第六十七話 本音
正午近くになると、八幡は今日の仕事はほとんど片付かないまま早々に切り上げ、簡素に事情を話して太兵衛に後片付けを頼む。そうして空けた時間に京で流行りの茶道具一式を町で買い求め、それを土産に氏治の居る館へ訪れた。
いつものように勝手に上り込むことを今日は避け、使いの侍従を通して来客を伝えてもらう。すると、しばらくして白木が現れ、昨日の広間まで案内される。
「お、おぉ……氏治。あいつ……野中瀬の様子はどうだ?」
「まだ芳しくはないわね。昨日は明け方近くまで泣いていたのよ。それで疲れたみたいでまだ寝ているわ。お付きのお松さんが今は様子を見ていてくれているの」
八幡が部屋に入ってみると、そこには見るからに疲れた様子でげっそりとした氏治が座布団の上に腰を下ろしていた。その目には隈ができており、眠いのか目も半開きといった具合でとても姫君が見せていい顔をしていない。
「そうか……」
八幡は疲れて憔悴した氏治を見ると良心の呵責に胸を痛める。すると白木が一歩歩み寄り、八幡の顔を見上げて気遣う様子で問う。
「やはり、八幡さまは野中瀬さんに謝りに?」
「はい。さすがにこれだけのことをして知らぬ顔もできないと思ったので……それに、これで許しを請おうなんて思うわけじゃないんですけど、一応手土産も持ってきたんです」
八幡は、畳の上に腰を下ろすと手に持っていた風呂敷を広げる。すると中からは丁寧な作りの木の箱が出てくる。それを訝しげに眺めた氏治は膝を摺り寄せてその箱を覗き込む。
「どんなの? 今更女の子に送るような品だったら余計煽るだけだからね? それに、言ってはなんだけど、あの子の趣味は結構風変りよ?」
「ん? あぁ、そこらへんはたぶん大丈夫……だと思う。まぁ見てくれ」
八幡が箱の蓋を開けると、中からは渋い色合いの茶器が現れた。
「これは……茶器?」
「あぁ、上方ではだいぶ前から流行ってる。今の時代、歌だけが外交の道具じゃないんだ。こういうものも後々必要になるだろうからな。それに、こういうものが好きだろうなってなんとなく思ってさ」
八幡が茶器を手に取り、悠々とその有用性を説明して見せると、氏治は納得した様子で何度も頷くが、どうして八幡が、こうも趣味に合うものを見つけてきたのか不思議に思い、首を傾げる。
「たぶん大丈夫だと思うけど……よくあの子の趣味がわかったわね。たまに、そういうところ真剣に尊敬したいと思うことあるわよ」
「そ、そりゃどうもな」
「それにしても、もう御昼どきだというのに野中瀬さんは起きてきませんね……? 大丈夫でしょうか?」
白木は縁側の方を眺めると、縁側はすっかり影になり、太陽がほぼ真上に昇っていることが窺える。
「確かに心配ね……もう一度様子を見てこようか?」
「いや、俺のせいで起こすのも悪いからいい。疲れているならそっとしておいてやってくれ……って俺が言うのもおかしいけどな。また、しばらくしたらくる」
氏治は、様子を見に行こうと立ち上がるが、八幡はそれを制して立ち上がると館を後にする。
そのあと八幡は自分の屋敷で数刻休んでいると、八幡廓に訪問者がいると部下の兵士が告げに来た。
八幡は今日の内は仕事こそするつもりはなかったが、訪問者まで無視するわけにもいかず、とりあえず廓の門まで足を運ぶ。
「な、なんで……? ど、どうした!? もう大丈夫なのか!?」
なんと、そこにいたのは野中瀬であった。
「大丈夫なわけあるか……! でも、それ以上騒ぎ立てるな。もっと怒るぞ」
野中瀬鈍斎の台詞には、この前までのような強気の姿勢は窺えず、なけなし程に怒りの感情が伝わってくる程度であった。その身体は、門の近くを八幡の兵が、もとい男が通るたびに電流を流されたように微かに震える。
「あぁ、悪い……でも、どうして?」
「話すから……人払いを、してほしい」
「お、おぉ、わかった。こっちに東屋があるからそこで話そう」
何はともあれ、八幡は野中瀬鈍斎に謝罪する機会が訪れたのだから断る理由もなく、部下には要件無しに立ち入りを禁じている東屋へ野中瀬を案内した。
東屋は四畳半の正方形で、中央には半畳分の囲炉裏がある、わかりやすく言えば茶室風な質素な小部屋である。その囲炉裏も蓋をして畳を敷けば広いスペースを活用できるつくりとなっている。
所謂八幡の書斎兼趣味の部屋であり、少年心をくすぐる秘密基地のようなちょっとした贅沢空間であった。
故にそこは屋敷からはだいぶ離れており、周囲にも庭を設けて人の立ち入りを禁じているため、密談にはもってこいな部屋となっていた。
そこで二人は対面して座布団に腰を落ち着ける。
八幡は目の前の囲炉裏で煎茶を立てて野中瀬鈍斎に差し出し、火を消してそこの上に蓋と畳を敷く。両者がお茶に口をつけてしばらくは無言の時間が続くが、意を決した八幡が、先に謝罪と土下座をした。
「まず、本当にすまん。知らなかったとはいえ酷いことをした。許せないのは分かる。ただでさえ嫌いな俺にあんな仕打ち、殺したいと思われても仕方がないのは分かるが、どうか家中の公の場だけでも普段通り取り繕ってほしい」
すると、野中瀬鈍斎からは意外な反応が返ってくる。
「それは……いい。お前が知らなかったのも知ってる。皆が私を思って事情を伏せていたことも、そのあとお前に口止めしてくれたことも、お前が気に病んだことも全部聞いた」
野中瀬鈍斎は心の底から許したといった感じではないが、自分でも区切りがつけたいのだろう、自分に言い聞かせるように一言一言を噛みしめるようにして言った。
「そうか……」
八幡はそれ以上の言葉が見つからない。
「だから、あまり無駄に気を使うな。何も問題ない」
しかし、そう言う野中瀬鈍斎の手は震えていた。
目の前には碌に親しくもない男。しかも自分を女だと知っていてこの密室ときたら、内心は泣き叫びたいほどに恐ろしいのだろう。その心細さが、動作から見て取る様に解った八幡は胸が痛んだ。
「いや……公の場で余計な気を使うことをするつもりはないさ。でも、そんなに震えてるじゃんか。無理はすんなって。余計だとは思うが、俺ができることなんて高が知れてるかも知れないけどさ、それでも、できる限り手助けはさせてくれ。何でも一人でこなそうとするなよ。氏治にだって何も本当のことは話してないんだろ? 家督の件に関してはとやかく言うつもりはないけど、もっとほかの些細なことは氏治を頼ってやれよ。あいつだって心配してるんだぞ」
八幡は、震える野中瀬鈍斎を元気づけようと積極的に話しかける。しかし、出過ぎたお節介は得てして逆鱗に触れてしまうものである。
「貴様が知ったような口を叩くな!」
野中瀬鈍斎は、震える声で怒鳴りつける。それに少し驚き気圧されるが、八幡は相手を落ち着かせるように、あくまでも冷静な語り口で話し始めた。
「わかってるよ。お前ら二人のことは何も知らないなんてことは十分わかってる。朝にも赤松様に怒られたばかりなんだ。でもな、氏治が頼ってほしいってのはあいつが言ってたことなんだ。これに、知るも知らないもあるか?」
八幡はそっと問いかける。しかし、野中瀬鈍斎は少し取り乱した様子で首を強く左右に振り、八幡の言葉を拒絶する。
「あるさ! 貴様は何も知らない! あの子はなぁ、氏治様は本当に純粋無垢なお方なんだぞ! とてもか弱くて美しい、それこそ桜のようなお方だ! 私が家督争いを起こしたと聞いただけでひどく心配して心を痛めたんだ。そんなあの子にこれ以上いろいろなモノを背負わせろっていうのか!? あの子は皆が思っているほど強くないんだ! なのに、鬼畜なことに重臣の方々まで小姫ちゃんを政の道具にして……! 私しか! 私しか小姫ちゃんのことをわかってあげられないんだぞ!」
そうして叫び散らす野中瀬鈍斎を八幡は憐れむような目で見つめ、小さくつぶやく。
「なるほどな……それで、お前はこれ以上重荷を背負わせたくねえから葵にも親しくすんなって撥ね退けたのか……」
八幡は一度深呼吸をする。
「ばっかじゃねぇの?」
「な、なんだと!? 貴様、喧嘩を売っているのか!?」
八幡の唐突な言葉に、野中瀬鈍斎は刀に手をかけ怒りをたぎらせる。
「そうじゃねえよ。お前、過保護になるあまり、昔はどうだったか知らねえが、昔のあいつを思いやるばかりに今のあいつのことを忘れちゃいねえか?」
「何を言っている。私は常に氏治様を……」
野中瀬鈍斎はあくまで八幡の言葉に異を唱えるが、少し冷静になって考えているのか言葉尻には迷いが見え隠れし始める。
「それが間違ってるんだっての。お前はここ三年間ぐらいの間、殆ど氏治に会えてないんだろ? そりゃぁ、三年もすれば人は変わるだろうが。しかもこの多感なお年頃だ。身も心も大きな転換期を迎えるってもんだろ? それだけあいつも成長して強くなってるとは思えないのか?」
「……」
「少なくともお前は、今のあいつを全く分かってねえ。対して俺は、嫌でも何でも一年間一緒に過ごしてきたんだ。少なくとも、今のお前よりは今のあいつに詳しいよ。あいつはな、一国を背負う者として農民一人一人の痛みさえも背負って、皆が笑って暮らせる世の中を創ろうとしているんだ。そうして農民とも階級社会の垣根を越えてふれあい、理解し合う。そのための第一歩が昨日の葵って農民なんじゃないのか? 少なくとも俺はそう思う」
八幡の言葉に迷い始めた野中瀬鈍斎は、言葉を探し始め、八幡はそれが出る前に言葉を畳み込む。
「でも、私は……」
「あぁ、別にお前が間違ってるなんて言わないさ。気遣って、いたわってくれるってのは誰でもうれしいだろうからな。でも、お前がそんなに無理やり氏治の行動を制限してやることもないんじゃねえかって思うだけで。思いやりは悪いとは思わないさ」
「お前は……この一年で、氏治様はそのように映ったのか」
「まぁ、な」
八幡も野中瀬鈍斎の理解を得られたのか自信なく、俯く野中瀬の様子を窺うように顔を眺める。
「お前の……そういうところが嫌いなんだ」
野中瀬鈍斎は俯いたまま震える声でそう言った。
「あぁ……そうか……て、えぇ!? なんで!?」
八幡は突然の流れをぶった切られるその発言に驚き、声を上ずらせる。すると、野中瀬は今までの大人びた口調は消え、丸みを帯びて、童心に帰ったような子供みたいな口調と論理を振りかざした抗議を始めた。
「お前ばっかりずるいんだよ。小賢しい文官かと思えば小姫ちゃんに取り入ったって聞いて、でも私は城から動けなくて、もう気が気でなかったんだぞ! あの子は純粋でなんでも信じちゃうから騙されたんだって、手籠めにされたんじゃないかって!」
「て、手籠めってお前なぁ!」
「でも、そうじゃないらしいって聞いて……少し安心した。なのに! お前は徐々にやっぱり取り入ってるって話聞いて、菅谷様たちまで引き入れて、もう昔みたいにここに、小姫ちゃんに会いに来れなくなるんじゃないかって不安で、できることならすぐにでも駆けつけたかった……! けど、私は家督相続で起きた家中の混乱や、滞る内政の仕事に追われて来れなかった! その間にどんどん私の居場所がなくなるんじゃないかって不安で……ようやく久々に会えたと思ったら、鎌倉でお前が小姫ちゃんの危機にさっそうと現れて救い出しちゃうし! 芸事だったらな、私だって政虎公を満足させる手習いの一つや二つ、いつでも披露できるんだぞ!!」
野中瀬鈍斎は涙目で怒っているのか泣いているのか、悲しんでいるのか嫉妬しているだけなのかもわからない形相で八幡に怒鳴りつけた。
「そ、そうかよ、お前が才能あるのは分かったから……」
「……でも……私は小姫ちゃんが危機って時に、気づいてあげられなかった」
「そりゃ、お前が氏治の席から遠かったってだけで……」
八幡は、野中瀬鈍斎を慰めて場を収めようと試みるが野中瀬は言葉を続け、溜めていたと思われる思いをぶちまけた。
「違う! 私はな、菅谷様と赤松様のご厚意で三列目の席に居たのだ。私に気遣ってくれてな。貴様との距離も差して変わらない。にもかかわらず、お前は微妙な空気の違いに気づき、私は気づかなかった! 悔しいんだ! そんなお前に今度は裸まで見られて……屈辱だ……心底死にたいと思ったよ……」
「わ、悪い……それに関しては何もいえねぇ。ていうかぶん殴ってくれ。気が済むまで殴ってくれてかまわない……本当に申し訳ない……」
八幡もどうしていいかわからず何度も頭を下げる。
「そんな事するか、ばか。小姫ちゃんがまた心を痛めるだろ。お前を傷付けたら……」
「……そうか」
八幡は言葉を失い、一時無言の間が流れた。
「お前の名前は……まぁいいや。私の名前は知っているか?」
野中瀬鈍斎は涙を拭うと天井を見上げて八幡に急に質問をした。
「えっと、鈍斎……だったか?」
八幡も野中瀬と会ったのはここ数日の事。苗字は覚えたが名前はすぐには出てこず、暫しの間を置いて答えた。
「あぁ、そうだ。私の名は野中瀬鈍斎。自分でつけた名だ」
「そりゃまたずいぶんと重苦しそうな名前だな」
八幡は率直な感想を述べる。
「あぁ、鈍は読んで字の如く鈍いという意味だ。私は敏い人間ではない。馬鹿で、ひ弱で愚鈍だ。そんな自分をいつまでも忘れないで、常に自分を戒め、成長を促すためにあえて使った。斎……意味解るか?」
「残念ながらさっぱりだ。なんかお坊さんっぽいな」
八幡はお手上げといった様子で首を左右に小さく振る。
「まぁ、そういった意味もある。顕然様のように仏道のような響きがある名前がいいと思ったのもある。物欲にとらわれないようにと思ってな」
「へぇ……」
(顕善和尚は不健全だし物欲バリバリだったけどな……)
八幡は極楽寺の方角を眺めて一息つく。しかし、野中瀬鈍斎はこれからが本題とばかりに大きく息を吸って話を続けた。
「でも、本来の意味は斎から取っている。ものいみ、まぁ、心の穢れを祓い、身を清めて神にお仕えするという意味だ。そして私には仏の教え同様に大切で、いわば神ともいえる存在が小姫ちゃん。つまりは氏治様なんだ。だから私は元服の際に、女を捨て、清らかな身で一心にお仕えする意を込めてこの字を使っている」
野中瀬鈍斎は落ち着いた様子で、過去を思い浮かべながらどこか寂し気な、影の差した表情で語った。
「なんというか、大層とでもいうのか、ずいぶんしっかり考えてるんだな……しかもその年、いや、三年も前にか? お前は本当にすげえ奴だな」
八幡は、自分が同い年だったころ何をしていたか思い浮かべながら、その思考の差を考え、素直にすごいと思ったままに褒め言葉を口にする。
「そうか、ありがとう」
すると、八幡の無意識の予想に反して素直な返事が返ってきた。
しかも、その顔は八幡にはまだ一度も見せたことのないさわやかな笑みを浮かべている。
八幡は一瞬、その少し冷たさを感じさせる笑顔に見とれるが、一時の間を置いて正気を戻す。
「でも、なんでそんな話を俺に?」
すると、野中瀬鈍斎は自分で言い始めたにもかかわらずなぜこのような話をしているのか不思議そうに首を傾げる。しかし、しばらくするとふと小さく息をつくように笑いながら、自身もようやく理解できたその理由を答えた。
「いや、なんでだろうな……なんとなくそんな気に。あぁ、たぶんこれだ。今、氏治様はお前という一風変わった臣を得て、何か変わりつつある気がする。で、私のかつて居た位置にお前が収まりつつある。だからかな、年下で先輩面するのもなんなのだけど……氏治様の事、よろしく頼むよ」
「……あぁ。解った。それについては安心しろ」
「そうか……よかった……」
口では安堵するかのようにそう言うが、野中瀬鈍斎は寂しそうな顔をしているように八幡には見えた。
「でもな、保護者のような位置は変わりつつあるのかもしれないけどよ、一つだけ変わらないものがあるじゃねえか」
「一つだけ、変わらないもの?」
野中瀬鈍斎は首再び傾げる。
「あぁ、お前のその幼馴染って場所は、どれだけ俺が足掻いたって奪えはしないんだ。氏治の昔だってお前しか知らない。お前しかわからないことは大いにある。お前だけにしか相談できないことだってあるだろう?」
「!」
「そんな時に俺だけが傍にいたって意味はねえんだよ。だから、お前も全て俺に託すような寂しげな顔するなよ。お前は自信をもって、その幼馴染って場所にでかい顔して座っとけ。いいな?」
八幡が笑いかけると、野中瀬鈍斎の堪えた涙が溢れる。
「……あ……あぁ、わかった……任せてくれ……」
その顔はどことなく笑っているようであり、少なくとも負の念は感じさせない涙を流していた。