第九十二話 総崩れ
氏治は噴き出るような嫌な汗を手ぬぐいでふき取りながら、床几に座ったまま長机の上に乱雑に広げられた地図や駒をじっと見つめていた。
氏治直参の足軽大将である志筑左将監や、真家大成太夫等の数名が駒を動かしながら熱く論を交わしているが氏治の耳には全く入らない。焦りと恐怖、罪悪感からその思考は停止し、この幼い少女は自分が何をすべきなのかを完全に見失っていたのだ。
「氏治様! 氏治様ぁ!!」
氏治の耳にしばらくぶりに届いた伝令は、ずいぶんと派手な色の縅をした奇妙な格好の一兵卒から発せられていた。
「ど、どうしたの?」
その一兵卒は真家大成太夫を押し退けるようにして氏治に迫ると、その足元にしがみ付いて懇願する。
必死の奮戦で敵中を切り抜けてきたのであろう。その全身には敵の返り血を浴び、数か所の傷を帯びていた。
血まみれの手で氏治の裾を掴み、這い寄るようにして、惨めな程くしゃくしゃにした泣き顔で必死に迫る。
「氏治様! どうか、どうかお願いしやす! お頭が、手塚様が敵中に孤立しているのです! すでに全身目も当てられないほどの傷を浴びて、このままでは死んじまいます!」
「そ、そんな……手塚が……急いで救援を……」
氏治は憔悴しきっているのか、このわずかな時間でやつれる様に疲労の色を見せる。
そして、わなわなと震えながら床几から立ち上がり、増援の指示を出そうとする。
しかし、それを厳しくとがめる声が本陣に響く。
「お待ちくだされ!」
声の主は行方刑部少輔であった。前線での指揮を終えた行方はたった今帰還したところであり、馬から下りるといきり立った足取りで氏治に近づく。
「行方! 丁度良かった、手塚に援軍を……」
氏治は捨てられた子犬の様に弱弱しい表情で行方刑部少輔を見上げるが、行方は付き放すような視線と厳めしい顔つきではねつける。
「氏治様! 今更何を仰るのです! 本陣には余裕はありませぬ! ここには私の手勢を合わせても百ばかりしか兵が居りませぬ、この程度の兵で何をなさるおつもりか!」
「で、でもこのままじゃ手塚が……孤立しても尚私を信じて待っていてくれているのよ!? そんな兵達を捨て置けと言うの!?」
「そのために御身が討たれては元も子もないと申しております! 手塚殿の方はすでに菅谷殿に救援へ向かうよう指示を出しました。そこもとも早々に菅谷殿の道案内を買って出よ。はやくせねば本当に手塚殿が討たれるぞ!」
行方刑部少輔は厳しく氏治を諫めると、手塚石見守の兵にも声を荒らげて指示をだす。
「は、はは!」
焦るようにして出ていく手塚石見守の兵の後ろ姿を見て、氏治はわなわなと震えながら行方刑部少輔に質問した。
「菅谷に、手塚を救える余力はあるの……?」
「解りませんよ。聞くところによるとお二方の仲はあまりよろしくないと聞きますし、もしかすると故意に見捨てないとも」
「そ、そんな……」
行方刑部少輔の頼りない返答を聞くと、氏治の膝から力が抜け、崩れるようにして膝を地につけて座り込む。
ひどく衝撃を受けている氏治を気遣うつもりがないのか一瞥もくれずに戦況に耳を澄ませ、精神を研ぎ澄ませながら言った。
「されど、菅谷殿で救出できないのなら、我々が向かったところで無用に散らされるだけでございまする」
「そうかも、知れないけれど……」
二人の間に沈痛な空気が漂い始める。
そこへさらに状況を悪化させる一報が届けられる。
「伝令! 左翼側が敵に完全に封殺されたとのこと、救援を求めておりまする!」
「なんですって! ……でも、どうすれば……」
氏治は目を丸くして慌てて立ち上がり、感歎の声を上げると口元を手で押さえて心配そうにおろおろとし始める。そこでふと行方刑部少輔と目が合うと、行方は首を左右に振り目を細めた。
そして縷々と状況を解説した。
「氏治様、何を迷う必要があるのです。我が方はすでに総崩れ、今は一刻の猶予もございませぬ。あの赤松様が兵を率いて前線に向かわれるのは異例の事ですよ。今総退却の御決断をなさらねば我が方は深刻な被害をもたらしまする」
「なんでそんな淡々としていられるの……! 行方! 貴方は八幡の友人じゃなかったの!? なんでそんな冷酷になれるの! 私には理解できない……あなたは友人を見捨てられるというの!?」
氏治は憤り、涙ながらに行方は非情だと訴える。
しかし、行方刑部少輔はその言葉を意に介さず目つきを鋭くして冷たく言い放った。
「友人だからなんだというのです」
「え……?」
「氏治様、命に貴賤はないと仰せになったのは貴方ではござりませぬか!! 今更になって言葉を覆されるか!? 八幡殿の兵はたったの三百弱、それを生かさんがために残りの三千近い将兵の命を軽く扱っても良いと言われるおつもりか!」
「そ、そう言う訳じゃ……」
氏治がたじたじとして後退りし、背後の床几に足がぶつかって倒れる。
カタン、という僅かな音にも怯えた様子で後ろを振り返る氏治を見て若干の冷静さを取り戻した行方刑部少輔は、幼子を諭すように、それでいて冷淡な眼差しで氏治の眼前に立って視線を合わせる。
「親友です、親友ですとも。少なくとも私はそのつもりです。しかし、それとこれとを同じくすべきではないのです。少なくとも兵には、我々の関係など取るに足らないもの、そのためにその命をつき合わせるわけにはまいりませぬ」
「それはそうだけど……!」
目を逸らそうとする氏治の視線を逃さぬようにその顔にじっと視線を向けたまま、行方刑部少輔は淡々と言葉を発していく。
「氏治様、あなたは八幡殿お一人の命の為に数百、いや、もしかすると数千という命が消えるというのにその事には一切胸が痛まないのですか?」
「……わかったわ……ごめんなさい、撤退の用意を始めて……」
「は!」
行方刑部少輔は頭を下げ、撤退許可を全軍に知らせようと振り返る。
しかし、この説得に使った僅かな時間に戦況はさらなる悪化の一途を辿っていた。
そして、本陣には崩壊しかけた前線から一人の身なりの良い武士が汗だくになり、髪を振り分けながらまるで落ち武者のような姿になって駆け込んできた。
「氏治様! お助けくださいませ! 拙者は岡見山城守義綱様の側近、和田将監にござりまする!」
「次は何事!?」
身なりの良い武士は氏治の前に倒れ込み、必死の形相を氏治に向ける。
氏治ももはや驚くと言った顔ではなく、疲れ切っていて、これから聞かされるのであろう悲報に構えるためになけなしの元気を振り絞るためか声を大にして言った。
「義綱様は皆が後退を進言されるのも構わずに御自ら矛を振るって奮戦なさっておりまする! されど、我らにはもう戦力がありませぬ! 義綱様は、我々は今まで小田家によくお尽くしいたしたものと某は思うておりまするに、どうか、どうか我らの忠義に報いてくださりませ! このままでは義綱様が討たれてしまいまする!」
岡見山城守義綱の側近、和田将監は救援を求めて叫ぶ。
だが、行方刑部少輔に厳しく言い含められた氏治には、戦闘を継続させかねない増援の指示は出せない。また、本陣にもその余力が無い現実を見て、苦虫をかみつぶしたような顔をして苦しげに声を紡ぎ出した。
「で、でも兵が……小田原の合戦では特に奮戦してくれたのはまだ記憶に新しいわ。義綱の忠勤は私もよく認めている。でも、今は……義綱に伝えて、今すぐ退却するように」
氏治の冷酷なその指示に和田将監の声は自然と反発的なものとなり、訴えかける声はさらに熱を帯びる。
「し、しかし前線には負傷した味方も多く、敗残兵を沼尻又五郎様が回収して後退している最中……今義綱様に退却を命じるとはあんまりに御無体にござりまする! 義綱様は情に厚き御仁であるのは一門である氏治様はよく御存じでございましょう!?」
「で、でももう……」
氏治は何をすればよいか、何をしてよいのか完全に見失っている。既に指揮権の大部分を行方刑部少輔に預けてしまっているような状態で、自分を頼ってくれている家臣を救う力さえもない自分に酷く自己嫌悪を覚える。
そこへ、僅かに氏治の心を勇気づける声が聞こえる。
「氏治様!」
菅谷政貞の声に振り替える氏治は、安心感を得て若干表情を柔らかくし、期待の眼差しを向けながら駆け寄る。
「ま、政貞! た、助けて、み、皆が……!!」
「よもや今は味方の救援に注ぐ余力は消え失せましてござる。今氏治様にできるのは総退却の御指示のみ。さぁ、撤退の指示を!」
しかし、菅谷政貞は期待の眼差しを向ける氏治に申し訳なさそうに首を左右に振ると、氏治もガクっと肩を落として頷き、総退却を決意した。
「そんなっ!? っく……わかった……全軍、撤退……」
その決断を見て義綱の側近の表情は絶望の色に染まる。
「そ、そんな……何とも無慈悲な……」
そして、涙ながらに崩れ落ちた側近に止めとなる一報が届く。
「最前線よりご報告! 岡見山城守義綱様! お討ち死に!!」
この伝令の一報で氏治と義綱の側近は目を丸くした。
そして、氏治の方が僅かに早く動いて口元に手を当てる。
「ぃ、ぃや……そんな……」
義綱の側近は涙をこらえきれずに流し、嗚咽を漏らす。
そして、籠手が裂け、手の甲の皮膚が破れるまで全力で地面を数度殴るとその顔を上げ、氏治にありったけの憎悪の感情を込めた視線で睨みつけた。
「……我等の奉公に報いてくださらぬとは……義綱様、さぞご無念でござりましょう……義綱様は一心に大殿が為を思い、小田原の折りも最前線で奮戦し、その御心を砕いてこられましたと言うに……。この仕打ち、恨みに思いまするぞ!!」
「ひっ、ご、ごめんなさい!」
止め処ない憎悪の感情を見て、氏治は後ずさりして怯えながら反射的な謝罪の言葉を述べる。
和田将監は涙を拭うと立ち上がり、刀を抜いて氏治に背を向けた。
「義綱様がお討ち死になされたとあらばよもやこれまで。某は義綱様が後を追いまする故、これにて御免!」
「ま、まって! 岡見家が滅亡したわけじゃ……あなたは生き残って義綱の意志を」
氏治は手を伸ばして離れた場所にいる和田将監を掴むような動作をしながら犬死はさせまいと説得を試みる。
和田将監は一度足を止めるが、振り返ることはない。
そして、俯きがちに怒気を顕にしていった。
「氏治様! 我等は武士。守るべき主を守れずして生きれば面目の施しようもない、よもや某の命は在って無きが如し。氏治様、義綱様が命を懸けて守られたそのお命、それをむざむざと捨てることがあらば、それこそ未来永劫小田家を祟りまするぞ! ……御免!」
和田将監は前線へと叫びながら一直線に向かっていった。
菅谷政貞は呆然とその背中を眺める氏治の背後に回り、肩にそっと手を置いて励まそうとする。
「……殿、今は退却以外何も考えてはなりませぬぞ。今は悲しむ時間も惜しいのです。殿は某共が引き受けまする」
「そうね……」
氏治は肩を落として力なく頷いた。菅谷政貞は首だけ行方刑部少輔の方へ向け、馬を指さした。
「行方殿、氏治様を無事に小田城までお送りせよ」
「は! 承知いたしました!」
しかし、この時には既に小田家は総崩れであった。
小田家は既に目も当てられぬ有様となり、戦場には多くの小田方の死体が転がった。
首を切り落とされて田の水を真っ赤に染め変えた足軽の群れ。弁慶の立往生とばかりに数多の矢がその身を襲っても尚、敵の足止めの為に奮戦したのであろう、大の字に仰向けで寝そべる足軽大将。頬には矢が刺さり、腹には幾本かの槍で突かれた傷があり、背には刀が刺さったままの煌びやかな鎧を身にまとった無残な死体。
この戦場においてはそれこそ貴賤などなく、上から下まで様々な身分の人間が大勢討ち死にしたのであった。




