第六十二話 農業改革
「ふあぁ~! やっぱり小田城は一番落ち着くわね」
戦闘の論功が終わると、細々とした雑務を八幡へと投げて氏治は持ち込んだ畳を敷いて寝ころび、完全に気を抜いて寛ぐ。
「氏治、ここ俺の部屋なんだが」
「なによ、けち臭いわね。ここも含めて私の城よ? ほら、その辺とか片付ければ場所はいくらでもあるじゃない」
「お前の丸投げした仕事の書類で散らかってるの! それで今忙しくて相手してらんないって言ってるんだよ! 解りる?」
「わ、私も出来る事はやったもん! 後は八幡に回せばいいって江戸山城守も言ってたし……」
「江戸殿、評価は嬉しいが過信というか、便利屋扱いになってないか……?」
八幡は首をもたげて苦笑いを溢す。
小田六騎として武功を立てながらも、博学で勉強家な江戸山城守は内政や後方支援の重要さを認識しており、神託頼みの菅谷政貞に比べ現実的な視点から八幡を評価していた。
八幡は職人通りに頻りに足を運びつつ、小田城下に職人町の区画を造る計画を練り、再開発で職人たちに新たな屋敷と望み通りの作業場を与えつつ、職人の仕事の独占権益へ介入する交渉を行った。
その内容は、単純工作作業の分業化であり、一定以下の技術水準の単純工作作業や製品の製造と販売を職人以外でも可能とするものである。
八幡はこの内容を職人の権益の一方的な削減と取らせないため、各地での作事や普請、造船業、鉄堀串と言った官製の依頼に加え、流民流入による民間の諸道具需要の急増を説明し、職人に数に対して仕事の供給が過剰であることを説明した。職人達としても忙しいのは嬉しい悲鳴だが、もう現状に休まる暇がないという点は実際に困っていることでもあったのである。
加えて、質の低い仕事を別に流すことで、職人達はより質の高い仕事に集中できることによって技術向上にもなり、難易度の高い仕事を集中的にこなすことで収入増加にもつながるのであると説得し、職人達からの合意を勝ち取ったのであった。
戦国時代には技術や効率の上昇から鋳物と鍛冶が自然に分業する等の時代背景があったため、職人達としてもこれが自分達の利益になることが体感的に理解されており、八幡の説明にも納得し、普段の信頼関係も相まっての成果であった。
そして、八幡は民間の長屋を特定の決められた寸法の部材で組み上げられるよう規格化し、同じ作業を繰り返させることで職人業界への新規参入者への技術向上や業務効率向上に繋げる。
他には千歯扱きの木材部分や鉄堀串の柄等を担当させ、仕事を発注し続けた。
そして、千歯扱きや唐箕による農作業の効率化や綿花栽培で得られた収益を帆曳舟の造船に宛て、漁獲高の増加に繋げるなど、着実に小田家の地力が底上げされているのを江戸山城守は理解したのである。
二人の会話に割って入るようにして葵がお茶を配りながら口を挟んだ。
「は、八幡さま。私も字を覚えましたからもっと働けます! もっとお仕事をお任せください! だから、氏治さまをお叱りになるのは……」
そうして庇う葵には暖かそうな厚手の羽織が着せられていた。
「買収されてんじゃない!」
「ご、ごめんなさい!」
「べ、別にいいじゃない。欲しければあなたの分も縫ってあげるわよ」
「……それは地味にありがたい。服が服として売られてる事なんて殆どないから、同じものの着回しばかりで困ってはいた所なんだよな」
(ユニ○ロが欲しい)
「古着とか晴れ着の羽織とかなら無くはないけど、平服でって言う話ならそんなの当たり前じゃない」
「……そうだよな」
氏治はふと思い出したように持ち込んだ小さな葛籠から木綿の布を取り出す。
「そういえば、あなたの言い出した木綿、準備した甲斐あって出だしは順調そうね」
「江戸山城守殿や塚原内記殿がきちんと検地帳を作っていてくれたおかげだよ。片畑や荒れ畑が解るようになっていたおかげだ」
この時代、田畑には幾つかの呼び分けが存在する。
字面で想像つく水田、乾田、麦畠、荒畠の他に畠田、片畠などである。
中でも麦畠、片畠、荒畠は生産力の序列を示しており、この内の麦畠にのみ加地子という税が懸る。
まず、畠の字だが、白田が一字になった物であり、白は乾燥を意味するため、乾いた田を意味する。つまりは“はたけ”を指すことになる。故に、乾田と同意義とすることもあるが、陸稲を育てるための田が乾田、その他作物が畠と大まかに判別すれば十分であろう。
そして、だからこそ現在一般に水田を指す田には“水”という字がわざわざついている。
では、現代の畑は何を指すかと言えば、構成する字で解るように白田、つまりは畠である陸の田に火を付けた焼畑を“畑”と現したのである。
ここで片畠と荒れ畠の解説に入るが、諸説ある。この頃二毛作可能な乾田や麦畠の増加が進み、水田の二毛作が始まった。『地方凡例録』では水田の両毛作に対し、一毛作を片毛作ということから片畠を麦二毛作に対する麦一毛作とする説。
対し『益田文書』の検地帳より紐解いた「年々作」と「かたあらし」の対比がある事から、毎年作付けできない、ないしは収穫を期待できない不安定耕地であるという説である。
畠田とは、畠地の田地への転換が水田開発の主要な方法の一つとなりつつあったこの時代ならではのものである。田と畠の中間を現すもので、紀伊国粉河寺の肥灰の持ち出しを禁じる掟の中に見える。
また、ゲームや小説の影響で二毛作が持て囃されて久しいが、これの普及率は二毛作先進地域である西国で三割程度、東国ではそれ以下であるという峰岸純夫氏の推定があり、世間のイメージとは誤差がある。
この記録から考えれば、朝鮮の使者である宋希璟が記した中にある、摂津尼崎に存在した三毛作もそうとう限られる恵まれた環境下の産物であったと推察される。
「荒れ畠への作付けでここまでの収穫ができたのは十分な成果よ? もう少し自信を持ってもいいわ。それに、片畠でも無事に育ったし、農村の皆が心配していた麦の生育も今の所順調らしいわよ」
「そうか。それは何より。来年からは干鰯を肥料として導入するし、水田は無理でも畑は拓けてきたからそこでも広く栽培する。とはいえ、こう順調に言ったのも氏治のお蔭だ。仮に知識だけあっても、農業は自然が相手じゃ机上の空論だからな。実際に栽培している人を成田家から借りれたのは大きいんだよ」
この時、氏治は成田家次期当主氏長と共通の趣味である連歌を通して交流を重ねており、小田家随一の風流人である野中瀬鈍斎が窓口となって一層の親交が深められていた。
成田家側の窓口は氏長の弟、小田朝興であるが、常陸を追われた養父の遺恨を引き継ぐ事は無く、姓を同じくした縁深い小田家に親しみを覚えて遇していた。
さらに、末弟長親が兄朝興の補佐として氏治へ親しく書状をやり取りしており、この関係から長野喜三の推薦を受けた指導役の農民は確かな見地を持つ。農民自身も仕事先の小田家が、当主の氏長や村へ遊びに出てくる長親と親しいとあっては余所での畑仕事でも親しみをもって精力的な指導に取り組んだのである。
「来年は作付けから指導してもらえるし、里見家からくる肥料、八幡の作った肥料もあれば大きな収穫が期待できそうね。でも、農閑期だからって農民の賦役は程々に。草鞋を編む暇もないと噂よ?」
「賃金はきちんと払ってるから多少は大目に見てほしいんだが……。いやな、排水で二毛作の出来そうな水田や、逆に肥えて豊かな畑に水を入れて田にしようとしてるんだよ。後は、豊田治親殿からも小貝川の氾濫防止と農民の城構築について相談が来てるんだって」
「豊田家ね。現当主治親殿は縁戚だから無下にもできないし、多賀谷家の圧力が日増しに強くなる今確かにその訴えは致し方がないのかも……」
「一応、既に氾濫防止と農民の避難場所として、小貝川のほとりにある丘を利用した縄張り図を真乗坊に預けて数人の部下と共に送ってある。重成様の知恵をお借りしたもので、丘に住居と倉庫、櫓を設置して本丸とし、囲うように浅い薬研型の水堀と貯水池を置いてある。そして、その外側には腰曲輪を置いて深く広い空堀を作ることで、氾濫時には水門の操作でそちらに多くの水を引き込める。他にも近くに流水地と貯水槽を後々設ける手はずだ」
小貝川での氾濫の多くには小貝川自体の増水よりも、古鬼怒川の増水による逆流が多く、逆流した水と勢いを得て流れる小貝川の合流地点で起る氾濫。古鬼怒川の逆流水で小貝川の流れが徐々に遅くなり、ついには止まり、小貝川まで逆流して流域に溢れだすものがある。
八幡は農民の城として多賀谷家の侵攻時の避難所を作りつつ、乾季は腰曲輪の堀を空堀とし、雨季には水掘りとして機能するように整えたのである。
「不良水田や地力の有りそうな沼地を見つけて蓮根作りも目論んでいるとも聞いたけど、そっちは順調なのかしら?」
「あぁ。なんか、俺の知った丸々とした蓮根じゃなくて細長いし粘っこくて味わいも違うもんだったが、此処では相当古くから作ってるらしいしな。農法もある程度確立されてるんなら、俺のちょっとした入れ知恵と適した沼地を選び、人を動員すればできない事は無い。田畑にこだわらないよう説得して税制を整えて奨励中だよ」
この時代の蓮根は現代の様に丸々として歯触りの心地良い品種ではない。これらは大陸の蓮根で、日本に伝わるのはもっと後世になってからである。
在来種とされる物も元はと言えば大陸から奈良時代に伝わったものではあるが、ほくほくとする芋の様な触感と味わいがあるとされ、『常陸国風土記』には、「神世に天より流れ来し水沼なり、生ふる所の蓮根、味いとことにして、甘美きこと、他所に絶れたり、病有る者、この蓮を食へば早く差えて験あり」と記される。
しかし、千葉県の大賀ハスの事例の様に二千年以上前から存在した可能性も指摘され、説がいくつか存在する。
八幡は現代でも蓮田の広がる戸崎城の周辺を開拓特区に指定し、領主である菅谷家と協力して生産量の増加を目指していた。
これにより、質、量ともに期待でき、加えて『常陸国風土記』に記されるほどの美味とされる蓮根を、将来的には名物として近畿商業圏に売り込むための産物とすることを視野に入れての政策であった。
「そう。ならよかったわ。じゃ、そろそろ葵ちゃんや白木ちゃんでも連れて城下を見てこようかしら」
「ああ、それなら検地と田畑の土壌とか周辺環境の調査も頼む。あと、村それぞれの生活記録や作物を記録して、農法もどうやっているかを書きつけてくれ」
「ちょ、ちょっと! なんで私が!? 気楽にしていいとは言ったけど、当主に雑用を押し付けるなんて非常識よ!」
「まぁ、そう怒りなさんな。民草の為になるかもしれないんだ。お前の理念に反するわけじゃないだろ? それに、葵には詳しく伝えてあるから、ほとんどやってくれるさ」
「ま、まぁいいけどさ。皆の為になるなら……。じゃぁ、もう行くからね」
氏治が長屋を出ると室内は静けさを取り戻す。
文机に向かう八幡のもとには、手に職の無い河原者から採用された小間使いが頻りに各武将や町屋の商人衆、庄屋や名主との間を往復して書状のやり取りを行う。
或いは手塚石見守。
夏仕込みの酒は冬仕込みの酒程上手くないというぼやきに、単純素直に思った提案として、夏酒に米を使わず、冬酒に専念して小田の銘酒を作ってはどうかという意見を組んだやり取り。
「はいはい、来年は『こいすみ早稲』や『しようかひけ』の作付面積を増やせってことね……適地があればいいけど」
或いは菟玖波屋。千歯扱きや唐箕の製造と流通を一手に引き受けたいという申し出。簡単な構造故にそう遠くないうちに真似されるのは明白だが、その前に稼ぎ抜きたいという思惑である。
「おぉ……これが時代劇でよく見た黄金の饅頭箱……本当に饅頭の下に敷き詰めてあるとはな……」
或いは村の庄屋。あまり豊かでないながらも人が増えてしまった根村は常に困窮しているからと年貢の減免要請。常に兵役逃れをしようと帳簿を発覚しない程度に改ざんし、巧妙に怪我や病気を村ぐるみで偽る。
「とはいえ、根村は働き手の数は間違いなく多い。子供が急に増えたから食料が不足し、子供が多ければこそ養う親が戦に取られるのが怖いのだろうからなぁ。同情はするが、兵役逃れを黙認してるんだ、税は納めてもらう。代わりに丁度良さそうな土地だし、二年三毛作を導入してみよう」
二年三毛作は二年間で米作、麦作、大豆作をする農法で、最後に少しだが土地を休ませる時間もあり、きちんとした手入れをすればそれぞれに十分な収穫を求めながらも田畑を痩せさせずに済む農法である。
八幡は勿論、農業方面のみならず普請奉行として各地に派遣している道普請役、用水普請役、町屋作事役、堤普請役など役職を与えた頭目に指示を出して領内の整備を進めていた。