保健室登校
「あら。今日も書いてるのね、御手洗さん」
「……」
キーボードを叩く御手洗塁花は答えない。
「おはよう。今日も学校に出てきてくれて、先生嬉しいわ」
「……」
塁花の指がリズミカルに跳ねる。ただひたすらに世界を打ち込む。
白き画面に映し出されるのは文字だ。
そしてそれを表わす世界。
自分だけの世界、自分を認めてくれる世界、自分が認めた世界を。
「先生、読んで」
「あら。今日は早いのね。でも、本当に先生が読んでいいの?」
塁花が鼻白む。
これでもかと目を見開いて。その言葉が世界の終わりでも意味するかのように。
「嘘よ。──見せて頂戴、先生に」
「……」
塁花はノートパソコンを少しだけ動かす。
白衣の先生が画面を見やすいように。
その仕草。
わずかな配慮。
ここで学んだ、数少ない事だと言う事に果たして塁花は気づいているのだろうか。
「あら。今日のお話には女の子は出ないのね」
「……」
「お休み?」
「……別の話を書きたくなった。今日は男の子。私が男の子だったら。勇気を持った男の子だったなら──」
「あら。心境の変化?」
塁花は先生の切れ長の目が優しく見下ろしているのを見つめ返す。
だが、それも一瞬。
塁花は直ぐに目を逸らす。
無理。無理だ。
白衣の先生はその形の良い顎に一指し指を当てていた。
流れるような黒髪に、線で引いたような赤いルージュが映える。
「……御手洗さん、そうね? ……久しぶりに教室、行って見る?」
その言葉に制服の裾が揺れる。
塁花の息が荒くなる。
今朝の事が思い起こされる。
塁花の顔が見る間に赤くなった。
震える声。
「……先生、わ、私……」
「冗談よ、御手洗さん。今日もここに居ていいわ。今日も学校に来てくれてありがとう」
「……」
塁花は何も言えない。踏み出せない。
先生もそれ以上何も言わない。
だけど、塁花の気持ちは動いた。
久しくなかった気持ち。
思い返すはみんなの笑い声。塁花に集中するみんなの視線。
ガラッと変わる、動きと音。
凍る空気、透明な匂い。
きっと塁花は耐えられない。
塁花は思い出す。
──怖い。
もう、あんな思いはしたくない。
「この男の子、まだ旅を続けるの? 女の子を捜しているのね?」
「……」
「もしかしてそれって……御手洗さんの事だったり?」
「……」
先生は優しい。
白衣の似合う先生。
どこまでも優しい先生。
ぬるま湯のようなこの白いく四角い部屋。
だけど、塁花にはこの部屋しかまだ耐えられない。
やっとの思いで出てきた自宅。
登下校中のみんなの視線。笑い声。ヒソヒソ話。
きっと気のせい。
でも、塁花には耐えられない。
誰よりも早く起き、誰よりも早く家を出て、誰よりも早く学校に着き、誰よりも早くこの白い部屋に逃げ込む。
そう。
逃げ込む。
今日は男の子が一人先に歩いていた。
塁花は息を殺して男の子に続いた。
男の子は無言。
塁花も無言。
男の子が前。塁花が後ろ。
下駄箱。
始めて男の子が塁花に気づいたように、ぎこちない笑みを向けてくる。
目が合った。
「御手洗さん……おはよう」
「……!」
たちまち固まる塁花。
塁花は視線を逸らす。
ダッシュで逃げた。
胸がドキドキする。
話した事もない『同じクラスの』男の子。
名前も知らない。
塁花は逃げた。
それはいつもの事。
でも、いつもとは違うとんでもないイベント。大事件。
──だから。
塁花はキーボードを叩く。
いつもと違った文字を叩いた。
そこに紡がれるのはいつもとは違った物語。
なぜって。
それは塁花の中で動いたものがあったから。
「このお話の中に女の子が出てくるのを先生は読みたいかな」
「……」
塁花は答えない。
再び文字を打っていたキーボードに乗せた手が止まる。
顔が赤い。
火照って来た。
今日は不思議だ。
いろいろな事がありすぎた。
でも──。
先生の感想は嬉しい。
塁花にはそう思えた。
そして、こうも思える。
自分の中で、何かが動き出す日も遠くないかもしれない。
踏み出す勇気。
乗り越える力。
ああ、今はそれが一番欲しい。