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第三十二話 人を殺すということ

「全軍! かかれぇ!!」


 号令が下ったのは早朝で微かに朝霧が残る時のことであった。いわゆる朝駆けという戦法で、相手が万全の用意を整える前、夜襲の警戒を解き始めたそんな一瞬を突く攻撃である。

 小田軍は本陣に僅かな軍勢を残し氏治自ら馬蹄を響かせ戦場に乗り込んだ。


 霧の中から突如として現れる小田家の軍勢に動揺を見せた籠城軍ではあったが、関東の地ではそうそう密度のある霧など発生しない。ある程度の距離で小田家を視界に入れ、早々に対応を始めた結城家は、小田家の接近直前には多くのものが弓具足を揃えて戦闘用意を完了させていた。


「放てぇ!」


 城門の裏から聞こえる号令と共に数十から数百の矢が一斉に放たれた。門に詰めかける小田軍は掻盾でそれらを防ぎつつじわりじわりとにじり寄り、籠城軍の弓を番える一瞬の隙を突き、丸太を束ねた破城槌を担いで突撃する。


「かかれかかれぇ! 私の父上に大恩を受けながら当家を裏切り、あまつさえ宿敵である結城に寝返りし不届き者を成敗なさい! また、それを唆し、当家を愚弄し、世間の笑いものとせしめた水谷正村も同罪。この両名の首を此度の戦の最大の手柄とします!」


 氏治は大将であるにもかかわらず軍勢の前方で指揮を執る。八幡は兵種があまり攻城向けでないこともあり、後方に控えて予備部隊として号令がかかるのを待っていた。


「どうなさいました? どこか御加減でも?」


 普段よりも口数少なく、心なしか青ざめている八幡を心配して、太兵衛は声をかける。


「大丈夫だ。問題ない」


 互いに兜をかぶっているため、横顔が微かに見えていた程度であった太兵衛は気のせいだったのかと納得し、前方の喧噪に目を戻した。しかし当の男は、全身から流れる嫌な汗が止まらない。腰につけていた竹の水筒を一気に半分近く飲みこむ。


(空気が重い、呼吸が苦しい、なんだよこれ、訳わかんねぇ。鎧が重い? そんなバカな、そもそも俺が殺し合い? しかもあんな馬鹿なガキの為に戦うのか? なぜ? 俺が? くそ、こんなことなら城で俵を数えて居る方がよっぽどましだった!)


 八幡は目を見開き、歯を食いしばって吐き気を堪える。本心では考えてもいないことを内心で口走り、毒づき、意地汚く生に縋りつきたいという気持ちが湧きあがる。

 氏治を悪く言うのが本心なのかすらも解らないほどに混乱し、今まで感じたことのないほどの精神異常に我ながら驚き、動揺する。


(なんでこんなことになってるんだ、だめだ、冷静になれよ俺……これは正当防衛だ、俺は悪くない、これがドラマかなんかだったとしてもあまりにリアリティ溢れるこのセットが悪い。ここで俺が殺して現代に戻ってもそれは犯罪じゃないよな。あぁ! くそ! 何考えてんだ俺はぁ! くっそ! 訳わかんねぇ!)


 八幡は歯ぎしりして、矢や石や怒号の飛び交う戦場を見つめる。


 年頃の男の思い描く浪漫。この時代にもし自分が居ればこうしたと言った事を創造したことは一度や二度ではない。出世頭も夢ではない、そう本気で信じていたこともある。

 しかし、現実は絵物語とはまるで違った。普段の生活から、平時の業務に至るまでで毎日が驚きの連続となる程に。ともすれば、それは戦場でも当然同じ。八幡は覚悟ができているつもりであったが、まるで覚悟が足りておらず、全身の震えが収まらず、脳に血が回らないのか視界がぼやけ、狭まる。


(よし、多少落ち着いてきた……そうだ、俺は後方支援だし、多くの味方に囲まれてるんだ。それに四千もいる軍勢で、戦っても実際の死人なんて数十から百そこらだ。確率にして百分の一。最大まで多く見積もっても四十分の一。それに俺は仮にも武将なんだし、後方支援だ。そう死ぬことはないはず……こんなところで死ぬのは絶対にごめんだ……)


 八幡は最悪この場を捨て、小田家を捨てて逃げ出そうかとも考える。この世で生き抜くための基礎は学び終えている上、何事も命あっての物種である。もちろん、この数カ月で小田家の人間には良くしてもらい、できることなら恩に報いたいという気持ちは大いにある。


 それでもやはり、たった数カ月しか面識がない人間のために命を懸けるなんて八幡には出来なかった。

 しかしこの場で逃亡すれば小田家に居場所はなくなり、他家では何のとりえのない傾奇者を雇ってくれる酔狂な家は思い当たらない。とはいえ、一から農民として生きていくことも不可能なこの時代のことだ、まず間違えなく野たれ死ぬ。このため、少なくとも自分の命可愛さに一人敵前逃亡するという選択肢だけはかろうじて消えた。


「やはり、我々まで仕事は回って来ませんね」


 太兵衛は少し残念そうに呟く。しかし、そんな太兵衛の気持ちに応じてかどうか、反転して敵の攻勢が始まった。


「申し上げます! 敵南門より遊撃隊が打って出てまいりました! その数六百!」


 伝者の報告が耳に入ると八幡の体は硬直する。そして間もなく軍勢の右方から怒号と悲鳴が聞こえ始める。人々のどよめきが波打って中央まで伝わり、全軍が動揺する。

 この事から右翼は勢いのまま大きく切り崩され、陣形がきちんと維持されているかは怪しい。下手すればこのまま殲滅戦に持ち込まれ、軍勢の半数近くが死傷者となってもおかしくはない。


「まずい……よな?」


 八幡は、幾度かの従軍経験を持つ太兵衛に意見を聞く。


「そうですね。我々も向いますか? あれを押し返せれば、お家でも一目置かれましょう」


「いや、駄目だ。この数じゃ攪乱もできないし、味方が多すぎて馬の機動力が生かせない。それに、そもそも元々物資を運んだ駄馬達だ。乗り手も馬術に優れる訳ではないし、弩は乗馬してちゃ装填などままならない。下手な動きは返り討ちにされるさ……」


 胸焼けを押さえる様に胸元に手をあせ、青い顔をしながら脂汗を拭って周囲の状況に気を配る。


「寧ろ囲まれる前に撤退すべきだろうに……氏治は何をしているんだ。陣形が崩されてからじゃ遅いぞ……」


 全軍の陣形は、突如として入れられた横槍によって徐々に崩されていく。しかし氏治は撤退の号令を下さない。西門の抵抗がだんだんと弱まってきたからだ。

 もう一息で西門を抜けると思い込んだ氏治は、あと一息だと兵士を鼓舞して回り、後方の騒動にまで考えが回らない。


「緊急! 左翼側の森より伏兵出現! その数百五十!」


 この伝令によって全軍は浮足立ち、とうとう総崩れとなって敗走を始めた。右からは雑兵の群れ、左からは包囲していた数日間、夜な夜な城を抜けて配置された精兵部隊。正面には少数ながら結城四天王の水谷と鬼真壁。


 敗走する小田軍の背を討つように水谷、真壁両軍が打って出る。




「氏治様! 早々に全軍を取りまとめ退却の号令を!」


 右翼側に構えていた岡見治広は、左翼側に新手が出現したのを知ると一目散にここへ駆けつけた。時を同じくして、赤松擬淵斎も後退し、氏治の下へ合流した。


「くっ! あと一息だったのに……!」


「何を仰います! これは敵の罠です! 初めから嵌められていたのですよ! これ以上ここで戦えば敵に利するばかり、ご決断を!」


 初めから嵌められていたと知って氏治は驚きに目を丸くした。悔しさに奥歯を噛み締めるがくよくよとしている暇はない。被害が拡大すると言われているのだから、唯一の長所である決断を迷うことなどしない。


「わかった。全軍退却! 何としても小田城に生きて帰って!」


 全軍撤退の号令が出され、それは程なく八幡の下へも届く。


「よ、ようやく撤退か……よかった。太兵衛、退路の確保を」


「……御意」


 太兵衛は悔いのある複雑な表情で頷いた。

 お家の大事に敵とまみえる事も無く、一目散に逃げ出すという行為を心のどこかで承服しかねていた。普段の仕事振りからそれなりに期待や評価をして、ある程度の信頼を八幡に寄せてはいるつもりであったが、この逃げ腰には少なからぬ反感を抱くのは武闘派の武士としては致しかない事である。


 八幡隊は時折伝令を買って出ることで各部隊の連携を補助しながらも、徐々に後退し始める。


「農村から集めた駄馬や、問丸から安く借り上げた馬じゃ動きが悪いな。森林を駆け抜けることができる分まだ徒歩の方が良かったかもしれん」


「今回は訓練のつもりだから、逃げる事を重視する。なんて言って全員分の馬を用意したのは八幡様ではありませんか。今更何を言っているんですか!」


「それはそうだが、どうにも具合が悪いんだからしょうがないだろ。実戦で馬が必ずしも万能ではないってわかったのも経験の一つだよ!」


 八幡の漏らす不満に太兵衛が我慢しきれずに怒鳴り、それに反論する形で八幡が言い訳を述べながら軍を退かせていると、間もなく人員の密度が増して軍勢が動けないほどになる。


(ちぃ、本隊はまだこんなところにいるのか! まごついてないで早く引き返せばいいものを……とりあえず合流して様子を見るか)


 八幡は一先ず状況を確認すべく、隊を太兵衛に預けて人混みをかき分けて中心部へと向かう。


「私は殿(しんがり)として戦場に最期まで残るわ。皆は隊をまとめて速やかに撤退を」


「そんな、何を仰せか! 氏治様を置いて皆が退ける訳無いではないですか」


「イヤよ! 今までだって、散々皆を盾にして逃げてきた……もうこれ以上、私の所為で誰かを失うなんてイヤなの! 今回だって、私の判断が……」


 すると、そこでは味方を見捨てては逃げられないと駄々を捏ねる氏治と、それを説得する側近の由良親子や岡見治広等がそこにはいた。

 八幡は一人先行して離脱するわけにもいかずに人影の隙間から様子を暫し眺める。


 暫しの押し問答の後、人混みをかき分けて一人の馬上の老翁が姿を現した。


「判断など、起きて見なければそれが良かったのかどうかは、誰にも解らぬ事ですぞ」


「源じぃ……」


 氏治に源じぃと呼ばれたのは、近隣諸郷にも名の響き渡る老齢の軍師、天羽源鉄斎である。老体は病に侵されやせ細り、見るからに弱りつつあることが見て取れるが、極楽寺で半世紀掛けて積み上げた知識は衰えることなく氏治を助けていた。

 先代当主政治に助言を重ね、氏治が世継ぎとなって以降は山を下り、還俗して正式に小田家の将として暮らした。そして、氏治が敗戦を重ねる度に策を与え、その被害を最小限に収め続けたことで知られる名将である。


 氏治側近の由良憲綱が、その体をいたわるように声を掛ける。


「源鉄斎様、お体の具合悪く軍議も休んでおられたのに、まだこのようなところに……」


「皆と同じじゃよ。氏治様を置いて我が身恋しさに逃げおおせる者がこの場にいよう訳もあるまい……」


 源鉄が細々とした声で語ると、その場に居合わせる諸将は目頭を熱くして力強く頷いた。

 ただ一人の凡人を除いて。


(……はは、マジかよ。俺以外はこんな馬鹿げた戦いになおも身を投じようってのか? マジで馬鹿げてるぜ)


 そして、それを見透かしたように老爺の鋭い視線が凡夫を刺す。


「……のう、八幡殿?」


「ぅうぇ!? は、はは! まことにその通りであります!」

(ふ、ふざけやがってこの爺さん!? 思わず肯定した上に注目まで集まっちまったじゃねぇか! しかも、なんで面識もないのに俺を言い当てた!?)


 八幡は思わぬ展開と、人影に居た自分を言い当てられた驚きから動揺を隠せず、己の意志とは無関係に天羽源鉄斎の言葉を肯定してしまう。

 八幡が背筋を延ばしたまま苦笑いを浮かべる中、群衆の中から手が上がる。


 幾度となく小田城の盾となり、一族に多くの犠牲を払ってきた武門の家柄、平塚家の現当主自省長信である。


殿(との)! 殿(しんがり)は我にお任せあれ! 存分に敵を薙いで見せましょうぞ!」


 氏治は意気に溢れている平塚長信に驚き、慌てて向き直る。


「ま、待って! 殿(しんがり)は私がするから、貴方はみんなを一刻も早く逃がして。私は当主だもの、みんなの無事を見届けてから帰国するわ」


 自らの意に沿わない氏治に、平塚長信は腹を立てて鬼の形相で怒鳴りつけた。


「当主とあろう御方が、何を情けないことを申されるか! 殿がご自身をご自愛なさればこそ、皆が皆、自身を案ずることができようというもの。殿が退却なさらねば、皆踏みとどまって混乱が増すばかり! 自らが退くことを決断することとて当主の御役目というものでありましょう?」


「け、けど、みんなの命を危険にさらしたまま逃げるなんて私には……!!」


「なんと!? 我等小田六騎衆が信用に値せぬと申されまするか!? 我等の底力をもってすれば、結城勢など軽々屠って悠々と帰国して見せましょうぞ! この某めのお話が信じられぬとあらば、これ以上の屈辱と無念はありますまい。どうか、そのお手元の名刀にてお手討ちくださいませ!」


 氏治は、鬼の形相で休む間もなく言葉を発しながら迫りくるその迫力に押し負かされ、平塚長信に万事任せると宣言してしまった。それでも罪悪感に顔を滲ませ、平塚の身を案じていることが顔に余すことなく現れるものだから、平塚もそれ以上言い寄るのは酷に思われ、すっぱりそこで話が切られた。

 それにもかかわらず馬首を反転させることをためらっている氏治に、言葉無くため息をつく家臣たちは、縛り上げてでも連れて帰るか。などと考え始めた時、その一部始終を眺めていた飯塚美濃守が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら、馬蹄の鳴り響く喧騒の中の無言の静寂を打ち破った。


「ならば、平塚殿お一人では何かと指揮するにも不便があろう。わしはそこの八幡殿を推薦致す」


「……はぁ?」


 八幡は思わず怪訝な顔を浮かべ、素の声が漏れだす。


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