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池木屋山二  作者: 利田 満子
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バスに乗って

いろんなことを思い出しているうちにバスは松阪市内を抜けて国道一六六号線を西に向かって走るようになった。乗客の数が徐々に減っていくのがわかった。バスは櫛田川に沿って走っている。窓から見える景色が夕闇に沈んでくすんできた。運転手はヘッドランプを点けた。薄明るい車内灯も点いて突然お互いの顔がはっきり見えてしまって私はびっくりさせられた。

「智子、やっとだな」バスに乗ってから一言も喋らなかった賢一が話しかけてきた。私は彼の言いたいことがわかる。だが、私は返す言葉がすぐには出なかった。

「智子、どうしたんだ」

「埃が目に入ったのかな。・・・でも、やっとね」私は俯き加減だった顔を少しだけ上げると言った。

「そうだな。やっとだな。登れるかどうかはわからないけれど、とにかくメンバーがそろって出発できたし、後は天気がどうなるかだけだな。晴れてくれるといいんだけどな」

「うん、問題は天気よね。山はパーティー全員が予定通りに出発できたら半分以上成功だって言うけど、半分の成功じゃ嫌よね。今回は絶対に登りたいし、去年のようにはなってほしくないでしょ」

「ああ、少々天気が悪くても登るさ。そのつもりだよ」

「でも、やっぱり山は天気次第な面もあるのよね」

「そやけど、出発した以上登るんやろ」少し離れたところで吊革につかまっていた貴洋が体をねじらせて私たちの方へ近づいてくると言った。

「二人とも天気のことを心配しとるけど、大丈夫やと思うで。十日くらい前からずっと新聞の天気図を見とるけど大きく崩れるようなことはあらへんと思うわ。ただ、寒気が入って来るかも知れへんけどな。そやけど、少しくらい悪ても登るんやろ。この気持ちがあらへんと登れへんわ。なんちゅうてもこれは俺らの最後のチャンスやからな」私たちは意気軒高だったが、他の乗客たちには次第に大きくなった貴洋の声がうるさそうだった。

 ある停留所でたくさんの人が降りて空席が目立ったので席に着こうかと思ったら、次の停留所で制服姿の高校生がたくさん乗り込んできた。私たちは三人だけの世界に浸っていたが、すぐにこの日が授業のある日だった現実に戻された。彼らはきちんと授業を受けて帰るところなのだ。それに比べて私たちは病気でもないのに学校を休んで山を登ることに夢中になっている。かなりバスに揺られて疲れてはいたけれど、とても座席に腰をおろすことはできなかった。賢一も貴洋も同じような気持ちだろう。何か喋りたかったが、気後れがした。

 宮前のバス停で運転手が交代した。少し休憩した後、バスはまたもや壊れそうな車体の軋む音をたてて走り出した。停留所に停車する度に乗客が減っていく。乗ってくる人はなかった。

「智子、座ろうぜ」賢一が言った。私は頷くと賢一の隣に腰をおろした。貴洋は私の前の席に座った。

「それにしても時間がかかるなあ。着くんは何時ごろやろう」貴洋は私と賢一の方に振り向いて言った。

「さあ、どれくらいかかるかなあ。去年乗ったときは夏だったから日も長かったし、着いたときはまだ明るかったなあ。午後の六時は過ぎていたと思うが」

「でも、テントを張ったり、食事の準備をしているウチにすぐに暗くなっちゃったわよ」

「そんなら着くんは六時半くらいかなあ」

「そんなもんだろう」

「そんなら暗い中でテントを張ったり、飯の支度をせなあかんのかなあ」

「当たり前でしょう。今だって十分に外は暗いのに」

「嫌やなあ」

「だって、仕方ないでしょ」

 三人で話しをしているうちにバスは森の停留所を過ぎると国道から別れた。かろうじてバス一台が通れるような細い、でこぼこした道を右に左にハンドルを切って走っている。ヘッドライトが舗装されていない凸凹道を照らしている。車内灯の明かりで右側は急な山肌が道まで迫っているのが分かった。左側からは蓮川の流れる音が聞こえてくる。谷底から聞こえてくるように深くはなかったが、道路のすぐ下を流れているようでもなかった。乗客もほとんどいなくなって軽くなったバスは今までの遅れを取り戻すかのように飛び跳ねるようにして走って行く。すごい振動で私たちの身体は何度も座席から浮かび上がった。下手に喋ろうとすると舌を噛んでしまいそうだった。

 女子高校生が一人清瀬のバス停で降りてしまうと乗客は私たち三人だけになった。バスはさらにスピードを上げて走った。まるで私たち三人が乗っているのを忘れてしまったように。そして一日の仕事の終了を急ぐように。

 バスは三軒屋に着いた。いけないことをしているのはわかっていたが、それとは別に私は何かとんでもない所へ来てしまったような気がした。ここに来たくてしょうがなかったのにすぐには帰ることができない。賢一と貴洋はすぐに座席から立つとリュックサックを背負った。二人はどう思っているのかわからない。私は二人に遅れてゆっくりと座席から立ち上がり、床に転がしておいたリュックサックを背負って運転手のいる車両の前方へ移動した。五十過ぎに見える運転手は席から立つと私たちに話しかけてきた。

「おまえさんら、どこから来たんだね」見慣れない者が終点まで乗ってきたので尋ねてみたくなる気持ちはわかる。

「伊勢市からです」賢一が少し早口で答えた。運転手の好奇心は一つの質問だけでは満足しなかったようだ。

「おまえさんら、そんな格好で何をしに来たんだね」リュックサックを背負っているのを見れば山を登ろうとしていることがわかっても良さそうだし、このバス路線には登山客も乗ることもあるのに、運転手のこの質問は私を落胆させた。「山に登るんですよ」賢一は再び早口で答えた。

「山にぃ。今からか。もう夜やのに」

「まさか。山は明日登るんですよ。今夜はそこらへんで泊まるんですよ」

「そうやろな。いくら何でも夜登るやつはおらへんわな。そやけど、ここらの夜は寒いでえ」

「本当は泊まったりしたくはないんですけどね。ここはバスが一日に一本しかないでしょう。だから、泊まるんですよ」

「そやけど、どうやって寝泊まりするんや」

「あっ、それはテントを張りますし、シュラフもありますから」

「ふうん、なるほど。ところでシュラフて何や」

「寝袋のことですよ」

「ああ、そうか。そやけど、あんたらも好きやなあ。あれ、男の子だけやと思たら、女の子もおるやんか。ようやるでぇ。気ぃ、つけやなあかんでぇ」

 女の子を馬鹿にしたような言い方と目つきに少し腹が立ったが、それよりも早く話しを終わってほしかった。背中に重いリュックサックを背負ったままで立ち続けるのは結構辛いことだった。

「はい、わかりました。十分に気を付けます」賢一が運転手との会話にけりをつけると私たちはバスから降りた。顔を見れば私たち三人が高校生であることがわかったかも知れないが、何も聞かれなかったことにほっとした。もし、聞かれたら大学生と答えるつもりだった。バスの車内から漏れる明かりで腕時計を見ると午後六時半を過ぎていた。道を挟んで五、六軒の建物があった。辺りは真っ暗だった。明かりがあるものと言えば今降りたバスの車内灯と一軒の古そうな店屋だけだった。車内では運転手が掃除をしているようだった。店屋の明かりは弱々しかった。私たちは背負っていたリュックサックを店屋の前に並べてその明かりで靴の紐を締め直した。店の中を覗くと普通の雑貨屋兼食料品屋にあるような物が並んでいるのだが、埃がついていたり、色が褪せたりしているものだからそれらの商品がすごく古いように感じられた。

 先ほどまでバスの中にいたので余り気にならかったが、身体が急に震えてきてかなり寒いことに気が付いた。吐く息が明かりで白く見える。私はリュックサックからヘッドランプを手早く取り出すと頭に付けて点灯させた。賢一と貴洋もヘッドランプを点灯させた。リュックサックを背負って歩き出そうとしたとき、私たちは六十は過ぎている思われる店の男性の人に呼び止められた。

「おまえさんら何処へ行くんや」

 この問いには最後尾にいた貴洋が答えた。

「宮の谷の出合までやけど、今晩あそこにテントを張ってもええでしょうか」

「ああ、ええじゃろう。そやけど火の始末はちゃんとせなあかんでえ。そやけど、あんなとこにテントを張って何するんや。このクソ寒いのに」

「明日、山に登るんやけど」

「何ちゅう山に登るんや」

「池木屋山やけど」私は会話がまた続くのではないかと心配になった。皆さんが普段見慣れないよそ者に興味を持つのは理解できるが、足止めをされるのには参った。しかし、その時車内の掃除を終えたらしいバスの運転手がやってきて早口で何か喋りかけた。店の人は首を縦に動かして納得したような顔になった。

「池木屋かな。おまえさんら、気ぃ付けて行っておいでやあ。危ないことはないけど、無理したらあかんでぇ」

「はあい、わかりました」私たちはそろって元気に返事をすると真っ暗な道路を歩き出した。全くリュックサックを背負ったまま立っていることほど辛いことはなかった。寒いのですぐにでも歩きたかった。何とか話しが終わってくれてほっとした。

 歩いていると弱い風が吹いてきた。それは結構頬に冷たかった。耳には痛みを感じた。指先も袖の中に引っ込めたくなるくらい冷たくなった。宮の谷の出合まで十分ほどの歩行であった。こんな短い距離ではほとんど身体が温まってくれそうにもない。身体は温まってくれないと困るのだ。

 先頭を歩いていた賢一が立ち止まった。左を向くとヘッドランプで蓮川に架かる吊橋を照らした。宮の谷の出合だ。ついにここまで来れたのに何故か戸惑っている自分に気が付いた。思い描いていたことが現実になって嬉しいはずなのに引き返したい気持ちがある。しかし、引き返すことはできない。バスは朝早くに出る便が一本あるだけだ。計画を練っている時は頭の中で進行を想像しているので気分も高揚して池木屋山に登ろうとする強い思いがあったが、現実に身体を動かし肌が空気にさらされていると行きたくて仕方がなかったはずなのに何故か意欲が後退するのに気付いた。進む場面なのに気持ちが萎縮している。大きく息をして弱い自分を押さえ込むと前に足を出した。

 吊橋は人が一人通れる幅しかなかった。まずこの吊橋で蓮川を右岸へ渡る。少し川下へ歩くと宮の谷の流れが右から合流しているのでそこを渡らなければならない。石伝いに渡れれば足を濡らさなくてもすむが、そんな場所があるだろうか。対岸へ着いて流れからちょっと登ると小さな祠のある広場がある。そこはテントを張るのに適している。昨年の記憶が蘇ってきた。また吊橋を渡ったところに民家が一軒あったのを思い出した。明かりは見当たらない。賢一、貴洋、私の順に一人ずつ吊橋を渡った。記憶では川面からはそれほど高くはないはずだったが、川の流れる音を聞いているとものすごく高いように思えてしまう。流れの勢いも激しそうだ。ヘッドランプの光は吊橋の板を照らした。板を照らさなかった光は不気味な音をたてる真っ暗な流れに吸い込まれていった。板が所々朽ちている。朽ちた板に足を置かないように用心しながら歩かなければならない。もし足を置いてしまったときのために左右のワイアーに手を置きながら歩いた。錆びかけてざらざらしたワイアーが冷たい。こわごわ渡った私は二人に遅れてしまったが、二人は民家の前で待ってくれていた。賢一が民家の表戸を指差している。

「誰もおらへんみたいやなあ」貴洋が表戸を軽く押すとポツリと言った。賢一は軽く頷くと私たちを促した。民家の前を通り過ぎると宮の谷の流れの前に出た。

「ねえ、どこか石伝いに渡れる所はないかしら」私は心細そうに言ってしまった。「だって靴を脱ぐのが面倒だし、冷たそうじゃない」

「そうやなあ。石伝いに渡れるような所を捜すか」貴洋はリュックサックを降ろすと岸に沿って川上に向かって歩き出した。すぐに彼のヘッドランプが照らす範囲が小さくなっていった。私と賢一はリュックサックを降ろして川面を照らしてみた。深くはないようだが、流れは速そうだった。じっとしているのは寒い。しばらくすると貴洋が戻ってきた。

「ちょっと行ってみたんやけど、なかなか渡れそうな所はあらへんわ」

「ちゃんと捜したの」

「ちゃんと見たさ。何なら、明日見てみてもええわ」貴洋が自信たっぷりに言うので私は視線を川面に向けて首を縦に小さく動かして納得した。

「それじゃあ、靴を脱ぐか」賢一は覚悟した気持ちを込めて大きな声で言った。

 今から徒渉である。私たちは登山靴とソックスを脱ぐとリュックサックにぶら下げた。賢一が水際に立ってヘッドランプの光を頼りに流れの浅そうな所を探している。

「おいっ、どこか渡れそうな所はあるか」貴洋が言った。

「どこでも良さそうなんだが、川床が平らな方が良いだろう」流れから目を離さずに賢一が答えた。

「ああ、そうやなあ」

 賢一は頭を動かしてあっちこっちにヘッドランプの光を向けた。

「よし、ここにするか。水に濡れるといけないからズボンの裾は捲り上げた方が良いぞ」賢一は流れの中に歩を進めた。

「捲り上げるくらいなら脱いだ方がええんと違うんか」貴洋は冗談っぽく言うと私にヘッドランプの光を当てた。私はズボンの裾を捲り上げる手を止めた。

「ねえ、そんなに深くはないんでしょう。脱がなくちゃならないのなら帰るから」

 貴洋は時々つまらないことを言って私をいじってくる。もう慣れっこになっているが、その都度私はそれなりに対応してやる。

「大丈夫だよ、脱がなくても。でも川床が苔でぬるぬるして滑りやすい所があるみたいだから気を付けろよ」賢一はそう言うと流れに足を入れた。

「おいっ、なかなか冷たいぞ」

 間を開けると貴洋も流れに足を入れた。

「おお、冷たいわ、これは。はよ、あっちへ渡らんと足の感覚がなくなるわ」

 賢一は対岸へ渡った。腰をおろしてタオルで足を拭いている。私はためらっていたが、渡らないことには今夜のテント場に着かないので付近に転がっていた枯れ木の枝を杖代わりにすると、一大決心をして流れに足を入れた。

「ひゃあ、冷たい」悲鳴のような声が出てしまった。なるべく冷静でいたかったが、この冷たさには参った。足が痛いくらいだ。冷たさが音速で頭のてっぺんまで突き上げるようだった。少しずつ足をずらしながら進んで行くと流れが深くなるように思われたので私はさらにズボンを捲り上げた。

「智子、大丈夫かあ。転ぶなよ」前を歩いていた貴洋はふざけたような口調で言うとヘッドランプで私の膝から下を照らしてきた。そして驚いたような口調で言った。

「わあ、智子。この冷たいのによう大根を二本も洗う気になるなあ」貴洋がまたつまらない冗談を口にした。

「どこにも大根なんてないわよ。あんたこそちゃんと前を見て歩かないと転ぶわよ」

 私は自分の脚が人に見せるほどスマートでないことは自覚している。しかし貴洋の言葉には頭に来たので大きな声を出した。そしてヘッドランプの光から逃げるために横に移動した。その時、川床の石で足を滑らせてバランスを崩しそうになった。

「きゃああ」冷たい川の恐怖で思わず悲鳴が出てしまった。恥ずかしかったが、普段は出ないような声がだった。慌ててバランスを取り戻そうとしたので大きな水の音も立ててしまった。

「智子、どうした。大丈夫か」岸から賢一が声をかけてくれた。危うく転んでしまうところだったが、何とか冷水浴だけは避けられた。

「うん、大丈夫。ちょっと足を滑らせただけ」私は落ち着いた声で答えた。

「そやから、さっき転ぶなよって言うたのに」

「それ以外にも何か余計なこと言わなかった。バランスを崩したのはそのせいよ。馬鹿」私は杖を振って貴洋の顔に水しぶきを浴びせた。

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