第五十八話 姫姿
年が明け、祝賀日和の鎌倉では条や辻に軒を連ねる店棚を始め、広さのある通りは尽く筵をひいた農民商いから棒振り、連尺や葛籠を背負う行商人等の群れで賑わいを見せた。込み合う人の流れは鎌倉七口の各切通しを抜け、外の辻まで門前かの様相を呈しているほどである。
当然本来の市庭や商い通りの商人座は、幾人もの取次ぎを経て長尾景虎に無断で商いを行う者達を規制するよう訴えかけるが、大軍の需要を既存の店棚で補えるわけも無く、欲を掻くなと一蹴されていた。至極当たり前のそんな事さえも目が眩んで解らなくなる程に、鎌倉の道行く道は商人の垂涎の的となる程には上客達で賑わっていたのである。
人の数も然ることながら、雑兵の大軍は外に、鎌倉の市街は大名や重臣とそれを守る高禄の武士や剣豪の類がひしめき合っているのだから、商人も欲が剥き出しになるのは当然と言える。
各家は寺社や宿町にそれぞれ荷を降ろし、泊地と定める。そして、そこで八幡宮でとり行われる叙勲式への支度を整えていた。
領地が近場のものは鎌倉到着までに式典用の礼服を届けさせており、遠国でそういったものが用意できなかった家も必死に防具や馬の手入れを行い、不足分は現地調達で他家に恥じない身繕いをしている。
それは当然小田家でも同様で、氏治が身につけるものを急遽小田城から運び込んでいた。
「……氏治、それは本気なのか?」
氏治の呼び出しに応じた八幡は、普段私用で呼ばれるときには挟まないはずの侍従による取次ぎを経て、氏治が私室として使う部屋の一つ手前、控えの間で待機していた。
そして、用意ができたと呼ばれて氏治の私室に入るなり、目に入る光景は煌びやかに装飾された着物、ぬばたまの如き黒には蔀から差し込む光の反射が良く映え、平時の数倍は愛嬌と美しさが増した氏治の姿である。
(これはどう見ても晴れ着。となると、まさか男装は捨てて己を曝け出すつもりか……? だとすれば、誰かが止めるか、その話しが家中に漏れ聞こえる筈。それが無いという事は俺が初披露という事か……? 感想を求めるにしても、この手の相談は本人の中で大概意は決してるものだしな。まして、氏治だし)
「とても、良く似合ってると思うぞ」
「え? ふふ、あなたにしては珍しく素直ね」
「まぁ、立場的に咎める必要はないしな。冷静によく考えて、やめておいた方が無難だろうし、俺含め赤松様や菅谷さん的には気も楽でいいんだがな。かといって、やめろと言ってやめないんだろ?」
「うん。もう決めたから。八幡は下の宴会の間につれてきた重臣たちを集めて。そこで正式に私の意志を表明するわ」
氏治は小田から運び込む荷と同時に、それらの着付けのためや給仕として呼び寄せていた葵に、お茶を一杯頼む。
「わかった。皆が集まったらまた呼びに来るから、それまでに用意を完璧にしておいてくれ」
「えぇ」
八幡は、近隣の宿に宿泊している家臣たち一軒一軒を回り、本陣である宿へ小田家の将を集める。
広間に集められた重臣たちは整列して所狭しと並びながら、氏治が姿を現すまでの間に急な招集何事かあってのものなのかと囁き合う。
「……氏治様から発表って……江戸殿は何かわかるか?」
「いや……聞いたことない。沼尻又五郎殿なら何ぞ聞いておるのでは?」
「わしは知らぬ。それを言うならここに居らぬ野中瀬殿であろう。しかもこの大事な式典に合わせてとなると……うぐ、寒気してきよぅた」
二十人余りいる家臣団は互いに顔を見合わせ、思い思いに言葉を交わす。
そして、しばらくすると上座側の襖が開き、四天王が赤松擬淵斎、菅谷政貞、手塚石見守、飯塚美濃守の順に入り、二十の家臣団の先頭列に腰を下ろす。そして先頭にいた菅谷が家臣団へ振り返って口を開く。
「各々方、静粛になされよ。これより氏治様より大事なお話があるという事である。心して聞くようにせよ」
続けて赤松擬淵斎も口を開く。
「これは一種の決意表明であるとのお話である故、しかと此の旨を心にとどめ置かれよ」
二人の言葉が終わると、家臣一同は「おう!」と鬨の声のような大声で応じる。
この時にはもう先ほどのような冗談を言って許される空気はなく、皆が一様に真剣な顔をして前を見つめた。
会場が静かになったのを見計らったように上座側の最上位の襖がスッと開かれる。この僅かな物音に一同はいっせいに頭を下げ、氏治を迎える。
まずは、最初に氏治が部屋に入り、後ろに葵と薙刀を持った侍従が二人ばかり続く。
「すぅ……はぁ。皆、面を上げて」
「ん!?」
「なっ!」
「ばっ!?」
「っ!?」
座についた氏治に言われて家臣団は顔をあげると誰もが声にならない声を上げた。皆は一様に目を丸くし、時を忘れる様な無言の時間が続く。
先ほどまで、緊張に胸を高まらせていた氏治は予想もしてみない反応に肩すかしを食らい、肩に込めた力が抜け落ちる。
「あの……みんな……? ぇっと……感想は……?」
氏治は動揺しながら、おずおずと家臣団に感想を尋ねる。初めは動揺した一同であったが、しばらくすると落ち着き、表情が穏やかなものへと変わる。
そして、赤松擬淵斎はすかさず立ち上がった。
「いえ! よくお似合いでございまする!」
(そうじゃない、あなたが取るべき言動はそれではない)
八幡は四天王の一つ後ろの列で一人ツッコミを入れつつ苦笑いを溢す。
いきなり立ち上がった赤松擬淵斎に何事かと視線を向けた氏治だったが、唐突にも声を張り上げて褒めるので、面映ゆげに顔を赤らめ、赤松から視線をそらす。
これにつられ何人かの家臣が「同じく!」「お似合いですぞ!」「愛らしゅうござりまする!」と続ける。
「ま、まささだぁ……」
求めていた反応と違う、その言葉の恥ずかしさの余りに、氏治は救いを求める様に菅谷を見やる。
「はぁ……お似合いでござりますれば……」
しかし、菅谷政貞には氏治の意図がわからず場当たり的、差しさわりの無い感想を述べるだけである。最後の希望とばかりに僅かに潤いを帯びた視線を八幡に向けた。
「いや……かわいいぞ……」
しかし八幡も見とれるようにして言う。
八幡は晴れ着を着た姿は見せられたが、薄化粧と装飾品を身につけることによって背伸びした大人っぽさと、その中でもまだあどけなさを残す顔との偏重した装いの対比が逆に良い味わいとなり、少女の大人への憧れと健気さが強調されて見えた。
しかし、八幡がそんな褒め言葉を投げかけると、いよいよをもって顔を朱に染め上げ、恥じらい半分、怒り半分といった様子で手に持っていた扇子を八幡に投げつける。
「ちがぁう! みんな何言ってるの! わちゃ、私はそういう事を聞いてるんじゃないの! この服を式典に着ていくことについてどう思うかってこと!」
すると、先ほどまでアホ面下げていた家臣団たちも真面目な顔になり、座を正して真剣な様子で発言する。
「いえ、問題はないかと。あるべき姿です」
「この江戸山城も只越殿に賛成でござる。これからは偽り続けるのも厳しくなってまいります故、これはよい機会かもしれませぬ」
家臣団が一通り意見を述べると、初めから決まっていたように両塚から順に一言ずつ四天王も意見を述べた。
「それでよろしいかと。寧ろ美しい姫の姿を見て町衆が見とれるだろう様を思うと優越感に浸れて心地よいというもの」
「それどころか他家の大名が腰を抜かすやもしれませんなぁ。その様、想像するだけでこの上なく愉快ですぞ……くくく」
「殿! いえ、姫様! 某はその決断を全力で支持いたしますぞ! 某は決断をいよいよ下されたのがうれしくてうれしくて……」
「拙者もこれは目出度きことかと存じまする。それに、この場に氏治様の意見に異を唱えるものなど居りましょうや?」
(そもそも、此処の全員が反対しようが押し切ってその姿のまま式典に出席しそうなものだがな)
意見が出尽くすと、氏治は一つも反発がなかったことに驚きつつも機嫌を良くしたのか、楽しげな笑みを浮かべ首を軽く傾けながら「ありがと!」と一言で一同を労う。
「では、明日はいよいよ式典当日なので、皆晴れ着や具足をよくよく整えて出席するようにして。これだけの為にわざわざみんなを呼んで申し訳なかったわ。みな、朝のうちに私たちがついたお餅でお汁粉をつくったから、それを食べて体を温めたら解散。以上!」
赤松擬淵斎を筆頭とする一部の家臣団は、氏治手製のお汁粉が配られると聞くと晴れ晴れとした顔となり、それ以外の者たちも氏治の気遣いに感激して、楽しそうにお汁粉を受け取ってから帰路についた。
「よかったな。反発が一切なくて」
家臣団が広間でお汁粉を食べている間、気疲れしてしまった氏治は二階の自室に上がって手足を伸ばしていた。その隣に八幡も座り込んで一息つく。
「私も驚きました……氏治さま、勇気ありますね……皆さんに相談なくあれほどのことができるだなんて……」
葵も緊張していたのか、その反動で疲れたらしい肩からは力が抜けて、その腕は体からただぶら下がっているだけであった。
「私も驚いたわ……少なからず反発はあると覚悟していたんだけどね。どうしてだろ?」
「菅谷さんたちも、いつか来る日だと思ってたんじゃないか? 氏治は女なんだからさ、ほら……いろいろと女らしくもなって、いつまでも隠し通せるわけじゃないってわかってるんだしさ」
八幡は無意識のうちに、氏治の一点に目が向き、自分でもしまったと思ったのか慌ててそっぽを向く。
「ど、どこ見てるの! へ、変態!」
八幡の視線に気づいた氏治は、慌てて胸元を手で隠して怒鳴りつける。
それに応報する形で八幡も声を荒らげけたたましい罵り合いが続く。
「はぁ! ちげぇよ! そういうんじゃねぇし、その程度で女らしくなったなんて言ってもいいものかと悩んじまっただけだ!」
「な! 最低! これでもちゃんと成長してるもん!」
「八幡さま……やらしいです……」
葵は二人から少し距離をとり、八幡にはごみを見るような視線を向ける。
「ちょ! 葵まで何言ってるんだよ!」
「氏治さまはともかく、白木さまにはもう近づかないでくださいね」
「だから違うっつってんだろうがぁ!!」
「え、私はともかくってどういう事なの葵ちゃん!?」
八幡は叫び、氏治は葵を問いただそうとするが、葵に「さぁ? どうでしょうね?」などと軽く流されて「お茶を汲んできますね」と部屋からするすると逃げだされてしまう。残された二人の間には、何とも形容しがたい微妙な空気が流れる。
「……まぁ、とりあえずはよかったな。こんなことで家中分裂とかにならないで」
「私の家はこのぐらいじゃ分裂騒ぎなんて起きないわよ。それよりも……」
氏治は言いかけてから暗い顔をして口ごもる。
「それよりも?」
「みんなが一つも反論しなかったのが気がかりで……もしかしたら、また気を使わせちゃったのかなって……」
「そうか? そんなことないとは思うが。でも確かに、意志決定において、意見の不一致こそが問題への理解を促すって言うしな。不安になるのは分からないでもないけど、あんまり気にしてもしょうがないだろ」
「そうだけど……」
そう言われてもやはり気になるのか、格子窓の下に見える宿の戸口から出ていく家臣達を見ては、その都度そわそわとしていた。
「そんなことより、せっかく鎌倉まで来たんだ。小田では見られない物もあるだろうし、せっかくだから町でも散策してみたらどうだ?」
それを聞くと、氏治は何かに閃いた様子で目をパッチリ開き、左の掌の上に右の拳をポンとあてる。そして、少しもじもじとしながら恥ずかしそうに窓の外を眺める八幡に命令をする。
「そ、そうね。なら、八幡も私の護衛として同行してね」
八幡も自分が提案したこともあり、付添いぐらいならと快く受ける。
この返事に氏治は一息ついた後嬉しそうにほほ笑むも、どうやら氏治の望む結果には転ばないらしい。
「あぁ、わかった。そうだ、どうせなら葵と太兵衛も連れて行こう。あいつらもこういうところの観光は前からしたがっていたみたいだし、見聞を広めるいい機会だろ。それに護衛は俺より太兵衛の方が務まるしな」
「そ……そうね。きっと二人も喜ぶわね……」
氏治は思っていた展開とは異なったためか若干頬をひきつらせる。
こうして氏治、八幡、太兵衛、葵の四人は鎌倉の町へと繰り出すこととなった。