前編
三話で完結です。
その娘は、自分を取り巻く全てが疎ましくて仕方がなかった。
口うるさい両親、薄っぺらな関係の友人、頼りにならない教師、つまらない平凡な毎日…。彼女はそんな日常を鑑みて、いつも強く願っていた。
――煩わしい生活を捨てて、乙女ゲームの世界へと行きたい
彼女がいつも読んでいたネット小説には、夢のような世界が描かれていた。大好きな乙女ゲーム登場人物が皆自分を好きになり、平凡でいたいと逃げ回る自分を追いかけチヤホヤする、そんな世界が。
普段は自分なんか相手にしないモテモテのイケメンが自分にぞっこんで、普段自分を馬鹿にしている美人の乙女ゲーム主人公が自分の格下になる…そのシチュエーションは、彼女にとってたまらない快感だった。だからこそ、彼女はその『ネット小説に書かれている乙女ゲームの世界』へと行きたかったのだ。
しかし、彼女は理解していた。闇雲に願ったところで、誰も願いを聞き届けてくれなどしないのだと。所詮はフィクションであり、記し手は自分と同じ素人で参考になりはしない。
だから、彼女は本気で異世界に行くための行動に移すことにした。
先ず彼女がしたことは、百日参りだった。毎日近くの朽ちかけた社へと赴き、境内を裸足で歩き百日間毎日神へ祈りを捧げ願をかけた。
しかし、雨の日も雪の日も変わらず百日お参りを続けたが、生憎彼女が異世界にトリップすることも、神様が眼前に現れることもなかった。
大概の人間ならば、そこで諦めて平凡な日常へと戻って行った筈だ。しかし、彼女が諦めることはなかった。彼女はインターネットで目を皿のようにして願掛けの方法を探し、とうとう他の方法を見つけ出したのだ。
酒・肉・五穀を絶ち、毎朝冷水で禊をし、社に幾日も幾日も祈りを捧げた。それは今では行う者も少なくなった、千日祈願と呼ばれる願掛けだった。
本来ならば僧や修験者が行うその祈願は、現代の飽食に慣れた身にすれば想像を絶する程辛く苦しい。夢見る少女が抱く『乙女ゲームの世界に行きたい』という程度の願いであれば、間違いなく志半ばで断念しているだろう。
しかし、彼女はそれでも幾月も行を続けていた。原動力は、彼女の中にある狂気というべき妄執だった。
――何処でもいい。もうこの世界には居たくない。
まるで宗教にのめり込んでいるかのような彼女を、両親や友人は心配し諫めた。しかし、聞く耳を持たず何かに取り憑かれたかのように連日願掛けに通う彼女を見て、次第に両親は呆れ友人は離れていった。彼女は異世界へと傾倒するあまり、今まであった居場所を失ってしまったのだ。
だからこそ、彼女はますます願掛けにのめり込んでいった。祈祷の前に祝詞を奏上し、朽ちかけた社に毎日盛塩と酒を備える。縋るような強い思いで千日願掛けた彼女を、此度は神も見離さなかった。
千日祈願が終わった丁度その日、彼女の夢枕に自分を神と名乗る者がおわされた。
其れは、狩衣と差袴を着て烏帽子を付けた一見神主のような服装で、作り物めいた怜悧な美貌の持ち主であった。其れは彼女の前に顕現すると、物々しく口を開いた。
”我はカガチ。大物主大神の眷属であり、この社の主である。
其方が僻穀し身を清めて祈った千百日に渡るその願い、我が確かに聞き届けたり”
彼女は狂喜した。願掛けを始めてから幾星霜、とうとう彼女の願いが聞き届けられたのだ。
彼女は願った。
『乙女ゲームの世界にトリップして、みんなに愛されたい。戸籍と保護者と毎月五十万の収入を用意して欲しい。』
、と。
乙女ゲームトリップの一番の障害は、正ヒロインとモブ女だ。美形の正ヒロインやモブ女に嫉妬されるのは、それはそれは優越感を満たされる状況だ。しかし、それで怪我をさせられたり、万一刺されたりなどしたらたまったものではない。
だからこそ彼女は、愛される対象をキャラクターともモブとも限定せずに『みんな』と願ったのだ。戸籍がないと目当ての学校に編入することもできないし、保護者がいないと学生の身分ではアパートを契約することすら不可能だ。
最強補正も容姿補正も頭脳明晰補正も大金持ち補正も全て必要ない。自分の身に余る生活や補正は、背伸びして合わせたところでいつか必ず瓦解する。彼女はまるで熱病のように異世界に傾倒しながらも、その一方でひどく冷静でもあった。
神と名乗った男は、喜びに身を震わせる彼女を見てうっそり微笑んだ。そして、その秀麗な唇でこう付け足した。
”其方は千と百日我に祈りを捧げたため、我のフに成り申した。異世界に向かった折には祭壇を設け、其処に磨かれた鏡をしつらえ、毎日塩と酒を供え我に祈りを捧げよ。僻穀まではする必要がないが、生臭を避けよ”
彼女はその言葉に頷いた。煩わしいと思う気持ちも勿論あるが、何と言ってもこの神様は自分の願いを聞き届けてくれたのだ。感謝の気持ちとして祈りを継続してもいいだろう。願いが叶い浮かれていた彼女にとっては、その事以外は全て些事であった。
だから彼女は気づかなかった。
”何より大事なのは色を断つことだ。其方は我のフであるのだから、色事などに関わり合うことなど決して許さぬ。努努忘れるでないぞ”
その話の内容も、フという身になった本当の意味も。
彼女は気づかなかった。




