策略
戦国小説の連作。時間的には斎藤道三の娘帰蝶が、織田家へ嫁ぐ前です。
「聞いたぞ帰蝶!」
美濃の稲葉山城。
廊下にどかどかと大きな足音を鳴らし、斎藤義龍が妹帰蝶の部屋を訪れたのは、帰蝶が尾張へ嫁ぐ10日程前の事だった。
「何事ですか、兄上」
帰蝶はじっと見ていた碁盤から顔も上げずに長兄に聞いた。義龍はやれやれ、と思う。この妹は何時もこのようだ。碁石の黒と白を交互に並べていく様子を見ていると、どうやら自らと自らで対戦していたらしい。
義龍には妹が3人あるが、いちばん上の妹であるこの帰蝶は、大層変わっていると義龍はよく感じる。例えば、女子があまり好まぬ戦術の書物を読み耽ったり。例えば、薙刀だけでなく剣術の稽古にも精を出したり。例えば、男の格好をして、城下へ馬で駆けて行ったりもする。
「尾張のうつけへ嫁ぐと言うではないか!なぜわしに黙っておった!!」
「今の時代、政略なぞ当たり前の事ではございませぬか。そのように騒がれますから、兄上には黙っていたのです」
ぐうの音も出ない返事に、義龍は一瞬虚を突かれた。義龍がどれだけ声を荒げても妹は此方に視線一つ寄越そうともせず、目の前の基盤に集中している。かっとなった義龍は帰蝶の目の前にあった碁盤を蹴り飛ばした。
「兄上……、これでははじめからやり直しではございませぬか」
「帰蝶!そなた、わしの話を聞いておるのか!」
目の前で行われた乱行にも眉毛一つ動かさず、散らばった碁石を一つ一つ拾い集める帰蝶の手を、義龍は乱暴に掴んだ。
「何を致すのです」
帰蝶の傍に控えていた侍女も、相手が主君の兄であり、斎藤家の嫡男とあっては声も出ない、手出しもできない。何より相手が恐ろしい。
「あのようなうつけに嫁ぐのか!」
「わたくしは信長殿にお会いしたこともないのです。まだ本物の“うつけ”と決まった訳ではございますまい」
帰蝶の反論が正論であったために義龍はいや怒りが増した。
「うつけと他国にまで噂が回ってきている男に嫁ぐのだぞ!なぜそのように落ち着いていられるのか信じられぬ!」
淡々と話す妹であるが尾張の情勢は不安定だ。織田信秀が勢力を強めてはいるが尾張の統一は成されていない。その信秀の嫡男が帰蝶が嫁ぐ信長だが、うつけとの評判は稲葉山城下にも広まっている。そのようなところへ妹を嫁がせるのだ。帰蝶が落ち着いている理由もわからないし、父道三の考えもわからない。義龍の苛立ちは増すばかりだった。次の、
「もし本物のうつけならば刺すまででございます」
という、妹の冷酷な声を聞くまでは。
「……帰蝶?」
義龍の怒りは一挙に冷めた。妹の声の方が遥かに冷えていた。
「わたくしは美濃の為に嫁ぐのでございます。信長殿が美濃にとって有益であれば各段の事はございませぬが、もし誠のうつけであった場合、美濃の為に消えていただく。それだけのことでございます」
――勿論その時にはわたくしの命もございませぬが。帰蝶の言葉に、義龍は何も返せなかった。
恐ろしい勢いで部屋に来た割にはあっさりと引き下がった兄の背中を見送ったあと、帰蝶は再び碁盤に向かった。最も集中でき、頭を空にできるのが帰蝶にとっては囲碁だった。一切誰とも打たないという訳では無いが、部屋では基本的に一人で打つ。
「甘い考えでは、この戦の世は渡っては行けぬ……」
やはり兄は甘いのだ。いくら乱暴者で通っていても、真の乱暴者ではない。父道三には劣ると帰蝶は思う。胸中に隠された短剣。美濃の為にならなければ信長を刺すと、宣言したのは帰蝶の方であった。
「そなたの命もあるまい」
冷静に言った父。
「そうでありましょう。しかしわたくしは美濃の人間にて」
帰蝶の返答に道三は何も言わずに頷いた。帰蝶の考えを了承したということだ。美濃の為ならば娘の命も惜しまぬ。その冷酷さが父にはある。そして帰蝶にも。だが義龍はそうではなかった。
嫁いでも実家の人間と思われるこの時代、嫁ぐ相手の性質よりもまず自分の国のためになるかどうかを考えねばならぬ。帰蝶の信長との縁談は、美濃が尾張を手中に収められるか見極めるためには、まさしく絶好の機会であった。尾張は未だ統一がなされていない。信長を手にかけた後、美濃が尾張を手中に収められるのは恐らく今しかない。
帰蝶は心配して寄ってきた侍女たちに、
「兄上もわたくしの身を案じての事じゃ、そなたらが騒いではなりませぬ」
と優しい口調で諭して退がらせてから、さらに新たな棋譜を造り出していくことに精を出した。不要な考えを追い出すのに、囲碁は、帰蝶にとっては何よりも有効であった。
そもそも帰蝶は、信長が真のうつけだとは端から信じていなかった。今回の縁談は織田側から持ち込まれたそうだが、元服しているはずの信長は日々を戦ごっこに費やしているという。
帰蝶には、それが単なる遊びとはどうしても思えなかった。毎日毎日繰り返される戦ごっこ。ただの戦ごっこにしては羽目を外しすぎるきらいがあるという。南蛮伝来の鉄砲を使った戦ごっこの噂を聞いたとき、帰蝶の予感は確信に変わった。
恐らく信長は、来るべき日の為に自ら学んでいるのだ。だからうつけを装い、日々戦ごっこを繰り返している。そうすれば周囲の国も油断するであろう。いざとなれば尾張の織田信長に、日本全土の大名がひれ伏すかもしれぬ。帰蝶はそこまで、信長という人間には大器があると読んでいる。
信長が父道三と、ひいては美濃と和睦の関係を結ぶつもりであれば、帰蝶はそのまま尾張に居続ける積もりであった。政に対しては熱心であるが、気性の荒い長兄とはどうしても気が合わぬ。
但し信長が噂通りのうつけであったり、いずれは美濃を攻略する心積もりであったりすれば、帰蝶は婚姻の晩に信長と刺し違える覚悟であった。織田家の嫡男の命を奪った人間が生き延びられるはずがない。また生き延びる積もりもない。
尾張の織田信長との婚姻が決まった時点で、既に帰蝶は覚悟を決めていた。織田家と命運を共にするか……、または美濃のために散るか。
重すぎる覚悟を密かに背負って帰蝶が尾張に旅立ったのは、この12日後の事であった。