001
煌く星空に彩られた濃紺の夜の帳が、東の森の木々の隙間から漏れ出す乳白色に、その模様を塗り替えられてゆく。
そして朝陽に照らし出された森の木々の向こう側からは、大小様々な鳥達が大空へ向い羽ばたいていった。
森の新たなる一日が始まったのだ。
そして森から程近いこの街でも、煌く陽光と小鳥の囀りに導かれ、街の人々の声と共に新たなる一日が始まる―――
「おはようさんですー」
「おはよう、エリー。今日も元気そうね」
「そんだけが、ちょー取り柄なんでー」
少女の軽やかな朝の挨拶が、朝焼けの空に響き渡る。
その少女は、農作業にでも出るかのような衣服にカチーフで髪を覆い、手に大きな箒を持っていた。
そんな少女の挨拶に、街の玄関口である南の正門。
その傍で開門の段取りを行っていた、魔導騎兵隊の正隊士であるエイミーが、少女に挨拶を返す。
「毎日ご苦労さまですー」
「はは、こっちは仕事だし交代制だしね」
彼女の仕事である魔導騎兵隊。
それは、この街が所属する共和国に於いて、主に治安維持を担う組織である。
この街以外でも共和国国内の大抵の街であれば、必ず最低一人は見かける存在だ。
彼女はその魔導騎兵隊の正規の隊士である。
その証拠に、魔導騎兵隊の代名詞である制服を身に纏い、制式魔導兵装を腰に佩いている。
「イッチーさんも、お早うございますー」
少女が続けて挨拶をしたのは、エイミーの隣で彼女の手伝いをする、準隊士の男だ。
正隊士とは異なり、準隊士では制服はあるが、制式魔導兵装は支給されていない。
彼も腰には特に武器などは佩いておらず、長杖が傍らの壁に立てかけてある。
「……」
黙って頭を下げる男。
「相変わらず無口だよね、この男は」
この反応の薄さに、エイミーが呆れたように肩を竦めた。
「……」
「いやいや、なんも悪い事あれへんのやから、そないに頭を下げんでもー」
再び頭を下げるイッチーに、返って慌てる少女。
この皆からイッチーと呼ばれている男の寡黙さは筋金入りだ。
巌の如く寡黙な男であり、必要な言葉以外は中々話さないのだから。
しかしこの寡黙な男が、人が嫌がる仕事でも黙々とこなす姿に、街の人々は全幅の信頼を置いている。
それは、このイッチーと言う名前が、何時からか呼ばれ始めた愛称に過ぎず、本名を誰も知らなくとも魔導騎士隊の準隊士に任じられている自体に顕れている。
何しろ街の治安維持を行う仕事だ。先ずは街の人々から信頼されている事が、第一の資質なのだ。
だから、今更彼の仕草をどうこう言うものは、街の何処にも居なかった。
「そんじゃ、開けるよー」
エイミーの声が門扉脇の詰め所の中から聞こえてくる。
「危ないから下がっててねー」
エイミーは詰め所の中にある操作盤を操り始めた。
軽い操作音と共に必要な操作手順に沿って操作を続ける。
「これで良しっと。あとは最後の本人確認だけですかねー」
呟きながら、最後に腰の制式魔導兵装から『雪炎石』を外して操作盤の隣のソケットに填め込む。
この作業を行わないと最終認証を得る事は出来ないのだ。
出来なければ、今までの操作は全て無効になってしまう。
「そ~んな面倒くさい事はゴメンだよ~っと」
エイミーの操作によって、軋んだ音一つもさせず門は開かれてゆく。
もしこの街が街道の要所であれば、朝一番で街入りをする商人で門の前が溢れかえる事もあろう。
しかし、残念ながらこの街では中々見る事の出来ない光景だ。
現に今日も門の前に居た商人は、五組程度である。
尤も、これでもこの街では珍しい光景だった。
少ない時には0組―――つまり開門待ちをしている商人が誰もいない、なんて事も珍しくないのだから。
「ほな、ちゃっちゃと日課をこなすとしますかー」
持参の箒で、南の門の周辺の掃除を始める少女。
―――ザッ、ザッ、ザッ
―――ふ~ん、ふ~ん、ふ~ん♪
箒の先端が石畳の上を掃く音にあわせ、即興の歌を口ずさむでいると、彼女の箒の先端に人影が差し込んだ。
「……あのぉ、少々宜しいでしょうか」
「はい? 何でしょう」
返事をしながら顔を上げると、そこには年若い商人であろう男性が、頬を人差し指で掻きながら立っていた。
その顔に少女は見覚えがあった。
―――この人は確か、一番初めに通行手続きを受けとったお人やったねぇ
「この街の御領主様の御屋敷の場所をお聞きしたいのですが」
「御屋敷……ですか?」
それなら手続きの時に、隊士に聞けば教えてくれる筈だ。
そう思い、少女は門の隣で通行手続きの処理を行っている筈のエイミーを見る。
だかそこには、片手を顔の前に立てて片目を瞑っている姿があった。
その動作の意味するところは
『ゴメン、手が回らない、悪いけどそっちでなんとかして』
である。
実際、目の前の青年商人の次に手続きに入った者は、色々と問題のある人物らしく、準隊士であるイッチーも加わって対応していた。
「しゃあらへんねぇ。……にしても、どないして領主の館に行きたいのん?」
溜息一つつくと、少女は青年の方に向き直り尋ねる。
隊士であるエイミーが許可したのだから、不審人物と言う事は無いであろうが、理由も聞かずに領主の館へ案内する訳にもいかない。
「わたくし、この街に商売で初めて訪れたのです。それで商売をするに辺り、事前に御領主様にご挨拶をしたい思いまして」
つまり、商売上の根回しと言うことだ。
だったら案内しない訳にもいかない。
「そーでしたか。ほな、案内しますよって行きましょか」
青年の訪問理由を確認した少女は、付いて来て下さいとばかりに先導して歩いてゆく。
青年の方は、ただ教えてくれるだけかと思っていたのか、さっさと歩き始めた少女の行動に面を喰らった後、小走りで少女の後を追い駆けていった。
暫く街の石畳の上を進んで行くと、道の両側に立派な建物が増え始めてきた。
そして、その先の一際大きな建物が、この街の領主の館である。
「あのー、ご存知なら教えて頂きたいのですが……」
「はい、なんでしょかー。お答え出来ることならお答えしますがー」
「この街の御領主様は、いつもは大体何時頃から職務を始めるのでしょう?」
「と、言いますと?」
「いえ、以前の街では御領主様に謁見を求める手続き自体が昼過ぎからだとか、そういうところもありまして」
本当のところは、場所と受付時間さえ判れば、身なりを整えた上で再度訪問しようと、青年は考えていた。
何故なら、現在の青年の身頃は旅の汚れと砂埃が服に付着し、手土産すら体裁を整えていない。
少なくとも、身分が高い方に謁見を求めるというには、あまりに無理のある状況だ。
だから少女が、街の門前の清掃と言う仕事を放り投げ、彼に対して道案内を買って出てくれた事は嬉しいが、正直話が進みすぎて段取りが間に合わず困っていた。
「あははー。心配せんといて大丈夫ですよー。この街の領主の館の朝はめっちゃ早いですからー」
自分の服装の汚れについても心配している事を告げても、少女は「大丈夫やー」と太鼓判を押してくる。
「そうかい?随分と立派な御領主様なんだね」
自らの身分に胡坐を掻かず、惰眠を貪らないと言うのは、人の上に立つ者の資質の一つともいえる。
少なくとも青年は、そのように考えていた。
いずれ自分が人を雇う身と為れたら、そうあろうとも考えている。
「そないな事無いですよー。単にこの街が田舎なだけですからー」
住人の例外無く朝が早いだけですよ、と朗らかに笑いながら告げる少女に釣られ、青年の口元にも笑みが浮かぶ。
少なくとも、このような街の少女にまで、領主が身近で信頼される存在であると言う事が理解できたからだ。
それもまた、人の上に立つ者の資質であるとも言える。
「それよりも、そちらの方が立派やと思いますよ?」
「―――そんな事言われたは始めです。一体何がです?」
「こんな小娘相手に、一度足りとも上から目線で話をせえへんやないですかー」
「あ、ああ。その事ですか。一応誰にでも教えを請う人には、応じた態度で望むべきというのが商売の先生の教えでして」
「立派ですねー」
「えぇ、本当に立派な先生です」
―――いや、貴方の事なんやけどね
少女は心の中で呟いた。
そんな事を話しているうちに、二人の目的地である領主の館に辿り着いた。
それは、白亜の壁に赤の装飾で彩られた、一際目立つ建物。
しかし目立つ割には、下品さが一切感じられない。むしろ重厚ささえ感じさせる、華美と伝統が両立する建物であった。
「ここが領主の館ですー。ほんでこっちが正門やね」
少女はすたすたと正門の方へ近づいてゆく。そして開け放たれた門を抜け、庭を抜け、立派な扉の前まで青年を案内した。
「ほな、ここからは商人の兄さんの腕の見せ所や。頑張ってなー」
「ああ、ここまでの案内ありがとう」
「ほな、またなー」
「ああ。そうだ、お礼に―――」
青年に軽く手を振ると、少女は庭を抜け門を潜り、外に出て先程とは逆方向に小走りで去っていった。
お礼を渡そうと鞄から小物を取り出した時には、既にその姿は見えなくなっていた。
―――きっと、自分の道案内で随分と時間をくってしまったから、次の仕事が詰まって忙しいのだろうな。
青年は彼女の行動をその様に捕らえた。
「またなー……か」
この街では珍しくないのか、変わった話し方をする少女の再会の約束に、軽く肩を窄める。
「まぁ、社交儀礼か」
実際問題として、彼女と再会できる可能性は限りなく低いだろう。
まぁ、その低い可能性で再開出来るようなら、こんな間に合わせの品では無く、お茶の一つでもご馳走する事にしよう。これからの結果を肴に―――
「―――いかん、いかん。その為には、これからどうするか決めなくては」
そしてこれからの自分行動について考える。
このまま領主の館を訪ねるか
場所が判った事を幸いとして、改めて尋ねるか。
進むか引くか、拙速か巧遅か―――
「まぁ、考えるまでも無いか」
そう、ここまで来てしまった以上時間を無駄にしない為には、やる事は決まっている。
「先ずは一当たり、だな」
青年は、そう結論を出した。
少女の言を疑う訳では無い。しかし、領主の館の受付が自分の見た目で断わる様であれば、それも領主ついて判断する為の重要な判断材料を得られるのだから。
「それでは、この部屋でご準備をお願い致します」
突貫してみたものの、青年の予想を大きく外れ、謁見の予約受付どころか、謁見にまで事が進んでしまっていた。
その上ご丁寧に、案内された部屋には湯を張った桶と、手拭とブラシまでもが用意されている。
これは、『謁見前に顔や手足の汚れを拭取り、服にブラシをかけて埃を落とすように』と言う事であろう。
「一体なんなんだ、ここの領主は」
一介の商人、それも大きな実績のある訳でもない商人相手に行う支度では、決して無い。
だが青年は気を持ち直した。
「不安は知識の不足に過ぎず、知識の不足は行動の不足。即ち先ずは行動あれ―――か」
青年が師事した商人の教えの一つだ。
であれば、やるべき事は一つ。謁見に望む事だ。臨機応変に為るが、商売なんてものがそもそも臨機応変なのだ。根拠の無い予想に基づいた計画など、無い方がマシである。
「準備は整いましたでしょうか」
この部屋まで案内してくれた女性の使用人が、合図と共に扉の向こうから青年へ声をかけてきた。
青年は自らの身頃を再確認すると、「終わりました」と返答する。
すると、先程のこの部屋へ案内してくれた使用人は、扉を開き部屋の中へ一歩踏み込むと、部屋の中央に居た青年に告げた。
「それでは、謁見の間までご案内いたします。どうぞ、わたくしの後をついて来て下さいませ」
「こちらで少々お待ちを」
使用人の女性が案内した先は、謁見の間と言うには少々小さな部屋だった。
もっとも彼が宿で寝泊りする大人数用の大部屋よりもは、広かったが。
広く四角い部屋の一面は、大きな硝子の窓が面積の殆どを占めていた。
そして硝子窓を超えて観得るのは、部屋の向こう側に配された立派な庭園と、その先にある陽光を反射して煌く広大な湖、そしてその向こうに聳え立つ山頂に白き雪を冠る畏怖堂々とした山脈の姿であった。
青年は、余りにも素晴らしきこの景観に、暫し飲み込まれていた。
青年が呆然と、窓の向こうの景色に見蕩れていた時間は幾ばくかのものであっただろうか。
「お待たせ致しました」
突如、彼が入室した扉とは別の、右手方向の壁に設けられた扉が開いた。
入ってきたのは、先程の使用人。
彼女は扉を開ききると、その扉を背にこちらへ体の正面を向けて立ち、その場で控えた。
そして、彼女の後に入室してきたのは、高齢の男性である。
その顔には、長き歳月を積み重ねた皺が無数にあれど、その目からは揺るぎない強烈な意思の光が覗いていた。
「先ずは謁見をお許し頂き―――」
青年は慌てて老人へ挨拶の言葉を述べようとする。
しかしその行動は、女性の使用人が青年へ向けて伸ばした手によって、止められた。
―――何故?
青年は女性の行動に疑問を感じたが、その答えは直ぐに得られた。
老人もまた、女性とは反対側の扉の脇に控え立ったのだ。それはつまり、老人は領主ではないと言うことを示す。
そして老人に続き部屋に入ってきたのは、煌びやかなドレスを纏った、一人の女性。
背中に腰まで伸ばした美しい金髪と黄金色に輝く瞳が、余りにも印象的な貴婦人であった。
先程の窓の向こうに見えた光景を観た時と似た衝撃を受けた青年であったが、流石に一日に二度目の衝撃である。多少は耐性が付いたのか、すぐさま自らを奮い起こし、貴婦人へ向かって挨拶の言葉を述べようとした。
しかし、青年の言葉は、その貴婦人によって再び止められてしまった。
彼女が直接的に青年に何かをした訳では無い。
単に彼女が青年に話しかけただけだ。
だがその言葉―――いや、正確にはその声を聞いただけで青年の行動は止まってしまったのである。
―――その声は!?いや、まさか―――
「ようこそ、森と湖の街、ティファールへ。私達は貴方を歓迎致します」
そう。この声の持ち主は、青年をここまで案内してくれた街娘の声であった。
三度茫然自失の状態へと陥った青年に、目前の貴婦人は悪戯せが成功した事を喜ぶ子供のような笑顔で、青年に告げる。
「また、お会いしましたね♪」