女呪術師
彼らは三日の間、荒野を歩き続けた。ミリアの持っていた食料はすぐに底を尽きたが、次の日の朝になれば、地の面にはパンが霜のように積もり、二人はそれを食べて一日を過ごした。また、アマツが喉の渇きを訴えれば、ミリアが神に祈った。すると目の前に泉が湧き出て、二人はそれを飲み、獅子の返り血を洗い流した。
さて、目に映る景色にもようやく変化が訪れた。エルサリの地はまだ遠いが、人の住む地にたどり着いたのである。
更に進めば、ぶどう畑や小麦畑も彼らの目に留まった。町の規模は大きいものではないが、人があり、煉瓦の建物がある。それは確かに人の土地であった。
通りには露店もあり、そこそこの賑わいを見せている。その中の一つに、焼き菓子を売っている者があった。
丁度小腹の空いていたアマツはそこで立ち止まり、銀の入った布袋を取り出してミリアに言った。
「焼き菓子だってよ。ミリアもどうだ?」
「ええ、貰います」
アマツは布袋から銀を出して、「二つね」と店の男に差し出した。
商品が売れたというのに、素っ気無い態度で代金を受け取る男。アマツの引きずる大剣を見ているのかと思えば、そうではなく、二人の顔をじっと窺っていた。その態度が気にはなったが、突っかかるほどでもないので、アマツは二人分の焼き菓子を勝手に手に取り、彼らは町の物色を再開した。
「これは、蜜が練りこんでありますね」
「へえ、そうなのか。意外と食通だな」
「好物ですから」
「覚えとくよ。で、今日はここで宿を探すのか?」
「できればそうしたいですが……、どうやらあまり歓迎されていないようですね」
「そうみたいだな」
いつの間にか、二人の周りには人が集まり出していた。老いも若きも連なって、アマツとミリアを怪訝な目で見つめている。女たちは耳元に口を当て、ひそひそと話していた。
この町の長らしい、立派な白髭を蓄えた老人が、人だかりを掻き分け前に出てきて言った。
「異邦の者か、捕らえよ。首に縄を掛け、日が昇るまで木に吊るしなさい」
「私達は旅の者です。一晩宿をお貸しくだされば、明日にはここを出発する身。どうかご慈悲を」
「耳を傾けるな。異邦に取り込まれ、滅んだ者を私は知っている。我らの神、モレクだけを信じるのだ。それが、唯一の救いではないのか」
民衆の中から、腕に自信のあると見える男達が前に出て、二人を囲んだ。アマツは渋々聖剣ペテラを構えた。
「アマツ」
「何、少し血を見せてやるだけだ。聞く耳もたないってんなら、それしかない」
ミリアは何か言いたそうな顔をしていたが、他に打開策も出せず、押し黙った。
町の男たちは、もう一歩を踏み出せないでいた。彼らは見たことがなかったからだ。見上げなければならない大男と、その手にある巨大な剣を。アマツの背中を見る者でさえも、迂闊には飛び掛れないでいた。
このまま引き下がってくれれば、とミリアが考えていたとき、地の底から響くくぐもった女の声を、二人は聞いた。
「血の気の多いのは結構だけれど、それで女の方は生き残れるかしらね」
二人は声のした方を見たが、何もなかった。地面に気を取られている内に、今しかないと背後にいた男が地を蹴った。
が、一歩踏み出したところでその足はぴたりと動きを止めた。
二人の下から、黒い影が沸きあがったのである。それは夜の闇よりも暗く、人を不安にさせるものであった。
うごめくそれらの影は、無数の烏に姿を変え、天に向かって飛び立った。影の沸きはとどまることを知らず、それは天まで届く漆黒の柱となった。
唖然とする民衆。暫く経って影が消えるまで、言葉を発した者は誰もいなかった。
そして、彼らが更に驚き、恐れおののいたのは、柱が消え去った後である。なんと、そこに居たはずの異邦の者がいない。彼らは騒ぎ立て、多くの人が「これはモレクが行ったことだ」と言って地に伏した。
人間は、人間の理解を超えた現象を、神の所為にすることがしばしばあるが、果たして今回もそうであったのか。神のような清い存在が、地の底からその声を響かすことがあるだろうか。
アマツとミリアは町の外にいた。彼らが来た方向とは反対側の、つまり明日の日が昇った頃に、いる筈だった場所で立っていた。
そのことにも驚いた二人だったが、それよりも彼らの注意を引いたのは、目の前に立つ一人の女の存在であった。見た目には別段おかしなところもないが、ミリアの胸には確信めいたものがあった。この女が、自分たちを町から脱出させたのだと。
先に口を開いたのは、その女だった。
「礼くらい言いなさいよね」
「先ほど貴方が見せた、神の行う奇跡とは似て非なる業。あれは呪術ではないですか」
「呪術? こいつがあれをやったのかよ」
「そうよ。私は呪術師。最近じゃ、魔女って呼ぶ人も多いわね」
「いとわれるべき者よ、何故私たちを助けるのですか。目的を言いなさい」
「堅苦しいわね。目的は……、そうね、貴方たちの旅に同行すること」
「馬鹿馬鹿しい。女呪術師が、どうしてスライルの神の下を歩けましょうか」
「かつてあらゆる奇跡をもって民をまとめ、国を統べさせた唯一なる神。今や見る影もなく、スライルの民は邪神に仕えるようになったわ」
「まるで、かつてのスライルを知っているような口ぶりですね」
「そりゃあ、ここ二百年くらいの話だし、私はイシュマエル人よ」
「おいおい、年は幾つだお嬢ちゃん」
「あら、貴方の十倍は生きているわよ坊や。この姿も、気に入ってるからそうしてるだけであって」
馬鹿げたことを、とは言えないアマツだった。なにしろ、ここに彼が立っているのは、彼女の怪しげな力によるものだからである。
「ふぅん、人は見かけによらないもんだな」
「じゃあ今度は私が聞く番ね。貴方たちの神、スライルの神の目的はなにかしら。また一から王国再建? いや、それともついに、元凶を叩きにいくのかな」
「元凶とはまさか――」
ミリアは戦慄した。呪術師である女の、契約者が一体誰なのか、その瞬間理解できたからである。
今の今まで陽気に話していた女の目が、突如虚ろになり、背には三対の翼が広がったのだ。それは、紛うことなき天上の証。ただし、黒く染まったその翼は同時に、神に逆らい堕天した者の証明でもあった。
アマツも、三十余年の人生において、初めて恐怖というものをその身に感じた。それは、あの日命を失う間際でさえ、なかったものだった。
やられる前にやる。獅子を前にしてもそうしなかった彼が、女が豹変した瞬間、剣を握り締めて斬りかかった。
しかし刃が女に触れるすんでのところで、剣の動きは止まり、またアマツの体もぴたりと動かなくなった。アマツは全身を塩に変えられて、柱となっていた。
ミリアはそうならなかったが、恐らく自分も剣を握っていれば、迷わず斬りかかっていただろうと思った。
「従順なる神の僕よ。会いたかった」
「地獄の王……、サタン」
「伝えることがある。これは主への、父への伝言。こうしなくとも主は全てを聞いておられるが、あえてお前に私の言葉を預けよう。第七の月の七日、私は空に瞬く全ての星を地に降らせ、焼き尽くし、大地を呪う。その日をもって、私は主を超越し、天地を創造し直そう。それまでの間、私はエルサリの地に座して待つ」
「悪を遠ざけぬどころか、それに対し手招きをする者よ。裁かれなさい。主の下に、悪が栄えることはありません」
「私は悪なのか。少なくとも、女から這い出た人間が決めることではあるまい」
そう言った後、サタンの霊は女から出ていって、三対の翼も霧のように消え去った。女はきょとんとした顔で、サタンの霊が向かったと見える西の空を眺めた。
元の女呪術師に戻り、ミリアから汗が引いていった。女の存在も異質なものだったが、先ほど対峙した悪魔の王に比べれば、なんとも可愛く思えたミリアであった。
安心したのもつかの間で、ミリアはすぐにアマツに目を遣った。それからまた女の方をを睨み、言った。
「彼を、アマツを元に戻しなさい」
「へ? あ、ああ。ええ、いいわよ。ただし、条件があるわ。分かるわよね」
「一つだけ、偽らないと主に誓って答えてください」
「どうぞ」
「最初に聞きましたが、貴方の目的は何ですか」
「彼に会うことよ」
「彼とは、サタンのことですか」
「ええ。三百年前、私の前に現れてからそれっきり。今みたく、都合のいい人形として操られることはあっても、直接姿をみたことはそれが最後なのよ。彼に会えるなら、残り七百年近い寿命も天に返していい」
「貴方が答えたということは、主が同行を認めたのでしょう。しかし貴方は悪であり、主は正しく裁かれます。貴方の寿命が儚く、目的も果たせず陰府に下りますように、アーメン」
「嫌味ねえ。まあいいけど」
女はそこでようやくペテラを避けてアマツの左側に立った。
女はアマツの左側から、柄を握る彼の腕に触れてぶつぶつと呪文を唱え始めた。
鬼の面を被り天使に牙をむく者よ。天上の知恵を知らぬ者よ。
土くれから造られたものが、どうして炎の使者に触れられようか。まことそれは、虚しいこととを知りながら。
しかしお前は魂を持った肉。肉が塩に成り果てようと、骨を蛇に変えられようと、神がお前に与えた魂はそこにある。
その手の剣は何のために。その手の剣は何のために。
女が手を放すと、アマツの身体を覆っていた塩は地に落ち、聖剣ペテラは虚しく空を切った。固まる前に、そうとうな力を込めていたらしく、ペテラは地響きを立てながら地に半分顔を埋めた。
「おー怖い」と、わざとらしい表情で言ってのける女に、アマツは埋まった聖剣を引き抜き、それを構えて言った。
「どうなってる。今のあんたは、さっきのあんたじゃねえな」
「安心していいわ。もう私は人間よ」
女の言うとおり、アマツの目に映る女からは、ひれ伏してしまいそうな威圧感は失われていた。それに、敵意も感じない。アマツは黙って剣を下ろした。
その後、女はアマツにも目的を話し、名を名乗った。女の名前はイバエラといった。
あの邪悪な気配はなんだったのかと、アマツがイバエラに迫ったので、イバエラは知っていることを二人に話した。
サタンは、元は神に仕える天使の長であり、また最初に造られた天使。しかしサタンは傲慢な心を持ち、自分に従う天使を率いて神に挑んだ。その罪を背負い、サタンとサタンに付いた天使たちは、堕天させられ、地獄に生きているのだという。
それはかつて、イバエラの前にサタンが現れたとき、上機嫌で彼女に語ったものだった。
彼女が話し終えてから、アマツはミリアの方を見て言った。
「いいのか、こんなのを連れて行って。寝込みを襲われるかも知れないぜ。ありゃ女もいけるって顔をしてる」
「ふふ、否定はしないでおくわ」
「へ、変なことを言わないでください」
言葉の意味を想像して顔を赤らめるミリア。それがからかいだと分かって、彼女はすぐに落ち着きを取り戻し、澄んだ瞳でアマツを見て言った。
「それに、もし何かが起きても、貴方が守ってくれるのでしょう? アマツ」
「そんな目で見られちゃあな。……おい、イバエラだったな。町でのことは、一応礼を言っておく」
「はぁい、どういたしまして」
陽気に笑うイバエラだったが、数瞬後にはその表情は張り詰めたものに変わった。彼女の首元に、聖なる剣の先が突きつけられ、触れそうな距離にあったからである。
「だがな、おかしな真似をしやがったら、首から下を見ることはないと思えよ」
「気をつけるわ」
アマツは暫くイバエラを睨んでいたが、ミリアが声を掛けると剣を下ろした。そうした後、アマツの顔からは険しさが消えた。
「ま、仲良くしようや」
言って、アマツはイバエラに手を差し出した。しかし言葉とは裏腹に、差し出されたのは左手だった。古くからある風習として、左手の握手は敵意などを含むとされている。なぜなら多くの人は、武器を利き手である右手で握るものだから。事実、彼は利き手の剣を硬く握ったままである。
アマツの意志はどうあれ、イバエラからは当然そういう風に映った。あからさまな態度に顔をひくつかせながら、彼女はアマツの左手を取り、強く握り返した。
「ところで、イバエラ」
二人の間にミリアの言葉が割って入ったので、二人は手を放して彼女に体を向けた。イバエラは首を軽く傾げて、次の言葉を待っている。
「あの町で、駱駝と瓶を譲って貰うつもりだったのですが、このとおりです。次の町まであとどれくらいか、分かりますか」
「そうねえ、結構あるわよ。うーん……、よし、ちょっとここで待ってて。あ、置いて行っちゃやーよ」
そう言い残して、イバエラは町の方に歩いていった。仕方なくイバエラの帰りを待つ二人。彼女が戻ってきた頃には、日は既に傾き始めていた。
しかし彼らは、イバエラを責めることはしなかった。悠々と歩を進める彼女の後ろには、
駱駝が五頭も並んでいたからである。その内二頭の背中には、旅に必要な上着や、簡単な天幕を作るための資材、水の入った瓶も幾つか吊るしてあった。
「どうしたんだそれ。まさか盗んできたんじゃあないだろうな」
「失礼ね、私はあの町に暫く住んでたの。駱駝も荷物も、正当な金額を持って譲って貰ったものよ」
「しかしイバエラ、私たちの手持ちでは、駱駝五頭も買えません」
「気にしなくていいわよ。私だって自分の足で歩くのはごめんだし」
「では、お言葉に甘えます」
イバエラは隣にいるアマツを、横目で見て言った。
「貴方には一つ貸しね」
「あ? どういうことだ」
「あらあらぁ? 男が、女から施しを受けようっていうのかしら」
「このあばずれが」
「ミリア、彼は歩くそうよ」
「分かったよ、借りといてやる」
三人はこうして、駱駝に乗り西へと向かった。