第27話 伝えたかった答え
藍葉深園はゆっくりと瞼を開けた。
どうやら樹の幹を背にして座っているらしい。
ひんやりとした夜風がショートカットの先端を優しく揺らしている。ズキズキと痛みを発しているのは、眉間の奥にある界力下垂体か。意識がぼんやりとしてすぐには状況を把握できなかったが、目の前に広がる光景を見た途端、苦い感情を伴って途絶えていた記憶が蘇ってきた。
「(……ああそうか、私は)」
負けたのだ。
月明かりに照らされているのは、爆撃でもされたみたいにボコボコと荒れ果てたアスファルト。元々の経年劣化も相まって、地元の漁師でも訪れない磯場みたいな様相を呈している。歩く時は足下に気を付けなければ簡単に躓いて転びそうだ。
すぐ横には刀身が緋色の剣が置かれていた。炎臣の鍛冶の切り札『黄昏の剣』だ。すでに焔のような輝きは失われており、無価値な鉄塊にしか見えない。敷地内のあちこちに散乱している他の西洋剣と同じく、あと数時間もすれば粉塵となって朽ち果ててしまうだろう。
「おはよう、姉さん」
「……裕、史?」
虚な目で見てみれば、すぐ隣に座る藍葉裕史が穏やかな表情を向けていた。若葉色の入院着に身を包んだ細身の少年は、ほっと安堵の吐息を漏らしてから、
「どこか痛む場所はある?」
「体中が痛いかな。血が足りなくて頭がぼーっとするし、火傷したみたいに肌がヒリヒリするし、何だかすっごく眠たいし」
「ははは、全然大丈夫じゃないね」
「笑い事じゃないよ、まったく」
長く息を吐き出すと、深園は視線を上に向けた。大きな居待月の周りで輝く無数の星々が、藍色の天蓋を煌びやかに彩っている。お月見団子やススキの穂を彷彿とさせる秋の夜空だ。
敗北の悔しさや辛さはなかった。
心を占めているのは、暖かい満足感。
こうして裕史と他愛もない話ができる事実こそ、あの理不尽な炎を押し返せた証拠。であれば、何も言う事はない。今となっては勝敗なんてどうでもよかった。だって、本当に大切な物だけは護る事ができたのだから。
「……どうして、ここが分かったの?」
「先生に教えてもらったんだ。始めは渋ってたけど、姉さんと一緒に戦いたいって言ったら調べてくれたよ」
白衣を着たヌイグルミ顔が頭に浮かんだ。確かに、深園の事情を知るあの医者なら『裏側』の情報を入手できるだろう。危険な情報を裕史に教えた事に関しては不満があったが、そのお陰で助かったのだから文句を言う資格はない。
「遠江真輝……さっきまで私が戦っていた女は?」
「あの廃墟に入って行ったよ。力尽きた姉さんをここまで運んだ後にね。悪い人には見えなかったなー、僕の事だってすごく心配してくれたし。ああそれと、あの人から伝言を預かってるんだった」
少しだけ言葉を区切ると、裕史は真剣な表情で口を開く。
「――ごめんなさい、貴方達を私の過去に巻き込んでしまって。全ての始まりである『実験』は、私が責任を持って終わらせる。だから、貴方達は自分が助かる事だけを考えて……そう、言っていたよ」
その言葉を聞いた途端。
忘れていた現実が猛烈な危機感となって、体から温度を奪っていった。
すでに統括議会は、今回の一件から手を引いている。
違法な戦闘行為や裏工作で発生した費用や損害は、全て責任となって跳ね返ってくるはずだ。遠江真輝を戦闘不能にするという依頼を失敗した今、どう足掻いたって女子高生でしかない深園に金銭的な落とし前は付けられない。飼い主のせいで情報を知ってしまった裕史も無事では済まないだろう。
制裁。
ラクニルの『裏側』で生きる者にとって、最悪の単語が脳を過ぎる。
「大丈夫、何とかなるよ。今度は僕も一緒だから」
「裕史……」
「確かに僕に戦う力はない。姉さんの事情だって半分も理解できてないし、足を引っ張るだけかもしれない。でも、だけどさ! 見ているだけなのは……姉さんの帰りを病室で待っているだけなのは嫌なんだ!! もう二度と、家族を失いたくない。姉さんには、父さんみたいに変わって欲しくないんだよっ!!」
裕史は立ち上がると、毅然とした表情で続ける。
「戦えない僕にだって、姉さんと一緒に十字架を背負う事くらいはできる! 一人じゃ堪えられない苦しみも、後悔も、恐怖も、二人なら……僕達だったら乗り越えられる! 何があっても、どれだけ最悪な状況になっても、僕は姉さんの傍にいるよ。姉さんの味方であり続ける。それが弟である僕の役目だから」
そして。
座り込んだままの深園に手を差し伸べて、屈託のない笑みを浮かべた。
「だから姉さん、僕を信じて」
……ああ、と。
目頭が熱くなった。
あの時。
病室で裕史から同じ言葉を聞いた瞬間、頭に血が上ってカッとなった。
否定されたと思ったから。
一桁として人を傷付ける度に感じた理性が軋んでいく恐怖。ようやく手に入れた平穏な生活を闇に染めていく後悔。それらに怯えて、苦しめられて、それでも必死に笑顔を浮べて当たり前の生活を送ってきたのだ。
誰の力も借りずに、たった一人で戦い続けてきた。
だからこそ、裕史の言葉は容赦なく深園の心を抉る。
その道に人生を捧げた伝統工芸品の職人に対し、無知な観光客が「最新技術を使えばもっと楽に大量生産できるよ」と言うような物。何の力も持たずに、覚悟すら感じられない裕史の言葉を、深園は受け流せなかった。理不尽な運命に一人で立ち向かってきた生き様を侮辱された気がしたからだ。
誰かを信じる事は、弱さでしかなく。
誰かに頼る事は、甘えでしかない。
それが、藍葉深園の信念。
でも、今になって少し違うんじゃないかと思い始めた。
真輝との戦闘において、深園は一度完全に心が折れてしまった。信念を貫き通すという自分の為だけなら簡単に諦めてしまえた。だけど、大切な家族を護る為になら恐怖や絶望を振り払って立ち上がる事ができたのだ。
これは、紛れもない力。
一人で戦っている内は手に入らなかった希望である。
それに裕史は言葉だけではなく行動で証明した。一緒に戦いたいという覚悟をその身を持って伝えてくれた。
だったら、差し出されたこの手をどうするかは明白だろう。
裕史を信じる事は『弱さ』ではなく。
たった一人の家族を信じられる『強さ』なのだから。
「……うん、分かった」
頷いた深園は、細い手を力強く握り返した。
声は揺れて、鼻の奥がつーんと痺れ始める。きっともうすぐ瞳の奥から感情の滴が溢れ出してくるはずだ。そう知りながらも、裕史を真っ直ぐに見詰め続けた。
「私は、裕史を信じるよ」
いざ口にしてみれば、思っていたよりも心地の良い言葉で驚いた。
鋼鉄のように硬かった心が、ゆっくりと解けていく。
まだ事件は解決していないし、これからもっと辛い現実が待っているかもしれない。だけど、どれだけ最悪な状況になったとしても、この手だけは絶対に離さない。
そう決意して、藍葉深園は立ち上がった。
× × ×
遠江真輝は危うい足取りで廃墟の廊下を歩いていた。
元々は歳森家が所有する研究施設だった四階建ての鉄筋コンクリート。放棄されてからあまり時間が経っていないのか、病院や校舎を思わせる内装はそこまで汚れていない。電灯が点いている事も相まって、中途半端な使用感がお化け屋敷のような不気味さを醸し出していた。
「(……耳鳴りが、酷い)」
真輝は壁に手を付くと、大きく肩で息をする。
耳が痛くなるほどの静寂で、呼吸の音すら廊下の端まで届いてしまう気がした。敵に気付かれないように配慮するべきだと分かっているが、そこまでの余裕は残っていない。革靴の底が床と擦れて意図せずに音を立てた。
体調は最悪。
藍葉深園との戦闘で酷使した界力下垂体は痺れているし、西洋剣に斬られた箇所からは断続的に出血が続いている。すでに体力は底を尽いており、気力だけで無理やり意識を保っている状態だった。
廊下に付いた明かりを頼りに、満身創痍のまま廃墟を進んでいく。
「(杏子さんは、この部屋かな……?)」
一つだけ扉の開いた部屋があって、中からは明かりが漏れていた。明らかに不自然。誘われているのでははいかと勘繰ってしまう。
「(馬鹿正直に扉から部屋に入るのは流石に不用心よね。でも、確認もせずに壁を破壊したら杏子さんを傷付けるかもしれないし、今の体力じゃ界力術だって何度も使えない。作戦を立てるにしても、まずは情報を集めないと始まらないか)」
罠だと分かっていても、踏み込む以外の選択肢はなかった。
深呼吸を一回。
身体強化を発動した真輝の体から、靄のような赤い界力光が漏れ出す。右手で銀のジッポライターを握り締めながら、慎重な足取りで室内に踏み入った。
「やあ、待っていたよ」
嗄れた男性の声。
枯れ木のように細い手足に、薄くなった白髪。顔の皺や曲がった腰からは年相応の老を感じるのだが、野心に彩られた眼光だけは不気味な輝きを放ってる。白衣を着た老獪は、調度品が処分されてがらんどうになった室内に含み笑いを響かせた。
金原狡克。
かつて『魂の解明』という研究で真輝を実験動物として扱った界術師。そして、今回の事件を引き起こした黒幕の一人だ。
「杏子さん……!」
老人の足元には、手足を拘束された女性が倒れていた。大きな丸眼鏡にもっさりとした黒いミディアムヘア。大きな背丈に合わない童顔の持ち主は間違いなく遠江杏子である。
「――っ!! ――、―――――っ」
口をガムテープで塞がれいるせいで何を言っているのか分からない。それでも、限界まで見開いた眦や、汚れた床の上で必死に体を動かす様子から、切羽詰まった雰囲気だけは伝わってきた。
「(どうする? 身体強化を使って突っ込むか、先に金原咬克を界力術で仕留めるか……)」
ズキズキ、と。
酷い耳鳴りで割れそうになる頭を押さえながら、真輝は室内に視線を走らせる。
白衣のポケットに両手を入れている金原狡克との距離は約十メートル。熱爆裂の範囲外だが、余波で攻撃する事は可能だ。そもそも身体強化を発動している今なら数歩で詰められる距離でしかない。
だが、何かが引っ掛かる。
金原狡克は戦闘向きの界術師ではない。拳銃や界力武装を隠し持っていたとしても、真輝には手も足も出ないはずだ。
では、どうして余裕そうにしている?
勝利を確信した笑みを浮かべている?
「(迂闊に飛び込まない方がいい……ここまで周到に準備をしてきた相手が、何の備えもなく私と対面するはずがない)」
何か、策があるはずだ。
真輝はジッポライターを握り締めながら、微笑み続ける研究者を睨み付ける。
「ふむ、君は僕におかしな目を向けてくるんだね」
堪えきれないといった様子で、白衣の老人は頬を何度か震わせた。
「どうやら僕を倒してそこの女性を助け出す気でいるようだが、それは叶わない夢物語だよ。すでに状況は詰んでいるんだけど、それにすら気付けないのかい?」
「一体、何を……?」
「耳鳴り、随分と酷いんだろ?」
「……まさか!!」
「もう遅い」
唐突に、室内の明かりが一斉に消えた。
視界が黒色に塗り潰される。
瞳に焼き付いたのは、金原が白衣のポケットから懐中電灯を取り出す残像だ。
瞼を閉じようとしたが、間に合わなかった。
パッ
パッ
パッ
漆黒に染まった世界に、強烈な光が散る。
その瞬間。
がくんっ!! と真輝の膝が折れた。
ジェットコースターよりも急激に意識が闇に落ちていく。咄嗟に転倒しないように両手を床に付くので精一杯。酩酊にも似た不快感で脳が揺さぶられて、前後左右の認識だけではなく自分が何をしているのかさえ分からなくなった。
「(この、感じは……っ!?)」
思い出すのは、かつての実験。
拘束椅子に座らされて辱められた記憶。
「君を苦しめていた耳鳴りは、僕が意図的に引き起こした物だよ。建物内の放送で特定の周波数を流していたんだ。君にとっては懐かしい感覚じゃないかな? 部屋の照明だって遠隔で操作できるよう改造した。本当にアンクル君には感謝しているよ。実験とは関係ない設備や機材まで、こうしてしっかり準備してくれたのだからね」
「が、あっ」
「無駄な抵抗は止めた方が賢明だ。どれだけ屈辱的な事でも、体に刻まれた感覚は忘れられないのさ。平時の君なら抵抗も可能だろうが、そこまで弱っていれば話は別。『リスト』の一桁もようやく仕事をしてくれたね。君の体を実験の為に調教したのは僕なんだ、君の体については君よりも詳しい自信があるよ」
湧き上がる怒りに身を任せて、薄れる意識を必死に繋ぎ留めようとした。
だけど。
想いとは裏腹に体から力が抜けていく。
「諦めろ。今の状態で『魂を掴む手』を発動しても魂の抽出はできないが、意識くらいなら完全に落とせるぞ。後は拘束椅子に座らせてクスリを注射すれば準備は万端。君は僕の研究の礎となるのだ」
一歩、また一歩。
緑色の界力光を漂わせた研究者が、こちらに近づいてくる。
「むしろ、君はそれを喜んで受け入れるべきなんだ。本望だと言ってもいいだろう。実験動物として有終の美を飾らせてあげようと言っているのだからね。無価値だった命に、世界から必要ないと捨てられた存在に、僕が意味を与えてあげるんだ。まともな過去を積み上げられなかった君には、少し贅沢過ぎる終着点だと思わないかい?」
否定したかった。
そんな事ないって叫びたかった。
でも、言葉は出てこなかった。
多分、意識が朦朧としているからではない。
それは、今もまだ宿痾のように在り続ける負い目。
『裏側』から抜け出しても、なかなか生き方を変えられなかった最大の要因。
両親に見捨てられて、ラクニルの訓練施設でもまともな成績を残せなかった。記憶も記録も曖昧で、誰からも必要とされない落ちこぼれ。何も成し遂げられず、生きている理由すら見つけられていない。そんな人間が積み上げてきた成果など高が知れているし、偶然拾った命に価値もクソもないだろう。
このまま生きていたって、どうせ意味なんて生まれない。
それに、今なら分かった。
真輝がどれだけ強く否定しても、過去を失敗したせいで自分の人生に価値はないと言い続けた藤沢真輝の気持ちが。自分の命を犠牲にしてでも、それで誰かが助かるなら問題ないと死を受け入れた藤沢真輝の決心が。
瞼が、重くなる。
きっと、この二年間は神様が気紛れで見せてくれた夢なのだ。ならば、いつか目が覚めるのは当たり前。本来は三年前の実験で死ぬはずだったのだから、むしろ今まで生き永らえさせてくれた運命に感謝するべきである。
抗う気力は、湧いてこない。
意識が薄れていき、完全に消失し――
「本心から目を逸らすなよ真輝、こんな場所が終着点でいい訳ないだろうが……っ!!」
ふわり、と。
赤い風が黒く染まった視界に入り込んだ。
「確かに、過去は綺麗じゃなかったかもしれない。醜い記憶だって、忘れたい思い出だってあったはずだ。俺達はそういう生き方を強要されて、受け入れてしまったから。過去を積み上げた先の未来は……階段の最上段は、どうやっても最悪から変えられないのかもしれない」
声が聞こえた。
低く張り詰めた少年の声。
ゆっくりと、目を開けてみる。
霧沢直也。
全身から赤い界力光を迸らせた少年が、真輝を護るように立っていた。
「でも、それは違うんだ。俺はラクニルに来て分かったよ。自分の意志で友達や仲間を作って、一緒に笑ったり悩んだりして、やっと気付けた……こんな当たり前の事に」
きっとそれは、真輝だけではなくて。
この場にいない少女にも向けられた言葉でもあった。
「二人なら! 一人じゃなくて誰かと一緒なら、どんな最悪な未来だとしても変えられる!! 階段の終着点は変えられないとしても、別の誰かと新しい階段を作る事ができるんだよっ!!」
突然の乱入者に驚いた金原咬克が、何やら喚き散らしながら後退する。
だが、直也は構わなかった。
「これ以上、その薄汚い口を開くなクソ野郎。手始めに、お前を倒して真輝の未来を変えてやるよ。俺はもう後悔をしないって決めたんだ。だから、あの時に守れなかった約束を今度は絶対に果たしてみせる!」
そして。
黒い嵐が吹き荒れる。
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