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王手  作者: ちか
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王手(前)




 愛しています。

 愛しています。

 愛しているから、許せないの。


「……おい、嘘だろ」


 酷い男が呆気にとられたような顔で、声で呟くのに、清澄は場違いに笑った。

 途端、痛むのは背中、いや、腰だろうか。ただ、痛みしか認識できず、場所の把握が曖昧だ。

 清澄は酷い男の胸に手を置いて、ゆっくりと後ろを振り返る。

 悔いたような、堪えるような、噛みしめるような顔をする兄がいた。


「ばかなお兄様、可哀想なお兄様」


 歌うような口癖は、紅を引いた唇から溢れて消えた。




 男の部屋にあるものとしては違和感を覚える三面鏡台は朱漆の一品で、抽斗を開ければ中には安くない化粧品が持ち主の使い勝手が良いようにしまわれている。

 鏡台の前に座っているのはほっそりした首、その喉元にぽこん、と喉仏を浮き上がらせる男で、名を清澄という。

 清澄は慣れた仕草で自ら揃えた化粧道具を操り、そんなものなどなどなくとも女が羨む翠黛をより美しく、あるいは毒々しいまでに妖しく彩っていく。

 三面鏡に映る自身を見つめ、清澄はにこりと微笑んだ。

 玉臂にストールをまとわせて、清澄はフレアスカートを揺らしながら外へと向かう。

 行き交うひとびとのなか、清澄は正しく鍾美であり、来る人も過ぎるひとも彼を目で追った。

 清澄が向かったのは安くはないホテル。

 案内された部屋には男が待っていた。


「こんにちは、それともお久しぶりと言ったほうが正しいでしょうか」

「どちらでもいいさ」


 男の持つ独特な険のある雰囲気は、男の性根が滲んでいるのだと清澄は信じて疑わない。

 男は、誠一は清澄の恋人だ。

 とびきり最悪な恋人だ。

 その理由がちらりと視線をやったベッドのなかにある。

 盛り上がったシーツは一人分。誰がいるのか、どんな状態なのか、清澄は知っていた。

 清澄がホテルに来たのは誠一とデートなどをしに来たのではない。ベッドの住人を回収しにきたのだ。


「ばかなお兄様、可哀想なお兄様」


 歌うように言って、清澄はベッドへと近づいた。

 シーツを剥げば全裸の男、実兄である和臣が情事の痕跡色濃く眠っている。

 清澄はなんの躊躇もなく和臣の肩を揺らした。

 誠一が面白そうな顔をしながら兄弟の様子を見ている。


「お兄様、起きてください。俺ではあなたを担いでなんて行けませんよ」

「そいつ、腰大丈夫なのか?」

「やらかしたあなたが知らないのに俺が知るわけないでしょう」


 言いながら和臣の肩を揺らし続ければ、彼の瞼はようやく重たげに開かれた。揺らめく目が清澄を捉えて一拍、大きく見開かれる。


「清澄っ?」

「そうですよ、お兄様。あなたの可愛い弟です。いえ、妹ですか?」


 フレアスカートの裾を摘んでみせる清澄に和臣は苦い顔をしたが、すぐにはっと我に返って誠一のほうを向く。


「おい、なんで此処に清澄がいるんだ!」

「お前、予定がどうとか言っていたじゃないか。だから、回収係呼んでやったんだろう? それとも、俺が運んだほうがよかったか?」

「それは……だが、約束が違う! 清澄はっ」

「もう関わるなって言うんだろ?」


 清澄は小首を傾げ、それから納得したように数度頷いた。

 兄の弟思いには恐れ入る。

 外道を弟から引き離すために体まで差し出してくれたらしい。ありがたすぎて涙が出そうだ。

 清澄と誠一は恋人同士であるが、和臣はその仲を反対している。

 ふたりの出会いは高校時代にまで遡るのだが、関係は当時から始まっていた。いち早く気づいたのは和臣で、彼は同性間における非生産性や不利益、不都合、多くを並べ立てて清澄を説得しようとしたが、ならばと清澄は男として生きるのをやめた。

 翠黛を楽しそうに、あるいは皮肉っぽく持ち上げながら女よりも女らしく装って、成人してから真っ先に行ったのはパイプカット。

 誠一と別れようが歪みきった清澄の人生は戻らない。異性との間ですら生産性は望めない。

 あのときの愕然とした和臣の顔を清澄は今でも覚えている。

 あれから和臣は説得を諦めたものとばかり思っていたのだが、そうでなかったのだと判明したのが最近のこと。

 誠一が清澄以外の誰かと情事に耽ることは珍しくなく、その誰かとの都合のために約束を反故にすることもよくある話。それが多くなったのでまた誰か気に入ったひとを見つけたのかと思えば、それが和臣だったのだと誠一自ら教えてくれた。

 和臣は清澄から誠一を引き剥がすため、誠一を誘惑しようとしているらしい。

 誠一から話を聞いて、清澄は笑ってしまった。


「だめですよ、お兄様。俺の恋人は外道ですから、約束なんて守るわけがないでしょう」

「守るときは守るぞ」

「何回のうちの一回でしょうね。今回は適用されなかったみたいですが」


 清澄は優しく微笑みながら、和臣に「シャワーを浴びてきたら如何でしょう?」と訊ねた。

 瞬間、頬を強かに張られる。


「いい加減に目を覚ませ!! こんな男のなにがいいっ? どうしてお前は……!」


 そんな男に好き勝手されたままの状態で怒鳴られても滑稽なだけだとは言わず、清澄は頬を押さえて和臣を見つめる。他人事のように立ち上がった誠一は濡らしたタオルでも持ってきてくれるのだろう。誠一は清澄の顔を気に入っている。


「じゃあ、お訊ねしますけど……いい加減に目を覚ましたら如何です? こんな弟のなにがいいんですか」


 もう一度、清澄は頬を張られる。

 せっかくの化粧が台無しだと思っている間に和臣はよろけながらも立ち上がり、乱雑に服を着ると部屋を出ていこうとした。

 和臣の背中を引き止めたのは、案の定、清澄に濡れたタオルを差し出す誠一。


「またヤろうぜ、お兄さん。兄弟丼も悪くねえ」


 振り返った和臣は鬼の形相で誠一を睨み、清澄を睨んで出て行った。

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