三話:『お忍び』
ぽたり、と朝露が青年の肩を濡らす。雫を受けた格調高い黒の執事服は、顔を出したばかりの朝日と相まって硝子のようにきらきらと煌めく。下草を踏みしめる靴は特に何の加工もされているわけでもないのに、険しい道程を軽々と越えていく。
「……ふぅ。大分登りましたね。……匂いもしてきたようですし、もうすぐそこなのでしょう」
彼が今登っているのは、ドラゴニア山脈と呼ばれる山脈の内の一山。険しい山道が続く、登山するにはかなりの労力を要する山だった。もちろん、燕尾服や皮靴などの装備で登れるような山ではない。どころか、完全武装していても登頂成功確率は極めて低い。
そんな山を、順路から外れて、麓から一直線に山頂を目指しているのが、この燕尾服、見方を変えれば執事服を着た青年である。額に汗を滲ませているが、その柔和な笑みは決して絶やさず、黙々と山を進んでいった。
不思議なのは、彼の足元から立ち昇ってくる芳醇な香り。鼻孔をくすぐるその匂いは、長年熟成されたワインの様でもあるし、濃厚なチーズの様でもある。
別名『パフューム山』。そのまま匂いの山である。空気の比重よりも重い匂いが山にたち込めており、地面を踏み鳴らすたびに足元から臭いが立ち昇る。それ故に、かなりの難所にも拘らず、かなりの愛好家がいることでも有名だった。
青年は、その中でも特に強い匂いを辿って山頂を目指していた。
「伝説の茶葉ですか。きっと、御嬢様もお喜びになるでしょう」
青年は全身に風を受けながら、ひたすらに頂上を目指す。その走行は既に常人のそれではなく、むしろ砲弾の様だった。一足で傾斜三十五度ほどの斜面を十メートル以上登って行く。
その速度のまま、頂上を突っ切った。
大空に投げ出された体を調節しながら、綺麗な着地をしてみせる。
「……いっぱいですね、茶葉」
山頂に広がる広大な窪地、とでも形容すべきなのだろうか。パフューム山は活火山でも旧火山でもない。大陸同士の衝突で隆起した造山帯の一角の一山である。風雨で削られたのか、それとも最初からこうなのかは分からないが、いずれにせよここは窪地で芳醇な香りを漂わせる茶葉が所狭しに植生していることだけが重要だ。
この茶葉を求めて、歴史的な貴族の名手が多額の費用を費やしてこの山を登らせたらしいが、その中で生存して帰還した者はほんの一握りらしい。
青年はそんな歴史的なことを思い出しながら、さっさと茶葉を集めることにした。ちなみに、ここにある茶葉を平地に持ち帰っても栽培は出来ない。気温や気圧の変化はもとより、それ以外の条件も必要らしい。
彼は白い手袋をはめたその手を、茶葉の新芽が生い茂る茂みへと伸ばした。
そのとき、雷鳴のように轟く重圧な咆哮が、いくつもの剣峯が連なるドラゴニア山脈に響き渡った。
ある文献によると、ここは『とある竜種』の棲みかであり、それ故に幾千もの人間が登頂に失敗しているのだと、成功しても巣を荒らしたことにより竜の怒りを買って滅ぼされただとか。
「ゴォオォオオオオオオオオオォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオッ!!」
赤褐色のその巨体はゆうに十メートルを越えていて、両側に広がる巨翼は大空を力強く叩く。鋭角的なそのフォルムは天空の王者と形容するに相応しい威厳を湛えていた。四本の足はこの窪地で動きやすいように若干短めだが、そこに貧弱さは感じない。
全身を翼から巻き起こされる風圧に叩かれながら、青年は表情を変えず、柔和な笑みを浮かべたままだった。
「パフュームドラゴン……この山の主ですか。流石、ドラゴニア山脈と名がつくだけのことはありますね。一山に一頭ですか」
『竜の聖地』。このドラゴニア山脈の別名だ。冒険者の間でもかなり難度の高いフィールドであることが知られている。
だが――青年にとっては関係が無い。
「とにかく、少しの間眠っていただきましょうか。茶葉、いただきますよ」
彼は、柔和に微笑んだまま――戦闘態勢に入った。
その瞳に自信などなく、不安もなく、驕りもなく、焦燥もない。
ただ単純な、『笑み』が溢れだしていた。
剣の切っ先の様に洗練された竜の鱗が青年の頬を掠める。大気を切り裂くそれをギリギリのところで避けた、と思っていた青年だったが、頬が結構深く抉られる。どろりとした液体が溢れるのを感じながら、初めて笑みを崩し思案気な顔になる。
(……なるほど、力ずくで起こした『真空波』ですか)
しかし、パフュームドラゴンはそのことを考えて攻撃を行っているわけではないのだろう。圧倒的力に伴って排出された、余過剰分の攻撃に違いない。だが、攻撃力は侮れない。
高速で繰り出されるその一撃は、最初から長い射程範囲を更に広くさせていた。青年はその回避行動を、見た目の攻撃範囲より大きくとらなければならない。
「ガァッ!!」
「フッ」
短く息を吐きながら、その攻撃の一つ一つを丁寧にかわしていく。しかし、劣勢に立たされているのにも拘らず、青年の瞳には焦燥といった諸所の感情は漏れだしてこない。柔和な笑みこそ浮かべ切れていないものの、あえて残している余裕は消えていなかった。
青年が芳竜の縦に振り下ろされた一撃を後ろに飛ぶことで避ける。すると、いとも簡単に半径二メートルほどのクレーターが形成され、地面が大きく吹き飛んだ。
――青年を巻き込んで。
「しまッ」
宙に土砂とともに投げ出された青年はなんとか体勢を立て直そうと身体を回転させるが、それよりも速く、芳竜の一撃が彼に狙いを定める。
その長い尾を鞭のようにしならせ、身体全体を回転させての鞭尾攻撃。その攻撃を、防御を取ることしかできず、そのまま直撃した。
「グッ……フッ!?」
砲弾の如く地面へと飛んだ青年は、硬い岩に大きな亀裂を生じさせ、やっとのことで止まる。
どうやら衝撃を幾分か逃すことに成功したらしく、骨は折れていないようだった。
「やはり、竜種は強いですね」
青年は喉の奥からせり上がってくる鉄臭い液体を飲み込み、眼前の邪魔者へと視線を向ける。芳竜は勝鬨の咆哮を上げずに、重厚な唸り声を山間に響かせていた。
知能が高い、ということはすぐに気がつく。
だが、それでもいきなり攻撃を仕掛けてきたのには、訳があるはずだ。もちろん、その大分けの中には青年が縄張りに侵入したことも含んでいるだろうが、それならばここから追い出すだけで事足りるはず。
生物の気が異常に立つ原因として挙げられるは、そう多くはない。
獲物が少ないか、発情しているか――それとも……。
「まあ、そのことについては、茶葉の採集が終わってからにしましょう」
青年はボロボロになった執事服を手ではたく。いくつもの裂傷が生まれた身体から血が滲んでいるが――そうするだけで見た目は元の通りになっていた。まるで、はたいた部分だけ時間が逆流したかのように。
その勢いで、最初に切り裂かれた頬も撫でる。しとどと漏れだしていた血液も、その流れを止めた。
数秒の後、最初と変わらない青年の姿がそこにはあった。
「執事にとって、身だしなみというのは大事なことです。決して、自らの主にあられもないような姿を見せてはなりません。それが、執事にとっての大原則の内の一つですので」
この期に及んで、体面を気にする青年は、ニッコリ柔和な笑みを浮かべる。
そして、今度は何の構えも取らず、無型のまま芳竜へと一歩歩み出る。
「どんな状況でも、自らの主を御守りする。故に、型に嵌った行動は慎む。私情を挟むなどもってのほか。――では、反撃です」
全身に力を漲らせ、一直線に四足で立つ芳竜のもとに突き進む。しかし、油断していたならともかく、まったくもって警戒を解いていなかった芳竜はその突進を許しはしない。横に広げれば三十メートルは超える巨翼で前面の大気を力強く叩いた。
そこから巻き起こされる風圧は、まさしく嵐のそれ。
だが、それでも青年の動きを阻害することはできない。嵐の如く吹き荒れる乱気流の中、青年の突貫は迷いなく前へと突き進んだ。
芳竜はそんな彼に怒涛の連撃を繰り出す。見えない真空の刃が青年の進行方向全域に網のように降り注いだ。
その刃を――同じ刃で打ち消す。高速で振り抜いた右足から放たれたそれは、芳竜の放った刃と衝突し、僅かな道を作った。そこを、一気に加速して通り抜ける。
刃の壁の向こうには、攻撃を放ったばかりで隙だらけの芳竜の顔面があった。
接近する両者の距離。青年は身体を独楽のように回転・加速させながら、遠心力を高める。
そして――――
「おやすみなさい」
四足獣の頑丈な脳をも揺らす一撃が顔面に放たれ、十メートルの巨体が左へ右へと揺れ、鋭い眼から光が消えていく。青年が地面へと着地すると同時に、芳竜の体は地面へと崩れ落ちた。
青年は勝ち誇った様子もなく、ただ、柔和な笑みを浮かべてその光景を見つめていた。
「これだけあれば十分でしょうか? ふむ、まあ、飲みすぎも体に毒ですし、必要とあればまた採集しに来ればいいわけですしね」
青年は持ってきていた籠いっぱいに茶葉を放り込むと、満足げに頷く。
籠を背負うと、芳竜の方を向き直る。
そこには、朦朧とする意識の中、どこかを目指す『彼女』の姿があった。
芳竜が目指す場所を直線で結び、そのずっと先を目で追っていくと――まだまだ人間よりも小さな幼竜の姿があった。
餌に困っているわけでもなく、発情しているわけでもないのに、知能が高いはずの竜種が攻撃を仕掛けてくる理由はさほどない。そして、現在の季節を鑑みれば、それは自明の理だと言えるだろう。
子育て。生物として一番気が立っている時期である。人間以外の生物では、今の季節――春先に子育てを始める。餌も豊富にあり、気候も安定しているこの時期に。
芳竜はまだ視界が揺れているのか、がくがくと体を揺らしながら幼竜のもとへと向かう。
青年はその光景を見て、ニッコリと微笑む。
「いや、本当にすみません。子育てを邪魔立てしまって」
全身に力を漲らせ持ち上げると、ずしんずしんと軽くはない音を立てながら、幼竜のもとへと成竜を送り届けた。
小さな幼竜が三頭、雛鳥のようにピィピィと鳴いていた。その傍らへと、ゆっくりと下ろした。
「縄張りを荒らしてしまって、すみませんでした。出来る限り整えておきますので、ご容赦ください」
そう言うと、青年は完璧なお辞儀をしてみせる。
そして執事服のジャケットを浅く動く芳竜の背中に、「少し、預かっていてください」と乗せると、ネクタイも緩める。
「一応、庭師としての訓練も受けておりますので、僭越ながらこのロード、お庭直しさせていただきます」
そう。
とある御嬢様に仕える執事は、器用だった。
◇◆◇◆◇
視線の先で、ロロが紅茶を口に含んだ。
「……味が違うわね」
「パフューム山で取れる茶葉を使用した最高級品でございます」
「そう」
ロロはロードの言葉に特に関心も見せず、紅茶を口に含む。
ことっ、とティーカップを机の上に置くと新緑を運ぶ春先の風が、庭の芝生を撫で、ロロの髪をさらった。
それが皮切りとなったのか、彼女は口を開く。
いつもより若干重めの声で。
「お前は、私が休めと言ってあげた休日に、あのドラゴニア山脈に登ったと。そう言っているのね?」
ロードの額に冷や汗が浮かぶ。
これは非常に拙い展開だ。本能が警鐘を鳴らしている。
彼はつい、滅多にしない言い訳をしてしまう。
「い、いえ。それは知り合いのツテを使いましてお安く仕入れ」
「ロード」
「はい」
「私、嘘は嫌い」
「……すみません」
ロードはうな垂れた。
まさかこんな形でロロの怒りを買おうとは、思ってもいなかった。
いや、これは自分の責任だ。
彼女の世話をしてそろそろ二年になろうとしているのに、そんなことも分からないなど、執事の資格すらない。
思考がどんどん溝にはまっていく。
そんな彼に追い討ちをかけるかのごとく、ロロは口を開いた。
「私の休めという命令に逆らった。二年前の誓いを忘れた、だなんて言わないわよね?」
十四歳になったロロの言葉は、子供らしさが薄れ、鋭さを持ってロードの心を抉る。
「罰として、今度王都を案内なさい」
「……はい?」
下された罰はとても軽かった。いや、彼女の身分を考えれば軽々しく王都を案内できるわけも無いのだが。
お前解雇、と言われるよりは天と地ほどの差があるだろう。
「承知しました。お嬢様がお楽しみ頂けるよう、最高の警備をしいて」
「何を言っているの?」
思考は既に今度のお忍び旅の警備にいっていたロードを、ロロの冷めた声が引き戻す。
「お前一人で私に着いて来るのよ。ぞろぞろと護衛の者を引き連れてたって、気分は上がらないでしょう?」
「し、しかし、お嬢様の安全を考えれば」
「ふうん。お前は、自分ひとりでは私を守れないというわけ? そんな執事を雇っているつもりはないわよ?」
「うぐぅ」
プライドの問題だ。
はっきり言えば、自信はある。つきっきりであれば、余程のことが無い限り彼女を守りきる自信が。
しかし、一つ懸念がある。
半年前からラフィールに言われ続けている、分家の動きというやつだ。
警告され続けてはいるが、一向に何かが起こる気配すらないのが逆に不気味だ。
もうすぐロロも成人になる。分家としては焦っている頃だろう。
だからこそ、用心が必要なのだ。追い詰められた鼠は、自分より何十倍も大きな動物に噛み付くことすらある。
それで何度も痛い目に遭ってきたロードとしては譲れないところでもある。
しかし、出来るだけ彼女の望みを叶えてあげたいというのも、偽らざる本心だ。むしろそれが出来なくなったら自分の存在価値が無くなる。
「……お嬢様。では、侍女のアニスを同行させてはいかがでしょうか?」
「別に、かまわないわよ」
「寛容なご決定、ありがとうございます」
深く礼をする。
アニスとは、一年前、ラフィールを経由して雇われた侍女である。
戦闘力も高く、魔法もかなり使いこなせるので臨時的なロロの魔法の教師になっている。
同じ年頃ということで、ロロも普通の教師よりもおとなしくしていた。その成果あって、下級魔法から中級魔法までをたったの一年で網羅して見せた。やはり才能はあるのだ。
「お嬢様、勉学の方はご調子はどうでしょうか?」
「まあまあよ。思ったよりも簡単だから、不満もないわ」
あり過ぎるのも恐ろしいものだ。ロードはロロの物言いに底知れぬ才能を感じ、少しだけ戦く。
「ロード」
「はい」
「お前は何か好きなものあるかしら」
「我が心はお嬢様だけのものです」
「気障ったらしいことはどうでもいいわ」
「お嬢様の笑顔」
「お前、覚えたてで加減のつかない雷魔法を喰らいたいのかしら?」
「むしろお嬢様の実験体になれるなど本望としか」
「~~~~~~ッ!!」
ロロがティーカップを振り上げたのを見てやりすぎたことを後悔する。
眼前に迫る紅い液体。
ロードは急いで魔法の呪文を唱えた。
――心頭滅却。
やせ我慢という、偉大な魔法を。
ロードは頭から被ったいい匂いのする紅茶をハンカチで拭いながら、
「はい。僕は食べ物ならば何でも大好きでございます」
「そう、分かったわ。そう言えばロード、ウォルターがお前のことを呼んでいたわよ」
新しく注ぎなおした紅茶を口に含みつつ、ロロは言った。
執事長であるウォルターが自分を呼びつける理由といえば、やはり仕事関係、あるいは修練についてのことぐらいだ。未だ一本も取れないのが悔やまれる。
「しかし、お嬢様のお側を離れるわけには」
「アニスを呼んできなさい。余程のことが無い限り、アニスで事足りるのだから」
「は、はい……」
後輩に追い抜かれようとしている。そんな危機を感じたロードは、これからはちゃんと自制しようそうしよう、と決意する。なんとも軽い決意だ。
腰を折り、その場を後にする。
「……もうすぐ二年か」
小さな少女の小さな呟きは、ロードの耳に届きはしなかった、
「アニス、ちょっと」
「なに? ロードくん」
ロードは山と積まれたシーツをせっせと運ぶ灰髪の少女を呼び止めた。
アニスと呼ばれた少女は、身体が隠れるほどのシーツを持ったままよたよたと振り返り、ぼんやりとした灰色の瞳がロードを捉えた。
「お嬢様がお呼びです」
その言葉に、アニスの無表情に徹底された顔が、にんまりと歪む。
「ついに下克上」
「ま、まだだ、まだ終わっちゃいません」
「無駄な足掻き。ふふ」
「くッ」
最近後輩に舐められて困っている。教育的指導が必要なのだろうかと本気で悩むこの頃だ。
「じゃあ、これ」
アニスはシーツを渡すと、軽い足取りに鼻歌交じりでロードが来た道を戻っていった。
「はぁ」
残されたのは、大量のシーツと、うな垂れるロードだけだった。