神の御手
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人類は土くれをこねて造られた人間、アダムとエバから、海辺の砂のように地上に増え広がったが、神の目に悪と映る行いを続け、神の怒りを買った。
神は人を創造したことを後悔し、地上から拭い去るため、天の窓を開き、地の果てまでを覆う洪水を起こした。
しかしその世代の中で唯一、神を畏れ、従い、清く生きる一族があった。ノアの一族である。
彼等は神の指示通りに箱舟を作り、その中へ全ての獣と一緒に入り、四十日四十夜続いた洪水をしのいだ。
長い洪水が終わり、箱舟から出たノアとその息子、セム、ハム、ヤフェト。神は彼らを祝福して言った。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。全ての命あるものはお前達の前に恐れおののき、お前達の手にゆだねられる。人は神にかたどって創られたからだ」
神の言葉通り人は地上を支配し、ノアの子孫は夜空に輝く星の数ほどに増えていった。
それから更に時代を経て、地上にはヤコブという男がいた。神は夜更けに彼を襲ったが、格闘は日が昇る頃まで続き、遂には神が負けを認めた。
その事があり、神はヤコブに言った。
「お前は神と闘って勝ったのだから、これからはスライル(神に勝つ者)と名乗りなさい。お前の腰からは多くの国が起こり、多くの王が出る。お前に続く子孫には、乳と蜜が流れる土地、またそれを奪おうと、剣を立てる者の首を与えよう」
神はスライルに大いなる祝福を与え、彼の腰から出た子孫の数は、とても数え切れないほどであった。
さて、世界中を大規模な飢饉が襲ったある年の事。スライルとその息子達は、食料を求めてエジプトへ下っていった。
スライルの息子ヨセフは、家臣の誰もが解き得なかったエジプト王が見た夢の謎を、解き明かし、王に大変気に入られた。王は国の管理の一切をヨセフに任せるようになり、そしてそのお蔭で国は栄え、より良いものとなった。
しかしヨセフの死後、彼を知る者もいなくなった頃、エジプト人はこう言うようになったのである。
「あの増えすぎたスライル人を、どうにかしなければならない。このまま増えれば、やがてこの国にとって脅威となる」
このような理由で、エジプト人はスライルの民に強制労働を強いるようになった。こうして四百年もの間、スライルの民はエジプトで虐げられた。
その苦しみゆえの嘆きは、神の耳に届き、神は民の叫びを聞いて、ヤコブとの約束を思い起こした。
神はモーセとアロンを王のもとに遣わし、頑なな態度を取る王の前で、奇跡を何度も起こして見せた。
それでも王はスライル人という奴隷を解放することに頑なであり、遂にはエジプト中の人、女奴隷、家畜に至るまで、全ての初子に神の剣が及んだ。
そこでようやっと王の口から「出て行って、二度と帰ってこないでくれ」という言葉が発せられ、スライルの民はこうして神の手によりエジプトを脱出した。
その後神は、スライルの民をヤコブに誓った土地へと導いた。昼は雲の柱を、夜は炎の柱をもって彼らを先導した。
その土地に住む先民族は全て打ち滅ぼし、土地は彼らのものとなった。敵の数は彼らの何倍も多かったが、神がひとたび地に降りれば、スライルの民は万の軍勢に対しても、百をもって勝利を収めることができた。
彼らが神に従う限り、神による偉大な業は止むことはなく、スライルの民はさらに数を増して地に広がり、やがて幾つもの国を築いていったのである。
天地創造より四千年の月日が流れた頃。
スライルの民を含め、人々は堕落し、世界は混沌に覆われていた。ノアの時代に、神が洪水を起こしたその時よりも、更に増して、人々は神の目に悪と映ることを行っていたのである。
民を救った神の名を知る者は、もはや数えるほどで、スライルの民は他の民族に混じり、そこでの神々を仰ぎ、自らの子を生贄として捧げている。太陽が沈めば彼らは一箇所に集まり、創造神がいとう姦淫を、暗がりの中で行うのであった。
国々の間では争いが絶えず起こり、血の流れない日は滅多にない。今日とて、ユド国の軍とエラム国の軍が、荒野で戦車を引き連れ向かい合っていた。
戦車を引くユド側の馬は、やせ細っていてあまりにも頼りない。ろくに餌を与えていないのが一目見て分かる。
何よりも、戦況をはっきりさせているのは、やはりその数。エラム軍の歩兵二万、戦車四千という軍勢に対し、ユド軍の歩兵は五千、戦車を引く馬は三百しかない。
それでも戦う他ないのだ。彼らには彼らの、スライルの神ではない、生贄として子を火にくべさせる神があるからである。
それぞれの神がそれぞれに、他の民族の存在を許さず、「打ち滅ぼせ」と命じるのだ。
謂わばこれは代理戦争。
創造神が地上を去った。それを良しとし、かつて創造神に仕えた天使達は、今や邪神と化してあらゆる民族を誘惑、支配し、こぞってその支配を広げようとしているのである。
荒野に、邪神の子らの叫びが轟いた。それはまさしく、混沌であった。
干ばつによってひび割れた大地を、一人歩く者がいた。
その男の足取りは危ういもので、先端の折れた剣を杖代わりにしている。その剣は並の大きさではなく、折れていなければ、大柄な彼の身の丈を超えるものであった。その柄を握る彼の体も、馬鹿でかい刀身を支えるに足る立派な体躯をしていた。
しかしそんな屈強な男でも、千の軍勢には、万の軍勢には敵うまい。
彼はユド国の千人隊長であった。
名はアマツ。元々は傭兵として雇われ、数年の後に腕を買われて昇格を果たした。が、先日の大戦で国を焼かれ、今こうして敗残兵となり、当てもなく荒野をさまよっているのである。
肩に一本、腿に二本、矢が痛々しく貫いており、そこから流れる血は止まってはいるものの、アマツがここから生き延びることはどう考えても絶望的であった。
(ここらが潮時か……)
目もかすみ、ものも殆どその目に映らなくなってきたアマツは、自らの死を悟り始めていた。
それから暫く、彼はぼやける視界の中をただひたすらに進んだが、やがて最後の力も尽き、倒れた。
乾いた大地に虚しく響いたのは、鎧がぶつかる音。砂を連れて漂う風も、彼を祝福することはなかった。
また一人、緑のない荒野を歩く者があった。
大空のように青く澄んだ目で、地の果てを見つめ、逸れることなく真っ直ぐ足を進める彼女の名は、ミリア。世界がスライルの神を忘れたこの時代に生きる、唯一の預言者であった。
地上のありさまを見かねた神が、スライルの民のことを思い起こし、ミリアの前に臨んだのである。
さて、ミリアが足を進めていると、彼女のは、戦場から逃げ出した敗残兵が倒れているのを見た。それは他ならぬユド国の千人隊長、アマツ其の人であった。
他に倒れている者はなし、恐らくかなり遠くから逃げてきて、ここで死んだのだろう、とミリアは彼を見て思った。
既に事切れている彼に対し、ミリアが何をしてやれようか。彼女は世界の現状を嘆くしかなかった。
触れば冷たくなっているであろう、アマツの死体の前を、ミリアが通り過ぎようとしたとき、彼女の耳に天より声が届いた。
『ミリア、ミリア』
「はい、主よ。私はここに」
『その男の前を通り過ぎようとしてはいけない。その男アマツは、お前の剣、お前の盾。この旅にあって、お前は彼に命ずることとなるのだから』
「しかし、この人は既に骸となり、魂は残っておらず、立ち上がることさえ敵いません。一体どうして剣と、盾となりえましょう」
『私を侮るのか。地上に蔓延る邪神と同じように、人を誘惑するだけの存在だと、お前はそう言うのか。私は全能の神、主である』
「私は軽くものを言いました。この手で口を塞ぎましょう。主の御名が讃えられますように」
『アマツの額に口付けをし、その後ぶどう酒を飲ませなさい。見よ、私は彼を祝福し、骸に再び魂を与える』
彼女は屈みこむと、言われたとおりアマツの額に口付けをし、皮袋の口を開いて、もの言わぬ彼にぶどう酒を飲ませた。
すると突然アマツの体から眩い光が放たれ、辺りを覆った。光の放出は暫く続き、やがてそれは止んだ。
なんということか。アマツの体を貫いていた矢は取り払われ、そればかりか、そこにあった筈の傷も、まるで嘘のように消えている。
『最早彼は骸ではない。私の右手によって、命ある者となった。目を覚ましたなら、パンと肉を与えなさい』
「そのようにします」
『また、私は聖なる剣ペテラをアマツに与える』
その言葉を最後に、神の声はミリアから去っていった。
ミリアの膝元で、アマツは目を覚ました。彼はむくりと身を起こすと、何を見るでもなく、遠くを見つめて口を開いた。
「暖かいもんだな。神様ってのは」
アマツは自分の身に起きたことを、全て理解していた。
確かに自分はここで力尽き、地に還った。陰府の手に引かれるがまま、魂は深淵の闇を漂っていた。そこに突如、闇を照らす青い炎が現れ、その炎は威厳と力に満ちた声でこう言ったのだ。『どこへ行くのか。お前は求めていたではないか。自らの戦う理由を、戦場に立つための真実を。お前は蘇り、それらを得るだろう。私は全能の神、主である』
それまでアマツは知らなかった。まこと神と呼ぶべき存在が、天にあることを。ユドには民を誘惑し、自分の子を火にくべさせる神しかいなかったからだ。
ミリアは持っていたパンと肉をアマツに手渡すと、彼の目を見て言った。
「主は、言われました。貴方が私の剣となり、盾となると」
「ああ、そのとおりだ。あんたが斬れと命じた奴を斬り、あんたが死ねと命じれば、そうしよう」
そう答えてアマツは、パンと肉を交互に口へ運んだ。その手が途中で止まり、彼はまた言った。
「名乗るのを忘れてた。俺はアマツ。ユドの千人隊長だ。……元な」
「ミリアです。元、とは?」
「滅んだのさ、つい先日。こんな時代だ、別に珍しい話じゃないだろう」
「それは、辛いことを聞きました」
「気にしないでくれ。俺は傭兵の出だから、あの国に愛着があった訳じゃない。それより、これからどこへ?」
「西へ。エルサリの町です。そこに、『油を注いでスライルの王とせよ』と主が言われる方が居ますので」
「エルサリ……。聞いておいてなんだが、俺は土地勘がさっぱりでよ。ま、どこだろうとお供するよ、ご主人様」
「女である私が、主人と呼ばれるのは変でしょう。どうか、ミリアと呼んでください」
「そうかい。じゃあ行こうぜ、ミリア」
「ええ。よろしくお願いします、アマツ」
二人は立ち上がり、再び荒野を歩き始めた。
どれくらい歩いたか。それまでお互いの身の上話に花を咲かせていた二人だったが、流石に話題も尽きていた。
どれほど歩こうと、目に留まるのは枯れ果てた大地と、命のない乾いた草木。延々と続く同じ景色は人の精神を弱くする。
だがそれをものともせず、アマツは涼しい顔で歩を進めていく。隣に並んで歩くミリアからすれば、それが不思議で仕方なかった。
そんなミリアの心情を察してか、アマツは彼女に言った。
「少し休むか」
「平気です」
「これだからレビ人は」
「イシュマエル人こそ、お節介が過ぎます」
飽くまでも強情なミリア。内心では、そこに見える岩陰に、座り込んで休みたいと思っているのにだ。
アマツはこれ以上何も言わなかった。放っておいても、限界を感じれば自分から膝を折るだろう、と思ったからである。
気の抜けた会話もつかの間で、二人はその先に獅子を見た。鬣をなびかせ、こちらにゆっくりと近づいてきている。
それも一頭ではない。二頭、三頭、数えてみれば、七頭もいるではないか。恐るべきことに、その全てが、彼らを標的として定めていた。
アマツの背中にある剣は折れたまま。獅子に対しては、鎧も役割を果たさないであろう。
じわりじわりと、間を詰める獅子の群れ。アマツは背中に背負った剣を抜いた。しかし剣の先は折れており、それは例え一頭の獅子が相手としても、あまりに心もとない。
ミリアは震えていた。当然だろう。獅子と対峙し、そうならない女はいない。
「背中を見せずに逃げるんだ。運がよけりゃあ助かるかもな」
「いえ、スライルの神は生きておられます。きっと、主が退けてくださるでしょう」
「心強いね」
投げやりに返し、アマツは再び獅子を見据える。
先頭にいた一頭が、遂にアマツへ向かって飛び掛った。
彼らは力強く、雄雄しく、決して退くことはない。知っているからだ、自らが捕食者であることを。しかし、だからこそその時ばかりは怯えた尾を下げた。
空から石の板のようなものが降りてきて、獅子の背中を貫いたのである。石の板は獅子の腹を出て地に突き刺さり、獅子は呻き声を上げて死んだ。
「な、なんだ。……剣?」
獅子ごと地に刺さったそれは、ただの石ではなく、確かに剣をかたどっていた。
しかしこれを剣と言っていいものか。剣というには簡素な造りで、装飾も一切されていない。それに、アマツの手にある剣よりも、更に一回り大きかった。
「これは主の御業。そして、それは聖剣ペテラです」
「よく分からんが、貰えるもんはありがたく貰っとくぜ」
今まで握っていた剣を手放し、アマツが聖剣ペテラの柄に手を伸ばしたとき、残り六頭の獅子が吼えた。理解の及ばぬ出来事にたじろいだが、彼らは誇り高き獣の王。餌を前にして退くことはできないのだ。
獅子の群れは、アマツに向かって次々と飛び掛かった。
一瞬。嵐の如く鮮血が舞い、残ったのはその中心にいる、アマツだけ。獅子らの残骸に囲まれて立つその姿は、紛れもなく神に選ばれた強者のものであった。
彼は剣を掲げ、感心した顔で呟いた。
「こりゃいいや。なんか、馴染む」
神の計らいによって、獅子が敗れることは予想できたが、ミリアは驚きを隠せないでいた。
ここに至るまでに彼女は、奇跡を何度も目の当たりにしてきたが、それは全能者である神によるもの。アマツの周りに広がる光景はまこと異常で、聖剣を手にしたとはいえ、この結果をもたらしたのは、元千人隊長、アマツ自身の力であった。
ミリアは腰を抜かし、折らぬと言った膝を折ってその場にへたり込んでいた。
「立てるか?」
アマツは剣を肩に掛け、座り込む彼女に手を差し伸べる。
「自分で、立てます……」
そうは言ったものの、思うように力が入らず、立ち上がることができないミリア。彼女はばつが悪そうに顔を逸らした。
アマツは「仕方ない」といった表情を浮かべ、剣を地に突き刺して彼女を抱えると、引き抜いた剣を片手でもって引きずりながら、西へ向かって歩き始めた。
彼の左腕に納まったミリアが、頬をうっすらと染めて言った。
「こんなこと、頼んでません」
「子供が遠慮するなって」
「子供じゃありません。年だって、もう十六になるんですから」
「男は戦に出るまで、女は男を知るまで子供ってな。それとも、その年で未亡人か?」
「もう、好きにしてください」
「はは、そうさせて貰うぜ」