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第六十話 流鏑馬


「いよいよか……さすがに緊張するな……」


 八幡の前には、馬上の八幡の背よりも高く垂れ幕が張られ、その向こう側の景色は微塵も彼の眼中に入る事はないが、外から聞こえる諸将やその配下の歓声、政虎を遠目でいいから一目見ようと集まった民衆が面白おかしく囃し立てる声。皆が心待ちにする拍手喝采の音で、凄まじい数の観客がいることは容易に想像がつく。


 八幡もさすがの緊張に手汗がにじむが、目を瞑れば小田家の人々の顔がまぶたの裏に浮かび、後押しされている心地がする。


「よし! いっちょやってやるさ!」


 その言葉に神官の男が反応する。


「では、幕を開けてもよろしいですか?」


「ああ、お願いします」


 こうして開かれた幕から衆目の下へ水干(すいかん)姿の八幡が姿を現した。

 神事用の、純白に薄い茶色で模様がつけられた水干の袖は動きやすいように括られ、その手には使い古されて形の馴染んだ射小手(いごて)をつけ、使い慣れた弓をその手に握りしめる。


 八幡の前には二町、現代の約218mもの道があり、進行方向左側に設置されたひし形の的は均等ではなく、ほんの僅かだが徐々に的同士の距離が狭まるように設置されている。


(よし、これならどうにか行ける。この服装がどこまで障害になるか……)


 八幡は胸を撫で下ろし一息つく。すると、神官は一枚のたたまれた紙を差し出す。


「これは?」


「祝詞です。これを読み終えましたらいよいよ始まります故、心の支度のほど、よろしくお願い致します」


「あ、はい。解りました」


 八幡は手渡される祝詞を読み上げ、会場はその間だけ静寂に包まれる。




「ま、政貞、八幡は大丈夫だと思う? こ、殺されたりしないよね?」


 観客席の最前列にいる氏治は苦しそうに胸を押さえ、祝詞を読み上げる八幡を心配そうに見つめる。


「拙者では何とも……政虎様は確かに義に厚い方のようですが、厳格なお方です。あのように八幡殿は自ら名乗りを上げたのですから失敗すれば、手打ちもありえなくはないかと……しかし、祝いの席ですし、この場で斬られることはないと拙者は思いますな」


「そ、そうだよね! 政虎様もそこまではしないよね!」


 氏治は、冷や汗を流しながらも作り笑顔で隣の菅谷政貞へ向き直り、自身に言い聞かせるようにして同じ言葉をもう一度小さく繰り返した。


 しかし、そこへ反対側に座す赤松擬淵斎が不吉な一言を添えた。


「しかし、私が聞いた話によりますと、政虎様は京で将軍足利義輝様と謁見なさった時に、僅かな手勢にもかかわらず三好長慶殿の家臣を、無礼があったとして切り捨てるという行動に出ています。他家との戦になりかねないにも関わらず、些細なことで情に任せて人を切り捨てるところがある、という事ではないでしょうか?」


 氏治の顔は、見る見るうちに青ざめていく。心臓の鼓動は早まり、不安が全身を駆け巡る。


「そう……なの……?」


 氏治が青冷めていると、今度は後方から声がする。飯塚美濃守の声だ。


「しかし、あれほどのことを豪語して当家の代表として出ているのですぞ。もしこれで失敗などされては、当家の武門の顔は丸つぶれでしょう。延いては寄り子領主達の信頼を失い、離反を促す結果となりかねませぬ。ここで失敗すればこの場で殺されずとも、切腹ものではないかと思われますがな」


 酷な言葉を氏治に向ける飯塚美濃守を止めるように、手塚石見守が小声で怒鳴りつけ、軽くどつく。


「こら、やめんか! 氏治様のお気持ちを考えろ。もし仮にそうなったらそうなった時に考えればよい。ここで切腹などと決めつけるな! それに赤松殿も赤松殿だ。氏治様を脅かすようなことをせずともよいではないか。貴殿らしくもない」


「す、済まぬ。そのようなつもりはなかったのだが、ついな」


 赤松擬淵斎は、自身でも氏治を怖がらせていたのに気付かなかったらしく、注意されて初めて気づき、謝罪をした。しかし飯塚美濃守は少し反発した声色で続ける。


「しかし、自分は常に最悪の時を考えて考えるべきかと思いますがな。氏治様には失礼かと承知で申しますが、当家は少々気の抜けた楽天家が多すぎます。先を見通した戦略でお家の維持を図るべきです」


「ご、ごめんなさい……」


 氏治が身を縮めて謝罪を口にすると、手塚石見守が先程より強い力でど突く。


「くぉら! 飯塚! 氏治様はまだ少女なのだぞ。そのような物言いはないではないか。今は皆で八幡殿の成功を祈願しておればいいのだ。さ、氏治様も応援しましょう。もう始まりますぞ」


「う、うん。ごめんね飯塚。その話はまた今度。今は皆で八幡の無事を祈りましょ?」


「まぁ……それもそうですな」


 そうこうしている間に、八幡は無事に祝詞も読み終える。

 すると神官が「流鏑馬はじめませ」と宣言し、ようやく馬は走り出した。


 八幡は馬へ勢いよく駆けさせる


(冷静になれ……俺ならいける。(あぶみ)もあっちに比べれば半端もんだが特注な分だけずいぶんましだ。……っと、よし、一射目!)


 八幡は大きく得物(えもの)(ひきまかな)うと、狙いを定める間もなく馬の速度と的の距離を計算し、間合いが重なる一瞬の時を見定めて放つ。

 よく引き絞られた弓は唸るような音が鳴り、放たれた鏑矢(かぶらや)からは鋭く甲高い音が馬場全体に鳴り響く。


 観衆の目は当然ながら矢の速さに目が追い付かず、示しを合わせた様に一斉に首を的の方へ向けた。すると、そこには見事、的の中央に一本の矢が檜の板を貫いていた。


「おおぉ!!」


 観衆は感嘆の声をあげ、目を見張った。


 しかし問題は此処からである。

 流鏑馬とは、出発地点から第一の的までは距離があり、矢も初めに(つが)える余裕がある。しかし、第一の的から第二、第三と進むに連れて僅かだがその間の距離は狭まり、しかも二射目、三射目は(えびら)から抜いて矢を(つが)える分だけ困難となる。


「おぉ! お見事! 八幡殿もなかなかやりまするな」


 手塚石見守はそういって楽しげに笑う。その様はまるで、八幡が失敗するものとは微塵も思っていないらしい。

 それでも氏治の気は晴れない。


 菅谷政貞は氏治の表情を見ると、不安を払拭しようと小さく声をかける。


「氏治様、ご安心くだされ。八幡殿は当家の最後の望みとなる、切り札となる御方。いざとなれば拙者が命がけでお守りいたします故ご安心召され。観衆の中にも手の者を忍ばせて抜かりはありませぬ」


「そう、なの? わかった……政貞、八幡をお願いね」


「御意」


 話す間に、馬場では二射目が八幡の弓から放たれた。その矢は一射目ほどきれいに中央には刺さらず、微かに中心からブレた位置に命中した。しかし、それでも的に描かれた三重の円の中央の円に矢は刺さっていたので、それは命中と言って差し支えない物であった。


(ラスト!)


 二射目と三射目の間は僅かだがさらに短い。八幡は手早く弓に矢を番えようとするが、緊張や、間隔の短さから来る焦りもあり、矢尻を持つ手の位置に若干の狂いが生じる。それを補おうとそちらに意識を注ぐが、その瞬間、次は慣れぬ(あぶみ)のせいで体勢まで崩れそうになってしまう。


「八幡!」


 最後の一射を無言で見つめる観衆の中、氏治だけが心配のあまり不躾にも声をあげてしまう。


「っしゃぁぁ!」


 八幡は氏治の叫びに答えるように声を張り上げ全力で弓をひき絞る。ここから先は狙い撃つとか距離を測るというよりも、長年の感覚に頼って矢を放った。


(当たれぇぇ!)


挿絵(By みてみん)



 観衆は息を飲み、その最後の一瞬を見届ける。祝詞を読み上げている時の様な静寂に包まれた馬場は、隣の観衆の唾を飲み込む音さえも聞こえる。


「氏治様、目を開けてくださいませ」


 隣にいる菅谷政貞にそう耳打ちされて初めて、氏治は自身が目を強く瞑っていることに気が付いた。

 膝の上で、爪が食い込んで痕ができる程に強く握りしめた手を開くと、手汗が水溜まりの様になって、開いた手の平から雫が雨だれの様に落ち、太腿の辺りに染みをつくる。


 氏治が目を開くと、ほぼ同時に、観衆から今までにないほどの拍手喝采が馬場一面に鳴り響く。



「あた……ったの……?」



 氏治の目に映ったのは真っ二つに割れた的、菅谷政貞が言うには、八幡は体勢を崩したまま放った矢が、辛うじて的に(あた)り、(あた)った矢は勢いのまま力任せに的を繊維に沿ってへし折ったらしい。

 氏治は、にわかには信じられないといった様子で呆けた顔を見せていると、それを見て菅谷は優しそうに微笑んで頷く。


「えぇ、八幡殿は無事に使命を果たされましたぞ。これで当家の名声も多少なりと上がりましょう。もう何も恐れることはありませんぞ。どうか肩の力を抜いて八幡殿をお迎えにあがってくださいませ」


「……うん! 行ってくる!」


 氏治は、一足早く咲く桜の様に、華やかな笑顔を四天王一同に見せ、八幡のいる支度所の方へ駈け出した。


 一方八幡は支度所で綾藺笠(あやいがさ)を外し、床几に腰を下ろして自身の手に馴染んだ弓を眺めていた。一息ついていると、どこからともなく近づいてくる足音が聞こえる。

 八幡はその音に気付いて振り返ると同時に幕が開く。


「八幡ー!」


「ぬわぁっ! な、なんだ、氏治か。脅かすなっての。どうしたんだよ?」


 八幡は驚きのあまり一瞬硬直するが、一息つくと抱き着いてきた氏治をひきはがして、何しに来たのかを問う。


「何って、心配したからに決まってるじゃない! ほんとぅに……本当に心配したんだからね! もしかしたら斬り殺されるかもしれないっていうのに、なんでそうやって無茶するのよ!」


(心配なんてしてないっつった癖にな……こいつはホント……)


 八幡は笑顔でありながらも、恐怖の残響で、ふるふると子犬の様に震えている氏治の頭に手を乗せ、落ち着かせるようにゆっくりと頭を撫でた。


「あ、ぁぁ……悪い。でも、たまの無茶ぐらい許してくれよ。そりゃ死にたくないけど俺には自信があったし、万が一失敗してもあの軍神の刀で死ねると思えば病死とかよりずっと本望っていうのかな……そりゃ、いざ死ぬときになったらビビるだろうけど、あの時は頭に血が上って本当に細かいことまで頭が回らなかったんだって」


「もう……あんな無茶はしないでよ。もしするとしても、絶対に私に事前に許可をとる事! いいわね!」


 氏治はビシッと人差し指を立てて八幡の眼前に突出し、語気を強めて叱りつけるように命令した。しかし、八幡の顔からはその氏治の言動を見て苦笑いが漏れる。


「お、おう……わかった。ならお前も、何か物事を起こすときには俺とまでは言わなくても菅谷さんとかに事前に話通して許可貰っとけよ?」


 すると氏治は俯いてしばし無言になる。


「……それは、むり……」


(だめだこりゃ……)


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