はじまりの話 壱
一人の魔術師の男がいた。彼は強大な力と明晰な頭脳を持っていたが、人と馴染むことができなかった。たった一人で人里離れた所に住み、ごくたまに訪れる客を相手にするくらいで、あとは研究に明け暮れていた。
ある日、一人の老人が男の前に大金を積み言った。「死にたくない。もう一度、あの頃の若さが欲しい」と。
深いシワを刻む肌、薄くなった髪、掠れた声。弱々しくも思える老人のギラギラとした眼だけがひどくアンバランスで、醜悪に思えた。大金は惜しかったが、術はない。老人を追い返し、また研究に没頭しようとした。しかし、集中しようとするとあの老人の姿が思い浮かぶ。なぜだろうと頭をひねり、そして気付いた。あの老人の姿は未来の自分だと。人の人生は短い。成果を見ぬまま果てるなど、耐えられない。自分はまだ若く、そして魔力がある。あの老人には術がないが、自分にならできる。とても簡単なことだ。男は今まで考えもしなかったことに驚き、そしてこの発想を与えた老人に感謝した。
数百年の時を男はひっそりと生きた。しかし、その存在を隠し続けることはできなかった。悪い魔術師として、複数の男達が押し入ってくることも何度かあった。その度に返り討ちにした。たまに魔力を持った人間もいて、それは美味しくいただくことにした。自分が負けないとわかってはいても、静寂を好む男にとってはひどく煩わしかった。さて、自分が静かに生きるためには何が必要か。とりあえずこの地に住む人間を管理することにしよう。
更に数百年の時が過ぎ、人間を管理する体制は整っていった。今はまだ騒がしいが、しばらくすれば静寂が戻ってくるだろう。男はまた研究の日々に戻っていった。
数年後、その静寂は男の思わぬ形で姿を消した。老いぬはずの男に白い兆しを見つけた時に。
男はひとつの仮説をたてた。魂の老朽化だ。人間は体が死んでもまた新たな体に生まれ変わると言われている。生まれ変わりの研究と実験は男の関心をひくもののひとつだった。観察していたもの達の大半は死んでも新たに生まれ変わってきていた。ただごく稀にいくら待っても生まれ変わりを確認できない者もいた。見つけられなかっただけかと思っていたが、魂自体に寿命があるのなら。800年余りの時を生きてきた自分の魂はきっと残りわずかなのだろう。そう考えた瞬間に激しい感情の波と共に遥か昔に1度だけ会った老人の姿を思い出した。「死にたくない。あんな風に醜く老いたくはない」
男は"自分"が生きるため、狂ったように研究をした。まるで体が時間の経過を思い出したように老いは急速に進んだ。1年の間に10歳は歳をとったようだ。鏡は恐ろしくてもう見れないが、目に写る手に美しさはない。だが、模索していたことは形になろうとしている。後は器の作成だ。新しい体、新しい魂、強大な魔力を持つ器が望ましい。それには時間がかかる。急がなければ。男は"狩り"をするべく人里へ降りていった。
"狩り"の成果は上々だった。美しく魔力豊富な若い女。泣き喚き、暴れる。恨みのこもった目で睨み付ける。もっと人形のような大人しい娘がよかったが仕方があるまい。美しさも魔力も彼女が一番だったのだ。彼女の胎の中に仕込んだ種は順調に育ち、そして産まれた。新しい体、新しい魂、強い魔力をもつ美しい娘だった。
子供が乳を必用とする時期が終えると、女は処分した。気の強い女は器となる子供を育てるには邪魔だったからだ。男は長い時間をかけて、少しずつ子供に自分の魔力と記憶を注いだ。はじめのうちは、意味もわからずキョトンとした顔で見つめてきた娘は、年とともにその記憶に怯えるようになった。記憶を植え付けられることを嫌がったが、それを許しはしなかった。自分に怯えるだけで、その他の感情を一切表さない人形のような娘。それは男にとってまさに理想的な器だった。食事と記憶の植え付け以外の時を娘がどのように過ごしているのかは知らなかったが、特に問題はないと思っていた。男には器を入れ換えた後の準備のためしなければならないことがたくさんあったからだ。
娘が15を迎えた時、ようやくここまで来たかと思った。男の体はもはや生きているのが不思議な有り様だった。手足の指はいくつかの欠損し、腰は折れ曲がり、杖にすがらなければ歩行もできなかった。後は実った果実をもぎ取るのみ。男は娘のもとへ向かい、器の作成が失敗したことを知った。もっと注意深く観察していれば気づけただろうに。男は歯噛みし、最後の望みを託し、娘の宝を取り上げた。しかし、娘の瞳から強い意志が消えることはなかった。あの女によく似た瞳がこちらを睨み付ける。
男は一人乾いた笑いをあげた。打つ手は尽きた。意志の力のみで支えたこの体はもうすぐにも果てる。無念であるはずの最後なのに、何故か心地よかった。だが、睨み付ける娘を見るとひどく意地悪な気持ちが沸いてきた。自分と同じ人外の生を歩ませてやろう。男は声に出して一つずつ呪いをあむ。複雑に絡めたいくつもの呪いの先に、ひとつの希望をぶら下げて。上手にたどらなければ、細い糸の先の希望は簡単に落ちる。制限時間は900年ほどか。
「己の魂が尽きるまで醜くあがけ」
魔術師の男は長い生を終えた。