第二話 当主の意地
極楽寺顕然は程なくして城主の間へと通される。
この時代の城はまだ天守閣などは存在せず、漆喰もまだ先の産物であった。平城であれば幾重の堀を設け、掻き上げた土で土塀を作り、若しくは板塀で取り囲む。主曲輪であれば館を、それ以外なら屋敷地や矢倉、倉庫などを設置して防衛機能を持たせる程度で、豪華絢爛なものはほとんど存在しない。
小田城もそのような類に漏れない城で、鎌倉以来の伝統的な方形館は質素さを感じさせる佇まいである。しかしそれが、小田家の質素でありながらも三百七十年余りにもわたる歴史の重みや、どこか風格を感じさせる家風が滲み出るようでもあった。
城と呼ぶよりは館と呼ぶ方が適切な形状の小田城は、基本的にはごく一般的な鎌倉武家様式の建築を持ち、一部が改良された作りとなっていた。
本丸中央に主殿が置かれ、寝殿造りの名残である中門廊は館の西側から南へと延び、小さな池のほとりへと繋がる。中門廊と池を挟んで向かい側の高台には涼台と名付けられた櫓がそびえ立ち、平らな関東平野を遠くまで見渡せる。
主殿南東、涼台東側には厨所と呼ばれる調理場が、失火による延焼被害を避けるために距離を置いて立てられる。主殿前方である北側には家臣郎党と会うための公の場である会所が建てられ、小田城では主殿と渡り廊下で直接接続していた。そしてさらに門前近くには、遠侍と呼ばれる訪問者の供の者が待機する建物が用意されている。
館に入ると幾つかの部屋の前を通り抜けるだけですぐに城主の間へと到着する。顕然は板張りの間の中央に一枚置かれた畳とその上の円座を見ると、そこへ歩み寄って腰を下ろし、安坐の姿勢で体をある程度寛がせながら氏治を待った。
当時はまだ畳が広く普及し始めたところであり、元は貴族の屋敷にしか見られなかった畳は諸国の上級武士、そして豊かな富を得た商人などが愛用するようになった。しかし、まだ高価な贅沢品であり、庶民はもちろんの事、地方領主でさえもふんだんに用いることは難しい。
小田城でも常時畳張りなのは城主の間でもその名前の由来となる、室内でも一段高い一画と、城主の寝室くらいである。残りは来客用やその他入り用の時に使えるよう積置きにされる物であった。
「拝謁させていただき、感謝いたしますぞ」
顕然は氏治の入室と共に平伏すると、老翁らしい朗らかな笑みを浮かべながら顔を上げる。
氏治の入室と共に室内へと入った菅谷政貞は、両者のちょうど中間の壁際に腰を下ろすと、じっと目を閉じて静かに待機する。
氏治は顕然の言動で気恥ずかしそうに肩を竦めると、口元を押さえて小さく笑う。
「やめてよ、こそばゆいわ。改まったりなんかして。師匠様らしくないじゃない」
「ほっほっほ、最近は相続とその後のごたごたの収拾でお忙しかったようですな。久方ぶりに会いますが、随分大きくなられたように見えますぞ」
「気のせいよ。もしかして、源じぃに用? 最近は体調が芳しくないみたいで登城はしていないけれど、必要なら声をかけてはおこうか?」
「いえいえ。しかし、あのクソじじいはまだ生きていましたか。残念ですな。法要の準備をして此方は待っておるのですがのぅ」
二人が指し示す人物は小田家の軍師である天羽源鉄斎という翁である。
齢七十を超す老齢の身であり、爺というに差し支えない姿をしているが、かくいう顕然も同世代で仙人が如き見た目である。爺が爺を爺と呼ぶ光景は些か滑稽であり、氏治は反応に困って苦笑いを浮かべた。
「はは……二人は相変わらずね。でも、そうなると何の御用かしら。珍しいんじゃない?」
氏治は物珍しい事と首を傾げる。
極楽寺からの使い、それも最高権力者の高齢により事実上運営の代表者となっている顕然が直々に来るのは極めて稀であったからだ。氏治は幼少の頃に顕然より学問を教わり、極楽寺と小田家の間柄もあって顕然に会いに行くことはままあるが、逆になったことは最近の記憶には無いのである。
極楽寺は小田城の目と鼻の先に建つ大寺院で、要害とは言い難い小田城の一角を守る出城のような役目を果たす。このため、歴史的経緯はもちろんの事、実利の面からも両勢力は長年持ちつ持たれつの関係を続けている。
三村山、俗称小田山の山麓にある小田城から見上げると、山には処かしこから山林の木々に隠れきれない様子で五輪塔や大寺院が顔を覗かせる。この山一帯に広がる寺院群や僧坊、蔵を数えればきりが無く、数百にも及ぶ施設を備える極楽寺は小田城よりもよほど城としての機能や風格を備えていると言っても過言ではなかった。
当然、軍事的にも行政的にもこの地域を統治する上で重要な役割を果たす勢力であり、代々当主同様に氏治もまた懇意にしてきた。で、あるからこそ互いに不用意な干渉はせず、改まった使者が平時に行き来するということは殊の外珍しい事であったのだ。
「ふむ……それが、春慶様がこうお告げを下されたのじゃ。『小田城は瑞気が上がっている』と」
「ほう、それはそれは」
「吉兆の印ね。やった!」
顕然は氏治の無邪気な喜ぶ様子に年相応の少女らしさと、これから先小田家の大看板を背負う棟梁としての重みの不足する様に複雑な心境を抱きつつ苦笑いをする。
「遠く無い未来、小田家は滅亡の憂き目に合う。故に御仏が好転のきっかけを下さるとの事でしてな。なにかこの辺りで変わった事、変わった人、変わった物、そんな何かが現れる。それが好機の兆しとなる。努々見落としの無いように。と、このように」
「おぉ、それは何とも有り難き……」
菅谷政貞はどこか厳ついながらもやつれた様な顔立ちであったが、顕然の言葉に珍しく表情を幾ばく明るくする。そして、歓迎するように感謝を述べようとした矢先、その背後で木箱の倒れる音がした。
「滅亡、ですって? バカな事言わないでちょうだい! 私一人だって小田家は守り切って見せるし、現にこうして守れているじゃない! 春慶法印に伝えて。お告げか何か知らないけれど、仏様に手助け無用と丁重にお断りをするのよ!」
音の正体は、氏治が勢いよく立ち上がる際にふれて倒れた裁縫箱であった。
氏治は当主就任間もないにもかかわらず度重なる敗戦を受けて、内心で焦りや罪悪から過敏になっていた神経が逆撫でられるような言葉に、思わず激情に駆られたのである。
氏治のそんな内心を察して余りある側近の一人である政貞は、氏治の言動に胸を痛める。
「う、氏治様……」
「左様ですか。一先ずお伝えしましたぞ。氏治様の御言葉も春慶様にはお伝えするだけしてみましょう」
顕然は小さく溜息を吐くと、淡々と述べて立ち上がり、部屋を後にした。
菅谷は、立ち上がって背を見せる氏治に、優しく心配するようにそっと声をかける。
「氏治様、よろしかったのですか?」
氏治は菅谷に背を見せるようにして表情を隠しながら、苛立ちを堪えようと拳を握りしめ、深呼吸をする。
齢十四の少女は、まだ自身の感情さえ完全に掌握できておらず、家名の重責に耐えながらも家臣領民に努めて明るく振る舞い、必死に周囲を鼓舞し、困難に一人耐え忍ぶ様は近しい者たちには痛々しく見えてならないものであった。
「……私、私は……」
氏治はそこまで口を開くと、再び口を閉ざし、唇を噛む。そして、しばらく無言の間が続き、氏治は回答をしないままに部屋を出て私室へと戻っていった。