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第二十六話 一文の重さ

 そして、農村や田畠を実際に見て回り、商人と交流しながら意見交換を重ねて考え付いた提案を紙に纏め、塚原内記、由良信濃守を経由して面会を要求する事三日目、無事に氏治と直の面会できる機会が設けられたのであった。


「この度はお時間を設けて頂き、まことに……」

「ねぇ、そういうのは良いって前に言わなかった?」


「いや、ですが城では」

「今はあなたと私だけよ。まぁ、すぐ隣の部屋には小姓と侍女がいるけれど、問題はないわ。それとも、それすらも避けたい密談?」


 八幡は暫し考え込むと、問題ないと見て肩の力を抜き、口調を普段のものへと戻した。


「あぁ、いや。それなら別にいいか。いろいろと領内を見て回って、考えたんだ。何かできる事、より良くできることはないかって」


「そう。よく頑張ってくれてはいるみたいね。江戸山城守や塚原内記からも聞くし、太兵衛の話しや愚痴も政貞を通じて聞こえているわよ」


「あ、あいつ……」


 八幡が苦笑いするのを見ると、可笑しそうに氏治もクスクスと笑いながら続けた。


「なんだか、貴方と話していると、少し気がまぎれるわ……」


 氏治は決して目を背けるつもりではないが、八幡と気兼ねの無い話をしていると非日常を感じ、つい最近の度重なる敗戦と死者の山がどこか嘘のようにも感じられ、苦しみが紛れた。しかし、そういった自身の逃げる様な姿勢に気がつくと、再び今まで以上の罪悪感に胸を締め付けられ、内臓の全てを吐きだしそうになるような止め処ない吐き気と胸焼けに襲われるのである。


「ん? 何がまぎれるって?」


「な、なんでもない。ちょっと、考え事」


 しかし、氏治は人前で弱さは見せまいと努めて明るく振る舞い、自分の心情を押し潰して陰に隠した。


 何か悩みを抱えてそうだと八幡は察するも、特別親しい交流がある訳でもない身分違いの相手に野暮にも追求できるほど神経が図太くはない。気に掛ける素振りは見せながらも、氏治が話さない以上、追及は避けた。

 氏治はそんな八幡の態度の僅かな変化を読み取り、一層隠そうと話題をすり替える。


「肥料と道具の改良に努めたそうね。農村のみんなの口からあなたの名前が出た時は驚いたわ」


 八幡は、やはりまずは国の基盤からと農業生産に目を向けたが、基礎の改善には相当な知識と時間、根気が必要となる。

 一先ずは現状の人糞を肥料とするやり方だけでなく、家畜の糞尿を用いた肥料や、生ごみと枯葉に灰を混ぜて発酵させて作る肥料について指導する。とはいえ厩肥という牛馬の糞を用いた肥料もすでに存在し、特に馬の飼育が盛んな東国を中心としては一般的であった。

 中世では特に糞について区別し、兎の糞を「落し」犬の糞を「穢し」鳥の糞を「返し」馬の糞を「(こえ)」と呼び分けている。『沙石集』にはこれらを田に入れることは「田舎ノ習」であるとさえ言われ、常陸ないしは東国における伝統肥培技術であったとされる。また、特異な例では『節用集』に安房国で魚貝を「田糞」と称して施肥したことが記されている。


 発酵させたやり方については不明だが、恐らく既にこの時代から原点となる近しいものもあったであろう。このため、大きな効果こそ期待できないがその分改変も少なく、指導等は容易であった。

 道具である備中鍬等は体感的な違いを多くの人々に与えたが、かといってこれも一朝一夕で田畠が増える訳でもなく、こういった地味な行動が効果に現れるのはまだ先の事である。


 八幡は氏治から聞く自分の評判にこそばゆいものを感じ、嬉しそうに頭を掻く。


「それは素直に嬉しいな。しかし、開墾があんなに金や労働力が必要になるとはな」


 八幡は当初、意気揚々と開墾を進言していたが、氏治の反対を受けながらもこれを押し切って小規模ながら開墾事業に着手した。しかし、湿地があれば水田は造れるであろうというのが現代との感覚の違いであり、排水や交通を始めとしたインフラのギャップに八幡は今後とも苦しめられることになるのである。


 そもそも、開墾とは非常に財、資源、労力を投入しなければできないことであり、湿地があるからと易々田圃にできるという訳ではない。

 田を作り、生計を立てながら土を改良していくのは普通の農民には非常に難しく、大規模な権力者にしか成しえない事でもあった。このため、当時の大規模な開墾記録は北条家の様な国主クラスの大名か、戦国末期になってからである。特に、北条家は開墾を精力的であったのか、多くの記録が見られる。


 もちろん、農民の開墾例が無い訳でもない。落人や逃散農民が切り開いた村や田畠は現代に多く残る。これらは、苛政は虎よりも猛、という言葉に現れる様に非常に重い年貢や諸税、労役が無く、生きる瀬戸際で奮起すれば無理な事でもなく、こういった事象が今に残る村落に繋がるのだろう。

 税の掛からない土地を子孫に残せる、という希望に後押しされて田を作る。戦乱の時代に厳しい検地に会い、また逃れて村を建てる。

 この国の当初の開墾時代はこうしたことの繰り返しで、徐々に土地は耕されていったのだ。だが、戦国時代中前期の地方領主では、その多くを軍備や外交、調略、朝廷工作等々に財力を割かれ、開墾するための用水、灌漑整備から始めるという途方もない労力と財を必要とするのでとてもできなかった。


 そのため、この頃の開墾の意味は、元々使われていた田畠で、農業インフラの基礎があり、民が逃散した土地や何代も前の荒廃した田畠を再生することを主に指したのである。

 無論、開墾方法はいくつかあり此れのみに限るものではない。豪族の門田や佃の様に地道な耕作が実を結び、日本全国単位で見ればこうして耕された土地も多い。


「だから言ったじゃない。湿地があれば田んぼに耕せるなんて間違いだって」


「そうだよな……それについては忠告を無視して悪かった」


 思えば至極簡単な事だ。ゲ―ムのようにボタン一つで田畠が広がる世界でもなく、作れば一定の収穫が約束されるわけでもない。

 では、実際に史実の大名家が税収を増やすことはどのようにしたか。税制度や中間搾取を減らす、煩雑な制度を整理する、財を徴発する代わりに満足のいく環境や治安を整備する等である。


「そこで、税制を新たに考えたんだ」


「ふぅん、どんな?」


「柏崎とかの主要な港町には建屋一軒ごとの棟別銭と、町名主の組合をつくらせてそこから一定額の役銭、兵役の負担を頼む代わりに、治安維持とか自治に関するものを任せるって言うのはどうだ? これで文官も必要最低限で済むし」


 八幡は名案とばかりに語るが、相対する氏治の反応は今一である。


 この時代は様々な業態が改善合理化された時代でもあり、その断片しか知らない現代人が賢しく思い上がりを述べたところで時代環境の丈に有った政策はある程度行われており、当時の人々もまた賢いという事である。


「一軒ごとに棟別銭は既に取っているんだけどね。でも、資金的に余裕がある人達に、煩雑な手続きとかの手間を無くさせる代わりでお金を取るのは良いかもしれない」


「それともう一つ、放棄されたり荒れたりしている田を商人たちに耕させる」


 うんうんと納得しかけていた氏治は、次に耳に入った言葉に一瞬硬直し、数秒後に理解が追い付き、顔を上げて薄目を向けた。


「……え? えっと、何を言っているの?」


「いや、まてまて、きっと勘違いしてる。算盤弾く連中に鍬を持たせろって言うんじゃないからな?」


「じゃぁ、どういう意味なの?」


 理解しかねて首を傾げる氏治に、八幡は一呼吸おいてから解説する。


「商人が独自私財で復興させた田畑を私有できるようにする。比率は時と場合によって若干の変動で調整を付けるが、三割は小田家に、二割は地域の代官所、まぁ在地領主に、半分は私有って形だな」


 勘違いというから息をついて聞いてみれば、どちらにせよ了承しかねる問題で氏治は慌てて手を突き、八幡に迫る。


「ま、まって、もともと小田家の土地よ!? それを商人に分け与えちゃうの!?」


「領主としての不満はあるかもしれないが」

「いやそこは無いけど」

「即答!?」


 これには八幡も驚くが、氏治は腕組みして苦笑いで続ける。


「ただ、貫高がその分商人の懐に入ると、内政にちょっと支障が……」


「いやまて、考えてもみろ。荒廃した村や田畑は生活する上での便が悪いか、戦乱に巻き込まれる、治安の悪化で盗賊山賊に狙われるから移住せざるを得なかった場所だ。そこは自然に回復しないし、小田家も人や金を回す余力はないだろう?」


「ま、まぁ……もともとそこの取れ高は無いようなものだし、短期的に見れば大きな利にもなるけど……」


 氏治は熟考するが、八幡の言うことにどうにも一理も二理もあるように思える。

 元々随分長らく耕されてない土地で、災害などによって民が逃げるなどし、誰も居なくなった荒れ田を不堪佃田(ふかでんでん)という。当然これらの農地からは税収など獲れない。

 一方で、商人だろうとそこで耕せるようにしてくれれば相応の税収は取れるうえ、今回の場合は半分を商人の私有地、半分を領主側が委託して耕す形になるが、領内での米の流通量が増えるのはそれだけで領主として利益になる。領民としても少しでも餓える人が減ればそれに越したことは無い。

 しかし、長期的に見れば平和で安定してからという条件付きだが、本来はその土地を全て再開発で自分の物にできる筈のものだったと考えると、領主側としては決断しにくいものが有ったのだろう。また、非常時の余裕がない時はまだしも、安定した時期に行政上不都合が出ることが想定できるのも決断を阻害していた。


 八幡はもう一押しとみて、声音を変える。


「いま、長期的目線で考えても仕方がない。今は家が残るか滅ぶかの瀬戸際だろ? 商人が大量の荘園を持つかもしれないって考えだろうが、一定の上限付けておけば大きな問題にはならないし、目下問題になる事じゃない。どんな政策にもいい点悪い点がある。今は領内の再生が優先じゃないのか?」


「そ、そうね……でも、商人は乗るかしら? 小田領の皆は私に酷いことをしないと信じているけど……でも、やっぱり力を持ちすぎて争いの種にならないか心配かな……」


「商人は乗るさ。商人が田畑を持って半武士化するのだって珍しいことでもないし、商人は荷の輸送に傭兵をよく雇うそうじゃないか。だが、この傭兵だって勝手な奴も多い」


 この時代、一般に農民と武士の区別が難しく、上流層の農民と下級武士は同一に扱われることも多かった。また、この関係から農民武士は想像されやすいが、尾張生駒氏などのような、商いで生計を立てつつ館を持ち、武装する大商人も一定数存在していた。

 肥沃な土地でありながら、交通の便がよく、宗教勢力の拠点もあり、水の豊富な常陸南部は人の集まりやすい地域である。これは、それだけの市庭(いちば)があることを意味し、その需要から商人が集まりやすく、商圏としてもかなりの賑わいを見せていた。


「足元見て賃上げ要求や、紀伊国じゃ鉄砲って高価な品を台車ごと丸々盗まれるなんてこともある。だったら、農民に田畑分け与えて、その親族に荷運びさせた方が信用できるだろ。護衛にしてもそいつらを鍛えるとかさ」


 商人が開墾、開拓する例もあり、また治安の悪い地域との交易はもちろんの事、それ以外でも金目のものを輸送するには相応の護衛が必要である。しかし、その護衛が揃って裏切ることも珍しくなく、身元の解る者や、付き合いの長い者を重用した。

 このために、一定数の戦力を備える商人は珍しくなく、自分に利権を与える領主にしばしば味方して出陣した。このあたりは寺社勢力と同様である。


 こういった傭兵家業などの需要もあり、戦場以外にも多くの浮浪傭兵、破落戸(ごろつき)が世に蔓延り、これがしばしば一時の食い扶持に窮した際に治安を乱す悪党と化す原因でもある。

 つまり、商人が安定した私兵を持つことは僅かながら治安向上に貢献するうえ、この権利を認めるのが小田家だけである以上、小田家が滅ぶことが商人への損害にもつながるため、防戦時はある程度商人たちの協力が見込めるようになる利点などがあった。


「商人にもいろいろやり様がある訳ね」


 氏治は神妙な面持ちで納得する様子を示した。


「でだ、それにこの政策をやって商人がこれに馴染めば、他家の侵略を受けた時にこの制度を守るために小田家に積極的に味方する奴らも出てくるだろうさ」


「……わかった。全てあなたの目論み通りいくとは思わないけれど、話には乗ってあげる。後で手塚という商いに詳しい将を呼んでおくから、打ち合わせておいて。彼は小田家の交易や物品調達、町の管理の一切を任せてあるから」


 氏治は頷き、必要になりそうな文章をさらさらと書くと、それを八幡に手渡して部屋を立ち去った。


「自分では一切そういう仕事はしないのな……あぁ、解った」

(これで、ようやく噂にかねがね聞く手塚様とやらにお会いできる訳か。算盤弾きと芸事が得意で合法ヤ○ザの統領様……全く想像つかん)



 そして後日。

 氏治から連絡を受けた手塚石見守が小田城に登城。城の一室で面会することとなり、八幡は早々に座についてその時を待った。


 ミシリ、ミシリと重みある足音が縁側の板床からし始め、それが次第に近づくと部屋の前で止まり、ゆっくりと木戸が開かれた。


「ほう、貴殿が八幡殿であるか」


 八幡は硬直し、唖然と天井を見上げた。

 正確には天井ではなく、そこに頭が付きそうな巨人の顔を見上げたのだ。

 部屋でどんな人間と面会するのかと心構えを作っていた八幡の頭上高くにそびえるは、岩か、はたまた大木かと見紛う、背丈六尺を越える筋肉隆々の巨漢。鬼と称して疑われることなき威風堂々たる容姿はまさに武人のそれであり、まるで動く岩山のような人間。

 そして、八幡の脳内に電流が走る。この男の顔は以前土浦城下で見かけており、その時に既視感を抱いたことが胸の奥底に眠っていたのだ。


 そして、はっきりと、まじまじと眼前の大男を眺めることで、その時の既視感の正体に気がついたのである。


「……裏面大黒(りめんだいこく)……」


 八幡はつい口から漏らす様に言葉を溢す。


 そして、すぐにハッとした。自分に悪意はなくとも聞きよう次第では馬鹿にしているとも取れるのである。

 裏面大黒とは、筑波山の山道沿いに見られる奇岩群のひとつであり、世に知られる弁慶七戻や母の胎内くぐり、出船入船等の一種である。この内、大きな袋を背負った大黒様の後ろ姿のようであるという、でこぼこと角張った岩肌に手塚石見守と言う筋肉隆々の体躯がよく似ていたのである。


「ぁ……っべ……」

(死んだか、これ……?)


 八幡は思わぬ失言に命の覚悟をしつつ、驚きと恐怖で身動きできずに大口を開けて見上げた姿のまま固まっていた。


 すると、手塚石見守は次第にプルプルと震えだす。


「……くく……ぐわぁっははは! わしが大黒様の後ろ姿に似てるか? なかなか嬉しいことを言ってくれるではないか!」


(た、助かった、のか?)


 八幡は首裏や背筋に滝の様な冷や汗を流しながら、必死に恐怖を包み隠す作り笑顔で誤魔化し、ニコニコとしながら一度挨拶がてら頭を下げ、それから尋ねる。


「……えっと、貴方が手塚石見守様で……?」


「がはは、ふう。いや、実に面白かった。いかにもワシが手塚石見守だ。さて、氏治様からは様々な事を考える面白い御仁と聞いているぞ」


「面白い自信はないですが、まぁ風変りではあるかもしれないです……」


 八幡は挨拶を終えると、暫しの雑談による交流の後、氏治と話した事の仔細に加え、自分なりの提案を手塚石見守に披露する。

 一瞬、手塚はピクリと眉尾を動かした。内容の一部が手塚の利権に食い込むのだ。

 商人が自前で護衛を揃えられるようになれば、傭兵の需要は減る。各町が自治権を強めれば商人への検断権を持つ自分の地位が相対的に下がり、影響力が弱まる。極当たり前の道理であるが、八幡は考えがそこまで及ばぬままに提案したのである。


 しかし、この大男は八幡の話を聞き、じっくり吟味したうえで利権に目を瞑ったまま実行に移すのに必要な事など詳細を詰め、手続きや人員配分への助言をした。


「なるほど、さすがは元商人とだけあって事情に明るいですね」


「ほぅ、聞いておるか」


 手塚石見守は八幡から聞く自分の評判に機嫌を良くしながら話を進めた。

 手塚と言う男は己の利権に固執せず、小田家と言う公益を優先したのだ。こういった懐の深さや小田家への忠義ぶりも高く評価され、小田家中でも多くの信頼が寄せられている人物である。


 また、利権に食い込むとは言え、この幅が少ないのも容認できる理由である。手塚石見守の俸給の主軸は壺銭と呼ばれる現代で言うところの酒税である。そして次が用心棒の口入れ料であり、此処は配下への褒美と言う一面も備える。

 八幡の政策は商人の自衛力強化に繋がり、後者への少なくない影響は確実にあるが、それでも用心棒の仕事は行商人の護衛や定期市での警護等があり、利権の一切を失う訳でもないのである。


「時に八幡殿。貴殿は銭を何と心得ますかな?」


 手塚石見守は唐突な発言と共に、八幡の右手に宋元通宝と鋳込まれた一文銭を一枚手渡した。


「禅問答……ですかね? 学の浅い平々凡々な私には一文と見えまする」


「左様。ではこちらは?」


 手塚石見守はそう言うと、次は八幡の左手に永楽通宝と鋳込まれた一文銭を一枚手渡す。

 八幡は手塚の意図が理解できずに首を僅かに傾げるが、しばらく考えて再び素直に答える。


「一文銭、ですね。ただ、字は違うようですが……あの、今まで意識してきませんでしたが、これは流通しないとかってあるのですか?」


「いや、全部使える銭よ。一文は一文だ。ところで、これはどうかな?」


 手塚石見守はそういうと、左手に持たせた銭を右に移させ、右手に二枚の銭とし、左手に一文銭十枚を紐で纏めたものを手渡す。


「十枚一纏めで一疋でしたね。これが何か?」


「では、どちらが重い」


 八幡は手塚石見守が何かを言わんとしていることは理解できている。きっと、右手の方が何らかの意味で重いのだろうというのも理解していた。そうでなければ問答をする意味が無いから当然である。

 しかし、右手がなぜ重いのか、それが理解できなければ左手が重いという目の前の物理的現実を答えるしかない。


「……左手の銭の方がもちろん……」


 緊張する様子の八幡をよそに、手塚石見守はしばらく考え込むように唸り、ふと顔を上げると一つの提案をした。


「そうだ、八幡殿。貴殿は算段が得意と聞いている。ならば次の市での役銭を集めるのを頼まれてはくれぬか? 何分わしの部下は頭を使うのが苦手な者ばかりだというのに、仕事ばかりが増えて正直困っていたところなのだ」


「へ? 今の問答は……」


「ならぬか?」


「え、いや、はい! 謹んで承ります! ……はい」


 八幡は今の状況が微塵も出来ずに混乱するまま、鬼のような大男が凄味ある表情で頼むのだ。どんな者であろうと反射的にはいと答えるのは避けられない事であった。

 しかし、徴税と言う嫌われそうな仕事でも仕事ならやるのはやぶさかではないと考える八幡だが、どうにも寸刻前の問答の裏が読み取れずに胸焼けするような心地悪さが胸中に残り、この仕事との関係を考えると気が晴れなかった。


「がっははは! それでこそだなぁうむ! 若者はそれくらい挑戦的に仕事に取り組むのが良い。無事にできたら酒をおごってやるぞ!」


「あ、いえ酒はその……」


「何がいい! 江川か? 菊川か? 伊丹だってあるぞ? おぉそうじゃ! お主が送ってくれたという練貫もまだ残っておる! どうだ?」


「あの……ハイ、ヨロコンデ!」

(飲みュニケーションと言う悪しき風習は、既にこの時代からか……)


 八幡は最近の酒での失敗を思いだし、内心では心底拒否したい気持ちで一杯であったが、目の前の鬼のような巨漢の勧める酒を断れず、押し負けると満面の作り笑顔と大声量で返事を返す。

 鬼のような筋肉隆々の大男である。見るからに酒に強そうであり、実際に酒好きと聞くのだからつき合わされればただでは済まないであろうことは明白であった。

 八幡はわざと仕事を失敗してやろうかと悪心が幾度となく頭を過るのを感じながらも、必死に葛藤し、善良な心を堅持して真面目に仕事に取り組むこととした。

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