に、少し驚いた。
「だって・・。あれが急に・・。」咲子が指さす所には、古い黒塗りの木箱が横倒しに倒れていた。それは源司が探そうとしていた木箱だった。
「おお、それじゃ。その中を見てみよ。」源司は咲子にそう促した。
「嫌だ・・。だって勝手に出て来たんだもの・・。源爺が見てよ・・。」咲子は不安げな目を源司に向けた。
「勝手に?まぁ良いわ。ではわしが見てみよう。どれ。」源司は煙草入れほどの木箱を手に取ると、その蓋を開けた。その中には、短冊になった木札が何枚か入っていた。源司はその札を畳の上に並べて
行った。何枚かを並べた時、弥生が、
「あ・・。」と小さく声を上げた。そこには、薄い墨の字ではあるが、「おゆう」と書かれた札があった。弥生は一樹にしがみついた。
「やはりな・・。わしの勘が当たってしもうたの・・。」源司はその札を取るとじっと見つめ、皆に示した。亡くなった年号は天保五年師走とだけある。何年前だかは分からないが、真冬の事だけは分か
る。おゆうについて聞いた話も、やはり真冬の話しだった。
源司は出した札を元の木箱に戻すと、そっと仏壇に置いた。そして線香に火を点け、深く拝んだ。
「さ・・。帰ろう・・。」源司が仏間を出ると、皆それに続いた。山崎が最後に灯りを消してその部屋を出た。その間、誰も声を発っする者は無かった。
「まさかうちのご先祖様だったなんて・・。」源司の家に上がるなり、咲子はへたり込んだ。
「そうよなぁ・・。そしてそのご先祖様は、その歳のままであの山を守り、無くなった草履を探しておるのだ。」源司も何かしら放心している様だった。
「えっ・・、えっ・・。」と弥生の泣き声が聞こえた。
「どうしたんだよ、弥生。なに泣いてんだよ?」一樹が弥生を覗き込んで、心配そうに聞いた。
「だって・・。だって裸足で寒くて・・可哀想なんだもの・・。」
「そうだよな。よっぽど大切な草履だったのかもな・・。」山崎もしみじみと言った。
「うむ・・そうよな。早う探してやらねば、裸足では冷たかろうでな・・。では、もうみんな寝よう。明日その草履を、見つけねばならんでな。」
そう言う源司の言葉に皆頷き、それぞれの思いを胸に就寝した。その屋根には雨の音が、静かに、けれども絶え間無く聞こえていた。
翌朝五時。まだ薄暗い中、やはりまだ雨は降り続いていた。そして台所では咲子と弥生が、コトコトとまな板の音を立てていた。源司と一樹と山崎は囲炉裏の周りにあぐらを掻いて、静かに出汁の番をし
ていた。そしてたまに爆ぜる炭の音が、朝の静寂にパチパチと響いていた。
「これを食ったら、行きますか・・。」山崎が炭を掻き混ぜながら呟いた。
「ええ・・。」と一樹が答えた。源司は黙って鍋を見ていた。
そして咲子がまな板ごと具材を持って来て、鍋に入れた。
「さぁ、これが煮えたら、食べられるからね。」咲子が言うと、弥生がご飯の櫃と食器を持って来て脇に置いた。最後に咲子が溶き入れる味噌を持って来て座に着いた。
「うむ・・。」と源司は頷き、みんなを見回した。
「聞いて欲しいのじゃが・・。我らはどうやら、不可思議な川の流れの渦に巻き込まれ、その世界に放り込まれた・・そんな気がする。もう自らの意志では動かれんような、そんな事態ではあるからの。
よってその流れに身を任すしか他に手立ては無いのであろうが、ただ、これだけは言える。
自らの安全は自らで守るしか無いのじゃろうが、互いに手を強く繋ぐことで、それをより強固な守りとする事は出来よう。じゃから決して独りでは行動せぬことを、戒めとして心に刻んで欲しい。
この一連の出来事に邪気や不吉は感じぬが、ただ、普通では無い。じゃからこそ思いを強うして、みんなしてこれを終わらせよう。」そう言う源司の言葉に、みんな深く頷いて源司を見つめた。
「さぁもう煮えたでしょう。」暫しの沈黙の後、咲子はそう言うと鍋の蓋を開けて味噌を溶き入れた。
皆にご飯と味噌汁が配られ、それをみんなは無言で食べた。そして食べ終えた食器を、咲子と弥生は片付けて洗おうとした。しかしそれを見た源司は二人に声を掛けた。
「それは洗わんでもよい。帰ってから洗えばよいのじゃ・・。」と。
二人はそう言われて源司に振り向いた。そして二人は源司の眼差しからその意を汲み手を止めると、互いに頷いた。
降りしきる雨の中、五人は皆、雨合羽を着て家を後にした。向かう閻魔堂までは、源司の家から歩いて二十分ほどの距離だった。けれども朝早くとはいえ、強い雨に煙る中、会う人は一人も無かった。
そして元製糸工場跡から濡れた木々が垂れ下がる細い山道を上がると、鬱蒼と茂った草木の合間に、古い閻魔堂の屋根が見えてきた。
小高い山の中腹に建てられたその閻魔堂は、山を背にして鬱蒼とした木々や草に囲まれてひっそりと佇んでいた。嘗てはその閻魔堂にお参りする村人の姿も多数あった。しかし今では、其処はこの辺りで
は忌むべき場所となってしまっていた。
そんな村人たちからその閻魔堂が打ち捨てられた理由とは、やはり祟りを受けた者が息絶えた場所と言う事の言い伝えであろう。恐ろしい因縁を伝えるその言い伝えから、徐々に人々の足は遠のき、そし
ていつしか誰も其処には寄り付かなくなった。そして今では、その閻魔堂と言う厳かな名とは裏腹に、そのお堂は腐った廃屋となってしまっていた。
五人は山道を登り切り、その生い茂る草に囲まれた閻魔堂の前に立った。そして皆口を固く結んで、暫しその廃屋を見つめた。
強い雨に、閻魔堂の壊れた樋からは雨水が激しく流れ落ちていた。そしてその流れ落ちる雨水の音だけが、皆の刻をそれぞれに刻んでいた。
そんな中、沈黙を破って先ず山崎が口を開いた。
「じゃ、俺が先ずあの扉を開けてきますよ。」山崎は静かにそう言うと、閉じられた扉を見据えて、その足を一歩踏み出した。が、その足はすぐに止まった。
見れば扉へと上がる階段の脇から突然何処から湧き出したか無数の蛇がうねうねとその階段を這い上がり、扉の前でとぐろを巻いていたからだ。そしてその中には毒を持った蝮や、ヤマカガシもいた。
それを目の当たりにした弥生は、「キャアッ!」と悲鳴を上げ、咲子にしがみついた。そして皆も、その光景に息を呑んだ。
「源司さん・・。これは・・。」山崎は振り向き、源司を見た。
「うむ・・。守っておるのか・・。いや、守らされておるのか・・。どちらにしても、未だ信佐の魂はおゆうへの執着を抱いておると言う事か・・。」凄まじいまでの怨念と執着が、蛇の姿を借りて渦を
巻いている様だった。
「これじゃ、中には・・。」一樹もその光景を睨み据えたままで、動きが取れなかった。
するといつ咲子の腕から離れたのか、弥生がするすると山崎の前に立ったかと思うと、そのまま扉に向かって歩き出していた。
「や、弥生っ!」と一樹が呼び止めようとしたが、弥生は構わず階段の元まで進み、足を止めた。そして雨合羽のフードを頭から外すと、黒髪を外に跳ね上げた。
「弥生っ!」と叫ぶ一樹の叫びに、弥生は振り向いた。しかしその眼は、異様に真っ赤に光っていた。
「や・・。」と、一歩踏み出した一樹の肩を源司は掴んだ。
「待て、一樹・・。あれは今、弥生では無い・・。」
長い黒髪に滴を垂らし、赤く光る眼でじっと見つめるその姿は、もはやこの世の者では無かった。真っ白な顔に、赤い目と朱い唇・・。それは勝田が語った、日本人形の姿そのままだった。
そしてその者は四人をじっと睨み据えた後、くるっと背を向けた。そして閻魔堂に向かい、大きく叫んだ。
「開けよっ!」その声は弥生の声ではあったが、まるで地の底から響く様な振動を伴っていた。
「開けぬかあっ!」と、再度その者が大きく叫んだ瞬間、目にする全ての植物は、皆その葉先をピンと逆立てた。そして閻魔堂から、バキッと裂ける音が鳴り響いた。そしてそのままバキバキと木が裂け
る音がしたかと思うと、いきなり閻魔堂の扉が左右にバンッと激しく吹き飛び、閻魔堂の中が露わになった。
その者は其処に眼をやると、ゆっくりと階段を一歩上がった。すると群れていた蛇たちも、その気迫と足音に恐れを成したかの様に、扉の前から何処かへと立ち去った。そしてその者はそのまま、閻魔堂
の暗い中へと入って行った。
弥生が闇に消えたのを見て、一樹は矢も楯もたまらずその後を追おうとしたが、それが出来なかった。何故と言うに、その足には草がグルグルと絡み付き、地面から足を上げる事さへ出来なくなっていた
からだ。他の三人も同様に、草に動きを封じ込まれていた。力を入れ、その草の根ごと手で引き抜こうとすると、今度はその手に他の草が絡み付いてくる。
閻魔堂から激しく木の裂ける音が続く中、四人は雨と汗にまみれて、絡み付く草と懸命に闘いつつ閻魔堂を睨んでいた。
しかし暫くすると、その者は扉の前にゆっくりと戻って来た。それからそのまま皆を見つめて、暫し佇んだ。
そしてその右手には、しっかりと草履が掴まれていた。もう色も褪せた、埃だらけの古い草履が・・。
四人がその姿に呆然と見入っていると、その者はいきなり階段を飛び降り、凄まじい速さで駈けだした。そして皆の横を風のようにすり抜けると、先ほど来た道を、また恐ろしい早さで駆け下って行っ
た。
残された四人は咄嗟に、その後ろ姿を目で追った。一樹は直ぐに追おうとしたが、絡みついた草に足を取られ、横倒しに倒れた。
「やよいぃーっ!」と声を限りに叫んでみても、絡んだ草はその縛りを未だ解かず、また弥生も止まらなかった。
そしてその者が坂道に姿を消した瞬間、俄にバリバリッと何かが裂けるような軋んだ音が辺りに響いた。
皆が其処に振り向くと、その閻魔堂はその屋根から二つに割れて、そして大きな音を残して崩れ落ちた。その途端、地面に体を縛り付けていた草もその力を失い、急にしな垂れた。その草の力が無くなっ
た事を感じた一樹は、絡み付いていた草から足を引き抜いた。
「解けた!よしっ!」一樹はもう片方の足にも絡み付いていた草を思い切り引き千切ると、その者の後を一目散に追い掛けて行った。そして山崎もまた、その後に続いた。
「源爺っ!大丈夫っ?」咲子が源司を起こそうとして叫んだ。二人ともずぶ濡れだった。
「大丈夫じゃ!それよりわしに構うなっ!早う行け!行き先は、あの山の頂上じゃ!」その源司の叫びに、
「うんっ!」と咲子も叫び、その後を追った。
源司は尚降り止まぬ雨の中、崩れた閻魔堂を見た。二つに折れたその屋根は、一つの魂の崩壊とも見えた。
(無惨な・・。)とも思いつつ、源司も身を起こすと、皆を追って坂を走って行った。
(くっ・・。なんて速さだ・・。)雨に煙る畦道を懸命に走りながら、一樹は驚いていた。
(あんなに速く、弥生が走れる訳が無い。確かにあれは弥生・・。でもあれはやっぱり、弥生じゃ無い!)前方にうっすらと揺れる黒髪を追って、一樹は走っていた。その向こうには、尚薄く、白蛇山が
聳えていた。
畦道を走り、やがて山の祠への道に出た。そしてそのまま山を一目散に登り、祠に着いた所で一樹は立ち止まり息を切らした。其処からは道は無い。切れる息で辺りを見回した。だが其処には、鬱蒼とし
た草むらがあるばかりだった。
そう一樹が困惑しているところへ、山崎が追い付いた。山崎も荒く息を切らして山を睨んでいた。が、ふいに叫んだ。
「一樹君!あっちだっ!」山崎の指差す方に、弥生の雨合羽のフードが木に引っ掛かっていた。
それから二人は草を掻き分けて山を登っていった。しかし方向など、分かるはずも無い。とにかく上へと登るしか無かった。目の前を塞ぐ雨と草を掻き分けながらその藪の中を手探り足探りで進んで行く
と、やがて左手に、空が空いて見える場所が見えた。そして其処へとがむしゃらに進んで行こうとする山崎の背を見て、一樹は直感で叫んだ。
「山崎さんっ!危ないっ!」
一樹は必死に歩を早めて山崎の雨合羽を掴むと、右手へと強く引っ張り、二人して草むらへと飛び退いた。
「ど、どうしたんだよ!一樹君!」山崎はいきなりの出来事に驚き、一樹に叫んだ。一樹は息を切らしながら答えた。
「はぁ・・はぁ・・。あ、あそこは・・。」そう言いかけて一樹がさっきまで山崎が居た場所を見た途端、その場所はザッと崩れ落ちた。もしそのまま其処に居たら、山崎の姿は消えていただろう。山崎
は驚いた表情のまま、一樹を見た。
「あそこは・・多分・・両親と源爺が落ちた場所ですよ・・。」一樹も荒い息を呑んだまま、其の場所をじっと見ていた。
「危なかった・・。」山崎は青い顔で低く呟いた。
「ええ・・。もう少し、右寄りを進みましょう・・。」
そして二人は草むらを右に進み、上を目指した。
それからどれ程登ったのか・・。疲れと雨と汗とで、二人はもう限界状態だった。草と小枝は彼らの顔に擦り傷を残したが、彼らはそれを感じなかった。そしてまだまだ途方も無く続く草の迷路は雨に煙
り、更に彼らの思考能力を奪っていった。
そんな時、前を進む山崎の目に大きな岩が映った。山崎は後ろから這い上がって来る一樹に叫んだ。
「一樹君!あの岩の上に登ろう!そうすれば、自分たちの位置も分かる!」そう言われて一樹もその岩を見た。そして山崎に頷いて見せた。
先に岩に辿り着いた山崎は、一樹の手を取りその岩の上に引っ張り上げた。暫くは二人してその上で休み、息を整えた。
「ハァ・・。今どのくらい登ったんだ?どれ・・。」山崎は立ち上がり、手を翳して山の頂上を見た。降り続く雨に煙ってはいたが、それほど遠くはないと感じた。けれどもはたと思いつき、一樹に聞い
た。
「だけど、弥生ちゃんは本当に彼所まで登って行ったのかな?こんなにきつい傾斜を・・。」そんな山崎の言葉に、一樹は答えた。
「今の弥生は、弥生じゃ無いから・・。それに、源爺が見たと言った大木と池の所に、何かあるような気がする・・。」
「そうか。なら、行って見るしか無いわな。方向はあっちだ。じゃ、行くとするか。」そう言う山崎の声に一樹も立ち上がり、二人で雨に煙る頂上を見据えた。
けれども二人が一緒に一歩踏み出したその時、足元の岩がグラッ・・と揺れた。
(あ・・。)と思う間も無く、二人の体は空中へと放り出され、足からいきなり重力が消えた。そして一樹は自分の足元から大岩が落ちていくのを、まるでコマ送りの様に眺めていた。
全てが止まり、すぐ近くにいる山崎の体も宙に浮いているかの様に見えた。意識はあったが、何も考えられなかった。
しかし、(墜ちる・・。)と意識した次の瞬間、一樹は正に墜ちていった。けれどもその刹那、何かに抱きかかえられた感触があった。そして、キーン・・と鳴るかん高い音に包まれたように感じた途
端、意識を失った。
一樹は夢の様な映像の中、高い木の上から下を見ていた。自分の体は感じないけれども周りの音が聞こえ、そして視点だけは何故か自由に変えられた。
ふと下の方から、ガサガサと音が聞こえた。その音にそちらを見ると、二人の人が何かを探しながら山を登ってきている。
一樹の眼はまるで映画のカメラワークの様に、その二人に近づいた。
(え?あれは父さんと母さんだ。なんで此処に・・。それに・・。うん?何か話してる声が聞こえる・・。)怪訝で複雑な思いの中、それでも一樹はその映像に見入り、そしてその声に聞き入った。
「あー、疲れたなぁ。欲をかいて、此処まで来ちまったかぁ。」一樹の父は腰に手を当て、伸びをしていた。
「お父さん、もう降りましょうよ。ほら、もうこんなに茸も採れたことだし。それに此処は禁区なんだから。」母はそれを見ながら、心配顔で言った。
「ああ、分かってる。でも茸くらいじゃ、山の神様もそうは怒るまいよ。でもまぁ、それもそうだな。一休みしたら帰るとするか。
お、あそこに見晴らしの良い場所がある。あそこで一休みしたら、もう帰ろう。」
細かな草が密生した場所に、暖かな陽射しが輝いていた。ポッカリと空が見える其の場所に、一樹は見覚えがあった。
(あ、あそこは・・。)
二人は其の場所に行くと、手頃な石を見つけて腰を降ろした。そして水筒を取りだしてお茶を飲み始めた。
(駄目だ!父さん!母さん!其処は、其処はっ!)一樹は心の中で叫んだ。
一吹きの風が、ザザザッと葉擦れの音を響かせた。二人は驚いた様に上を見上げた。そしてその途端二人の姿は、ストン・・と其処から姿を消した。
(父さん!母さん!)咄嗟に一樹の眼は、崖のすぐ近くに立つ木の上に移動した。すると大量の土砂と共に墜ちていく、父と母の姿が見えた。
けれども次の瞬間、山から白い腕のようなものが二本長く伸びて行くのが見えた。そしてそれは二人を掴もうとするかのように、後を追いつつ伸びていった。が、土砂に阻まれて掴み取る事が出来ない。
そしてついに二人の体は、岩場に叩き付けられた。それからその上から土砂が覆い被さり、二人の姿は見えなくなった。
(か・・。)一樹は母の名を叫ぶことも出来なかった。大きな悲しみが自分を強く締め付け、その眼を見開くばかりで、声も音も吹き飛んでしまった。
虚ろに其処を見つめていると、やがてその白い腕は両親を泥の中から抱き上げて、平らな場所にそっと置いた。その腕も放心しているかの様に二人を撫でていたが、やがてスルスルと静かに山へと戻って
行った。
一樹はふと我に返り、その眼を山に向けた。
(そんな・・。山が・・。)眼を頂上に向けたところで、ふぅ・・とまた意識が遠のいた。
(う・・うん・・。)一樹は染み通って来る寒さで気が付いた。そしてうっすらと目を開けると、降りしきる雨が池の水面に波紋を踊らせているのが見えた。
暫しぼんやりとその池を見つめ、さっきまでの出来事に思いを巡らせていた一樹だったが、そんな薄ぼんやりとした思いを振り切るように頭を振った。そしてふと、自分の所には雨は落ちて来ないことを
不思議に感じ、何となく上を見上げてその光景を見た。その途端、一樹ははっきりと目が醒めた。何故なら其処には、これまで見たことがない豊かな葉が、まるで屋根の様に茂っていたからだ。
「これは・・。」座ったままその枝と葉を仰いだ。そして眼を戻すと、辺りを見回した。それから自分の背後に振り返った。それを見て、思わず後退りした。其処には、途轍もない大樹がそそり立ってい
たからだ。それまで一樹は、その幹にもたれ掛かっていたのだった。
そんな驚きの最中、はっと思い出した。
(なんで俺は此処に・・?)そう思い、そして、
「そうだ!弥生!山崎さん!」一樹は立ち上がると、大声で二人の名を叫んだ。
「やよいーっ!山崎さーん!」暫く耳を澄ませたが返事は無かった。静寂の中、池に降りそそぐ強い雨音だけが続いていた。そんな状況に、不安と焦燥が渦を巻いた。
(何処にいるんだよ・・。まさか此処にいるのは俺だけか?それじゃ・・それじゃ駄目だ!)祈りながら一樹は辺りを探した。そして遮二無二、その樹を回り込んだ。するとすぐ近くに、俯せに山崎が倒
れていた。
「山崎さんっ!山崎さんっ!」背を揺すり呼び掛けると、山崎は気が付いた。
「う・・。ここは・・?」山崎は目を開き一樹を見上げた。
「良かった!大丈夫なんですね?でも、ちょっと待ってて下さい!」そう山崎に呼びかけると、一樹は急いで、また木の根を廻った。
すると丁度一樹が倒れていた反対側に、弥生も樹にもたれ掛かり倒れていた。
「弥生っ!」見つけたことは衝撃的に嬉しかったけれども、その状態は分からなかった。
「弥生っ!弥生っ!」弥生の肩を揺すり、頬を軽く打ったりして、弥生に呼び掛けた。
「う・・うう・・ん・・。」弥生は細く目を開けた。その瞬間、一樹がどれだけ嬉しかったことか!
「弥生!弥生!大丈夫か?」一樹は懸命に弥生に呼びかけた。
「かず・・き・・。一樹っ!うわーっ!」正気を取り戻して一樹の顔を目にした弥生は、目を大きく開けると一樹に抱きついた。
「大丈夫!もう、大丈夫だから。」一樹は優しく弥生の背を撫でた。だが弥生は泣き続けていた。一樹もまたその嬉しさから涙を流し、そして弥生を強く抱きしめた。そこへ山崎もやって来た。
「弥生ちゃん・・。一樹君・・。ああ、良かった・・。」山崎はヨロヨロと樹に手を付いて、一樹にほっとしたように微笑んだ。
そして暫しの間は、お互いの無事を喜んだ。けれどもその場所はとても寒くて、とてもこのままいられる所ではなかった。
「山崎さん、このままじゃ寒くてどうしようも無い。早く降りましょう。」一樹がそう促した。
「そうだな。体が冷え切っちまってる。」
「弥生・・。もう此処から降りよう。咲ちゃんと源爺も心配してる・・。」一樹は弥生の肩を抱いて、そして覗き込んで優しく言った。
「うん・・。」と、弥生も一樹を見つめて小さく頷いた。
「よし。じゃあ行こう。」一樹は弥生の手を取って立たせた。そして手を引いて歩こうとすると、
「あ・・。ちょっと待って、一樹。」と弥生が呼び止めた。
「これ・・。」弥生が指差す処を、一樹と山崎は見た。弥生が倒れていた場所に、古い草履が揃えて置いてあった。そしてその上の幹が異様に膨れていた。
「此処に・・おゆうちゃんが眠っているの・・。」
「え・・?」意外な弥生の言葉に、二人はそこを改めて見た。
まるで妊婦の腹のように膨らんだその幹は、左右から張り出した樹皮が、真ん中で合わさっていた。良く見ると、その合わせ目の上部からは髪の毛らしき毛が少し出ており、下部からは古い織った紐が垂
れていた。それを見た二人は、心なし後退った。
寒い冬の夜、おゆうは此処で亡くなったのだ。そしてこの樹は、その亡骸を自らの内に包み込んだ。けれども身も心も一心同体となったその姿は、悲しくも暖かな思いに満たされているようにも見えた。
一吹きの風が茂る葉をざわめかせ、大粒の水滴がパラパラと降り掛かった。一樹と山崎は、見つめる樹の内に宿る者の心音を、間近に聞いた気がした。
「あのね、さっき見た夢の中で・・。」弥生がなにか話そうとするのを、一樹は押し止めた。
「弥生、それは戻ってから話そうよ。おゆうちゃんが探していた草履はもう其処にあるし、それに俺達に伝えたかった事も、この山から伝えられた気がする。でも今は、とにかく此処から下りなくちゃ。
日暮れまでに下りないと、戻れなくなってしまうから。」一樹がそう諭すと、
「うん・・。」と弥生は素直に頷いた。
三人はおゆうの眠って居る場所に手を合わせて深く拝んだ後、山を下り始めた。けれども雨に濡れた斜面は滑りやすく、危険を伴った。山崎が最初に下り、弥生を挟んで一樹が弥生の手を取り、少しづつ
進んだ。
そして弥生も木の枝に掴まり必死に下りている時、下から咲子の声が小さく聞こえた。
「やよいー・・やよいー・・。」その声は細く震えながら、雨の中に響いていた。
「あ、お母さんの声だ!おかあさーんっ!おかあさーんっ! ここにいるよーっ!今行くからねー!」そう弥生が叫ぶと、暫くの沈黙の後、咲子の声が切なく大きく響いた。
「やよいーっ!今何処に居るのー!」
「咲ちゃーんっ!今行くから、動くんじゃ無いよー!左は駄目だぁー!右に寄るんだー!」一樹も叫んだ。
声のする方に、三人は慎重に、しかし急いで下りて行った。そしてついに木の隙間に咲子の顔が見えた。その涙と雨でぐっしょり濡れた顔は泣き崩れていた。そしてついに、咲子の元へと辿り着いた。
「弥生・・。弥生!」「お母さん!」お互いにその体を確かめる様に、弥生と咲子はしっかりと抱き合った。その姿を見た一樹と山崎も、お互いに頷き会った。
「さあ、早く降りよう。もうすぐ日が暮れそうだ。」そう山崎が促した。
そして四人が山を下っていくその途中、麓の方から源司の声が聞こえた。
「おーい!みんな無事かーっ!」その声に、一樹は応えた。
「あ、源爺だ。源爺ー!みんな無事だよー!祠のとこで待っててーっ!」そう一樹が叫ぶと、「分かったーっ!」と返事があった。
山の祠で、やっと五人は合流した。源司は「良かった・・。」と唇を噛み締めて呟き、皆の顔を見回した。
薄暗く雨に煙る畦道を、五人は家へと歩いて行った。そして源司の家に着く頃には、すでに陽が落ちていた。雨合羽を脱いで、皆板間に座り込んだ。
「先ずは風呂を沸かそう。体を温めねばな。冷え切ってしまっておる。」源司は一樹を見てそう促した。そしてその言葉に、一樹は直ぐに反応した。
「ああ、分かった。じゃあ俺は、咲ちゃんちの風呂を沸かして来るよ。別れて入った方が早いから。」そう一樹が言うと、
「うん分かった。それじゃ俺は、こっちの風呂を沸かすよ。」と山崎も腰を上げた。
「うむ。わしは囲炉裏に火を入れる。咲子、弥生、手伝うてくれ。」
「はい。おじやでも作りましょう。お腹も空いてるだろうから。」咲子がそう言うと、弥生も深く頷いた。
そうしてそれぞれが動く中、風呂が沸いた。
「あー、暖かい。生き返るようだわねぇ。」咲子は弥生と一緒に風呂に浸かりながら、ほっと息を吐いた。
「ほんとに・・どうなるかと思った・・。」咲子は弥生に微笑んだ。しかし弥生は何故か悲しそうに俯いていた。
「どうしたの?弥生・・。」
「うん・・。おゆうちゃんも一緒に入れたら良いのにと思って・・。だって・・寒いまま死んじゃったんだもの・・。」弥生はおゆうを思って泣いていた。
「そうだね・・。でも、その弥生の思いは、きっとおゆうちゃんにも伝わってるよ・・。」咲子は優しく弥生を抱き締めた。
源司の家では、男三人で窮屈そうに湯船に浸かっていた。
「少々窮屈じゃが、これで良かろう。」
「ええ。温まるだけですしね。とにかく芯まで冷えちまったから。しかし・・よく無事で帰れたもんだ・・。」山崎がしみじみと言った。
「はい・・。山崎さんはその時・・夢を見ました?」
「ああ・・。まぁね。不思議な夢と、そして山だよ・・。」
「さてと。わしはもう出る。その話しも聞きたいが、今は・・途轍もなく疲れた・・。」源司が出ると、続いて二人も風呂から上がった。
それからはそれぞれに疲れ切った体で布団を敷いたり料理を作ったりと動いた。そしてその疲れからか、誰も黙ったまま立ち動いていた。それは未だに緊張が続いていたからだろうか。それともそれぞれ
がその経験を噛み締めていたからだろうか。けれどもやがて、皆はそれぞれに安堵の溜息を吐いた。
囲炉裏を囲んで、皆で咲子と弥生が作ったおじやを食べた。そして体の内側から温まることで、まだ少し残っていた緊張もじんわりと解けていった。
そして食べ終えた後、源司がみんなを見回して、口を開いた。
「今日はいろいろあり過ぎて、わしはもうヘトヘトじゃ・・。こうして皆と飯を食うておるのも、なにやらフワフワと夢の様に感じる・・。あの雨の中、皆の後を追いながらわしは・・。」源司は涙を堪
えきれなかった。そんな源司の肩を、一樹は優しく抱いた。
「源爺・・。もう寝よう・・。こうしてみんな無事に戻れたことだし。それに・・疲れちゃったもんな・・。」そう言う一樹もまた、目を潤ませていた。そしてそれを聞いていた山崎も、目を伏せて涙ぐ
んでいた。咲子と弥生は、お互いの体を確かめ合うように抱き締め合いながら泣いていた。
そして皆がそれぞれの寝所に入ったのを確かめてから、山崎は囲炉裏の火を片付けると、自分の布団に入った。
雨はまだ強く降り続いていた。その落ちてくる一粒一粒の水滴はやがて合わさり、一つの流れとなって川へと落ちて行くのだろうか。そんな行き先の見えない流れは、これから何処に向かうのか。五人は
それを感じながら、深い眠りの中へと入って行った。
翌朝、源司が起きたのはもう十時を回っていた。囲炉裏のある板間の障子を開けると、もうすでに火が熾され、台所では咲子と弥生が立ち回っていた。
「おう、早いな。」と声を掛けると、
「あら、お早う源爺。早くも無いけど、お腹空いたでしょ?」と咲子は振り向いて微笑んだ。
「ああ。しかし良く早く起きられたのう。体が痛くは無いのか?わしは起き上がるのがやっとであったわ。」源司はそう言いながら、ゆっくりと囲炉裏端に腰を降ろした。
「そうなのよ。私なんかもう、歩くのがやっとって感じで。でもね、弥生は平気なんだってさ。どっこも痛く無いって。」台所でそう言うと、弥生に目を向けた。
「ほーお。やはり若さかのう。」源司は目を丸くして弥生に尋ねた。
「ううん。そうじゃないの。おゆうちゃんがゆうべ、夢の中で治してくれたの。」と弥生は源司を見て明るく答えた。
「んん?夢の中で?」源司が首を傾げているところに、一樹と山崎も起きてきた。源司が振り返ると、山崎はヨタヨタと歩き、今にも倒れそうな有様だった。
「おー、痛・・。こりゃ駄目だわ・・。」山崎は柱や壁に手を添えつつ足を運んでいた。
「うー・・。体が自分じゃ無いみたいだ・・。」そして一樹もそう唸りながら後から出てくると、足が思うように上げられないようだった。そんな二人は板間に下りる段差にも苦労して、やっと腰を降ろ
した。
「全身筋肉痛ってんですかね。これじゃまともに動けませんわ。」山崎は苦笑いしていた。
「まぁのう。あの山に急いで登ったのじゃから、無理も無い。わしとてこの歳で筋肉痛になったわ。久々の痛さではあるがな。では今日は皆してゆっくりと休むか。」そう二人に笑いかけた時、
「それがね、源爺。」と、咲子は膳を運びながら源司に声を掛けた。
「弥生が、今日買い物に行こうって言うのよ。何でも、おゆうちゃんに着物と草履をプレゼントしたいからって。」
「おゆうちゃんに?それはまぁ、良い供養にもなるがのう。」源司がそう答えたところに一樹が、
「それならみんなで出掛けようよ。俺もさっき山崎さんと話してて、パソコンが買いたいからさ。」と、そんな話しに乗り気を見せた。
「パソコンを?それはまたどうして?」源司にとっては、名前は聞くが未だ見た事が無い機械だった。
「ええ。あの山で起きた事件の事も、すでに世界中に発信されてるようです。そしてそれに伴って、これからの動きも変わってくるでしょうしね。」そう山崎が言うと、
「ふーむ・・。世界中に・・。よう分からんがのう・・。」と源司はまた首を傾げていた。
「良いよ。とにかく百聞は一見にしかずって言うじゃないよ。やってみりゃ分かる。飯食ったら、みんなで出掛けよう。」そう言う一樹の言葉に、皆頷いた。
呉服屋を訪ね、そして電気屋に行った。道中皆で冗談を言い合い、特に山崎は何か言っては弥生を笑わせていた。
不思議なのは、昨日の事を誰一人として話さなかった事だ。それは、それぞれがそれぞれの胸の内で、その事を消化しようとしていたのだろうか。源司はそれに気づいたが、口には出さないでいた。
新たな範疇がその心に創られる時、人は秘かにその容量を拡げる。源司はその事を知っていた。
夕方家に戻り、みんなで買って来た物を拡げて楽しんだ。
咲子と弥生は着物と草履を並べて見入っていた。一樹と山崎は、パソコンのセットに夢中だった。
源司は風呂の仕度を済ませた後、一人台所に立ち、鍋の下拵えをしていた。それに気づいた咲子が歩み寄った。
「ごめんね、源爺。後は私がやるから。」そう申し訳なさそうに聞く咲子に、
「ん?ああ、構わんのだ。わしも久々に料理を楽しんでおる。今夜はけんちん饂飩が食いとうてな。暫し待っておれ。」と源司は笑って答えた。
「そう?分かった。じゃ、楽しみにしてるね。」そう言って微笑むと、咲子はまた弥生の所に戻っていった。
源司は心の底から、しみじみと幸せを感じていた。
(何だか・・昔に戻ったようじゃ・・。)
笑い声が聞こえる家。その暖かい空気を、胸一杯に吸い込んでいた。
(あのお山が、導いて下さる・・。)そう源司は感じて、山への思いを強くした。
鍋を囲炉裏に吊して、源司はみんなに言った。
「わしは先に風呂に入る。皆順次入れ。そして、みんなで飯を食おう。」源司がそう言うと、皆笑って頷いた。
囲炉裏端。それぞれ酒を満たした器を持ち、乾杯の時を待っていた。
「さてそれでは、皆の無事を祝うとするか。その後で皆の話をゆっくりと聞きたいものじゃ。事の後では危険は伴わんでな。では、乾杯。」
「カンパーイ!」
源司が作ったけんちん饂飩をすすりながら酒を呑み、お互いの無事を改めて祝った。そんな中、一樹が最初に口を開いた。
「源爺、俺も源爺とおんなじ体験をして、その意味というか、真実が分かったよ。おやじとおふくろが死んだ訳も、そして源爺が助かった訳もね。」
一樹は山での出来事を話し、そして夢の話しもした。咲子と弥生は、話しを聞きながら真っ青になっていた。源司もやはり眉間に皺を寄せて、真剣に聞き入っていた。
「そうか・・。では、もし助けられなければ・・。」
「うん。俺も山崎さんも、今此処にはいないだろうと思う。その時墜ちていった親父とおふくろみたいにね・・。でも今度は二人とも帰って来られた。あの樹のお陰だ。ねぇ、山崎さん。」
「ああ・・。そうだね。宙に浮いている時は、ああ、もう駄目だって思ったよ。そして同時に、死ぬ間際ってのはこんなもんだったかなって、思い出していた・・。」ずっと考え込んでいる様だった山崎
が答えた。
「うん?思い出したとは?」源司はその言葉を聞き返した。
「ええ・・。実は・・。」山崎は酒を一口呑むと、静かに語り出した。
「やっぱり俺も、一樹君と同じ様にキーンと鳴る音で意識を失いました。 そしてやはり、目が見えて音が聞こえる状態で、俺の場合は高速道路を見下ろせる木の上で、車の流れを見ていました。
其処は昔・・俺が事故を起こした場所でしてね。最初は、なんで此処に居るんだろうと不思議でした。
でもその疑問はすぐに解けた。向こうから白いワゴン車が走って来るのが見えたんです。それは、俺が運転していたワゴン車だったから。
そしてその車は、俺の眼の下で事故を起こした。思い出したというのは、その時の感覚です。あの時は何が何だか分からなかったけれども、その事故原因が良く分かりましたよ。俺の隣を走る車が、いき
なり俺の方にハンドルを切って、幅を寄せた。多分居眠りだろうと思いますけどね。
そこで俺は急ブレーキを掛けた。そしてハンドルも切ったらしく、俺の車はもんどり打って横転した。そこへ後ろから大型のトラックが俺のワゴン車の後部に突っ込んだ。木の上の俺は、あ!と思ったけ
ど、それ以上は胸が詰まって見てられなかった。その車には、俺の両親と、それに・・妻と幼い娘が乗ってましたから・・。思わず空を仰いだ・・。そしたらね、後ろの方から声がするんですよ。懐かし
い、娘の声がね・・。
「パパー、パパー、こっちだよー。ここにいるよー。」ってね。
俺が後ろを振り向くと、煙る雨の中に、確かに娘と妻と、そして両親が立っているのが見えた。俺の眼はその姿を追い掛けました。でも追っても追っても追いつけない。そしてついに、あの樹が見える所
に着いた。そしたらね、四人はあの樹の中に、笑いながらすぅっと消えて行ったんです。
一樹君が俺を起こしてくれたのは、丁度その時で、俺は樹を見上げて驚くと共に、涙が溢れました。
何だか何かが分かったような気持ちと、感謝の気持ちと、そしてこれまでずっとあった痼りが、ふっ・・と消えた様な気がしたんです。あんな気持ちになったのは初めてでした。
どうしてこんな事になっているのか・・俺には分からないけど、俺は今、とても感謝しています。」そう山崎は言葉を結んで、ふと目を伏せた。
「そうか・・。そんな悲しい過去をお持ちだったのじゃな・・。」源司はそう呟き、山崎を見つめた。
「まぁ・・。病院で家族の死を知らされた時は魂が抜けてしまった様で、自分も死んでしまおうかとも思い詰めましたが、周りからの援助で、まぁ何とか、こんな風に立ち直りましたけどね。」そう言っ
て山崎は微笑んだ。
「そんな・・悲しい事が・・。」咲子はその山崎の話に泣き崩れていた。
「その娘が生きていたら、弥生ちゃんと同い年でね。それもあって、自分の娘のような気がしてるんだよ。」山崎が弥生を見て言うと、
「山崎さん。その子って、幾つで亡くなったの?」と弥生が聞いた。意外な問い掛けに山崎は、
「幾つって・・。十五年前だから五歳だけど、それがどうしたんだい?」と弥生を見つめた。
「私、その子知ってる・・。名前はあけみって言う・・。」その弥生の言葉を聞いた瞬間、山崎の顔色が変わった。
「そうだ。名前はあけみ・・。でも、どうしてそれを弥生ちゃんが・・?」山崎の眼を見開いた気迫に、弥生は少したじろいだ。しかし気を取り直すと、思い出す様に山崎に言った。
「うん・・。それはね。ゆうべの夢の中と、樹の下で見てた夢の中で、私とおゆうちゃんとあけみちゃんで一緒に遊んだり、旅をしていたの。・・でも、それじゃ分からないだろうから、順を追って、ゆ
っくり話すね。」
「ああ・・。ゆっくりでいい・・。ゆっくりでいいよ、弥生ちゃん・・。」山崎は座り直し、他のみんなも弥生を見つめた。
「うん・・。始まりは、あの閻魔堂の前だった。あの時私は、階段にうじゃうじゃいる蛇を怖がってお母さんに抱きついてた。そして寒いのと怖いのとで、ガタガタ震えてた。
そしたら、頭の中に声が聞こえたの。小さな女の子の声で、
『おねぇちゃん、おねぇちゃん。』って。私が何だろ?って思っていると、また呼ばれた。そして私が心の中で、
『何?誰?」』って聞くと、
『おゆう・・。』ってその子は言ったの。
私は夢を思い出して、
『何?何の用?』って尋ねたら、その子は、
『おねぇちゃんの体を・・ちょっとの間借りても良いかな?』って聞くの。私が、
『なんで?』って言うと、
『体が無いと、怖くて草履が取って来られないから・・。』って言った。
それで私は思い出したの。そうだ、おゆうちゃんの草履を取りに来たんだって。それで私が、
『良いよ。』って言った途端に、私の体はおゆうちゃんのものになった。私は全部見ていたけど、何も出来なかった。
草履を見つけて、走り出して山の祠まで来た時、私の体はフワッと浮き上がった。そのまま何かに運ばれている途中で、私は夢の中に入って行ったの。
その夢の中で、私はおゆうちゃんに会ったの。でもいつか見た夢とは違って、おゆうちゃんは暖かい広場の中でニコニコ笑ってた。
私が、
「今日はご機嫌だね?」って言うと、
「うん。草履が戻ったから。」って、足の草履を指差してた。
「おねぇちゃん、ありがとう!」って駈け寄ってくるおゆうちゃんを私は抱き締めて、抱き上げたの。そして、
「おゆうちゃんは幾つなの?」って聞くと、
「五歳。」って小さな手をいっぱいに広げて笑ってた。
それから、おゆうちゃんをだっこしながら、周りを見た。そう、そこの広場は、あの樹の所だった。綺麗な池があって、色取り取りの花がいっぱい咲いてた。
おゆうちゃんはだっこされながら、私に言ったの。
「この季節は、みんな大好きなの。みんなとっても悦んでる。」って。私は最初、みんなって誰なのか分からなかった。周りには大きな樹や小さな木、それと花しか見えなかった。
でも、すぐに分かった。樹も花も、周りに居る全部の植物がこっちを見ていたから。だから私はおゆうちゃんに言ったの。
「そうだね。みんな悦んでるね。」って。そしたらおゆうちゃんは、
「ほんとのお顔は違うんだよ?」って言って私から降りると、手招きしたの。私が付いて行くと、あの大きな樹の膨らんだ所まで連れて行ったの。そして、その部分を指差した。そしたらね、あの膨らみ
がパカッと割れたの。そしておゆうちゃんが入って行くから、私も後を追った。スルッと入ったかと思うと、私の体は消えていた。ただ見えて、聞こえるだけ。私は赤く光るおゆうちゃんの後を付いていっ
た。そしたらおゆうちゃんの声が聞こえた。
「ほら、ここは牡丹の花の根。蜜蜂が来てくれるのを待ってる。」そしてまたシュンッと移動したら、
「今度は杉の根。風が吹くのを待ってる。みんな待ってる。悦びの刻を。これがほんとのお顔なんだよ。」そしてまたシュンッと移動して元の樹の前に戻った。
「ほんとのお顔って・・、根っこの事なの・・?」そう私が聞くと、おゆうちゃんはコクッと頷いた。
「じゃあ・・、土の上のお顔は?」って私が聞くと、
「髪の毛かな?」って言って、キャッキャッ笑ってた。
私が首を傾げていると、おゆうちゃんが他の所をじっと見た。私もそっちを見ると、小さな女の子が立っていたの。黄色い服に赤いスカート。そして白い靴を履いて池の畔に立ってた。
「あたしのお友達なの。」って、おゆうちゃんは言って、手招きしたの。そしたらその子は、ゆっくり近づいて来た。
「あけみちゃんって言うの。あたしとおんなじ歳で、此処に来たの。こっちはやよいちゃん。」そうおゆうちゃんが紹介してくれた。
私はしゃがんで、あけみちゃんの前に座った。そして聞いたの。
「あけみちゃん、お父さんやお母さんはどこにいるの?」って。そしたらあけみちゃんは、
「ママとおじいちゃんとおばあちゃんはすぐそこにいるよ。そしてパパも近くにいるの。」って答えた。私はあけみちゃんの手を取って、
「それじゃ安心だね。じゃ、遊ぼうか?」って聞いたの。そしたらあけみちゃんは、
「ジェットコースターがいい!」って、笑顔で叫んだの。おゆうちゃんを見ると、
「いいよ。あけみちゃんはジェットコースターが大好きなの。みんなで行こ。」と言って、またあの膨らみを開けたの。
おゆうちゃんとあけみちゃん、そして私は樹の中に入った。そしたらね、ビックリするスピードで、その中を走り出したの。体じゃ無くて、さっきの眼と耳だけの世界だけど、凄いスピードなんだってこ
とは分かった。白い筒の中を走ったかと思うと、急にヒョッコリと木の上に目を出して。海が見えたと思うと、また筒の中。そして今度は雪化粧の山の中。ヒューンと飛んでヒョッコリ見て、その繰り返し
だった。いろんな景色を見た。楽しかったけど、段々怖くなって、気持ちも悪くなっちゃって・・。
(もう・・戻りたい・・。)って思った時に、一樹に揺り起こされたの。 あれが夢だったのかなんなのか・・。それは分からないけど・・。
でもね、ゆうべの夢は可愛かったよ。おゆうちゃんとあけみちゃんが二人して、幼稚園児みたいに並んで夢の中に出て来たの。
私の方をじっと見て、二人一緒にピョコンと頭を下げて、
「昨日ははしゃぎすぎてごめんなさい。痛いところを治します。」って二人揃って言って、頭を上げたの。それからおゆうちゃんが、
「あけみちゃんにも草履を下さい。」ってまた頭を下げた。私が、
「なんで?」って聞くと、
「草履隠しが出来ないから・・。」って言うのよ。私が笑って、
「はい、分かりました。」って答えると、また二人でお辞儀してね。
最後にあけみちゃんが、
「パパをよろしくおねがいします。」って言ってお辞儀をすると、二人でトコトコ帰って行ったの。」
弥生の話しの途中から、山崎はハンカチで目を押さえっぱなしだった。最後には突っ伏して声を殺して泣いていた。
「これが私の見た夢の話しなんだけど、まさかあのあけみちゃんが山崎さんの娘さんだったなんて・・。山崎さん、大丈夫ですか?」弥生が心配そうに声を掛けると、
「うん・・ああ、大丈夫だ。でも・・分からない・・。どうしてこんな事になってるんだろうね・・?」と、真っ赤に泣き腫らした目を弥生に向けた。弥生はただ見つめ返すしか無かった。
「山崎さん。わしが聞いていても不思議な話じゃが、どうやらこれは本当の事らしいのう。あけみちゃんの事は可哀想じゃが、どうやらあの樹に、おゆうと共に宿り、生きているようだの。」源司が山崎
に優しく問い掛けた。
「はい・・。ふぅ・・。弥生ちゃん、それで草履を二足買って来たのかい?」
「うん。約束したから。」
「じゃあ・・。明日もう一度呉服屋に行って、その草履を俺に買わせてくれないかな・・。」そう泣いて言う山崎の思いは、すぐに弥生に通じた。
「うん。その方が、きっとあけみちゃんも喜ぶよ。」
「一緒に行ってくれるかい?」
「うん。」と素直に答える弥生を見て、山崎はもう此処は離れられないと強く思った。
「あれ・・。でも明日は仕事じゃ・・。」と山崎は思い出した。
「うん。でも大丈夫。お休み取るから。だってもっと大切な約束があるんだもの。」弥生は山崎を見つめて頷いた。
「じゃあ、明日はみんなでお休みして、祠にお供え物を届けに行きましょうか。」と咲子が提案した。
「うん、それが良いや。」一樹が真っ先に賛同した。
「こう言っちゃあ何だけど、俺も命拾いして新たな気持ちで生きていく、そんな記念日だよ。これでやっと平和な元の日々に戻れるんじゃないかな。怖い思いはもうたくさんだよ。なぁ、弥生。」一樹が
弥生に微笑んでそう言うと、「うん。」と弥生もまた一樹を見つめて笑った。
翌日は雨も上がり、久々に晴れていた。
五人は呉服屋に行き、山崎は着物と草履を買った。昨日弥生が買ったものと併せて、それらを綺麗に和紙で包装してもらって、祠に供えた。そしてみんなで手を合わせた。
山崎がずっと目を閉じて長い時間拝んでいるのを、みんなはじっと待っていた。。そして山崎は目を開けると、みんなを見回してキョロキョロしていた。
「どうしたんです?みんな俺を見て・・。」
「だって。山崎さん、長いんだもの。」と弥生が笑った。
「一体何をそんなに拝んでいたんです?」一樹が聞いた。山崎は照れた様に、
「そうか・・。うん・・あけみが俺の夢の中にも出て来てくれないかなって・・。」と笑いながらも、少し悲しそうに言った。それを聞いた源司は、少し間を置いて、山崎に諭すように言った。
「山崎さん。悲しいであろうが、それはやめたが良かろう。亡くなった娘さんや奥さんとは棲む世が違い、また過ぎる時も違うとも思える。
いつかは節目をつけねばならん。そうで無ければ、あちらに行きたくなってしまう。それは娘さんの望む事では無かろうと、わしは思うのだがのう。」
源司にそう諭された山崎は俯いて少し考えているようだったが、顔を上げると源司に言った。
「そうですね・・。いつまでも過去に縛られてめそめそしてちゃ、逆に娘に笑われちゃいますね。
よし。もうやめよう。この山のてっぺんでおゆうちゃんと一緒に楽しく遊んでるんなら、それで良いや。」山崎が笑うと、みんなも笑った。そしてみんなで祠を後にして歩き出すと、後ろでいきなり、ガ
サッという音が聞こえた。
みんながその音に驚き一斉に振り向くと、供えた物が無くなっていた。
「ふむ・・。余程欲しかったと見えるの・・。」と源司は呟き、そして微笑んだ。
「源爺、今度は手鞠を買って来ようかな。それでその後は羽子板も。」弥生が覗き込んで笑うと、
「おいおい、それではおもちゃだらけになってしまう。けれども・・まぁ、追々な。」と源司は微笑んで答えた。
暮れようとする西の空に、夕焼けが映えていた。黒影山の稜線も、今日は穏やかにその夕焼けに溶け込んでいた。
いつもの生活。いつもの笑顔。そうしてみんな元通りの暮らしを取り戻していた。咲子と弥生は自分たちの家に帰った。もう特に問題は無いだろうし、いつまでも家を放っておく訳にも行かないからとの
咲子の判断だった。
けれども夕食だけは源司の家に集まり一緒に摂っていた。と言うのも、あれから一週間経った今でも、山崎は源司の家であれこれと手伝いをしながら寝泊まりしており、夕方には咲子が勤めているスーパ
ーに買い出しに行っては、咲子に今晩の夕食のリクエストをメモで渡していたからだった。
咲子はそれに素直に従っていた。そして他のみんなも何も言わなかった。山崎が何かずっと考えているのが、分かっていたから。
(今日のリクエストは、炊き込みご飯と茶碗蒸しか。でも、さっき見た買い出しのメモに鶏肉入っていなかったわねぇ。一番大事な食材なのに・・。どっか抜けてんのよねぇ・・あの人って。)勤務時間
が終わったので、咲子はその鶏肉を買ってから外に出た。そして駐車場に行くと、どうしたことか、山崎が車の所で待っていた。
「あら?どうして此処にいるの?」咲子は驚いて声を掛けた。
「うん・・。ちょっと話したい事があってさ・・。咲子さんの車の中で、良いかな?」少し物憂げに微笑む山崎を見て、咲子はまた何かあったのかと思い、やはり心配そうに答えた。
「ええ・・。それは・・。」
二人は咲子の車に乗り込んだ。しかし山崎は黙ったままだった。咲子は窓の外をそれとなく見ていた。
「そうそう。さっきのメモに鶏肉が書いて無かったから買っときましたよ?」沈黙を破って、遠慮がちに咲子が口を開いた。すると山崎は、
「あ・・ああ、そうか。それを忘れてたっけ・・。あの、あのさ・・。」と少したどたどしく咲子に声を掛けた。
「はい・・。」咲子は神妙な面持ちで答えた。
「あの・・。俺は、此処にずっと住もうと考えてるんだ・・。」その言葉に、咲子は驚いたように眉を上げ、山崎を見つめた。
「此処に?でもお仕事は?」
「それはこれから考えて探さなきゃいけないけど・・。どうにかなるとは思ってんだ・・。」咲子の問いかけに、山崎は静かに答えた。
「はい・・。」山崎の言葉に何かしらの意図を感じて、咲子は素直に頷いた。すると山崎は真正面から咲子を見つめて、真剣な眼で告白した。
「それで・・。その、もしも仕事が見つかったら、その・・。咲子さん・・。仕事が見つかったら、俺と結婚してくれないかな?」山崎は思い詰めた様子でそう言うと、じっと咲子を見つめた。
「え・・?」咲子もじっと山崎を見つめていたが、やがて俯いた。そしてその目からは涙が落ちた。
「咲子さん・・?」不安な面持ちで、山崎は俯いている咲子に呼びかけた。すると咲子は、小さく頷きながら答えた。
「こんな・・こんな私で良かったら・・宜しくお願い致します・・。ずっと・・ずっとそのお言葉を・・私は待っておりました・・。」
「咲子さん、じゃあ。」その言葉に、山崎の顔がパッと輝いた。
「はい・・。」咲子は涙に濡れた瞳で山崎を見つめた。
二人は車の中で抱き締め合った。山崎は大きく息を吐いた。二人の心に大きな安堵感が広がり、幸せな空気が二人を包んでいた。
家に帰ると、咲子はいそいそと料理を作り始めた。そして先に帰っていた弥生もその手伝いを始めた。
「どうしたの?お母さん。今日は何だか、とっても楽しそう。」そう言う弥生に咲子は、ポケットからケースを取りだして蓋を開けて見せた。そしてそこには、ダイヤが付いた指輪が光っていた。
「え?これって?」そう聞く弥生に、咲子はニッコリと微笑んだ。
「え?じゃあ・・。」弥生は囲炉裏端に座って居る山崎を見た。山崎もその視線に気づいて、弥生に微笑んだ。弥生は山崎に近づき、
「山崎さんっ!」と驚いた表情で叫んだ。
「弥生ちゃん、良いかな・・?」と山崎は遠慮がちに聞いた。
「うん!うん!もちろんだよ!やったぁ!」傍に居た一樹と源司も、何があったのかと驚いていた。
「どうしたんだよ?弥生。いきなり叫んで。」一樹が聞くと、
「だって、だって!私に新しいお父さんが出来たんだもの!」と弥生ははしゃいだ。
「え?」と二人して声を上げて、それから山崎を見た。山崎は照れながら、
「はい・・。今日咲子さんにプロポーズしました。それで、良い返事を頂きました・・。」とボソッと微笑みながら言った。
「へーえ!」と一樹は目を丸くしていた。源司も同様に驚いていたが、すぐに笑顔満面になった。
「こりゃあ目出度い。うん、目出度いわ!」と珍しく興奮を隠せなかった。
「何じゃ、それならそうと早く言ってくれれば、祝いの席を設けたものを。」
「いや・・。源司さん・・。俺も良い返事を貰えるかどうか、悩んだ末の事ですから、ドキドキでした。でも良い返事を貰えて、俺も嬉しくて、ほっとしてます。」山崎は心底嬉しそうに微笑んでいた。
「そうか・・。そうじゃの。ほうかぁ・・。いや、わしは本当に嬉しい。祝いの席はまた改めて開くとしよう。うん、咲子。」と源司は咲子を見て、
「良かったのう・・。」としみじみと声を掛けた。咲子はしきりに源司に頷きながら、嬉し涙を流していた。
最近の心細い出来事ばかりの後だけに、みんなの嬉しさもまたひとしおだった。けれどもその出来事が縁で二人は結ばれる。それもまた、隠された一つの真実だった。
暗い応接間の中。稲村は独りソファに座り、煙草を吹かしていた。その開け放たれたサッシの窓からは、月明かりに照らされた黒影山がうっすらと見えていた。
稲村は苛立っていた。煙草を灰皿に強く押し付けると、立ち上がってサッシからその黒影山を見つめた。
「どいつもこいつも・・。」据わった眼で噛み締めるようにそう呟くと、サッシの枠を拳で強く殴った。
(何が、後何年か待ちましょうだ。何が、真実を語れだ・・。この鼻の事も笑い物にして、祟りだ何だのと!)そして更に強く殴った。そのせいで、その拳からは血が一筋流れ出していた。しかし今の稲
村には、そんな痛みなどは感じられなかった。
ここ何週間か、稲村の元には波のように情報が押し寄せていた。いちいち目は通さないが、やはりスポンサーの連絡には答えざるを得ない。
(まぁ・・良い・・。ふん、雀の涙ほどの資金投入で、何を偉そうに・・。最後の決断、決着は、俺が付けてやる・・。)そう思い、据わった眼で山を見つめた。
稲村には子が無かった。何回か離婚と再婚を繰り返したが、ついに子は授からなかった。
(これで良い・・。)と稲村は諦めと同時に自らの定めを思い、時には安堵の息をついていた。
(こんな呪われた血を、後に残してどうする。かけらでも愛というものがこの心の内にある間に、これを断つべきではなかろうか・・。)そう思っていた。
そして稲村には、友と呼べる者もいなかった。誰にも相談などした事も無く、今の地位を勝ち取った。金さえ出せば、どんな優秀な人材も雇うことが出来る。その監督だけすれば良かった。
(人は機能だ。その部分だけ使えば良い。その他の部分は皆、動物に等しい。)そう稲村は思っていた。そうで無ければ、そうしなければ、自分は根底から崩れてしまう。そんな自分の心の内にある、他
人には隠した弱さも稲村は自ら分かっていた。
(秘密と言うが・・こんな秘密など、他にあるのだろうか・・。)そう思い、自分で自分の事を嗤っていた。しかしとにかく、終わりにしたい。その解放への憧れと欲望。その為にはあらゆる事をやっ
た。
その実現が今、目の前で頓挫している。もう顧みる事は出来ない。歳はすでに、還暦を遠に超えた。
そして或る決意に燃えた眼は、揺らぐことは無かった。
源司達が祠にお参りをしてから、一週間が経った。皆、何事も無い日々の平和を思い出し、そしてそれに感謝していた。
比較の中で人々の思いは過ぎ去っていく。苛烈な刺激の後は、人は暖かな眠りを欲するのだ。それはまた、本来の自分自身を取り戻す行為でもある。
山崎はあれから、咲子の家に寝泊まりしていた。けれども夕食は、源司の家でみんな一緒に摂っている。あの出来事が、すっかり五人を家族にしたようだった。
「あー、やれやれ、サッパリしたぁ。」一樹は風呂から上がると、囲炉裏端に腰を降ろして早速缶ビールの栓を開けた。
「カァー、旨いねぇ。」山崎はそんな一樹を見て朗らかに言った。
「一樹君は本当に酒が好きだな。とても旨そうに呑む。」
「そりゃあ、源爺の孫ですからね。血筋ってやつですよ。ねぇ、源爺。」
「ふむ。まぁ度を超えなければ、良しとするがの。」源司はそんな一樹をチラと見ながら、皮肉っぽく呟くように答えた。
「ほう源爺、何言ってんだか。自分が一番好きなくせに。でもそう言う山崎さんも好きなんでしょ?」
「ハハッ。俺は二人が旨そうに呑んでるから、俺もって思うからだよ。」
「またまたぁ。でも良いよねぇ。こうして酒を呑んでると、そのうち旨い料理が出て来るなんてさ。」
「そうじゃのう。これまでは二人で適当に作っておったが、やはり飯は旨いに限るの。あの二人には、感謝せねばな。」三人は、台所で料理を作っている咲子と弥生を見た。それを聞いた二人が振り向く
と、一樹は手を合わせておどけて見せた。
「一樹、そんなに感謝してるんなら、うちの家の修繕もよろしくね。今は山崎さんが朝からやってくれてるけど、お仕事に行くようになれば、週末しか出来なくなるからね。」咲子が言うと、
「分かっておりますって。ビシッと立派な御殿になるよう頑張りますから。」と一樹は笑って答えた。
「あらそう。良かったわねぇ、弥生。弥生のために、一樹が立派な御殿を作って下さるってよ。」咲子のその言葉に、なにか言い返そうと一樹は口を開いた。
「何言って・・。」とそう言い掛けた一樹は、弥生がじっと見つめると、ふっと言葉を失ってしまった。そしてその言葉は不発に終わった。そんな一樹を見て、みんなは微笑んでいた。
「そうじゃ、ところで山崎さん。仕事の方はどうなさるのかの?今の会社を続けられるのか?」源司が向き直り聞くと、山崎は、
「いや・・。今の会社は辞めようかと思います。遠いこともあるし、今回の事でいろいろ考えさせられましたから。しかしこの歳で再就職となると、なかなか難しいようではあります。ハローワークに行
ったり求人雑誌を読んだりしてますが、何ともねぇ・・。」
「だって山崎さんは今も現場監督やってるっていうキャリアもあるし、引く手数多なんじゃないんですか?」一樹は意外に思い、聞いた。
「一樹君。今現場監督やってるからって、他の同業会社に入ったとしても、じゃあすぐに監督でって言う訳には行かないんだよ。長年のチームの信頼と実績が無いとね。誰も動いちゃくれない。それに、
俺はもう自然を壊すような仕事はしたくないと思ってるんだよ。」
「ほう。では転職と言うことか。で?何の仕事を探しておられるのじゃな?」どうするのかと思い、源司は聞いた。
「はい。造園の仕事があればと思ってるんですが、年齢制限ですべて引っ掛かってしまって・・。」山崎は困った顔で答えた。
「ほう、造園。庭師か。」正に意外な言葉に源司は驚いた。
「ええ。造園技能士の資格なら、持ってるんですが・・。」
「ほーお、そんな資格を。」そんな言葉を聞いた源司は驚くと共に思い巡らせ、ふと或る人物を一人思い出した。
「ああそれなら、わしの知り合いに優秀な庭師がおる。口を聞いても良いが、どうじゃな?職人気質の頑固で無口な男じゃが、良い仕事をする男ではあるが。」
それこそ意外な申し出に、山崎は目を見張った。
「ええ?本当ですか?それは有り難いお話しです。ぜひお願いします。」
「うむ。では明朝にでも連絡を取って、会える様なら、わしが先ず伺って話してみる。向こうの都合もあるであろうしな。それで、もしそれでも会うて話しを聞いてみたいとなれば、その時には二人で伺
うとしよう。」
「はい。そんな信頼の置けるお話があろうとは、思いもしませんでした。何卒宜しくお願いします。」山崎は源司の言葉に目を輝かせて乗り気になった。
咲子と弥生が料理を運んで来て、食事をしながらまたみんなで話しをした。
「上手く話しが運ぶと良いわね。」咲子が山崎に微笑みかけた。
「うん。そうだね。いつまでも居候のプー太郎じゃしょうが無いしね。」そう言って山崎は咲子を見て、申し訳なさそうに弱く微笑んだ。
「造園技能士かぁ。何かカッコ良いけど、でも山崎さんは今のキャリアを活かせば、もっと稼げるんじゃ・・。」一樹が言った。
「うん。まぁ・・仕事があればね。でもねぇ・・。俺はこの一週間ずっと考えて、一つの考えに至ったんだよ。変な突拍子も無い考えなんだけど、聞いてくれるかな。」山崎の言葉に、みんな顔を上げて
頷いた。
「それというのは、今回自分が経験した事や、みんなの話を全部ひっくるめて、考えついた事なんだけどね。」山崎は一呼吸置いてから語り出した。
「そうだなぁ。結果から先に言えば、ちょっと話しは大きくなるけど、我々人間は、この地球の底に張り巡らされた地下のネットワークの上で、そんな事も知らずに暮らして居るのかなって、そう思った
んだ。
それというのも、俺が起こした事故現場は此処から三百キロも離れた場所だし、弥生ちゃんの話だともっと広い。けど此処に居る我々だけしか知らない過去が、確かにその地下にも情報として伝えられ
て、それらは全て記憶されている。それも幻覚だとは思えない緻密な情報としてね。
だからこの世界で息づいてる木や草などのあらゆる植物は、その全てを知っているのかも知れない。でも、それでも黙っている。
弥生ちゃんは聞いたよね。本当のお顔は根っこなんだって。土の上は髪の毛の様なものだって。それを思い出した時、俺もそう思ったんだよ。そう考えれば、全て納得がいく。
あの山のあの巨大な樹は、その象徴なのかも知れない。長い年月を重ねて、あの樹は特異的な能力を持った。手足の様に、いや、それよりも遙かに能力を備えた根を、あの樹は持ったんだよ。俺達を救っ
てくれたのもその根だし、稲村一族の命を奪ったのも、勝田や北山を掠ったのも、やっぱりその根なんだ。
この春、春という悦びの季節。勝田に聞いたその言葉の中にも、やはりその言葉はあった。
だから植物の受粉の季節は、動物でいう交尾の季節なのだろうとも考えられる。
あの樹はそれを邪魔されたり命が奪われると察した時に、それを怒って排除しているんだよ。それなら俺だって、容易に想像出来る。
そう思って考えた時、俺はもっと樹や草のことが知りたいと思ったんだよ。これまでひたすら草や木を取り払って平地にしてきた俺は、そこに住まう魂のことなんて、これっぽっちも考えてはいなかっ
た。
だからこれからはそれと面と向き合って、生きてみたくなったんだよ。」山崎がそう話し終えると、みんな何かを思い出し、考えている様だった。
「うーむ・・。」と源司は唸っていた。そんな中一樹が、
「じゃあ・・じゃあ今この時も、あの樹はこの会話を聞いていると?」と、山崎に聞いた。そう聞かれた山崎は、
「ああ。そうだと思う。この前弥生ちゃんが此処で乗り移られたのが、その証拠だな。」と答えた。咲子と弥生は、思わず口を手で押さえた。
「でも、今は大丈夫だと思う。今はあの樹も落ち着いているだろう。工事が頓挫したからね。昼間インターネットで調べたんだけど、多くのスポンサーが、この企画から身を引いた様だ。この工事はも
う、ご破算だな。」
「山崎さん、さっきの地面の中のネットワークって、一体どれくらいの広さなのかな?私が見たのは、日本だけだったように覚えてるんだけど・・。」弥生は山崎の考えに共鳴したように聞いた。
「さぁ・・。弥生ちゃん、俺もそこまでは分からないよ。ひょっとしたら世界中かも知れない。彼らはあらゆる情報を知り、そして記憶してるんだ。
それに比べると、最近人間が始めたネットワークなんて可愛らしいもんだね。人間の文明を超えた姿が、もしかしたら植物の世界なのかも分からないね。」
「うーむ・・。それが真実ならば、これからは草刈りするのも考えものじゃなぁ・・。」源司が困り顔で唸った。そんな源司に一樹は声を掛けた。
「源爺、そんな事で困ること無いよ。これは俺の意見だけど、そう考えれば目に見える草や木は、あれはただの髪の毛や爪みたいなもんだよ。俺たちの髪や爪と同様にさ。だから切っても切っても後から
生えてくる。だから考えすぎることは無いよ。
でも俺に言わせると、そこまで仇みたいに草刈りすることは無いと思うんだよね。あれも命だし、魂だと思えば。
彩りを添えるのは、何も艶やかで綺麗な花ばかりじゃない。たとえそれが雑草の花であっても、やっぱりそれはれっきとした姿であり、そして綺麗に咲いた、一つの命なんだよね。」
そんな一樹の言葉に、咲子はうるうるした瞳で一樹を見つめた。
「一樹・・。あんたって、ほんっとにたまには良い事言うわねぇ。私もそう思うわ。なんだか感動しちゃった。」そう咲子に言われた言葉に、
「咲姉はただ、草刈りが面倒臭いだけだろ?」とふと照れ笑いをして一樹は答えた。
「うん?ばれた?でも良いじゃない。これまで通り、そんなみんなと一緒に生きていけば。」そう言って咲子もしんみりと一樹に微笑んだ。
「咲子さんも良い事言うね。俺もそんな植物たちとの共生をそう願って、だから造園業にしようかなって考えたんだ。そんな風にみんなで共生して溶け合っていく事が、人間同士にとっても大事なのかな
って思ってね。」山崎もそのやりとりに微笑んでいた。
「私達と同じ様に?」そんな山崎の言葉に、咲子は山崎に振り返った。そのなんとなく厳しい視線に、山崎は少したじろいだ。
「あ、いや・・。咲子さんはもっと大切な存在で、そんな・・。」
「ハハッ。咲姉はいつも草刈りしてる草と自分がおんなじにされたのかと思って、ムッとしちゃったんだよね?」その二人の会話に突っ込みを入れた一樹は、笑いながら咲子を覗き見た。すると咲子は、
「一樹っ!」とそう叱りつけて、いつものように一樹を睨んだ。その叱りつける声に、
「それっ、図星だ!」と一樹は戯けて身を引いた。そんなやりとりにみんなの笑う声が、夜の山里に聞こえていた。
その翌朝。稲村はいつもの散歩から帰ると、突然警護の者を解雇した。それだけでは無く、運転手やお手伝いに至るまで、屋敷で雇っている全ての者に退職金を渡して、解雇したのだった。
そしてその広い屋敷には、稲村とその妻だけが残った。
妻の聡子はその行動を訝った。二十五歳年上の稲村に連れ添って十五年にもなるが、こんな事は初めてだった。不安と不便を口にすると、稲村は穏やかに笑い、その理由を聡子に言った。
「わしはただ、疲れたんだ・・。静かに穏やかに、暮らしてみたくなった。ただそれだけだ。」そう言って書斎では無く、応接間に向かいソファに座り込んでいた。
しかし稲村の眼は、疲れてなどいなかった。それどころか、いつにも増してギラギラと光っていた。しかし、聡子はそんな夫を黙って見ていた。何か言ったところで、聞いてくれる人では無い。
何かが起きる・・。そんな予感しか無かった。
源司と山崎はそれぞれ朝食を摂り終えると、他のみんなが出勤してから、このところ習慣になっている祠参りに出掛けた。源司は元々行っていたが、山崎もそれに加わった。それは自分の亡くなった家族
が何故かしらこの山に宿っている事と、しかも自分がその山に命を救われた現実を素直に受け入れたからだった。
(畏敬の念てのは、多分こんな気持ちなんだろう・・。)
祠から山を見上げて山崎は思った。
(何かしら考えてみたい何かが、此処には在る・・。)と。
源司が昨夜言っていた庭師の所に出掛けてから、山崎は裏庭で独り薪を割っていた。
菜種梅雨もその恵みを終えた様で、空は雲一つ無い快晴だった。時折黒影山に目をやりながら、額に滲む汗を拭いた。そうして黙々と薪を割る内、ふと振り上げた鉞を止めた。そして薪割りを止めて、山
を見つめた。
(なんだろうこの冷気は・・。山の方から漂って来るような・・。)時折フワッと体を包み込み、流れて行くかと思うとまた纏わり付くような冷気を、山崎は感じていた。
(何かあるのか・・?)と佇んでいると、突然、源司に後ろから不意に声を掛けられた。
「山崎さん、どうしたのだ?何やらぼぅっとして。」山崎は驚いて振り向いた。
「あ、ああ・・源司さん。お帰りなさい。いえね、ここで薪を割っていたら、山の方から漂って来た冷気に包まれたような気がして・・。」
「山の冷気に?ふむ・・。」源司もそう言われて黒影山を見たが、いつもと変わらぬ表情に見えた。そして山崎に向き直った。
「多分汗をかいたせいであろう。風が吹けば汗は冷えるでな。それより、良い話しを持って来た。」源司はとても嬉しそうだった。
「先方も忙しそうでな。三十分程しか話しは出来なんだが、それでも興味を抱いたらしゅうての、今度の日曜にでも、ゆっくり話しを聞きたいと言うてくれた。そんな地位やキャリアを捨ててまでこの仕
事をしたいという、その理由がもっと知りたいと言うてな。しかしわしが見たところその顔は朗らかで、わしが思うのには手応えはあった。」源司の言葉に、山崎は本当に嬉しそうに目を輝かせた。
「そうですか。有り難う御座いました。でもまぁ、そう思うでしょうね。この歳になって転職なんてのは、そうはいないでしょうから。でも会って頂けるのは有り難い事です。履歴書と考えはまとめてお
きます。それとその前に、今の会社にもちゃんと筋を通さないと。」山崎がそう答えると、源司もその言葉に深く頷いた。
「うむ。そうじゃのう。じゃが、そう急ぐ事でもあるまい。まだ有給は残っておるのじゃろう?急いては事をし損じる。まぁ、じっくりと構える事じゃな。焦ることは無い。」
「ええ。そう言ってもらえると、正直ほっとします。そうですね。根はじっくりと張らないと。そして造園業についても、もっと勉強しないと。」
「そう言う事じゃ。」そう言って源司は山崎に微笑んだ。
山崎は、それからまた薪割りを始め、源司は畑に向かった。
山里の暮らしは全て手作業である。しかしまめに動きながらも、時間はゆったりと過ぎて行った。思考と時間とが、まるで一吹きの自然の風のように溶け合い、過ぎて行く。
山崎は風呂釜に火を入れながら、何かほっとした気分に浸っていた。
(思い出してみれば、こうして火を見つめるのも何十年振りだろう。薪の爆ぜる音、火の粉、そして伝わってくる熱・・。俺の中の何かが、喜んでいるようだ・・。)そう思いつつ風呂釜の火に見入って
いると、源司が野良仕事から帰ってきた。
「山崎さん、いつもすまんのう。お陰で早う湯に入れる。」
「いやあ、俺も何だか楽しいんですよ。あ、そろそろ入れますよ。」
「そうか。では早めに頂こうかの。」
源司が風呂に入ってから、今度は囲炉裏の火を入れる。思えば、此処で火と馴染むようになってから、いろんな事があった。
(こうして火を見ていると、原始の血が疼くのか?)とも面白がって考えている内に、みんなが帰ってきた。
「ただいま。ちょっと遅くなっちゃった。すぐ夕食作るからね。」と、咲子は言った。そして途中で連絡を取り合い、一緒に買い物に行っていた弥生も、申し訳なさそうに微笑んだ。
「良いよ。ゆっくりで。」と山崎は頷きながら微笑んだ。そんな山崎に、咲子は岩魚を差し出した。
「そうそう。スーパーにこんな見事な岩魚があったのよ。これ、串に刺して塩焼きにすれば良いんじゃない?みんなでそれを肴に呑めば。」
「お、良いねぇ。それってとっても風情がある。」喜んだ山崎は、それを金串に刺して囲炉裏の遠火に当てた。
山崎が風呂から上がった時に、一樹が帰ってきた。帰るなり囲炉裏を見て、
「お!良いものがあるねぇ。山崎さん、ちょっと待っててね。超特急で風呂入って来るからさ。」そう言うと、本当に飛ぶ様に風呂に向かって行った。その姿を見送りながら、山崎は咲子と弥生に声を掛
けた。
「一樹君は本当に魚が好きなんだねぇ。」山崎が台所にいる二人に聞くと、
「うん。釣りに行ってるから。」と、料理の手伝いをしながら弥生が答えた。
「ああ、そうか。あれ?ところで源司さんは?トイレに行ったのかな?」
「源爺なら、さっき裏に行ったようだけど・・。」弥生が裏口を見ながら答えた。山崎は薪割りをやっている時の事もあり、源司の様子を見に行った。
源司は裏庭に立ち、じっと山を見ていた。その後ろ姿からも、それが真剣な眼差しであることは分かった。
「源司さん・・。」山崎が呼びかけると、源司は振り向いた。
「おう、山崎さんか。見よ、あの山を・・。」暮れようとする空に、黒影山の稜線が赤く光っていた。
「工事が進んでおった頃も、あの様に赤く光っておった。最近はずっと穏やかであったのじゃがのぅ・・。」
その山を見つめていた源司は、山崎に振り向きつつ言った。
「では、あの時俺が感じた冷気も・・?」その山崎の問い掛けに、源司はなにか考え深げに頷いた。
「うむ・・。何かの予兆やも知れんな。何事の無ければ良いのじゃか・・。」
そう二人が山を見ていると、一樹が声を掛けた。
「お二人さん、岩魚が焼けたよ?もう中に入って酒呑もうよ。湯冷めしちゃうよ?」裏窓から首を出して二人に言った。
「一樹か。お前もここに来て、あの山を見てみよ。あの時と同じ様じゃ・・。」そして一樹も、裏口から出て来て山を見た。しかし以前とは違って、その眼は真剣だった。遠く見る山の稜線は、仄かにだ
が赤く燃えていた。
「また何かが起きる?」一樹は真剣な面持ちで源司に聞いた。
「さぁ・・。それは分からん。分からんが・・何かがあるのかも知れんな・・。」赤く燃える朧な火を漂わせながら、夕暮れの闇に溶け込んで行く山を三人は暫く見つめていた。
「でも・・さぁて。いつまでも先のこと考えてたって、これまで通りどうなるやら分からないんだから、呑める時は呑もうよ。旨そうな肴もあることだしさ。さぁさぁ。」一樹はそう言って二人の背を押
した。その二人もその声に頷いた。
「そうだの。湯冷めしてもつまらん。」源司がそう言うと、
「そう・・成るようにしか成らんからな。」と山崎も頷いた。
「そう言う事。さっ、中に入って呑もうよ。」
そう一樹にせき立てられ、源司と山崎も家に入った。そして囲炉裏端に座ると、三人は焼きたての岩魚を肴に酒を酌み交わした。
山崎は酒を呑みながら、一樹が言うように、本当に先の事は分からないものだとしみじみと思った。常に自分の意志で歩いているつもりでも後から思えば、行く先も分からない川の流れに翻弄され、そし
て何も出来ずに身を委ねてて流れゆく、木っ葉の様だなと思い知らされる。そして行き着いた先で、何でだろう・・と首を傾げる自分が其処に居るだけだ。その渦中で藻掻いている自分の手が、どれ程小さ
く頼り無い手であることか。
(しかし・・。)と山崎は思った。
(自分はその藻掻いている手が好きだ。その小さな手で藻掻いている時だけは自分でいられて、そして自分を忘れられる。藻掻いていなければ、走っていなければ、その川の音や風の音は聞こえては来な
いのだから。)そう思い、その思いを自らの内に溶け込ませていた。
「山崎さん、どうしたんです?何だかボーとして。」山崎の動きが無いのを見て一樹が聞いた。山崎はハッとして頭を上げた。
「うん?いや・・ハハッ。そう聞かれたのは今日二回目だな。いやぁ、何だか最近考えこむ癖が付いちゃってさ。ゆったりしてるからかな。これまでバタバタとしてるだけの人生だったからね。そうだな
ぁ、今考えてたのは、今の俺は幸せだなぁって、しみじみとそう考えていたんだよ。」
「幸せ、ですか・・。うーん。そんな事、俺なんてしみじみ考えたことは無いなぁ。」一樹は天を仰いだ。
「一樹君はまだ若いからだよ。これからまだまだ遠くまで走って行く、その真っ最中だからね。でもねぇ、俺くらいの歳になると、ふと後ろを振り返る時がたまに無意識にあるんだよねぇ。この前のこと
があってからは余計にね。」山崎は一樹に、そう諭すように説明した。
それを聞いていた源司は、伏し目で炭をいじりながら、
「山崎さんは今やっと、自分と向き合うておられるのじゃろう。」と優しく呟いた。
「自分と向き合う・・?」その言葉に、一樹は源司に振り向いた。
「うむ。人は歳を重ねると、それまでずっと抱えてきたこだわりやら見栄やら後悔やらがふっと消える時がある。肩の力が抜けて、素のままの自分を受け入れると言えばよいのかのう。」
「うーん・・。益々難しいなぁ・・。」一樹が首を傾げていると、弥生が鍋を運びながら、
「私は何となくだけど分かるなぁ。それって、自分に正直になるって事じゃ無いのかな?」そう言って一樹に微笑んだ。
「へぇ。弥生ちゃんは若いのに分かってるんだねぇ。」山崎が言うと、
「そりゃもう。もうお子ちゃまじゃありませんからね。誰かさんと違って。」と一樹に眉を上げて微笑むと、台所に戻って行った。
「何だよ、それって。まったくぅ。」一樹は弥生を見ながら串刺しの岩魚を囓った。
「ああ、そうだ。これを見て思い出した。山崎さん、今度岩魚を一緒に釣りに行きませんか?良いポイント知ってるんですよ。これも旨いけど、天然物はもっと旨い。」一樹はそう閃いて山崎を釣りに誘
った。
「渓流釣りかぁ。面白そうだなぁ。やったことは無いけど。」山崎も乗り気を見せた。
「竿もあるし、もう解禁してますから。」そんな話を二人でしていると、台所から弥生が、
「私も行きたい!」と声を上げた。
「うん?弥生も?でもさぁ、弥生は餌付けられないんじゃないの?川で川虫取って、それを針に付けるんだよ?」一樹が振り向いてそう言うと、
「それくらい、出来るもん!」と弥生は台所でふくれていた。
「ハハッ。それなら俺が付けてあげるよ。そうだ、それならみんなで行ったら良いんじゃないかい?源司さんも、咲子さんも。」山崎はふと思いつき、二人の顔を見た。
「そうねぇ。其処に行けば山菜も採れるかも。」と咲子が言うと、
「そうよなぁ。久々じゃが、その夜は此処で旨い山の料理が食えそうじゃのう。」と源司も乗り気だった。
「え?みんなで?それじゃあ、竿買って来ないと。そんなにいっぱい無いよ。」そう一樹が言うと、
「それなら明日にでも釣具屋に行ってみよう。こりゃあ楽しみだ。」と山崎も目を輝かせた。
それからは鍋をつつきながら、五人で釣りの話しで盛り上がった。一樹は釣具屋で買う物をメモしたり、地図を持って来て場所を示したりしていた。
そんな一家団欒の時に、山崎の携帯電話が鳴った。
「うん?誰からだろう、こんな時間に・・。」時計を見ると、もう九時を回っていた。
「あれ?土井からだ・・。」山崎は立ち上がり、奥の部屋で電話に出た。
『もしもし?』
『あ、や・・山崎さんですか?ちょ、ちょっと来て下さい!た、大変なんです!』電話の向こうの土井の声は、かなり慌てていた。
『土井。少し落ち着けよ。何処に居て、何が大変なんだよ。』山崎は何か胸騒ぎを感じた。
『そ、それが、山が燃えてるんですよ!げ、現場の。誰かが放火したみたいで・・。』
『んん?何だって?お前今何処に居るんだ?』
『今は事務所の前です!』
『山が燃えてるって、あの山か!』
『はい!』
『消防署には!』
『はい、今新井が連絡入れてます!』
『分かった!すぐ行く!』そう言って電話を切ると、山崎は急いでみんなに知らせた。
「今電話で聞いたんですが、あの現場の山が燃えてるようです!すぐに行かないと!」
「え?」とみんな驚き、眼を見開いた。そしてすぐに腰を上げた。
「でも、みんな呑んじまってるし・・。」一樹が呟くと、
「私は呑んで無いから、私が運転する!」と弥生が叫んだ。
囲炉裏の火に灰を被せて、五人は急いで車に乗り込んだ。走り出した車の中で、みんなは夢を見ているような思いだった。
土井が山崎に電話を掛ける少し前、稲村は工事現場の事故があった高台へと、大型のガスバーナーを抱えて独りでひっそりと昇った。そしてそのガスバーナーに点火すると、険しい眼でその山を仰ぎ見
た。
「もう誰の力も、知恵も借りんわ!誰かに見張られ、そして誰かに拘束された人生など、もう真っ平だ!ここらでもう、けりを付けてやっても良い頃だろう。そしてお前と共にこの呪われた血も、全て絶
えれば良いのだ!」
そう叫ぶと、稲村はガスバーナーの火を最大限に開いた。そしてその激しく燃え盛る炎を抱えて、狂った様に走り回りながら、山に火を放ち続けた。
その眼は見開かれ、燃える火を映して異様に輝やき、歪んだ笑顔で狂ったように喚き叫んでいた。
「燃えろ・・燃えろおっ!お前を丸焦げにして、そして、そうして!終わらせてやる!全部、全部!全部だあっ!」
山裾に次々と点けられた火は、その傾斜を駆け上って行き、やがて大きな火柱を上げた。その炎の前で稲村は大きく手を広げ、火の爆ぜる音の中で、山に向かって大声で罵り叫び続けていた。
その山火事を現場の宿舎にいた土井と新井は窓から見つけ、燃え盛る火の手を見て驚いた。そんな二人は一時パニックにはなったが、土井が狼狽えながらも新井に叫んだ。
「お・・お前は直ぐ、消防を呼ぶんだ!お、俺は、監督に電話する!」
源司ら五人が現場に到着した時には、すでに消防車が数台消火作業を開始しており、警察のパトカーも現場にあった。山崎は車から降りると、すぐに土井を見つけた。
「土井!」呼びかけると、土井は驚いたように振り向いた。
「あ、山崎さんっ!」
「どうしてこんな事に!」山崎もその火を見て、目を見開いた。
「わ・・分からないです・・。」土井は困惑した顔つきで山崎に答えた。
皆が見上げる火の手はまだ赤く燃えていた。が、しかしその勢いは徐々に弱まって行く様だった。源司達四人は、その光景を見つめてただ佇んでいた
「ふぅー・・。まだ湿気っていたのが幸いしたか・・。」山崎は山を見ながら、荒く息を吐いた。
「何か見たか?」と山崎が土井に聞いている所に、新井が真っ青な顔をして近づいてきた。その目は見開かれて、小刻みに震えていた。
「新井、どうした?」山崎が見た新井の手には、双眼鏡が握られていた。
「俺・・見ました。この眼ではっきりと・・。白蛇が出て来て・・あの男を掴んで、振り回しました・・。」
「んん?何の事だ?」山崎が怪訝な眼を新井に向けると、新井は説明しだした。
「消防に連絡してから俺・・事務所にあった双眼鏡で、じっと見ていたんです・・。そしたら、火の前に狂った様な男がいて、何か叫んでるのが見えました・・。
そしたら突然山の中から白蛇が飛び出してきて、その男に巻き付いて、高く持ち上げたかと思うと炎の中をその男を振り回したんです・・。燃えている火を、それで払い消す様に、何度も何度も・・。そ
の度に火の粉が燃え上がりました。
そしてその男にも火が点いて、火だるまになったかと思うと、その蛇は男を激しく地面に叩き付けました・・。その時にもすごく大きな火の粉が上がって・・。そしたらサイレンの音が聞こえて、やっと
消火が始まりました。多分あの男は、あそこで死んでますよ・・。」言い終える前から、新井の体は激しく震えだしていた。山崎は小柄な新井を抱き締めると、背中を摩った。
「新井、分かった。よくやったな。」そう言うと土井に、
「土井、新井は今ショックを起こしてる!二階の布団に寝かせてやれ。そしてもし震えが収まらないようだったら、直ぐに救急車を呼べ!」そう念を押して、土井に新井を預けた。土井は、「はい・
・。」と頷き、新井の肩を抱いて連れて行った。山崎は近くで聞いていた源司達に黙って頷いた。
山からは、もう火の手が消えていた。消防車の照明に照らされた煙だけが、闇に立ちのぼっていた。
「ふぅ・・。」と息を吐くと、山崎は源司達の所に歩み寄った。そして源司に声を掛けた。
「やっと火は消し止められたようですから、源司さん達はもうお帰りになって休んで下さい。俺は朝まで見届けますから。あんな新井も心配ですしね。」山崎はそうみんなに言った。
「え?山崎さんは残られるんですの?」と咲子は心配そうに聞いた。
「咲子さん。俺はまだ此処の現場監督ですから。あんな心細げな土井と新井だけ残しとくわけには行かない。それに、あそこにいる男が、俺にいろいろ聞きたい事があるようですしね。」
山崎がじっと見つめる先には、北見刑事が立っていた。北見も何やら打ち合わせをしながら、山崎をチラチラと見ていた。
「そうか。しかし、本当の事を話しても、誰も信じてはくれんじゃろうがのう。」源司も北見を見つつそう答えた。
「ええ。それを言うと、馬鹿にされたと思うらしいですよ。彼らに言わせると、そんな事が出来るのは人間様だけらしいですからね。」
「ふむ。まぁ世間というのはそんなもんじゃ。自分の尺度でしか物は見えんからの。
そうか・・。では、わしらは帰るとしよう。山崎さん、後で詳しい話しを聞かせてくれ。」そう言って源司は山崎を見つめた。
「はい、分かりました。明日の午後にはそちらに戻れるでしょうから。」
そうして源司達が帰って行くのを見送ってから、山崎は北見にゆっくりと近づいて行った。
「俺に何か聞きたい事があるんでしょう?」山崎は北見の近くまで来ると、そう北見に問いかけた。
その山崎の言葉に、パトカーの脇でじっと山崎を見つめていた北見も応じた。
「ええ。色々とね。と言いたいところですが、今回のこの放火には、あなたは関係無さそうだ。アリバイもお有りになるんでしょう?」
「ええ。まぁ。」山崎はコクッと頷いた。
「しかし、後日また話しを伺う事になるかも知れません。」やはり冷静な眼差しで北見は山崎に告げた。
「後日?今じゃ無いんですか。それは又何故?」山崎のそんな問い掛けに、北見は山に視線を移して、
「あの焼け跡から、焼死体が三体見つかりましてね。」と言ってから、山崎に振り返り、その眼を見つめた。
「え?三体?」意外な北見の言葉に、山崎は怪訝な面持ちで北見に尋ねた。
「ええ。そうです。その一体は放火犯のものだとは思いますが、後の二体が誰なのか・・。何せ黒焦げなもんですから、さっぱり分からない。しかし私の勘だと、あれは勝田と北山のような気がするんで
すよ。
ともあれ、死因の特定とDNA鑑定を行って、そこから犯行の手口を割り出さねばなりません。検死が終わってから、ひょっとしたら山崎さんにも参考までにお話しを伺うやも知れませんから、その時に
はご協力をお願いします。」そう丁寧に北見は山崎に告げた。
「ええ。構いませんが、言う事はこの前と同じですよ。」山崎が答えると、北見は薄笑いを浮かべて、
「此処の会社の人達は、どうやら不思議話がお好きなようで、さっきも他の者が新井さんと土井さんにもお話しを伺ったんですがね、それが突拍子も無い話しで。何でも山に棲む巨大な白蛇が、その放火
犯を振り回して、叩き付けたっていうんですよ。聞いた者も、あれは一種の錯乱状態なんじゃ無いかと報告してきました。」
今度はそれを聞いた山崎が薄笑いを浮かべた。
「何です?」その山崎の表情に、今度は北見が眉間に皺を寄せた。
「いえ・・。何も・・。」山崎は今の話しを全て足元の地面の下から山が聞いているんだと北見に言えば、きっと怒り出すだろうなと思った。
「それじゃ、俺はこの事務所の二階で寝てますから、何かあったら起こして下さい。」そう言って山崎は北見から離れた。
事務所の二階に上がると、新井と土井はまだ起きており、窓の外を見ていた。
「おう、二人ともまだ起きてたのか。」山崎が尋ねると、
「こんな気分じゃ、とても寝付けやしませんよ。」と、土井は布団の上にあぐらをかいたまま答えた。
「まぁそうだな。うん?どうしたんだよ、新井。もう大丈夫なのか?そんな仏頂面して・・。」新井の顔に目を移して山崎は尋ねた。その新井の震えはすでに収まったようだった。しかしそんな心配顔の
山崎に、いつもの新井節が始まった。
「だって、失礼じゃ無いですか。こっちが誠心誠意、真剣に話したってのに、あの刑事達は眉をひそめて、少し寝てらした方が良いのでは?ときたもんだ。まったく馬鹿にしてる。真実を突き止めるのが
職務だってのに!」新井は仏頂面のまま、山崎に訴えた。
「ハハッ。それでプンプンして、仏頂面してんのか。新井、お前なぁ、そんな話しを誰が信じてくれるってんだよ。もし信じてくれた刑事がいたとしたら、そっちの方が遙かに怖いわ。」
山崎はそんな新井を見て安心して、ニコニコしながら布団の上に腰を降ろした。
「そんな事言ったって・・。じゃあ、山崎さんも信じてくれないんですか!」新井は厳しい眼で山崎を睨んだ。そんな新井に、山崎は心底ほっとした眼差しで応えた。
「いや、俺はお前を信じてるよ。本当に、心からな。だからもう機嫌を直せ。な?
しかしその前に、何でお前らは此処に居るんだ?そっちの方が不思議なんだが・・?まぁそのお陰で、山火事はあれだけで済んだけどな。」
「はぁ・・。山崎さん・・。俺達の夢は、潰えてしまいましたよ・・。」と、土井は山崎を見つめて、心底がっかりしたように肩を落とした。
「あれから翌日二人で、意気揚々と日光東照宮まで行きましたよ。でもね、猫の裏の上って、御本尊が祀られてる所らしいじゃ無いですか。おまけにご開帳してないから駄目だって怒られて・・。スゴス
ゴ諦めました。がっくりして、そのまま自宅に帰るなんて気分になれなくて・・。それならあの山の秘密を見に行こうって新井とそう相談して、此処に帰って来た訳なんです・・。」土井は本当にがっかり
しているようだった。そんな土井に、山崎は眉を上げて微笑んだ。。
「ああ、なるほどぉ、あの御本尊かぁ・・。うん、あそこなら俺は登った事があるけど、しかしあそこをお宝が眠ってるからって掻き回す訳にも行かんわなぁ・・。まぁ、ご苦労なことだったわけだ
わ。。
けどお陰さんで助かったよ。人の役にも、山の役にも立ったんだから、そこはエライよ。まぁ夢を追うのも良いが、人ってのはコツコツと音を立てて、そしてモクモクと湯気を上げて働いて、地道に歩く
んが一番だよ。それになんと言ってもお前達は、あの山の秘密も見られたことだしな。」
その山崎の言葉に、さっきまで項垂れていた新井の眼が、キラキラと輝いた。そしてしゃんとした姿勢で、新井は山崎に答えた。
「はい。僕はあれを見て、人生が変わりそうです。あんな事って、本当にあるんですねぇ・・。」
その新井の姿を見た山崎は、優しく二人に語った。
「うん・・。まぁ今日のご褒美として、あの山の事をお前達には追々話してやるよ。それは、お前らがいっくら気張ってその話を他にしたところで、誰も信じてはくれない話しだろうからな。
でも今日はもう寝よう。明日になれば、また新たなことが分かっているだろうしな。」
三人は二つの布団に川の字になって寝入った。外ではまだ、パトカーと消防車の赤い回転灯が回っていた。
明朝、朝日と共に鳴り響いた携帯電話の音で、山崎は叩き起こされた。
「んー・・。何だよ朝っからうっせいなぁ!何だ?あ、俺の携帯か。誰だよ、まったくぅ・・。」ぶつくさ独り言を言いながら携帯電話を見ると、それは川野からだった。
(あれ・・川野部長だ・・。どうしたんだろ?)山崎は起き上がって電話に出た。
『もしもし。山崎ですが。』
『山崎っ!お前今、一体何処にいるんだ!』それが第一声だった。
『ど、何処って・・。現場の宿舎の二階ですが?』その剣幕に驚きつつ山崎は答えた。
『そうか!昨夜そこで山火事があったろう!』
『ええ。遅くまで大変でしたが・・。でも川野さん、よく知ってますねぇ。』山崎の穏やかな返答に、川野は溜息をついた。
『はぁ・・まあ暢気な事を・・。お前、その火事を起こして死んだのは誰だか知ってんのか?』
『うん?放火犯ですか?そりゃどっかの狂った馬鹿者かと・・。』意外な問いかけに、きょとんとして答えた。
『馬鹿者だと?何言ってんだよ。ありゃなあ、山崎!稲村だよ!』
『え?』山崎もその言葉には驚いた。
『俺はこれからすぐそっちに向かう!お前もずっと其処にいろよ!』そう言って電話は切れた。
「え・・?」山崎は驚いたまま言葉を失っていた。
「どうしたんすか?山崎さん・・。こんな朝っぱらから・・。」土井が眠そうに目をこすって起きてきた。
「あー、寒い・・。」と、今度は一人布団から外れていた新井も目を覚ました。そんな二人に山崎は交互に目をやって、口を開いた。
「お前達が昨夜見たって言う、あの放火犯なぁ。あれはこの仕事のオーナーの、稲村だったんだってよ。今川野さんから連絡が入った。」
「え?」とそれを聞いた二人も目を見開いた。
「それでこれから直ぐに、川野部長がこっちに来るそうだ。まったくもう・・なにがどうなってんだか・・。」そう言って山崎は頭を掻きむしった。
三人は取り敢えず事務所に下りて、顔を洗ってお茶を飲んだ。昨夜の喧噪は何処へやら、現場には誰も居なかった。
それから三人はテレビを観ながら、カップラーメンを朝食替わりにすすった。その地元テレビのニュースでは、早くも昨夜の山火事が報じられていた。そしてその現場から一人の焼死体が見つかった事を
報じていた。
ただ、その焼死体が稲村信一郎だとは報じておらず、更に現場からあと二人の焼死体が出て来た事実と、その山火事の詳細な原因も伏せられていた。
何らかの圧力が掛かったのか、それともまだ調査中なのかと山崎は訝しく思いもしたが、警察には警察の事情もあるのかもと深くは考えなかった。
十時前に川野は現場に来た。そして事務所のドアを開けると、持って来たスーツカバーをいきなり山崎に差し出した。
「山崎、とにかく早くこれに着替えて、これから直ぐに稲村邸に向かうぞ!」そう急かす川野が持って来たスーツカバーに入っていたのは喪服だった。
「え?」とそれを見て驚く山崎に川野はせき立てた。
「良いから早くそれを着ろ。昼前には挨拶を済ませたいからな。」
現場に放火した犯人の家に、わざわざ挨拶をしに行くと言う川野の言葉に山崎は首を傾げた。が、有無を言わさず指示する川野に、山崎は従った。それはこれまでいろんな事があったが、川野は飄々とし
ながらも、間違った事を言ったことは一度も無かったからだ。
現場に残された車は、汚れた二トントラックしか無かった。仕方が無いので、二人はそのトラックで稲村邸に向かった。その車の中で川野は言った。
「お前は何故俺が放火犯を稲村だと知っているのか不思議に思ってんだろうが、警察からうちの会社に昨夜連絡が入ってな。そりゃなにせ、施工を請け負っているのはうちだからな。だから何か事情を知
っているかという問い合わせだった。その情報で、放火したのが稲村だと知った訳だ。
社内にいた連中は色めき立った。オーナーが焼身自殺をしたんじゃ、どうなるんだってな。そりゃそうだろうが。うちの会社はまだあの工事の回収を終えて無い。だから早めに手を打っとかないと、うや
むやにされる恐れがある。それを確かめる為に俺は来たんだ。稲村がどう言う思いでああいう事をやったのかは知らんが、オーナーである以上、払って貰うものはちゃんと払って貰わねばならん。まっ、こ
れからは弁護士同士の話し合いにはなるんだろうが、とりあえずきっちりと遺産相続者からの言質は取って、筋は通さんとな。それに奴がどんな理由で焼身自殺したのかも、俺も少しは興味があるしな。」
そう言って川野はニヤッと笑った。
稲村邸に着くと、十台以上の車がすでに門の前に止まっていた。
警察の車であったり何処から嗅ぎ付けたのかすでに報道の車もあったりしたが、とにかく門の中には入れない状況だった。山崎がトラックをその並んだ車の最後尾に停めると、二人は徒歩で門へと向かっ
た。その途中、報道関係者からいろんな問い掛けを受けた。
「ご関係は?」とか、「この事件について何か知ってますか?」とかの質問攻めだった。
(そんなに知りたけりゃ、自分で調べれば良い。)と山崎は思った。
(通り一辺倒な動機で考えりゃ、工事が進まないのに業を煮やしたオーナーが発狂して、そんな現場に火を放ったって事だろうに。)
二人はそんな質問には一切答えず、その門へと向かった。そして門の前に立っている警察官に川野が身分証を提示して用件を伝えると、やっと二人は門の中に入れた。
それから玄関口に立つ一人の女性に声を掛けて、屋敷の中に居る稲村夫人に面会を申し出た。
通された応接間で、稲村の妻は大きなサッシのガラス窓からじっと山を見て佇んでいた。
「この度は・・。」と川野が声を掛けると、妻の聡子は振り向いて、川野と山崎に丁寧にお辞儀をした。
「川野さん・・。この度は誠に申し訳無い事で・・。何ともお詫びのしようも御座いません・・。」
「いえ・・。奥様。お顔をお上げになって下さい。この度のことは、私共も、ただ驚いている次第です。何故稲村様があの様な事をなさったのか・・。」神妙な面持ちで川野は答えた。
「ええ・・。私も驚き、そして・・何やら心が空になったようで・・。」夫人はそう言うとソファに静かに腰を降ろし、川野と山崎にも座るように手で誘った。
川野と山崎が腰を降ろすと、六十歳程の綺麗な女性がお茶を持って来てくれた。二人が見上げると、聡子が二人に紹介した。
「こちらは吉野さんと仰いまして、少し前までお手伝いをして頂いていた方ですの。こんな折なので、私がお願いして来て頂いてるんです。」
「吉野です。」女性は軽く頭を下げた。
「ああ、先ほどの。でも私は覚えてますよ。確かこの前此処に来たときもいらしたですよね。」川野が言った。
「はい・・。」と吉野は目を伏せたまま答えた。
「吉野さんはもうこの家のお手伝いをして長いんですのよ。私なんかよりもずっと。そう、もう二十年程になるのかしら。」そう聡子は言い、吉野に顔を向けた。
「二十五年になります。」その吉野は正しく訂正して答えた。
「四半世紀も。そりゃまたすごい。ではこのお屋敷の事は、全部お分かりでしょうねぇ。」そう川野が聞くと、
「さぁ・・どうでしょうか。色々な事が御座いましたが・・。ではごゆっくり・・。」微笑んでそう答えると、吉野は聡子をチラと見やり、お辞儀をしてその場を離れた。
山崎は会話を聞きながら、それとなく聡子を見ていた。
(綺麗な女性だ・・。しかしこんな状況だというのに、落ち着きすぎているようにも見える・・。)山崎がそう思っていると、
「山崎さん、ですよね?」と、聡子はいきなり山崎を見て尋ねた。
「え?あ・・はい。」振り向き様聞かれたので、山崎は少し驚いた。
「あなたのお話しは、よく伺っております。」そう言って聡子はやんわりと微笑んだ。そんな聡子の言葉に、山崎は少し首を傾げた。
「え?私はご主人とは、これまで二度しかお目にかかってはいないんですが?」山崎はその対応に、なにやら不審なものを感じた。
「はい。存じております。でも、稲村にもしもの事があったら、これを山崎さんにお渡しするようにと、或る者から言付かっておりますので。」そう言って聡子はソファに置いてあったバッグから、一冊
の小冊子を山崎の前に置いた。
山崎はふと聡子に問うように顔を上げたが、また目を落として、ずっとその言葉を反芻して考えていた。
(或る者って誰だ?稲村からじゃないのか?そして何故、俺になんだ?)
けれどもいくら考えてみても、その答えは得られなかった。
横でそのやりとりを聞いていた川野は、意外な話の展開に、やはり不審な顔をしながら聡子に声を掛けた。
「あの・・。今日お伺いしましたのは・・。」そんな川野の言葉に、聡子は直ぐに反応した。
「分かっております。」と聡子は微笑んで川野に言った。
「ご心配のお支払いの件でしたら、滞る事無くお支払い致しますので、どうぞご安心を。」聡子は川野に静かな声でそう告げた。
「え・・あ・・はい・・。」と川野はそう答える聡子の洞察力と知性に驚いて、黙ってしまった。
山崎は小冊子を手に取り、聡子に目を向けると、
「中を拝見しても?」と遠慮がちに尋ねた。すると聡子は黙って頷いた。
山崎は無言で頷くと、その小冊子を開いた。それを開いて見ると、其処には日付ごとに丁寧に、びっしりと文字が書かれていた。
その内容とは、鶏卵、鶏肉、豚肉、牛肉、魚とあり、まるでその日の献立のようだった。しかし野菜類は書いてはおらず、どのページを捲っても、同じ記述が続いているだけだった。さすがにこれはと思
い、聡子に聞いた。
「あの、これは?」と不審な面持ちで聞く山崎に、聡子は事も無げに答えた。
「それは主人とその父が、毎日お供えした物ものを事細かに書き記したものです。」
「お供え?」あまりにも簡潔な答えに、ますます訳が分からず、山崎は眉を潜めた。
「はい。あのお山に。」そう言って聡子はサッシの向こうの山を見つめた。
そう言われて川野と山崎もその山に目をやったが、直ぐに聡子に目を戻した。
何故ならその言葉の異様さと、更に聡子のその表情には、昨夜夫を信じられない事で亡くした悲しみの影などは微塵も無く、逆にその瞳が清々しく澄み切っていたからだ。
二人はその言葉と表情に、なにやら不思議な感じを覚えた。そんな視線に聡子は気づき、二人に目を戻すと柔らかく微笑んで頷いた。
「お二人とも、私が夫を亡くした悲しみで可笑しくなったと思われてるのではありませんか?ですが、それも無理も御座いません。何故なら私はこうなることを、全て分かっていたからです。こんな事を
申し上げるとさぞやご不審に思われるかもわかりませんが、でも、本当の事です。
これから、その真実をお話します。
私は最初、この事は話してはいけないことだと思っておりました。何か罰が下るのでは無いかと怯えてましてね。けれども山崎さん。あなたは昨夜、こう仰ったそうですね。『どんなに気を張って真剣に
話してみたところで、誰も信じてはくれない話だ。』と。それを聞いて私、目から鱗が落ちた思いでした。そうだ、誰に何を話しても、ただ馬鹿にされるだけだってね。」
山崎はその言葉を思い出して、目を見張った。確かに自分は、宿舎で部下にそう言った事は覚えていた。しかし何故それをこの人が知っているのか、不思議に感じた。
「ええ。そんな話をしたのは覚えていますが、何故そんなことをご存じなんです?」山崎は怪訝な眼差しで聡子に尋ねた。
「はい。それはこれからご説明致します。」不思議そうに首を傾げる山崎を見つめながら、聡子は話を続けた。
「ですから此処で川野さんが聞いてらしても、全然平気なんです。
川野さん、少々不思議なお話をしますが、黙って聞いていてくださいね?」川野にそう微笑んで言うと、聡子はその小冊子に目を落とした。
「それは、稲村と義父が毎日お供えした品々の覚え書きなんです。そしてこれは。」そう言って聡子は、バッグからもう一冊の小冊子を出してテーブルの上に置いた。
「この冊子は、それで得た数々の秘密の情報の覚え書きです。」
出された冊子を、山崎は開いた。其処にはやはり日付と、その下には誰かの名前、場所、交わされた言葉などが記されていた。
「稲村はあの山に棲む者と、取引をしていたんです。」
「え?山に棲む者?取引?」聡子の話の意外な展開に驚くばかりで、山崎はそれ以上言葉が出て来なかった。
「ええ。取引です。それは義父の信吾朗の時から行われていたようです。その頃の冊子も残っておりますから。そしてそれに習って信一郎も取引を始め、親子二代にわたって、それで得た情報でのし上が
って行ったんでしょうねぇ。」淡々と話す聡子を見て、川野と山崎は溜息を吐いた。
「ちょっと良いですか?」話の筋がさっぱり解らない川野が、首を傾げて聞いた。
「いや、黙って聞けと言われましたが、私には本当にさっぱり、何のお話しやら見当も付かないもので・・。その・・、先程の話しの中に出て来た山に棲む者とは、一体何者なんでしょうか?」川野は真
剣に聞いたが、それでもやはり信じられないという風に首を捻っていた。
そんな川野に、聡子は淡々と答えた。
「そう・・山に棲む者・・。それは、黒影山に棲む白蛇の化身と言えばよいのでしょうか。そう言えば驚かれるかも知れませんが、その者はたびたびこの屋敷に来ては主人と話しておりました。ただ此処
で主人と話している姿は、真っ白な着物を着て長い白髪と口髭を肩の下まで垂らした、痩せた老人の姿でした。
でもその眼は真っ赤でしてね、そして影も無いんです。
私は最初その者を見た時、余りの怖さと驚きで、悲鳴を上げて腰が抜けました。でも、幾度も目にするうち、いつの間にか慣れてしまいました。
けれども今でもいきなり出て来られるとやはり怖いですし、正直あまり顔を合わせたくはありませんが・・。
その者は昨夜もいきなり現れて、そして私にこう言ったんです。
『あの男は、わしを裏切った・・。もうすでに、あやつの命は無い・・。』と。
そう言われて私は驚きました。でも、すぐに気を取り直しました。主人の行動がこのところ変だなと思ってましたし、それに私達夫婦には、もう愛情と呼べるものは何も無かったですから・・。
その者は私に目を閉じるように命じ、映像を送って来ました。変に思われるかも知れませんが、その者の声は頭の中に響く様に聞こえて、そしてその映像は、まるで夢を見ている様に映るんです。そんな
風にその者は情報を送ります。
その中で、私は山崎さんの映像とその会話を聞きました。そしてその者に、この冊子を山崎さんにお渡しするよう言われたんです。
最後にその者はこう申しておりました。
『この様な事は・・人間の世界では秘密とはならぬようだの・・。わしもそこは・・迂闊ではあった・・。』とね。本当の秘密って、本当はそんなものかも知れませんね・・。」そう言って聡子は言葉を
結んだ。
その話を聞き終えた川野は、ゆっくりと山崎に目を移し、眉に皺を寄せて山崎に言った。
「山崎お前・・。えらい奴に見込まれたもんだなぁ。でも、どうして?」
そう聞かれた山崎だったが、俯いて考えた後、川野に目を向けた。
「川野さん、それは後でちゃんとお話ししますよ。長くなるしそれに、聞いて貰いたい話しもありますから。」山崎は手短に、そう川野に答えた。
「何だよ、何か意味深だなぁ。」川野はそう言う山崎を見つめた。
そんな二人を見ていた聡子が、山崎に改めて聞いた。
「山崎さん、ですからどうか、これを受け取っては頂けないかしら?」聡子はそう山崎に声を掛けた。そして振り向いた山崎の目を、じっと見据えていた。
そんな二人は暫く見つめ合っていた。が、山崎は、
「はい、分かりました。受け取りましょう。」と軽く頷いた。その返答を聞いた川野は驚いた。
「なっ・・何言ってんだ?お前は!そんな安請け合いして!山の魔物に殺されるかも知れないんだぞっ!」川野は山崎の肩を掴んで怒鳴った。そんな川野を山崎は澄んだ目で見つめた後、穏やかに答え
た。
「良いんですよ、川野さん。これはこうなる事に決まってたんでしょうから・・。」山崎はそう言うと静かに川野を見つめた。
それを聞いた聡子の顔に、笑みが広がった。
「ああ!良かった!そう言って貰えて!その言葉を聞いて私は、重い荷物を肩から降ろしたようです。ああ、本当に良かった・・。」聡子は心底ほっとした様子だった。
そして一つ溜息を吐くと、聡子は立ち上がって、サッシから山を見つめた。
「私、この山里を去ろうと考えています。そして、海が見渡せる様な開放的な土地で暮らしたいんです。それがずっと、私の夢でしたから・・。
あ、山崎さん。お金が入り用でしたら、御相談くださいね。幸い稲村は私には財産だけは残してくれましたから。お供えするお肉も、毎日では大変でしょうしね。」振り向いた聡子は心配顔だったが、そ
の目は輝やいていた。そう問われた山崎も、穏やかに聡子を見つめた。
「ええ。万が一の時は、そうお願いするかも知れません。しかしその点は、大丈夫だとは思いますがね。」山崎はそう答えると、川野に向き直った。
「川野さん、ではそろそろお暇しますか。」
「うん?あ・・ああ、そうだな。そうしよう。後で話しは、じっくりとな・・。」二人が立ち上がると、聡子が少し待ってくれと引き止めた。そして奥から古い木箱を抱えて戻って来た。
「これが先程の冊子の全部です。それとこれも・・。」そう言って聡子が差し出したのは、この稲村家に代々伝わる、三巻の蔵書だった。
「この蔵書には、もっと秘密が隠されているようですの。もっとも私は、この蔵書などは読んだことなどありませんが・・。」そう言うと山崎をじっと見つめた。山崎もまた、聡子の瞳をじっと見つめ
た。
(この人は今、嘘をついた・・。恐らくはこの蔵書にも全て目を通したんだろう。だからこの曰くばかりの家と土地から、財産だけ持って、離れようとしているんだ・・。)そう山崎は聡子の瞳を読ん
だ。けれども直ぐに表情を和らげた。
「分かりました。ではそれも受け取りましょう。」
山崎がそう答えると、聡子は心底ほっとしたように微笑んだ。そして出してあった冊子と蔵書をその木箱の中に入れると、丁寧に風呂敷で包んで山崎に手渡した。
「では、宜しくお願い致します。ところで、山崎さんもこれで?」聡子はそう山崎に問うと、含みの在る笑みを漏らした。そんな聡子の眼差しに気付いた山崎は、苦笑いをして答えた。
「いやぁ。俺はそんな事には手は出さんでしょうな。そんな秘密を持ってると、やたら疲れそうですから。ではこれで。」二人は聡子に一礼して、稲村邸を後にした。
トラックに乗り込むと、川野は風呂敷に包まれた木箱を膝の上に押さえながら、「ふんっ。」と鼻を鳴らした。
「何が取引だか・・。あの時は俺も、変な空気に包まれて興奮しちまったが、そんな話しがあるわけ無いだろうが!強欲な夫婦が、その欲望のあまり狂っちまったのかねぇ・・。そう考えると、憐れな事
だよ。」そう毒ずく川野に山崎はチラと目をやると、トラックを発進させた。そして稲村邸を出て暫くした頃、山崎はなにか考え込んでいるような川野に声を掛けた。
「川野さん、何食います?」
川野はそんな山崎が掛けた声に、ふと我に返った。
「ああ?ああそうか。もうそんな時間か。そうだなぁ。あんなへんてこりんで非現実的な話しを聞いた後は、ガッツリと現実的に、ステーキでも食いてぇやな。」
「肉ですか。じゃあ、ステーキハウスにでも行きますか?」
「ステーキハウス?こんな田舎にそんな店あんのかよ?」川野は驚いたように山崎に目を向けた。
「市内まで行きゃありますよ。ファミレスですけどね。」
二人は市内のファミレスに入ると、共に五百グラムのステーキランチを頼んだ。川野は生ビールを頼み、それを飲みながら山崎に微妙に微笑んだ。
「なぁ、山崎。お前此処に来てから、ちょっと変わったんじゃねぇか?何か洗脳されたってのか、変な団体に加入したとかさ。」そう言って、川野は怪訝な目で山崎を見た。
「川野さん、そりゃ話しが飛びすぎですよ。」山崎はそんな川野に答えながら、煙草に火を点けた。
「川野さん。さっき言ったように、じっくりと話しますからね。」
そう前置きをして、山崎は此処に来てからの経緯を、細かく、それこそじっくりと話した。川野はステーキを食べながら最初はうわの空で聞いていたが、その内、眼が真剣になって行った。そして最後に
山崎が言った言葉に、川野は目を見開いた。
「何だとぉっ!再婚して此処に住むだとぉ!」川野は思わず叫んだ。
「ええ。もう心が固まってます。」山崎は静かに頷いた。
川野は手にしていたフォークとナイフを皿に置いた。そして背を伸ばすと、山崎をじっと見つめた。
「ふーん・・。じゃ、会社はどうすんだ?」川野は真剣な眼差しで山崎に聞いた。
「申し訳無いですが、辞めようと思います。」
きっぱりとそう言う山崎の言葉に、川野は暫くの間俯いたまま黙って何かを考えている様子だったが、目を上げると山崎に手を差し出した。
「どうしたんです?」その行為に、山崎は首を傾げた。
「煙草くれ。」そう川野は山崎に答えた。
「え?でも禁煙してたんじゃ。」
「ああ。でも今は、その禁煙を止めた。この間を、少し楽しみたいんでな・・。」川野は煙草を吹かすと、山崎に微笑んだ。
「そうか・・。まぁ、何にせよ、良かったなぁ・・。おめでとうさん。」
山崎も川野を見つめて微笑んでいた。
「今日は、その人にぜひ会って貰いたいんですよ。お願いします。」山崎はそう言って頭を下げた。
「ああ・・。分かった・・。」そう頷く川野の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
源司の家に着く頃には、もう日が暮れかかっていた。川野は車から降りると、暫く黒影山を見つめていた。
「なぁ、山崎。これからは毎日、お前はこの景色を眺めるんだなぁ・・。」しみじみと感慨深く、そう山を眺めながら山崎に言った。
「ええ。そうなるでしょうが、どうしたんです?」こんな風な川野を見るのは、山崎は初めてだった。
「何だかなぁ・・。お前が羨ましく感じちまうよ。こんな夕焼けを見られるなんてさ・・。」山には、今にもとろけそうな夕日が、最後の光りを放っていた。
二人が夕日を眺めていると、車の音を聞きつけた源司が家から出て来て、山崎に声を掛けた。
「山崎さん。」その声に山崎と川野は振り向いた。
「ああ、源司さん。遅くなりました。いろいろありましてね。あ、こちらは、俺の上司の川野さんです。」
「川野です。」と川野は源司にお辞儀をした。
「お話しは伺っております。まぁ中へ。風呂も沸いとりますでな。ごゆっくりして下され。」
三人が家に入ると、もうみんな揃っており、食卓にはご馳走が並んでいた。
川野は恐縮しながら風呂に入り、そしてみんなと酒を呑んだ。最初はおとなしくしていたが、やがて場に馴染み酒が回り出すと、ポツポツと本音を語り始めた。
「いやぁ、私もこいつとは古なじみの腐れ縁でしてね。正直、こいつが事故ってからは、そりゃあ私も落ち込みました。本当に、どう接して良いか分かりませんでねぇ。でも放っとくと壊れそうでねぇ・
・。それでも何とか、段々と元気を取り戻してくれて。しかし依然として、こいつの影はなにか残ったままでした。
それがさっき、清水さんとの再婚の話しをした時に、こいつの顔がパッと輝きましてね。そこにはもう、影は無かった。その顔を見て、私の心もまた溶けて、ほっとしましたよ。
いやぁ・・人生ってのは本当に不思議なもんだなと、しみじみ思いました。
こう言っちゃあ何だが、こんな山奥の田舎で、こんな飛びっ切りの美人を射止めるなんてねぇ・・。その、怖い山の神にも、感謝しないとですよねぇ・・。」咲子の顔を見て、川野は微笑んだ。
「そんな・・美人だなんて・・。」黙って聞いていた咲子は突然川野からそう言われて、顔を赤らめた。
「川野さんにも、綺麗な奥さんがいらっしゃるのじゃろう?」源司がそう微笑んで聞くと、川野も口を結んで微笑み、戯けて首を捻った。
「私ですか?うーん・・。そりゃ微妙ですなぁ。もうかれこれ三十年以上も連れ添ってますからねぇ。そして我が家には大学生と高校生の娘が二人いるんですが、そいつらと女房が徒党を組んで、三人で
私を攻撃するんですよ。やれ汚いだの、臭いだのってねぇ。失礼なこってす。しのぎを削るような会社でヘロヘロに揉まれて、家でトドメを射されるわけですよ。でもまぁ、そんな生活にも慣れましたが
ね。平凡と言えば平凡だけど、それが幸せって奴なんでしょうね。さっき山崎の話を聞いてて、ふとそう思いました。」川野は本当に嬉しそうだった。そんな川野に、源司も好感を覚えた。
「そうよなぁ・・。わしらもここ二月ほどは、いろいろと大変じゃった。しかし、もう何も起こらんと、わしは思う。元の平和な暮らしに戻れるとな。」そう言って源司は微笑んだ。
「そうだよ。それより早く釣りに行かないと。そうだ、川野さんも一緒に来れば良いのに。」一樹が川野にそう言うと、
「そうかい?なぁ山崎、俺も家族を連れて、時々此処に来て良いか?その渓流釣りってのもやってみてぇや。」と山崎に微笑んだ。
「そりゃいつでも。待ってますよ。」山崎も川野に嬉しそうに答えた。
「そうか。こりゃ楽しみが増えた。お前とはこの先も、ずっと一緒に居たいよ。」そう言って川野は、笑って山崎の肩を掴んでいた。
翌日、川野を駅まで送り届けてから山崎が家で薪割りをしていると、裏の道路で車が止まり、ドアを開ける音がした。山崎は鉞を降ろし、垣根からその車を見た。
其処に立って居たのは、あの刑事の北見だった。北見はスーツ姿で、やはり冷たい眼差しで山崎を見上げていた。
山崎は黙って北見に近づくと、口を開いた。
「これはどうも。後日の任意同行ってやつですか?」北見の眼を、少し睨みながら聞いた。
「いや・・。そう言う訳ではありません・・。」北見は山崎の眼を受け止めるとそう言い、振り向いて黒影山を見つめた。
「山崎さん。此処からはあの山が、とても綺麗に、よく見えますねぇ。美しくて、そしてのどかな山里の風景だ。私もまだ子供の頃に見たことがある風景を、なんとなく思い出しますよ。そしてこんな平
和な景色の中であんな事件が起こるとは、とても考えられない・・。」独り言の様にそう呟くと、北見はまた山崎に目を戻した。
「稲村の検死結果が、昨日出ました。その放火犯である稲村の死因は、頭蓋骨骨折ということでしてね。つまり、頭の天辺を叩き割られた様な打撲が、その死因だと判明しました。しかもそれは、太い丸
太の様な物にぶつかって出来た傷らしいんですよ。焼死ではありませんでした。ほぼ即死だったようですが、それは何とも・・不可思議ではありますがね。
もう二つの遺体は、やはり勝田と北山の遺体でした。黒焦げでしたが、DNA鑑定で調べました。しかしこちらの死因も、焼死では無い。驚くべき事にこちらは、何と体液をことごとく抜かれた事に依る
ものだとの報告で、検死した者も唖然として居りました。こんな事が出来るんだろうか・・ってね。
しかし県警は三体の遺体とも、焼死と言う事で処理して上に報告します。勝田と北山の事については、マスコミもまたとやかく言う事でしょうが、上が何とかまとめるでしょう。まぁ所謂、お蔵入りって
やつですよ。調べたくても、調べようが無い。
山崎さんの証言があり、その部下の方の目撃証言があったとしても、これは報告書として上には上がらんのです。報告の仕様がありませんのでね。
それからこれはおまけの情報ですが、あの稲村聡子と吉野京子は、実の親子だったんですよ。どうやら二人で稲村に取り憑いた様ではありますが、何だかその時の流れを考えると、少々背筋が寒くなりま
す。その前妻を追い出し、稲村の財産を得たんでしょうがね。私が思うに、あの屋敷の方が、あの山よりよっぽど恐ろしい。
貪欲な欲望が渦を巻いて、その中であの稲村も壊れていったのではないですかね。そう感じざるを得ません。
毎日の暮らしの中、奇々怪々とした人間模様はそんな風に後を絶ちません。私が疑い深くなるのは、そんな事例に深く関わっているからでしょうか。私も自分が壊れないように、気を付けませんとね。
ところで今日は、これまでの御無礼をお詫びしに来たんですよ。私もこの事件で、何か感じるものがあったもんですから。
どうか数々の御無礼、お許し下さい。」そう言って北見は、深く頭を下げた。そんな北見の態度に、
「そんな事はなさらんでも良い。私も少し言い過ぎました。」と山崎はそう言って微笑んで声をかけた。すると北見も柔らかく微笑み返した。
「そう言って下さると、私もほっとします。
でも山崎さん。この話は聞かなかった事にしておいて下さいね?機密事項なので。とは言っても、話したところで誰も信じちゃくれませんか。」
「まぁ・・そうでしょうね。」山崎は柔らかくそう答えた。
「ねぇ、山崎さん・・。」と言って、北見はまた山を見つめた。
「人間を超える何者かがもし居て、今回のような罰を下したんだとしたら、何故その者は、他の憎むべき犯罪にも罰を下さないんでしょうね?
そう正しく正義が行われるならば、こんな私らが汗だくになってあれこれ動き回る事も無いと思うんですよ。」北見は遠い目をして、しみじみとそう語った。
「さぁ・・。どうですかね。私にもよくは分かりませんが、神様は神様の世界でやはりとても忙しいんじゃないですか?」山崎が微笑んでそう答えると、北見はゆっくりと振り向いた。その顔は、やはり
柔らかく微笑んでいた。
「成る程ねぇ・・。そう考えれば、辻褄が合いますね。神様も忙しいか・・。ではあの三人は、その忙しい神様を怒らせてしまった訳だ・・。」
「ええ。俺はそう感じていますね。」
「触らぬ神に祟りなしか・・。拒む扉を無理に開けると、とんでも無い罰が待っていると・・。ハハッ。くわばらくわばらですな。
おっと。あまり長居しても失礼ですから、私はもうお暇します。」そう言って頭を下げてから車に乗り込もうとした北見だったが、思い出した様に振り返った。
「山崎さん、不躾なお願いなんですが・・。今度は取調室じゃ無く、居酒屋ででも、そんなお話しを聞かせては頂けませんか?普通の知り合いとして。」北見はそう言って微笑んだ。
「居酒屋で?ああ成る程、そう言う事ですか。ええそれは構いませんよ。良い居酒屋も知ってるしね。」山崎も北見にニコッと微笑んだ。
「本当ですか?そりゃ有り難い。いや自分もこんなですから、話し相手が居なくて・・。ハハッ、寂しいこってす。」そう微笑んで北見は車で去って行った。それを見送りながら、存外良い男だったんだ
なと山崎は思った。
北見が去ってから山崎は又鉞を手にしたが、ふと思い直し家の中に入ると、風呂敷に包まれたあの木箱を手に持ちまた裏庭へと出た。そして割台に木箱を乗せると、すぐ近くに浅い穴を掘り始めた。それ
から風呂敷を解き木箱から冊子と蔵書を取り出すと、それにマッチで火を点けた。山崎は丸太に腰を降ろして、その浅く掘った穴の中で、丁寧にそれを燃やし続けた。
「山崎さん、何をなさっておるのじゃ?」ふいに源司が後ろから声を掛けた。
「ああ、源司さん。お帰りなさい。いや、もうこれは不要かと思いましてね。」山崎は振り向くと、穏やかにそう答えた。
「それは昨日持ち帰って来た、あの冊子と、そして蔵書では無いか・・。」源司は少し驚いていた。
「ええ。山の神と稲村家との、因縁を記した書物です。」
「それを燃やしてどうするのじゃ・・。それは、山の神からあなたに渡せと言われた物じゃろうに・・。」源司は眉を寄せて、山崎のその行動を訝っていた。そう言う源司に、山崎は微笑みつつ答えた。
「ええ。だから燃やしてるんです。源司さんも此処に座って、一緒に燃やしていただけますか?もうすぐ、何かが起こるような気がするんです・・。」山崎は火を点けた時から、体に纏わり付く冷気を感
じていた。それは山崎を見つめ、何か言いたげだった。そして山崎の眼も、異様に輝いていた。
そんな山崎の雰囲気を感じ取った源司も、やはり何かの気配を感じ、山崎に言われるがまま其処にあった丸太に腰を降ろした。
冊子と蔵書を燃した煙は、渦を巻きながら立ち上り、やがて山の方にたなびいて行った。
「何かが起こるとは?」真剣な眼で源司は山崎を見た。
「源司さん・・。もう起こってますよ。」
その言葉に山崎がそう答えると、二人の正面に置いてあった丸太がズズッとずれて、その上に朧に、白い着物を着た翁が座ったまま現れた。だがその眼は穏やかで、赤い眼では無かった。
それを目の当たりにした源司は、
「お・・お・・。」と呻き、後ろに仰け反った。
その翁は、源司に優しく微笑むと、山崎を見つめた。
『秘密はもう、要らぬと言う事か・・?』源司と山崎の頭の中に、その声が響いた。山崎は翁を見つめ、そして心の中で言った。
『はい・・。もう要らぬかと思います・・・。』
その声は源司にも聞こえていた。しかし源司はその翁と山崎を見つめるばかりだった。
『取引もか・・?』その翁は、山崎に問うた。山崎もまたその翁に、心の中で答えた。
『取引・・?元々そんな取引など、無かったのではありませんか?
その強靱な根をもってすれば、狩りなどいくらでも出来たかと思われますが?』そう山崎は翁に問うた。
『ふむ・・確かに・・の。わしもこれまで、取引なるものをした覚えは無い。ただ聞かれ問われるがまま、答えた迄のこと・・。
そう、あれは・・その発端は、あれはまだ信吾朗が幼き頃のことだ。あどけないがしっかりとした眼で、何故父を殺したのかと、祠の前で問うてきた。
何者かが山に棲んで居ると信じていたのであろうが、幾日も幾日も、足繁く通い続けた。わしはその根気と熱意に負けて、ついに口を開いてしもうた。そしてその信吾朗に、父を殺した理由を語って聞か
せた。
信吾朗は黙ってそれを聞き終えると、わしに言った。
己が身を守るのは、それは当然かと思うとな。自分の父は、八つ当たりから山を燃やそうとしたから殺されたんだと言い、それでも涙を流していた。わしは黙って聞いておったが、やがて信吾朗は眼を拭
うと、わしに言った。
自分はまだ幼く、そして貧乏だと。だから賢くなりたい。だから教えてはくれぬかとな。
わしはそれを承諾した。聞きたい事があれば、いつでも答えようとな。それを取引と考えたのは、信吾朗なりの考え方であろう。
だが、わしはやはり、その真実は黙っておった・・。』そう語って翁は眼を伏せた。
『真実・・。その真実とは?』意外な翁のその言葉に、山崎は翁をじっと見つめた。
その問い掛けに、翁は暫く黙っていた。けれども眼を上げてじっと山崎を見つめると、重い口を開いた。
『うむ・・そうよな・・。しかしそれは、あまりにも深い因縁でな・・。これまではこの胸の奥に、じっと隠しておった。しかし事が済んだ今では、もう隠す必要も無いであろう。その真実を、今から語
ろう・・。
その真実とは、この一連の出来事は全て、二つの対立する魂の怨念から発生した歴史であるということだ。その二つの魂とは、一つはおゆうであり、もう一つは信佐の魂である。
その二つの魂は、その激しい怨念ゆえに死んでも昇華せず、この世に根付いた。おゆうの魂はわしの元で根付き、そして信佐の魂は、その後の子孫に取り憑き続けた。
その二つの魂が抱く怨念とはどこまでも深く、そしてその怨念の炎は、わしとて消すことが出来ぬほど、凄まじいものだった。
しかしその対立の中でも、わしは常に中立を保ってきた。それは、無慈悲な殺生をするべきでは無いとの、その思いからだ。
けれども、その信佐の魂の怨みが子孫に受け継がれてこのわしに向けられた事を知った時、わしはいきり立った。これまでの教えも忘れて、この自然を壊すのかとな。けれどもわしはその心を押し沈め
て、これまで通りに、信吾朗にはあらゆる事を教えた。』
『何故そのような事を・・?』山崎はその翁を見つめて問いかけた。
『そうよな・・。最初はあどけない、真剣な心に対する憐憫からであろうか・・。だがそれは徐々に、興味へと変わっていった。
そして信吾朗が裕福に成るに連れ、それは専ら興味だけになった。蠢いておる人間に対する、興味だけにと、な・・。それは信一郎についても同じことだ。信一郎も父親からその秘密を教えられ、それに
習った。わしも又、その関係の中で学んだ。人間の習性と行動、その心の機微をな。』
『人間に対する興味?』山崎は怪訝な思いを翁に伝えた。するとその翁は、それを説明した。
『うむ・・。これまで長い年月を通して見てきた人間とは、わしが思うに、秘密の中で蠢いておる生物ではないかとな。秘密無くしては、その社会も秩序も根底から覆る、そのような珍しい習性を持つ生
物ではある。だから興味がある。』
『・・そちらの世界は違うのでしょうか?』山崎はまた問うた。
『うむ・・。わしらの世界は違う・・。例えて言うなら、お主の頭の中の様でな。お主は頭の中で、秘密など無いであろう。それがただ、広いだけだ。分からぬ事があっても、それは気が付かぬだけであ
って、知らぬ訳では無い。
しかし人の世は違う。もし秘密が無ければ、そしてそれを守らなければ、直ちに崩壊する。わしにはそんな脆い世界にも見えるのだ・・。
そして疑心暗鬼と言う人の言葉があるが、正にそれが人間社会の中核を成しておる様にも思う。
正義や合理性を叫ぶ魂もその中には少なからず居るが、最後は力を持つ主人格の魂の感情がそれを追い越してしまう。
そしてその主人格の顔色やら虚実を見極めながらの行動では、所詮は空鉄砲であろう。実行力と速さに欠ける。虚しくもあり、時にその行動は、愚かにも見える。』
山崎はその言葉を聞いて、少しムッとした。高い処から見下げている、その姿勢に反発を感じた。
『だからあの三人、いや、その前も人を殺したと!』心の中でそう叫んだ。それに対して、翁は静かに応えた。
『そうでは無い・・。良く聞け・・。
おゆうの魂もまたそのように、時に怨みだけを抱いてわしの中で激しく悶える。普段なにもなければ、ただ無邪気で可愛い魂なのだ。だからわしもおゆうを、我が子のように愛してもおる。
ただ怨みを思うたその時は、わしにも手が付けられぬほど荒ぶる。その怒りはわしをも凌駕し、そしてわしはその強い思いに、抗うことが出来なくなる。
信佐の魂もまた同じ様での。その怨念が子孫に取り憑くと、その心を支配し、その憎悪の眼を山に向ける。
その怨みに満ちた眼や行いを目にすると、おゆうの眼もまた憤怒に見開かれる。その繰り返しであった。
しかし・・それももう終わった・・。わしは心から安堵し、そしてお主達にも感謝しておる。おゆうも喜んでおるでな。もうあのような、怨念にいきり立った眼を見ずに済むであろう。
我らは人の世に関わりなく、我らの世を生きておる。あれは危機感と我々の正義心から、否応無しにしたまでの事。関わらなければ、近寄らなければ・・何もする事は無かったであろう・・。
時と生態の観念が違えば、やはり物や魂に対する見解も違う・・。それに伴って、悲しみも喜びも、また違うであろう・・。
しかしわしは、それを知りたかった。その触れ合う部分を、わしは探した。が、・・まだわしも未熟なようでの。良くは分からぬ・・。
しかし、これからお主が育てるであろう木々を通して、わしはそれを学びたく思う。またそれを通して、わしの気持ちも少しでも分かってくれれば、嬉しくも思う・・。
もうこの様に話す事も無いとは思うが、それを忘れずにいて欲しい・・。
最後に一言言い添え置く。その蔵書やらをお主に託したのは、恐らくお主はそうしてくれるだろうとのわしの思いからだ。そしてその思いは、やはりおゆうも同じでの。家族である子孫を託すのは、お主
がふさわしいと思うたのだ。そしてお主の家族の霊を呼んだのも、おゆうのその思いからである。
いずれ時が経ち、それぞれの魂が望めば、お主の家族達は昇華する事が出来るであろう。それまではこのわしの元で安心して宿っておる。
けれども、わしとおゆうはずっとこのまま生き続けるであろう。もう身も心も、一心同体なのでな。
では、皆の末永い幸せを、わしとおゆうは願うておるでな・・。』そう言って微笑むと、その翁は霞の様に消えて行った。
その翁が座っていた丸太を、源司と山崎は暫し黙って見つめていた。それから二人は目を合わすと、遠くに聳える黒影山を仰いだ。
「山崎さん。わざわざ山の神様が、来て下さったようじゃのぅ・・。」感慨深げに、源司は呟いた。
「ええ・・。出来ればもっと、話しがしたかったと言うのが正直なところですが・・。でも、やはりこれで良かったと思います。山の神様が仰ったように、私もまた、学びますよ・・。」
それからまた二人は、お互いに黙ったまま、書物を燃やし続けた。そしてその炎を見つめながら、源司と山崎はそれぞれの心の中で、生命と魂のことを考えていた。いくら考えてみても及ばない、その道
のことを・・。
夕刻。スナック「時の隙間」では、土井と新井が、真美と悦子を相手に酒を呑んでいた。
「ちょっとぉ、それって、本当の話なの?」真美が首を傾げて土井に聞いた。
「だって山崎さんがそう言うんだから。なぁ、新井。」
「うん。そこまで深くは分からないけど、僕もはっきりと見たしね。植物のネットワークと言うか・・そんな現象をね。でもそんな知性が植物にあるってのは、まだ分からないけど・・。」
「じゃあ、今のこの話も、全て筒抜けって訳?それで下手なこと言うと、その根に殺されるっての?」悦子がその新井の言葉に驚きつつ聞いた。
「さぁ・・。それは無いと思うけどね・・。だってこの店には窓も無いし、根が入り込む隙間も無さそうだしねぇ。まぁ所謂、安全地帯だよ。でもさぁ、こんな話しで殺されたんじゃ、たまんないよね
ぇ。それじゃ何人死んでるって。」楽観的な土井が答えた。
「そうよねぇ。此処は日頃の憂さの落とし処だもんね。そんなこと言ってたら、居酒屋は全部無くなってしまうじゃないよ。それにこの店で植物っていったら、あの鉢植えの薔薇だけしか無いし・・。」
真美がそう言うと、みんなその鉢を見た。カウンターの隅に置いてあるその鉢には、綺麗に咲いた赤い薔薇が、俯き加減に咲いていた。
「あれは大丈夫だよ。だって根があの中で収まってるからね。まさかワイヤレスってわけじゃ無いだろうし。」そう新井が言うと、
「わっかんないわよぅ?私達人間よりも、遙かに昔からこの地球に居たわけなんだからさ。とんでもない文明が地下に在ったりして。」と悦子が戯けて答えた。
「あー、やだやだ。何だか私、あの薔薇が宇宙人に見えてきちゃった。」
「あ、ママ、それ当たってるかも知れないよ?毎日宇宙人を見て、宇宙人を栽培して・・。」
「宇宙人を食べてるわけ?やだ土井坊、そんな事想像したら、野菜が食べられなくなっちゃうじゃない。」真美がそう土井に訴えた。そんなやりとりに、
「でもさぁ、植物って、五感があるんじゃ無いの?色があるのは眼があって、香りがあるのは鼻があって、蜜が甘いのは味覚があって、温度を感じて反応してるんだから、きっと触覚もあるのよ。お辞儀
草ってのもあるんだから。」と、悦子がみんなに説得するように言った。
「じゃあ後は耳と言葉だけ?そう言えば良い音楽を聴かせると成長が良いって、テレビで観たことある。」真美はカウンターの中から身を乗り出して言った。
「これで全部揃った訳だ。そして聞いてるんだから、言葉もある。
何だか僕たちって・・地下に張り巡らされたネットワークの上で、主役は俺達って、虚しく叫んでるみたいだね・・。」新井はそうしんみりと語った。それを聞いた真美は、大きく目を見開いた。
「新坊、それじゃあ私達は、まるで無邪気にお道化てるピエロみたいじゃないの・・。
でもさぁ・・それでも良いか・・。それならみんなで、うんと楽しく踊ろうよ。この地球の上でさ。」そう言うと真美はニコッと微笑み、みんなの前に新しくビールを出した。
それからまた四人は妄想を膨らませて、その想像の世界に酔いながら酒を呑み、楽しく笑い合っていた。
そんな夜が更けていくにつれ、そのカウンターの隅に置かれた薔薇はゆっくりと首をもたげるとその花を回して、いつしか四人を、静かに物言わぬまま、じっと見つめていた。
了