第六話 御身の盾となるは至高の誉れ也
「え、えっ!?」
「いいから走れェ! 振り向くんじゃねぇぞ!! 止まんなぁ!!」
困惑する少女を尻目に、男は長いケースを開くと、中から弓を取り出し、弦を絞めるとすぐに矢を引き絞る。
そして、飢えた野犬のような顔つきで迫るぼろ布の男達に震える声で叫ぶ。
「き、競技用だって当たりゃ痛いじゃすまねぇぞ! し、死にたくないんだ俺だって、死にたくない! 止まれ、射るぞ、本当に当てるからな!? 正当防衛だ!」
迫りくる足軽の群れには、男が何を言っているかも聞こえず、仮に聞こえたとしても当然止まるはずもなく、後ろ向きに走る今が好機とさらに足を速める。
そして、男は冷や汗を掻きながら無我夢中になり矢を放つ。
考えなく当てやすいという一心で胴体を狙った弓だが、矢を放つ一瞬にこれも無意識か僅かに狙いを足元に逸らす。膝に矢を受けた先頭の者が転ぶと数人が巻き込まれ、男の二射目では騎乗武士の乗馬に命中し、指揮官と目される武士は落馬、馬が暴れ出したことでその場が僅かに混乱する。
「よし! 今だ! 全力で駆け抜けろ!」
駆け出す二人を、敵か味方かわからない兵士が何人か止めにかかる。しかし、乱戦のさなかに余裕がないのか二人に追いつくものはいなかった。
しばらく駆け続けると、正面にまだ部隊の体裁を残す徒武者の一団が現れ、男は思わず足を止めた。
「敵、か……?」
「あ、いえ! 味方よ! 家中でも特に信頼のおける人よ!」
少女は血色を良くし、光が差したように表情は明るくなる。
氏治の声が届いてか、小さな陣幕の囲いから一人の男が慌てて飛び出した。
「は、この声は……!? おぉ! やはり氏治様だ!」
「則定! 救援の為に陣を移してくれたの?」
男の名は赤松則定。
もう三十路に入ろうかという中肉中背、強いて言えば若干太り気味の則定は、目を見開いた喜色を顔の満面に浮かべ、諸手を上げて氏治と呼んだ少女へ駆け寄る。
「おぉ! よかった! もし氏治様の御身に傷でも付こうものなら、父上にそっ首を落されていたところです!」
「あ、貴方も相変わらず大変ね……それはともかく、私の旗本の皆がやられてしまって……今も私を逃がすために戦ってくれているの。お願い、助けるために力を貸して!」
少女は懇願すると、対する則定は笑顔で何度も頷きながら応える。だがしかし、笑わない目尻が全てを物語っていた。
「えぇ、ええ。もちろんです。もちろんですとも! 氏治様の御頼みとあらば断われますまい。お任せあれ、どうぞご安心なさいませ。旗本の者共は我が隊で救出して帰還させまする」
「本当! ありがとう則定!」
氏治は無邪気に喜んでみせるが、赤松則定は恐らく救援などしないだろうと男は直感した。そもそも、もう間に合わないのも明白である。
しかし、則定はそんな内心をおくびにも出さず続けた。
「何ほどの事も御座いませぬ。それはさておき、此処はまだ敵中にて包囲されている場所。まだ危険でござりますれば、さらに後方で軍の立て直しをしている菅谷殿の元までお逃げなさいませ」
「え……う、うん。解ったわ。政貞もすぐに救援に来させるね」
「はっはっは! 氏治様はお優しい。しかしご安心召され。小田家一の軍才を誇る赤松擬淵斎が息子、則定めにござりまするぞ? 敵など跳ね返して帰還して見せます故、氏治様は一足先に城へと戻って御ゆるりとなさってくださいませ」
「えっと、そ、そうね。赤松一族は頼りになるもの。大丈夫よね。ただ、無理はしないで。皆がこれ以上傷つくのは見たくないの」
氏治が則定の手を取って心配そうに顔を見上げると、則定はどこか悲しげな表情をしてしばらく無言で氏治の顔を眺めた。
「御意に。さて、今は一刻が惜しゅうございます。この陣には残念ながら馬がありませぬ。後方までもう一走り、できますかな?」
「うん。大丈夫。心配してくれてありがとう」
「えぇ。では、お気をつけて」
赤松則定は優しげな微笑でよろめきながら後方へと歩みを進めた氏治の背を見送った。そして、氏治に声が聞こえなくなるところで、視線を男へと向ける。
「……時にそこな珍妙なる者。何の御縁あってかは知らぬが、殿を此処まで逃がしてくれたことに感謝する。そして、これから後方の菅谷殿の陣まで共について行ってくれぬか」
「え、あ、あぁ……わかった」
先ほどまでとは打って変わって笑みの無い表情、真剣な眼差しに男は思わず首を縦に振る。
男が了承するのを見るや否や、再びがらりと表情を変え、肉の張った頬をにんまりと持ち上げ、満足そうな笑みを浮かべてから背を向けた。
「では氏治様。某はこれにて」
男は、独り言と共に抜刀する赤松則定と名乗る烏帽子武者の後ろ姿を見ると、一瞬目を瞑り、その武運を祈る。そして、すぐさま氏治と呼ばれた少女を追いかけ、引き連れてその陣を後にする。
「さぁ、各々方! ここが小田家の“最後尾”であるぞ! さぁ、我が用兵の妙を篤と見せてくれる! 手筈通りに各員抜かりなく配置につけ! そして、任務を果たしたら必ず退け、無駄死にしてはならんぞ!」
そして、側近と思われる男も叫ぶ。
「わはは! 死ぬのは我々だけで十分。下手な情を起こすな? 貴様らの身を案じているのではない、氏治様の御命を守り抜くために、無駄死にをするなというだけぞ! 何人も我等の後に続くではないぞ!」
「わしからの最期の命は“死ぬな! 生きて氏治様の次の盾となれ”ぞ! ここから先、何人もわしを追っての殉死は許さぬ!」
すると、赤松則定は陣幕を中心に幾つもの幟を掲げさせ、敵の注目を集める様に大音声を戦場に響かせて敵勢を挑発する。さらには、乱戦の中で配下の兵に拾わせた「木瓜に一文字」の家紋が刻まれた幟旗を始めとし幾つもの旗をこれ見よがしに掲げ、火をかけて見せた。
すると、幟を取られるのを恥とした数名の武将が愚弄に耐え兼ねて則定の陣に攻めかかる。しかし、湿地の中にある僅かな渇いた地に柵を、立て陣を張って動かない則定は、百近い敵に僅か二十ばかりで防ぐと言う数的な不利を抱えながらも、足場が悪く踏ん張りの効かない敵に対し優位に戦いを続けた。そして、引き付けては伏兵に裏から斬り込ませ、草地に潜ませた弓兵に一斉射を行わせるなどして奮戦したが、多勢に無勢。次第に揉み潰され、柵は破壊され、陣幕が破かれていく。
「殿、腹を召されませ。若衆に首を持たせ、御父君の下へ」
赤松則定は己の垂れる腹を一つ叩き、家臣たちを苦笑させる。そして、朝霜の立つ寒気の中で半裸になり、腹、胸、肩、腕、背中とあらゆる場所から湯気を立ち上らせ、素肌をしもやけで真っ赤に染めながら床几から立ち上がる。
「くふふ、できんな。この膨れた脂腹には脇差の刃も思うように通らんて。よいよい、共に戦おうではないか。その方が時も稼げよう。わしのなまくらな刀の技では、それがたとえ寸刻のものであったとしても」
「御意!」
伏兵達は己の主人が立てこもる陣を助けることなく、涙ながらに主命通りに撤退する。
陣地で囮となった赤松則定とその二十数名の側近は、最後まで則定の冗談に楽しげに笑いながら、ぬかるみを脱して抜刀する敵兵を迎えるのであった。
「小田家筆頭家老、赤松擬淵斎が嫡子、則定を討ち取ったりぃぃぃいいい!!」
そして、男と氏治の二人はさらに走り、人がまばらになるあたりまで来ると、数十騎の騎馬武者と、息を切らしながらも全力でその背を追う歩兵が百人ほど駆け寄ってきた。
男は、それに対抗する術など当然持ち合わせていないが反射的に身構える。
しかし、そんな行動は無意味だったようで、交戦の意思がないその集団は武器こそしまわなかったが歩速を緩め、二人を刺激しないようにする。
「殿! ご無事ですか!? 手傷がなさそうで何より。はやくお逃げください! もはや我が方は総崩れ、ここもすぐに危うくなりましょう」
その部隊を率いていた将は菅谷政貞であり、他の兵も含め馬上から下りることなく周囲を警戒しながら声をかけた。
本来は漆黒であったのだろうその鎧は返り血で赤く染まり、直垂などの部分は赤くこそならないが赤紫色の薄気味悪い染みが広がっていた。周囲の兵の疲弊ぶりから見ても、ここまで敵中を直進してきたのだろうことが容易に予想される。
「でも、赤松則定が今っ」
「連絡は受けておりまする。赤松殿は殿を務め、退却を支援するとのこと。江戸山城守殿が退路を押さえている今のうちに!」
「そ、そう……わかった。ごめんね。後はお願い……」
氏治は力なく答える。
「御意!」
菅谷政貞の言葉が決定打となりおとなしく身を引くことを決め、菅谷が連れてきた予備の馬へ乗り、味方の旗持ちを率いて後方へと引き下がった。
「はぁ……助かった……のか?」
「そこの面妖なる方。よろしいか?」
「ん? あぁ、俺か、確かにな」
男は自分の姿と菅谷政貞の姿を見比べて顔をひきつらせた。
(俺からすればあんたらの方が面妖なる方なんだがな)
「殿をお救いくださり感謝の極み。しかれど、今は我等も一息つける状況ではない故、殿と共に土浦城までおいでくださいませ。御礼その他もろもろのお話はその時に」
菅谷政貞は男に手を差し伸べると、男も反射的にそれに応じて握手をする。そして配下の兵に男の護衛と案内を命じた。
「あ……はい。ありがとうございます……?」
「さぁ、面妖なる方。こちらへお急ぎを!」
その後、後方に本陣を立て直した氏治であったが、戦況が圧倒的不利なこともあり撤退戦へと移行し、配下に促されたこともあって一足先に居城である小田城に引き返した。
しかし、小田城の盾となるべき真壁郡の海老ヶ島城も結城左衛門督政勝の激しい攻勢により陥落。
城主の平塚山城守が討ち死にし、将兵の多くが死傷、戦況はさらなる悪化を見た。この為、小田城で体勢を立て直しきるには至らず、這う這うの体で土浦城まで落ち延びたのであった。