第十一話 幻影と正体
火花を散らす意識、ぶつかり合う殺気。直人たちの気迫と先生の威圧が渦巻き、部屋を異質な空気が流れている。一触即発、剣劇が始まってもおかしくない。
「行くぞ! 援護してくれ!」
「オッケー、任せなさい!」
直人は姿勢を低くし、足に力をためる。その脇でココナが弓を引いた。弦がきりきりと音を鳴らし、弓が張り詰める。
「加速眼!」
瞬間、世界が止まる。極限まで鈍化された世界の中を、直人が駆け出す。その後を矢がするすると追いかける。直人の刃が閃き、先生の肩口に斬りこんだ。その後を追い、矢が先生の額に殺到する。先生は血をふき、倒れるかに思えた。されど――
「いない!」
刀と矢は宙を切った。直人が見ると、先生はわずかにずれた場所に立っている。まったく見ることができなかった――感情を驚きが支配する。
「クッ!」
焦りに任せ、次々と切りつける直人。しかし、先生の身体は斬った頃には別の場所に移動している。さながら闘牛士のマントのようだった。当たりそうなのだが、その実まったく当たらない。
「当たらない……!」
直人は一旦、加速を解いた。限界時間までまだかなりあるが、ここで切り札を使い尽くすわけにはいかない。彼はバックステップで先生から遠ざかると、ココナの隣まで移動する。二人はひとまず扉を押しあけると、廊下へと飛び出した。先生もその後をゆっくりと追いかける。
「ここは長期戦で行くぞ。体力の配分に気をつけてくれ」
「そんなこと、言われなくてもわかってるわよ」
ココナの手から、次々と矢が放たれていく。放たれた三本の矢。それらはヒュルヒュルと音を立てながら、連続して正確無比に先生の元へと殺到した。その間、わずか数秒。しかし先生は矢をすり抜けるようにして避けると、一足で直人たちとの距離を詰める。息つく間もなく、直人たちの眼前に刃が迫った。
「痛ッ!」
「クゥッ!」
直人たちの身体を、痛みの電撃が走る。白刃は彼らの身体を容赦なく裂いた。幸い急所には当たらなかったものの、HPバーがかなり持っていかれる。長かったHPバーは、ガクッと減少した。直人が確認すると、今の一撃で二割は持っていかれたようだ。攻撃速度と比較して、信じがたいほどの攻撃力――直人の背中から汗が噴き出す。
「クソッ! やばいぞ!」
二人は体制を立て直すと、攻撃の回避を始めた。彼らの眼前を先生の繰り出す刃が次々と通り抜けていく。二人は攻撃を一切やめた。そうして回避にのみ専念することで、なんとか先生の攻撃を捌いていく。だが、避けているはずなのに二人のHPバーは減少し身体を激痛が走った。さながら、見えない刃が当たっているようである。
どういうことだろうか――直人とココナは感覚と視界が一致しないような気がした。まるで幽霊と戦っているような――そんな気分だ。勝ち目がない、弱い気持ちが二人の脳をにわかに満たす。若干だが心が絶望に染まりゆく。
「ここは一旦、退くべきか?」
「でもあいつ逃がしてくれそうもないわよ」
ココナの声に、先生は不敵に笑った。逃さない――明確な意思表示だ。直人とココナは顔を見合わせると、そんな先生の方を気丈に睨み返す。気持ちで負けていては、勝てる勝負も勝てない。勝負の基本だ。するとここで、先生の方を睨んだ直人があることに気がついた。身体の割に、先生の影が妙に小さいのだ。先生自身はかなり長身でゆったりした着流しを着ているにも関わらず、影は隣にいるココナとほとんど大きさが変わっていない。直人は思わず、ハッと息をのむ。
「ココナ! あいつの奥のあたりに矢を当てられるか?」
「できるわよ! でも何のために!」
「いいから、やってみてくれ!」
ココナは戸惑ったような顔をしながらも矢をつがえた。キリリと張り詰めた弓から、ヒョウと矢が飛び出す。一条の光となった矢は、先生の隣の空間へと吸い込まれていった。すると何故か、先生は自分には明らかに当たらないであろうそれ斬って落とす。直人はその瞬間を、加速眼でもって確認した。彼の顔から、会心の笑みがこぼれる。
「やっぱりな! あいつは幻影だ、本体は奥にいる!」
「そうか! だから攻撃とかの感覚がぶれるのね!」
「良く気付いたな、小僧。だがこれならどうだ?」
スウッと先生の身体が中に溶けた。頭上のHPバーも『透明状態』と表示されたきり消えてしまう。辺りには何もないように『見える』空間だけが残された。二人は自身の眼が信じられず、思わず眼のあたりに手をやる。
「嘘……クッ!」
「ココナ! チクショウ!」
ココナの肩から血が噴出する。彼女がとっさに構えた弓が、虚空で火花を散らした。HPバーが一割ほど削られる。見えない殺戮者――先生は遊んでいるようだ。本当は一息で殺せるだろうに、それをしない。直人はココナを自らの後ろに匿うと、神経を研ぎ澄ました。
眼を閉じて視覚を放棄し、聴覚と皮膚の触覚に心を委ねる。見えないものを見る――心の眼を開く。身体に生える体毛の一本一本までが鋭敏な感覚器官となり、空気のざわめきなどをとらえる。心が穢れなき水面のようになった。周囲の微細な変化、そのすべてが己の心の中にも現れる。直人は何か変わった感覚を覚えた。まるで清清しい朝のような――実にさわやかな気分だ。
『スキル:感知の習得条件を満たしました。習得しますか?』
ポーンと響く電子音。まさに天啓だった。直人は眼を開くと、迷わずウィンドウの習得ボタンを押す。瞬間、世界がクリアになる。眼で見えているものと感覚でとらえているものが重なり、視界の中に虚像として映し出された。緑の人影――透明となっている先生の姿。それがはっきりと知覚できる。
人影はサイドステップを踏みながら直人のもとへと近づいて来ていた。油断している――足取りからそれがわかる。直人は刀を鞘に収めた。直人がレベルアップの過程で習得した唯一の攻撃スキル、それを使うために。
人影は直人の動きに一瞬だけ足を止めるものの、すぐにまた彼に近づいていく。見えていない――絶対の自信。それが先生から警戒心を奪っている。一歩、二歩……距離が縮まる。チャンスが迫る。機会はおそらく一回きり。ここで決めなければ、直人たちの負けだ。武者震いか恐怖からなのかはわからないが、直人は震えている手を抑え込み、姿勢を低くする。張り詰める空気、だんだんと大きくなっていく影。そしてついに、影が直人の領域へ――。
「せやあああァ!」
『スキル:居合い斬り、発動!』
光を散らし宙を切る刃。金色の軌道が弧を描き、先生の身体を袈裟に裂く。シュッ――飛び散る血。耳をつんざく甲高い叫び。
先生のHPバーが大きく削れた。居合い斬りは条件が整わない限り出せない、まさに必殺技。その威力はモンスターで言うところのボスクラスである先生のHPをも、いともたやすく削る。消耗した先生は傷口を押さえて後退すると、透明状態を解除した。緑の人影にしか見えなかったその姿が、はっきりとした色彩を持って現れる。
「えッ……」
「何!?」
現れた先生の姿に、直人とココナは眼を剥いた。長く艶やかな黒絹の髪、眼光鋭き紅の瞳。肌は処女雪のように白く、その顔立ちは人形のように整っている。背丈はココナとさほど変わらない程度で、年は十四・五歳だろうか。先生は中年の浪人風の男から一転、美と形容するのがふさわしい少女剣士に姿を変えていた。
「まさかこの姿を見られることになるとはな……。だが、幻影を使わずとも貴様らを倒すことなど易いわ!」
少女らしい高い声で告げる先生。その身体の像がぶれる。刹那、先生はココナの目の前にいた。間に合わない――加速を使ってもまだ及ばぬ。直人の頭が白くなった。すると――
キーン――。響いた金属音、刃が飛来したナイフに弾かれる。
先生は舌打ちすると、ナイフが飛んできた方向をにらんだ。ゆらり――道化師の仮面が廊下の角より現れる。夕闇だ。彼女は口からくぐもった笑みをもらしながら、のっそりと這いよるようにこちらへやってくる。ぽたりぽたり。仮面やナイフから黒紫の血を滴らせながら、死のようにのっそりのっそり……。
「まだ大物がいたのね……。ふふ、あなたはどうやって死にたい? 真っ赤に血まみれ? それともバラバラ? それとも………………跡かたもなく?」
甲高く、どこか調子のズレた夕闇の声。それは地獄から響く悪魔の呼び声のごとく周囲に重く響く。直人は耳から冷たい手を突っ込まれたような、気味の悪い感覚を覚えた。それはココナも同様のようで、耳を押さえて夕闇から眼をそらしている。
さすがの先生も夕闇のただならぬ気配を感じ取ったのだろう。彼女はとっさに、己の傷と夕闇を含めた直人たち三人を見た。そして今日一番となる大きさの舌打ちをする。
「クソッ、どうやら分が悪いようだな! 今日のところはさらば!」
先生は懐から黒い玉のようなものを取り出した。彼女はそれを高く掲げると、床に思いっきり叩きつける。直後、勢いよく煙が広がった。眼や鼻が刺激に襲われ、直人たちはたまらずその場で咳き込み始める。眼も口も、碌に開けることができない。
バリン、とガラスが砕ける音がした。同時に冷たい風が外から吹き込む。風によって煙が払われ、直人たちはようやく眼を開けることができた。するとさきほどまでいた先生の姿がそこにはない。廊下の窓が割れ、ガラスの破片が床一面に飛び散っていた。
『ユニークNPC:先生は逃亡しました!』
「逃げられた!」
響いた電子音に、直人は慌てて窓から飛び出していこうとした。だがそれを、夕闇の手が遮る。
「……いまはそれより、証文を取り返すことが先決」
「あ、ああそうだな」
予想外に理知的な夕闇の意見に、思わずうなずく直人。こうしてとにもかくにも先生との戦いはひとまず終了した――。