900mm
知らない土地。
知らない香り。
知らない声。
知らない人。
なのに、私はこの土地も、香りも、声も、人も知っているんだ。
通り過ぎる人々は誰も私に気がつかない。
沢山の人々が足早に過ぎ去っていくこの世界は、
なんだか録画したテレビ番組のCMの部分を飛ばすみたいに早く早く流れていく。
あなたたちが私を知らないように、私もあなたたちを知らない。
だけどどうしてだろう。
今、たった今通り過ぎって行った青年だけが、
ほんの一瞬だけ早送りのスピードを緩めたみたいにスローに見えた。
「あっ…」
私の声は虚しく空に吸い込まれた。
そっと青年を追いかけてみた。
先を歩く君は一人だけ別の世界に連れてこられたみたいにゆっくりで。
追い越すことなんていとも簡単だった。
だけど、出来ない。
横顔を見たときに知ってしまったから。
愛しくて、愛しくて、愛しい君に何で気がつかなかったのかな。
風が君の髪をかきあげる度に、私の心臓はドキドキうるさくて。
それはまるで初恋。
君との距離は90cmぐらいしかないんじゃないかな。
近づけない。
だって知ってるから。
知らないんじゃなくて、思い出したくなかった。
この土地も。
この香りも。
この声も。
この人も。
みんな苦しいぐらいに知ってる。
だって全部君が教えてくれたから。
愛しくて、愛しくて、愛しい私を殺した恋人。