第七十一話 先代の墓
東風が吹き始め、もうじき春の訪れを感じさせる草花も咲き始めるだろうという程よい暖かさを迎えた関東は、晴天で春の心地よい太陽の光をさんさんと降り積もらせて、上からも下からもその暖かさで人々の身を包む。
そうして、ようやく季節外れの越後相模の二大台風の大荒れから助かった平和のありがたさを、関東一円の民に享受させていた。
が、そんな長閑な日常を久々に味わう暇もなく、八幡廓にはまた、一つの小さな台風が飛び込もうとしていた。
「八幡! 今日の仕事はもう終わったから城下へ遊びに行こう!」
そう、それは小田家の当主小田氏治である。小田氏治から小田氏春へと改名した方がいいのではないかと思わせるほど、春の良く似合う暖かな笑顔を振りまいてやってきた。
「あのなぁ……せめて視察なりなんなり、それらしい言い訳ぐらいつけておけよ……」
当主であるにもかかわらず、真昼間から何の躊躇いもなく遊びに行こうという氏治に、顔をひきつらせながら八幡はため息交じりにそう言った。
「別にいいじゃない。言葉を変えたところで内容が変わるわけでもないんだから。仕事も終わっているし、誰も咎めたりしないわよ」
氏治は何も悪びれる様子もなく、縁側の障子を開け放ったままなんお断りもなしに八幡の書斎へと足を踏み入れて言い放つ。その様は寧ろ、早々に仕事を片付けたのだと誇らしげなほどである。
「そうじゃなくて世間体というか、人聞きというかだなぁ……」
「まぁいいや。じゃぁ視察に行きましょう?」
書類の整理をしていた八幡は、言葉尻にため息を吐いて氏治を諫めるが、氏治は八幡の言いたいことを意に解す様子もなく、言葉だけ変えて街に出ようと催促した。
「じゃぁって……あぁー駄目だ駄目だ。生憎今日は忙しい」
「なんでよー……」
八幡がきっぱりと断ると氏治は座り込んであからさまに落ち込み、木で鼻を括るその態度にとても不満げである。
「今日は極楽寺の顕然様のところに行って農具販売のことで最終確認とかがあるんだよ。極楽寺と菟玖波屋が提携してな、いろいろ展開していきたいんだと。それに、ここではまだでも上方じゃもうすぐ小麦の収穫も始まるからな」
「むぅ……ケチ」
「あぁそうかい。鈍斎とか白木御前でも呼んで遊べばいいだろう?」
八幡はだいぶ投げやりな態度で氏治をあしらおうとすると、氏治は両足を抱え込み、所謂体育座りで目線を畳に落しため息を一つ吐く。
「つーちゃんは今日も忙しいんだって。手塚もどこか出かけるみたいだから楽器の手習いもできないし、白木ちゃんも治高にお留守番頼まれていてお城を出られないらしいの」
八幡も早朝に体を起こすための軽い運動をしていた折り、行方刑部少輔と出くわした。
その際、菅谷も赤松も今日は忙しく、駐臣の番を代わっているという話を聞いていたため、多くの重臣が揃って外出ということが気にかかる。
「はぁ……なんだろうな? みんなして。今日って何かの記念日とか? 氏治って今日が誕生日だったりすんの?」
「誕生日? 違うけど、誕生日だからって何かあるの?」
「え、誕生日ってふつう祝わないか?」
「祝わないわよ。何かあるわけでもないし、そういうのは御帝や菅原道真公みたいな特別な人の誕生日だけでしょ? 祝われるのは。あとは仏様の誕生日の灌仏会とか?」
現代の風習風俗がまだ抜けきっていないのか、はたまた現代の考えが思いの外この時代でも通じるところがあったためか、至極当然の様に誕生日が祝われると思っていた八幡は些か呆気にとられる。
「へぇ……普通は誕生日って祝わないのか……まぁいいや。だとするとなんだろうな?」
「別にどうってこともないんじゃない? こういう日もあるわよ」
氏治があまり気にする素振りを見せないので、八幡も何か思い当たるわけでもなし、特に深く考えることもなく納得した。
「そうだな。じゃぁそろそろ極楽寺へ行ってくる。じゃあな」
「気を付けてね~」
城門まで見送ってくれた氏治に手を振りかえしつつ、八幡は目と鼻の先の極楽寺へと馬を歩ませた。
八幡は、すっかり顔なじみになった門前の若い僧に馬を預けると、複雑な参道や境内を迷うことなく進み、程なくして本堂までたどり着いた。
本堂へ入ろうと近寄ると、丁度どこかに向かおうとしたのか仏具をもって支度を整えた顕然が、同じくらい高齢の僧を数人連れて堂から出てくる。
「あぁ、顕然様! 今日も例の件で少々お話を詰めようかと思いまして参じました。お時間はよろしいですか?」
八幡は、少し距離があったので軽く手を振りながら歩み寄る。すると住職も振り向きざまに軽く手を振りかえして答えた。
「ん? おぉ、八幡様。よぅこられましたな。毎度ご足労戴いて申し訳ない」
「いえいえ、お世話になりっぱなしなので、これくらいはお構いなく」
八幡が会釈をすると、住職は少し申し訳なさそうな顔をして次の言葉を一瞬だけためらう。しかし、その僅かな躊躇いを終えると、いつもの好々爺の笑顔で憎めない軽い調子で言う。
「ほっほっほ、左様ですか。それでは失礼ついでなのですが、申し訳ございませぬ。今日は法事がありましてな。しばらく時間はとれそうにはありませんなぁ」
「そうですか……それでは仕方がありませんね」
八幡が少し残念そうに俯いているのを見て、顕然はまた言葉を躊躇う。
またも、ほんの僅かな一時の逡巡を経て、顕然は八幡をその法事へと誘った。
「そうです、なら、八幡様もご参加なされませ。此方へ」
「顕然様が仰るなら、そのように致しましょう」
そうして、二つ返事で承知した八幡が案内された先には、三つの質のいい墓石が立っていた。
そんな三つの内の中央の墓には政治の字が刻まれており、その正面には先代に重用され、家督争い前後から仕えてきていた小田家の家臣団、およそ四十名余りがそこに座していた。前列には飯塚を除いた四天王三人が、そして、一番先頭には小田家軍師である天羽源鉄斎がいる。
(最近墓参りがやけに多いな)
「皆々様、丁度良きこの日に八幡様が我が境内まで参られました。これも御仏のお導きの良き縁にございますれば、この折に先代様に八幡様をご紹介されるもまた良きことかと。いかがでしょうかな?」
「顕善も偶には役に立つのぅ。では、八幡殿は菅谷殿の御隣へどうぞ」
源鉄に促され、八幡は菅谷政貞の隣に座る。
これは何事かと思ってこっそり事情を聞こうと菅谷を見やるが、当の菅谷は苦悶の表情を浮かべて脂汗を流し、とても何かを聞ける雰囲気ではない。
後ろに振り返り、菅谷をまたいで隣の赤松に聞くわけにもいかず、八幡はじっと事の成り行きを静観した。
(これはどういった集まりだ……? メンバーにも何らかの共通点でもあるのかな。ただの墓参りにしちゃいやに仰々しいが、この時代って基本的にこういうもんなのか?)
周囲を見回すと、場には小田家臣団のほかに、極楽寺組織最上位と思われる奢侈な僧衣を身にまとった高僧が十名ほど同席していた。
各々の用意と配置が整うと、最初に小田家家臣の代表格、最長老である天羽源鉄斎が口を開いた。
「先代様、お久しゅうございますな。今年もこうして小田の地で命日を迎え、こうして参ずることができたこと、一同誠にうれしく思っておりまする」
すると、その言葉が合図だったように一同は胡坐で両手を地に付き、深く頭を下げた。それに続いて赤松擬淵斎が発言する。
「大殿の遺児、氏治様は無事にすくすくとお健やかに育っておりまするぞ。双子の弟君も逞しくなられております。きっと小田家はこれからも安泰でございます故、どうか心安らかにお眠りくだされ」
天羽源鉄斎と赤松擬淵斎は何ら日常会話と変わらない声の抑揚で、その場に死んだ人間がいるかのように語りかける。
しかし、二人以降は各々が感情を抑えきれず、あるものは涙を、あるものは悲しげな笑みを浮かべながら語りかける。
それは、三番目に発言した菅谷政貞も同様であった。
「先代様、申し訳ございませぬ……申し訳ございませぬ……氏治様は、氏治様だけでも某、いや、一族の命すべてを投げ打ってでもお守りいたす所存。どうか、どうか我々にお任せくださいませ……」
菅谷政貞は胸のつかえるような籠った声で、苦しげに謝罪を口にした。八幡は菅谷のこの表情に似た表情を此処に来てすぐに一度見ているが、今のその顔は菅谷との初対面か、その時よりもいっそう苦痛のこもった声と表情であった。
四天王の最後となった手塚石見守は顔をあげ、遠い雲を見上げながら膝を叩いて乾いた音を一つ響かせると、小さく笑みを浮かべて語りだした。
「懐かしゅうございますな……流れ者の某を一目で気に入り、どこの馬の骨とも知れぬと家臣の大反対を強引に押し切って登用し、重鎮に据えていただいたあの日を。今でも昨日のように思い出しまする。しかし氏治様は、そんな流れた各地で苦労して身につけた某の技能をみるみる吸収し、今では太鼓の奥義まで習得されてしまわれた。いやはや、誠に先代様の娘様だけあって優秀でございますなぁ」
そんな少々長い手塚石見守の昔語りが終わると、他の家臣団も一人一人が短く言葉を並べていき、それを全員が追えると再び番は源鉄斎へ帰り、ゆっくりとその口を開いた。
「先代様、前年の戦で六騎の平塚入道自省殿がお討ち死に召されました。そちらでもうお聞きかと存じますが、それはもうすばらしい奮戦ぶりだったそうで、佐竹殿から称賛された程だそうですぞ。その奮戦もあって佐竹は勢いを失い、小田は救われました。どうぞ、そちらでお会いでしたらその功を、氏治様に忠義を立てて立派に散られた平塚殿を労ってくだされ」
天羽源鉄斎は「伏してお頼み申す」と付け加えて平伏した後、今一度顔をあげ、ふと思い出した様子で言葉を付け加えた。
「それと、氏治様は最近、好き嫌いは人の常、けれど佐竹を憎むことは決してしてはならぬと仰いました。この荒れ果てた乱世の何処に敵を憎まぬ人間が居ましょう? ましてやそれを家臣に厳命させることのできる大名が居りましょうか。誠に氏治様は心優しく育たれました」
そして、墓の正面から体をずらして座をただすと八幡を一度見て、そちらへ手を向けて紹介するように語りだした。
「それと、此度は吉報がございますぞ。ここに居られる方は御仏が遣わされた八幡様と申す方にて、文武両面で当家に貢献してくださっており、いつか当家を惑わす岐路に立ち入った時には、きっと光のある方を指示してくださいましょう」
天羽源鉄斎は八幡を紹介し終えると、これからの抱負を手短に語り、挨拶をして締めくくる。
そしてしばらく無言の間が続き、誰も言葉を発さないと確信したところで顕善が墓の前に立ち、他の僧が御座を敷き、木魚などを用意した。
「では、皆様。よろしいですな?」
すると一同はいっせいに頭を下げる。
そして、御経が顕善によって唱えられた。これが終わり、解散の運びとなった時、八幡は場違いで聞けなかったことを問う。
「皆さん、先代当主の命日でお墓参りしてらっしゃるんですよね? 今日、ここに来る前に氏治が今日は特別な日でもなんでもないと言っていたのですが……」
八幡は、まずいことを言っていないかと確認するようにおずおずと切り出した。
すると、一同は同じく暗鬱な顔になり、口を真一文字に結んでしまう。
「それは……小姫ちゃんがこの日を覚えていないからだ……」
突然八幡の後ろから声がする。それに驚いた八幡はふと顔をあげ、聞き覚えのある声の方へとゆっくり顔を向けた。どうやら、ここに集まった四十ほどの小田家臣団の末席にいたらしい、野中瀬鈍斎が歩み寄りながら答えたのだ。
八幡は赤松擬淵斎達へ振り返り、どんな顔を向けていいのかわからず曖昧な表情をしたまま説明を求める。
「覚えてない……? それってどういう事ですか? 教えてやらないんですか?」
「それは……」
一同は口を開くのを躊躇う。すると、呆れたような溜息を一つついてから顕善が口を開いた。
「それは、氏治様には少々衝撃が強すぎる出来事だったようでしてな。先代様が亡くなった前後の記憶は、混乱して曖昧なままなのです。かと言ってそのような暗鬱な記憶に誰一人不用意に触ることもできず、こうして無力を晒しておるのです」
僅か十一歳で大名であり、武家の棟梁として生きているという氏治を包む特異な環境に誤魔化されていたことを、八幡はこの時初めて気づいた。
若しくは、薄々気がついてはいても、本人の明るさや、親が居なくても特別おかしいとも思われないこの世界の為に、不思議と意識されることがなかっただけで、以前から漠然とした違和感は抱いていたのだ。
八幡はこの時、その正体にようやくたどり着いただけでしかない。
普段から楽天家で能天気と周囲に思われがちな氏治だが、十一歳で継いだ家督が平穏な物であるはずがないということは、真っ当に年かさを重ねたものなら気づいて然るべきなのだ。
八幡はそんなことにも気づかず、氏治の苦労も知らずに軽んじていたことに、なんとなくではあるが罪悪感を覚え、申し訳なさそうに顔を顰める。
「何も知らない身なので何も言えませんが……氏治もつらい過去があったんですね……それもそうか、十一で、しかも女の身で家督を継ぐなんて平穏な家督相続ではないよな……普段明るいから気づかなかった……」
呟くように言ったその言葉に、鈍斎が優しく語りかけるように答える。
「小姫ちゃんはな、まだ一度も政治様の御墓を訪れたことがないんだ。いや、それどころか、ここにお墓があることも知らないかもしれない」
「な! それはまたなんで?」
八幡はつい感情的になって声を張り上げた。
すると、辛気臭い空気の似合わない赤松擬淵斎が一つ溜息を吐き、恰幅の良いその腹を小さく一度だけ叩いて話し始める。今日ばかりはそのよく蓄えられた口髭が、八幡にはしょんぼりと俯きになっているかのように感じられた。
「それはな、氏治様は当時混乱しており、混乱が回復して大殿の死を認識しても我等にそれらを聞く機会を失い、我等もまたこの話題に触れる度胸もないのだよ。情けない限りだがの。詳しくは鈍斎、お前が話すのだ」
赤松はそういって野中瀬の背中をポンと押す。
「はい、赤松様」
背を押された鈍斎は、重い足取りで一歩前に進み出る。そして、視線を下げ、目をわずかに潤ませた。
「政治様がなくなった時……葬儀の時も小姫ちゃんは一度たりともどこかに焦点が合うことはなかったんだ。私は、その後付きっきりで小姫ちゃんを看ていたんだが、その後は焦点が定まらず、食事を自分の口にも運べない日が三日も続いた……。そして四日目。布団の上で呆けている小姫ちゃんに声をかけたんだ。すると、ようやく私に焦点を合わせてくれて、うれしくて飛びついた。けれど、小姫ちゃんは釈然としない様子で私に一言聞いてきたんだ。なんだと思う?」
「さぁ……悪いが解らないな……」
回答が出ずとも、話の流れから聞いて気分のいい話が聞けるわけじゃないと解っているだけに、八幡は答えを聞く前から眉を顰め、苦虫を噛み潰したような表情をしている。
「今日は何月何日か? と。氏治様は昔から多くの手習いをしていたおかげもあって決して日時を忘れるようなお方じゃなかったんだ! なのに、あの日は急に……嫌な予感がしたんだ。それで少し鎌をかけた。するとどうしたことか、見事にここ一カ月の記憶が曖昧になり、ところどころ記憶の欠落まで確認できた……情けないことに私は、にこやかにほほ笑んで「今日は何して遊ぼうか?」と問う氏治様を見てられなくて、館を駆け出したよ。自分の屋敷に立ち返って泣き腫らし、どうか今日の出来事が夢であってくれって強く願った……無意味だったけどね……」
鈍斎の言葉は一つ一つが湿っぽく、やるせない悲しみを訴えかけるようであった。その顔は自嘲的で、掛ける言葉も見つからない。
一同が言葉を失ったとみると、赤松擬淵斎は天を仰いで目頭を押さえて言った。
「鈍斎からその報告を聞いた我々は急遽集まって会議を開き、結論として氏治様自身が御心の整理を終えるまで触れてはならぬと決め、こうして小姫様には悟られることの無き用に秘密裏に法事を行っておるのです」
「なるほど……解りました。自分も不用意にこの話題に触れることがないように気を付けます」
「かたじけない」
話に一区切りつくと、その場にはしんみりとした空気が流れる。その場の皆が重く鋭い悲しみに顔を曇らせている。
「しかし、氏治も三年以上も墓参りに来なくて何か思うところがあるだろうに……」
八幡はそんな空気の中での我慢比べに耐えられなくなり、ぽつりと一人ごとのつもりで呟く。
すると、それを聞いた顕然が笑みを浮かべ、林を挟んで向こう側にあった五重塔を見上げて歩き始めた。
「ほっほ、それは何かしらありましょう。人は若いうちが一番よく考えるもの。ああ見えて氏治様はとても賢いですからな。きっと考えが御有りなのでしょうぞ」
そうして顕善が笑いながら歩き去ると、少し間を置いて赤松擬淵斎が、その後に本堂方向に源鉄が、そしていつの間にやら菅谷が居なくなると、手塚は右腕で八幡の肩をがっちり組んで、もう一方の手はその大きな掌で野中瀬の頭を鷲掴みにする。
「お主等、今日はちっと付き合わぬか?」
残念なことに、疑問形で発せられたはずのその台詞には拒否権が存在しなかった。