第1話 二人の話
「イアンパヌ、大丈夫かい?」
もう山道を二時間近くも歩いている。
ぼくはこの辺りを散策することに慣れていたが、彼女はすでに息を切らせ、疲労を隠せないでいた。
いつも一人で行動することが多いせいか、少し歩くペースが速すぎたかもしれない。
このあたりの気配りが足りなさが、ぼくの悪いところなのだろう。
反省するも、学習していない。
女性にモテないわけだ。
「大丈夫です。ありがとうございます」
イアンパヌはにこやかに返事を返してくるが、疲労のためか足が震えている。
まるで生まれたての仔犬のようだ。
「少し休もう」
「……はい」
休むにはちょうどいい岩場があったので、そこに彼女を座らせる。
背負っていた荷物を下すと、イアンパヌは藁の茎で作った小さな水筒と、同じく籾を半分に切ったコップを二つ取り出す。そしてそのひとつにお茶を入れると「どうぞ」と、ぼくに差し出した。
「あ、ありがとう」
なんとなく返事がぎこちなくなってしまった。
彼女の笑顔のせいもあるが、それよりもこういうことに慣れていないために、どういう反応をするべきかもわからなかった。
ぼくは昔から村の変り者だった。
今年で三十四歳になるというのに、嫁もおらず、友達も少ない。
ぼくたち一族の風習では、男女とも十八歳になると結婚が許される。だいたい二十五歳くらいまでに結婚するケースが多いのだが、ぼくだけは論外だった。
一応、お見合いなどは数多くするも、なかなか婚約までこぎつけられない。婚約しても相手の方が三日と経たず解消を申し出てくる始末で、この年まできてしまったというわけだ。その理由はわかっている。ぼくは人間の文化や風習が好きで、そのことを熱心に研究していることが相手の女性には受け入れてもらえなかったのだ。
「イヨン様。あんこ餅はいかがですか? 出かける前に作ったのです。おそらく道中が長くなると思って」
「おお、ちょうど甘いものがほしかったんだ。じゃあ、ひとつもらおうかな」
彼女の手元を見ると、丁寧に笹の葉を切って作ったと思われる箱に四つのあんこ餅が入っている。ずいぶんと小物を作るのが得意そうだ。そういえば、女性はそういうことを褒めると喜ぶのだと書物で読んだことがある。たしか恋愛指南に関する雑誌だった。
「藁の水筒といい、笹の葉の箱といい、君はずいぶんと小物作りが得意なようだね」
「ええ、お母さまから花嫁修業にと色々教育していただきまして」
「なるほど。現代のプラスチック製品を加工した方法より、昔からの伝統的な物づくりを教わったんだね」
「はい。その方がいざというときには役に立つからと」
彼女の母親には一度会ったことがある。
婚約の顔見世で、お互いの親族が一堂に会したときだった。とても優しそうで気品のある女性に見えた。当然といえば当然だろう。イアンパヌはアシタキ族という一族の族長の娘だ。ぼくの住んでいたサタラシ族の村とは古くから親交があり、今回の縁談が持ち込まれたのだった。
それが二週間前。
そう。つまり彼女と出会って、まだ二週間しか経っていない。
ぼくたちの風習では、婚約をした二人は村から出て、二人の住処を探す旅をすることになっている。
人間の風習でいえば婚前旅行のようなものか。
目的の趣旨としては、その旅の間にお互いのことをよく知り合うということらしいのだが、そんな古い仕来りなど、ぼくはあまり興味がなかった。自分の住処には今までにあつめた書物や研究資料がたくさんある。その環境から遠ざかるなど、研究目的での外出以外には考えたくなかった。
しかし、そのことをうっかり口にしてしまったために、族長の逆鱗に触れ、半ば追い出されるようなかたちで、ぼく達二人は村を出たわけである。
族長もぼくの将来を慮ってのことだろうが、些か強引に思えた。
あんこ餅を食べ、お茶をすするが、会話がない。
ぼくが持っている話題の引き出しは非常に少なく、そしてあまりにも一般的ではない。
退屈させてしまっているかと気にしていたのだが、それでもイアンパヌは楽しそうに笑みを浮かべている。色白で体力もなさそうだったので、この旅が苦痛になるのではないかと、気になっていたのだが。
「あの……イアンパヌ。聞きたいことがあるんだ」
「はい、なんでしょう?」
「どうして、ぼくと婚約しようと思ったんだい?」
一番の疑問だった。
ずっと聞きたかったことだった。
イアンパヌは何も言わずに、どこにでもついてくるが、本当はアシタキ族長に言われるがまま嫌々ながら一緒にいるのではないかと心配していたのだ。
すると、イアンパヌから意外な言葉が返ってきた。
「私、実はイヨン様のことは以前から知っていたのです」
「え? 以前から?」
「はい」
「でも、ぼくは友達が少ないし、出かけるといっても研究の為に一人で行動することが多かったんだ。君はどこでぼくのことを?」
「あなたは人間に関しての研究論文をいくつか書いてらっしゃいますよね? 私は父の書斎でそれを見つけて、何冊か読んだことがあるんです。とても興味深い内容で感心いたしましたわ」
自分の研究を褒められて、ぼくはなんだか恥ずかしくなっていた。嬉しいのだが少し照れる。ぼくは興味本位と自己満足だけで研究を続けていたので、まさかそれを受け入れてくれるような女性がいるとは思わなかった。今までの婚約は、それが原因で解消されたかようなものだ。
そういえば、あの恋愛指南の書物に書かれていたことは確かだな、と思った。
まあ、ぼくは男なのだが、自分の特技を褒められるというのは嬉しいものだ。
しかし、男女の恋に関しての攻略をマニュアル化するとは、人間の趣向は我々とは違ってとても興味深い。同じ日本という国に住んでいるとはいえ、ここまで文化と感覚の違いがあるのも面白い。
「それは……嬉しいな。それでぼくに興味を持ってくれたんだね」
「はい。どんな方だろうかと、ずっと気になっていました」
「でも、実際に会って幻滅したんじゃないかなぁ……」
実のところ、これは婚約解消される度に思っていた。
ぼくが風変わりな研究をしていたとしても、もう少し美男子であれば婚約を解消されることはなかっただろうと常々思っていた。目が悪いので分厚い眼鏡をかけているし、髪はいつもボサボサだ。寝食を忘れて研究に没頭することもあるため、他の同年代の連中と違って痩せているし、筋肉もない。話題といえば研究の事が中心になってしまい、女性にとっては退屈な男に見えるだろう。
だが、イアンパヌの返事は違った。
「幻滅なんてとんでもないです。私の想像した通りの方でした」
そう言って彼女は、にっこりと微笑む。
彼女は二十四歳と、ぼくよりもずいぶん若い。
髪は銀髪で肌は白く、器量も良い。族長の娘だけあって慎ましい性格のうえ、おまけに料理はうまく、趣味は服を作ることだと言っていた。彼女の村では人気者であったと聞いているが、そんな彼女がぼくのどこに魅力を感じたのか、何が想像した通りなのか、今の話だけではよくわからなかった。
「それなら……まあ良かった」
ぼくは照れを隠すために立ち上がる。
仮にもぼくたちは婚約しているのだ。
本当に嫌ならば、旅に出る前に婚約を解消してくるだろう。しかし、彼女は断るどころか楽しみにしていたかのような様子を見せていたのだ。
少しは自信を持とう。
「変わった人だな……」
「え?」
「あ、ごめん。つい口に出ちゃった」
「変わってますか? 私」
「いやあ、ぼくはあまり女性の相手が得意じゃないものだから、君がつまらなく思っているのではないかと心配だったんだ。それに君は、今まで出会ったことのないタイプの女性だったし」
彼女は小さく笑うと「そうですか。イヨン様もずいぶん変わってらっしゃいますよ」と言った。
「え……?」
そんなことをはっきり言う人だとは思わず、一瞬驚いた。
だが悪気はなさそうだ。
おそらく、オブラートに包むという言葉を知らないのだろう。
まあ、それはぼくにも言えることだが。
「ま……まあ、よく言われるけどね」
「でも、そんなところが素敵だと思いますよ」
「そうかな?」
「私は、他の人と違うところが悪い事だとは思いません。それが個性ですから」
「そう言ってもらえると嬉しいけど」
「それに」
「それに?」
「あまり女性相手が得意な人っていうのも、どうかと思いますよ?」
彼女にそう言われ、ぼくは大笑いしてしまった。
見ると、彼女も笑っていた。
静かな森の中で、二人の声が木霊している。
なんだか、ようやく彼女の本当の表情を見ることができた気がした。
村では周りの目が気になってあまり笑い話などすることもなかった。この旅は、あまり乗り気ではなかったのだが、少し楽しくなってきた。
笑いがおさまると、辺りには森の静けさが戻る。
川の流れる音。
風で木の葉が擦れる音。
鈴の音色。
鈴?
その鈴の音が次第に大きくなってくると、突然、大きな影が現れる。
「イヨン様!」
イアンパヌが、ぼくにしがみつく。
覆いかぶさるようにして現れたのは、緑色の大きな目。白い毛はやわらかそうで非常に長く、全身が毛玉のようだった。
「ああ、大丈夫だよ。この子はタマだ」
「タマ……? これ、猫でしょう? 遠くから見ることはありましたけど、こんなに近くで見たのは初めてです……それに大きい。この子、たしか〝チンタラ〟って種類ですよね?」
「いや……〝チンチラ〟だ」
「ああ……でも、猫って凶暴なんじゃありません? 昔、私の一族の中で猫に食べられたって噂を聞いたことがあります」
「たしかに凶暴な奴もいるけど、この子は大丈夫だよ。この子がまだ小さいときに、この近くで野垂れ死にしそうなとこを助けたんだ。まだ生まれて間もないうちに人間に捨てられたんだろうね……段ボール箱に入れられたまま川に流されてたもんだから。あの時は大変だったなぁ。ミルクを作るのに大きな鍋をいくつも用意して、牛乳も調達しなきゃいけなかったから、あちこち人間の家に忍び込んだりして」
「まあ、そうだったんですね」
タマは小さく鳴くと、鼻を近づけて臭いを嗅いでくる。
ぼくが喉元に手を当てて撫でてやると、目をつむりゴロゴロと鳴きだした。
「ずいぶんと大人しい猫ですね。こんな猫は初めて見ました」
「そうだろう。出会ってから二年の付き合いだからね。襲ってきたりはしないよ。ほら、タマ。ぼくの婚約者のイアンパヌだよ」
タマは片目だけ開けると、イアンパヌの方を見る。
イアンパヌはまだ恐ろしいらしく、ぼくの後ろに隠れていた。
小さく「ニャー」と鳴いたタマは、また目をつむりゴロゴロと鳴いている。
鳴いたのは彼女に挨拶したつもりなのだろう。
「タマって名前はイヨン様がつけたのですか?」
「いや、それは今の飼い主がつけた名前だよ。元気になるまではぼくが面倒を見ていたんだが、この近くに住む人に拾われて今はそこの飼い猫になっているんだ。タマって名前は猫の代表的な名前みたいだね」
「え……ということは、この子の飼い主って……」
「人間だよ」
「もしかして、イヨン様はその人間と親交があるのですか?」
「いや、まさか。ぼくが知っているだけで、向こうは知るはずもないよ。実はこの旅の目的地はその人間の家なんだ」
「人間の? どういうことですか?」
「昔の人は、よく人間の家に借り暮らしをしてたらしいけど、最近の建築物は機密性も高くてなかなかそういうことができなくなったよね? でも彼女の家は古くて、借り暮らしにはぴったりなんだ」
「彼女って、その人間は女性なのですか?」
「うん。まあ、行ってみればわかるよ」
ぼくはタマの鼻を撫でると「君の家まで乗せて行ってくれるかい?」と言った。するとタマは腹を地面につけるようにして屈んでくれる。最近では言葉を理解してくれているのか意思の疎通ができるようになってきた。
「さあ、歩くのも疲れたからタマに乗せていってもらおう」
ぼくは先にタマの上へ乗ると、戸惑って見上げているイアンパヌへ手を差し伸べた。
どうしたものかとオロオロとしていたイアンパヌだったが、意を決したようにぼくの手を掴み、よじ登ってくる。
「あまり乱暴に毛をつかまないで、タマが嫌がるから」
「あ、ごめんなさい」
ようやく頂上まで登ったイアンパヌは、白い毛に埋まりながら「タンポポの綿毛みたいですね」と毛を撫でる。
二人が乗ったのを確認するように一度後ろを向くと、タマはゆっくりと歩きだした。
動物に乗るのは初めてだというイアンパヌは、子供のようにはしゃいでいる。
タマは小さな獣道から農道へと抜け、そのまま坂道を降りて行った。
やがて森が開けると、そこには人間の住む小さな町が見えてくる。
人間にとっては小さな町でも、ぼくたちにとっては広く、まだまだ未知の世界。
ぼくたちは人間よりも小さく、彼らに知られないよう古来からひっそりと暮らしている。
今では〝リリパット〟と呼ばれている存在。
そう、ぼくたちは小人なんだ。