第三十五話 平塚自省長信の覚悟
「見えましたぞ、八幡殿。あれが我が城、海老ヶ島城に御座る」
「はぁ、はぁ、よ、ようやく、ですね。あそこまで、逃げ切れれば……」
平塚自省長信と八幡は馬を並べたまま開け放たれた城門へと駆け込み、三の丸の広間で馬を止めると転げ落ちるようにして下馬し、胸を上下するように呼吸で膨らませながら荒い息を整えた。
八幡隊は幸運にも死者は少なかったが、負傷者は多く、練度不足もあってこれ以上の継続戦闘が難しいことは素人目にも明らかである。
一方で平塚隊は半数近い死者に加え、ほとんどが負傷者であるにも拘らず意気旺盛にして目つきが滾っており、後続部隊が城を取り囲もうものなら打って出んばかりの勢いを感じさせる。
平塚自省長信は城内に入るなり疲れを微塵も見せずにすぐさま籠城戦のための号令を下し、主要な役付きのものを集める様に指示を出す。
慌ただしく動き回る兵の間に、見えない道ができたかのように凛然とした妙齢の娘が真っ直ぐに長信の下へ訪れた。
「父上、御無事の御帰還、何よりです」
(こ、これが御無事……? どういう神経してるんだ……)
八幡は横たわりながら、後姿ながらも美しく凛とした氷のような空気を漂わせる妙齢の女性に視線を向ける。
「玲か。お主は戦には向かぬ。下がっておれ」
「っく……愚兄愚弟は若党を集め、籠城支度を済ませました。今は山野の悪童どもを……」
平塚自省長信は玲を押しのけると本丸方面へと足を進め、玲と呼ばれた女性はその背に続く。
八幡は身を起こして美麗な体躯を眺めるが、タイミングが悪くその表情を拝むことは叶わなかった。しかし、一回り大きく武骨な刀を佩いているところから自省長信の娘であることは察せられた。
「ほう、やけに早いな。しかし、悪童どもを使うのは止せと言うに。まぁ、致し方があるまい」
「姉上様! こちらにいらしたのですね!」
平塚自省長信の向かう二の丸の門から、玲よりも幾ばく年若い娘が姿を現す。
玲を姉上と呼ぶ娘はそれとは対照的に温和な空気を漂わせており、表情は柔らかくころころと目まぐるしく変わる人物であった。
活発さを思わせる明るい町娘のような女武者は、その性格に良く会う橙色の縅を基調とした甲冑と腹巻を要所に装着し、薙刀を引っ提げて完全な臨戦態勢であった。
女武者は二人の側へ駆け寄ると、父である自省長信へ振り向き、手を揃えて会釈する。
「父上も御無事の御帰還で安心致しました。湯を幾ばくか沸かしてあります。水で割って手ぬぐいで汗をお拭きします。奥屋敷へ」
「いや、構うな。年寄り女中衆にやらせる。それよりお武よ。お主は若女中を薙刀と具足で固めさせて奥屋敷と裏手の警備を頼む」
「畏まりましたわ。大兄上は若党の組頭を呼び集めて持ち場を振り分けております。兄上は村衆と町衆を集めて配属を決めています」
「うむ、相解った。お武、白木の事はくれぐれも頼む」
お武と呼ばれた娘は平塚家の次女、白木と呼ばれた少女は平塚家の三女であり、今はまだ奥屋敷に身を隠していた。
お武は真剣な平塚自省長信の表情を見てクスクスと笑いだす。そして、真意を汲み取って肩を竦めた。
「ふふ、勿論承知ですお父様。けれども、そこまでお熱だと焼けてしまいますわ」
「……すまんな」
「父上、私は」
「玲よ、おぬしも奥屋敷警固だ。お主は最後の守り。しかと頼むぞ」
「……御意」
(最後の守りだと……!? 奥屋敷に踏み込まれて多勢に無勢となっては死に戦ではないか! 私が前に出なければ……)
内心では全く承服しかねている玲を置き、平塚自省長信は二の丸へと足を進めた。
八幡はこれを追って二の丸に入る。すると、今度は本丸から百人余りの兵を引き連れた武将が現れ、自省長信に声をかけた。
「平塚殿」
平塚自省長信はこれに一礼して応じる。
「おぉ、これは北条出雲守治高様。御加勢ですか? 感謝いたします」
百余りの勢を率いる将、北条治高は北条城主であり、後北条とは無関係の人物である。
小田一門に名を連ねる北条治高は、飽食からか肥満気味の初老の男である。口上両側と顎先に整った筆先のような髭を生やし、恰幅良い体格は風格を思わせながらも親しみやすい容姿である。
「感謝するところ早速にすまなんだが、どうやら結城勢め、進路を変えて我が城へ押し寄せるつもりらしい」
「北条城へ、ですか? この海老ヶ島を捨て置いて? ならば、我々がこのまま手勢を束ね直して後詰に」
平塚自省長信は理解できない、と言った様子で首を傾げながら助太刀を申し出る。
この地域は筑波山の周囲をなぞるように桜川が流れ、霞ヶ浦へと下る。小田城を中心に据えた時この川下側が藤沢、常名、土浦城と続き、川上側の拠点が北条、海老ヶ島、大島城、と続くのである。渡河を避けて小田城に迫るには城を北から順に落す必要があり、この際真っ先に狙われる盾の役割を果たすのが大島城と海老ヶ島城である。
「うぅむ。まだ聞いてなかろうが、つい今しがた佐竹義昭殿が直に率いる四千近い大軍がこの海老ヶ島にも半日の距離まで接近しているとのことだ。厳しい戦いであろうが、平塚殿は海老ヶ島でこれを防ぎきって貰わねばならない」
「ふむ、なるほど……となると、明日の朝には包囲が始まりますな。結城めは、背後から攻撃はないと読んでわざとここを避けたか……。では、今の北条城を守るのは?」
本来であれば海老ヶ島城を無視すれば背後が危うくなるが、佐竹家が狙うとあれば話は別である。第三勢力同士での無駄な争いを避けるべく、結城家は狙いを逸らして北条城へと向かったのだ。
「北条城には嫡子の犬五郎が居る。家老の蜷川全宗がついているとはいえ、結城方もあえて時間をかけて体勢を整えて居る。やはりわしも戻らねば危うかろうと思ってのう」
「御尤もです。犬五郎殿もなかなか壮健なる若武者とお聞きしますが、若気の至りと言うものもござりますれば、まだ治高様の下で学び、成長なさる時期でありましょう」
「うむ」
「しかも、複雑な事だが南からは結城勢と小競り合いしたばかりの多賀谷家が佐竹義昭殿の要請に従って海老ヶ島を襲おうとしている。結城との戦を早々に切り上げた理由はここにありそうだ」
「くく、なかなか愉快ですな」
「うむ。此方は手負いの寡勢、敵は新手の精鋭数知れず」
平塚自省長信が武者震いと共に笑い出すと、北条治高もまた不敵に笑い始める。
八幡は二人の余裕がまるで理解できずに、身分差がありながらも思わず一歩足を踏み出して話に割り込んだ。
「お、お待ちください、それでは我等に勝ち目がないのではないですか?」
「……この男は?」
北条治高の大らかで陽気な空気は一瞬にして消え、細めた冷たい眼差しで八幡を一瞥すると、平塚自省長信へと振り返って尋ねる。
平塚長信は楽しげに笑うと八幡を引き寄せ、その背を叩くようにして北条治高の前に押し出した。
「先ほど戦友となりました八幡殿でござる。なかなか面白い人物にて、きっと小田家の将来に必要となる人物に在りましょう」
「……根拠は」
「野蛮な男の当て推量にそうらへ」
平塚自省長信が不敵に笑むと、北条治高は呆れる様に溜息を吐いて額に二本指を付きながら小さく笑う。
「ふふ、よかろう。そこな八幡とやら。わしの勢が北条まで連れて行ってやる。ついて参れ」
「お、お待ちください! この海老ヶ島城はみるに三百、四百しか兵がおりませぬ! これではかの名将義昭の軍勢が押し寄せてはとても持ちこたえられるとは思えませぬ! 乗りかかった船です、私も籠城を!」
八幡は元来危険に身を委ねない小心な男である。その性格からすれば危険極まりない籠城戦を本心からやりたいと望むわけはない。さらには海老ヶ島城は訪れる事こそ初めてであったが、小田城の盾として幾度とない落城と共に城将であった平塚山城守、同長春等多くの平塚一門の古強者共が命を落とした場所として聞き覚えはあるのだ。
しかし、八幡は平塚長信への敬意と「この男は生きながらえさせたい」と言う本気の思い、そして場の空気に当てられて口をついて出た発言であった。
しかし、それを見越して甘いと断じ、北条治高は恰幅良い腹の底から一気に吐き出した様な、空気を動かす大音声で八幡を叱り飛ばした。
「この無礼者がぁ! 少ないとてこの者共は平塚殿の丹精込めて鍛えた兵共ぞ! それを義昭殿相手に後れを取るとは何たる無礼かも心得ておらぬのか!!」
「は、ぁいや、しかし……」
北条治高の怒声に恐れ戦いてたじろぐ八幡を鼓舞するように平塚自省長信がその肩を軽くたたいて優しげに語りかけた。
「八幡殿、心配ご無用ですぞ。この平塚自省長信。兵卒の指揮にも鑓捌きにも自信が御座る。そして、この城は小田城北西口を護る要。守りに抜かりはありませぬ」
「左様。むしろ、おぬしと言う弱卒弱将の小勢こそが蟻の穴となることが解らぬか!」
北条治高の厳しい言葉に自分の思い上がりを思い知らされ、後ろを振り返る。
すると、手傷を負い、既に疲弊した兵は同じく殿戦を切りぬけた平塚隊の生き残り将士とは顔つきがまるで違っていた。
八幡は仮に今から鼓舞したとしても、真っ当な働きを自分の隊に求めるのは難しく、城の少なく貴重な兵糧を無駄に食いつぶすだけだと悟り、無力さを痛感して俯いた。
「……失礼いたしました。大人しく小田城に帰るとしましょう……」
「は、八幡様!」
太兵衛は不服を漏らすが、八幡は珍しく厳しい視線で太兵衛を睨みつけると、太兵衛は思わず後退る。
「太兵衛、退却だ。皆を纏めてくれ」
「……っく、畏まりました」
八幡は北条城までは治高の軍勢に守られ、北条城で休息を取って夜を越す。早朝には結城勢が北条城眼前に姿を現したため出立、そこから小田城までは安全圏であるために問題なく帰還を果たした。
小田城本丸では近隣の幾人かの城主が座しており、帰還した八幡に出頭を命じるなり撤退戦の状況や前線の最新情報を求めて質問攻めとした。そして、質問攻めを終え、今後の方針を数日かけて練り上げた時、二つの凶報が届いた。
海老ヶ島城、北条城の陥落である。