第九話 夕闇
街の北西に高い塔がある――。
ダンジョン発見の報告は、朝一番のまだ人影もまばらな時間に飛び込んできた。報告者はレインと名乗るまだ低レベルのプレイヤー。運悪く遭遇した高レベルモンスターから逃げようと無我夢中で走っているうちに、偶然発見したらしい。
この報告にギルドは沸き返った。昨日までの恐慌状態はどこへやら、プレイヤーたちはさっそく塔を攻略すべく行動を開始する。多くのプレイヤーギルドは攻略隊を編成し、次々とレベルアップのためにフィールドへと出かけていく。生産職などの戦闘力がないプレイヤーたちも、これから必要となるであろう薬草などの買い出しへと繰り出して行った。
紅十字騎士団も、多くのプレイヤーギルドと同様に攻略隊を編成することにした。その数三十人。ギルドに登録しているメンバーの半数以上になる。その大所帯をきっちりとまとめ上げるため、環を始めとする首脳陣は今まで以上に忙しくなっていた。何しろ命がかかっている。慎重かつ迅速に事を進めねばならない。
「ルナ、一番パーティーの編成は完了したか?」
「はい、大丈夫ですぅ。マスターこそ全体の編成を決め終わりました?」
「まだだ、だが今日中にはきっちり決める。ディード、アイテム管理はどうなってるんだ」
「もうちょっと待ってくれ!」
ギルドの建物の二階にある、紅十字騎士団の有する個室。かなり広々とした部屋で、大きく取られた窓からは今日も煌々と輝く星空が見える。環たちはその星明りに照らされながら、忙しく働いていた。大きな円卓の上にディスプレイをいくつも展開しながら、彼らはテキパキと仕事を進めていく。決めるべきことはいくらでもあった。休んでいる暇などない。他のギルドに後れをとるな――最速攻略を目指すギルド間の抗争は熾烈だ。それだけ、プレイヤーたちは焦っていた。
マルドゥック社から事前に示されていたβテストの期間は一カ月。そして、EL-Onlineが正式にサービスを開始するのが半年後。攻略期限はとくに定められていなかったが、最低でもサービス開始時点で攻略できていなければ何か起きるのではないか、というのが大半のプレイヤーの予想だ。現実時間とEL-Onlineとの間に時間差が生じているのかどうかは現時点では不明だが、攻略を急ぐに越したことはない。
環たちがそうして仕事をしていると、呼び鈴が鳴った。誰だろうか――来客の予定はない。全員がにわかに作業をやめ、視線がドアに集まった。一番ドアの近くにいたルナが立ち上がり、若干顔をしかめながらドアを開く。すると――
「カズトさん! カズトさんじゃないですか!」
「えーと……君は誰だったっけ?」
「ルナですぅ! もう、今までどこに行ってたんですかぁ?」
「いろいろあってな……」
ドアの向こうにいたのは直人だった。注がれていた視線が、一斉に驚きに染まる。その中でも特に、環は眼を丸くすると安堵と驚きの入り混じったような顔をして彼に詰め寄った。
「どこ行ってたんだ! こっちはお前がPKされたんじゃないかと気が気でなかったんだぞ!」
「PK? そんなもんが流行ってるのか?」
「ああ、ここ二日で二十人は死んだ」
「マジかよ……」
直人は絶句した。息を飲み込む音が、やけに大きく響く。彼も街で事件が起きていたことは知っていたが、まさかPKだとは思っていなかった。思考が鈍り、口が大きく開かれる。環はそんな直人の顔を見て、やれやれといった様子で両手を挙げた。
「能天気な奴め。おかげで私がどれだけお前のことを心配したことか……」
「……すまん」
「でもまあいい、こうして帰ってきたんだ。ゆっくり茶でも飲んでけ」
破顔一笑、環は満面の笑みを浮かべた。彼女は機嫌よく直人を円卓につかせると、うっとりとした顔で見つめる。頬には赤みがさして、どことなく目元がゆるんでいた。円卓に座っているギルドのメンバーから「ヒュウ」と茶化すような口笛が鳴る。
「ありがと。おーい、ココナも来いよ。環がお茶を御馳走してくれるそうだ」
「そう、じゃあお言葉に甘えて」
直人が声をかけると、ドアの向こうからココナが現れた。ギルドのメンバーたちは、みな呆気にとられたような顔になる。ココナはそんなメンバーたちの中へと入り込んで、しっかりと直人の隣を確保した。和やかだった空気が一転。ピーンと糸が張ったように緊張感にあふれたものとなる。
「あ、あの……その子は?」
「ああ、俺の連れ」
「そうじゃなくて、そのぅ……」
「もしかしてこれですか?」
一同が騒然とする中、ディードは何の恥ずかしげもなく小指を立てた。恋人を示すしぐさ――今となっては祖父母世代が使うかどうか。古代の化石もののしぐさだ。むろん、若者の直人にそのしぐさの意味がわかるはずもない。が、彼は何となく知ったかぶりで頭を縦に振る。それがどんな意味を示すのか全く知らずに――。
「うおお、本当ですか! この子、カズトさんの彼女ですって!」
「なぬ?」
大声をあげて騒ぐディード。瞬間、環の顔が凍る。瞳から光が消えた。温かな笑みは冷酷な微笑みとなり、口から針のような吐息が漏れる。直人は環の背中に蒼い炎が見えたような気がした。殺気――何故かはわからないが、直人の脳を死の香りが刺激する。逃げなければ危険だ――本能が限界を超えて叫ぶ。
「……お前は人が心配している間に、その娘とよろしくやっていたんだな?」
「いや、そんなわけな……」
「言い訳は不様だぞ!」
「待て、きちんと話せばわかる!」
「うるさい!」
環の手が紫電を帯びる。雷鳴が空を裂いた。光と爆音の嵐が部屋を刹那のうちに覆い尽くす。環の固有スキル――電力操作だ。直人の額から滝のように冷や汗が滴る。しかし、環の表情は揺らがない。
「死に晒せェ!!!!」
「ぶばらッ……!」
昼下がり、麗らかな星の光に眠気を覚える頃。直人とココナは街の中心付近をとぼとぼと歩いていた。その顔には覇気がなく、なんとなくうつむいたようである。そして、何故か直人の頭は天然パーマのようになっていた。
「まったく、環の奴ひどいことしやがる。現実だったら死んでるぞ」
「そうよ! そもそも私とカズトが恋人同士のわけないじゃない……。まあ、悪くはないけど……」
パーマになってしまった髪をしきりに撫でる直人。頬を赤く染めながらぶつぶつと呟くココナ。二人は紅十字騎士団の個室から、あの後すぐに叩きだされていた。環曰く「浮気をやめて改心するまで許さないからな!」だそうである。直人自身にとっては浮気どころか、そもそもなぜ環が自分に恋人ができると怒るのかすらよくわからない。が、叩きだされてしまっては仕方がない。二人はこうしてあてもなく通りを歩くしかできなかった。
「しかし困ったな。環のところが当てにできないと、他に頼るところなんてないぞ。ココナの方はどこか当てはないのか?」
「残念だけど……あたしの知り合いに戦えるようなやつはいないわ」
「うーむ……」
二人が立てた借金返済作戦はシンプルにして豪快。クーラの邸宅に忍び込み、借金の証文を奪い返すというものである。一見すると強引極まりなく、非現実的な作戦だ。しかし、相手が裏街の金融屋ということを考えれば意外と上手くいきそうな作戦であった。
直人が詳しく聞いたところ、借金の元本はもともと十万シルトで現在の百万シルトというのは利息が膨れ上がった結果らしい。そして、元本の十万シルト分はとうに払い終えているのだそうだ。つまり、ココナ達が現在払っているのは利息分ということになる。この街に利息上限があるのかどうかは詳しくわからなかったが、かなり悪辣な商売なのは明白だ。
おそらく、証文を力づくで取り返したところでクーラが行政に訴えるようなことはないだろう。街の騎士団などはクーラたち裏街の連中とは距離を置いているらしいので、おそらく相手にもされまい。それを考えれば、証文さえ取り上げて処分してしまえばあとは安心だ。そこで、ともにクーラの邸宅に乗り込む仲間を集めようとしたのだが……ご覧のありさまである。
「……いっそ、二人で侵入するか?」
「無茶よ! 先生にやられるわ!」
「その先生ってやつ、そんなに強いのか?」
「もちろん! あの傲慢で性格最悪のクーラが先生って呼ぶくらいだもの。よっぽど腕が立つに違いないわ!」
クーラが雇っている用心棒、通称『先生』。本名や年齢をクーラと本人以外誰も知らないというこの謎の男が、直人たちにとって最大の障害のようだった。ココナが言うには恐ろしく腕が立つ剣士らしく、彼に斬られた人間は百人を超えるらしい。おそらく、直人とココナの二人だけでは手も足も出ないだろう。
困った顔をして、とりあえず工房のある方へと歩く直人とココナ。明日また出直して、環に許してもらおう――直人の頭を若干楽観的な考えがよぎる。しかしここで、彼の脳が冷えた。
殺気が、殺気が迫ってくる――。アニキなど比べ物にならない、洗練された殺気。磨き抜かれた刃のようなそれが、生温かい風に乗ってくる。微かな血の香りがした。背筋がざわめき、心が凍てつく。人斬り――そうだと思ってまず間違いない。直人はとっさにココナを前へ押しやると、鞘へ手を走らせた。
「何者だ!」
「あら、気付いたの……。こちらから話しかけようと思ってたのに……」
少女と思しき、透明な声だった。さらさらと風がそよぐようで、耳に心地よい。しかし、声の主の姿が見えなかった。得体が知れない――直人は刀の柄をより強く握りしめる。
「そんなに警戒しなくてもいい。私に敵意はない」
気がつくと、小さな白い影が直人の前に立っていた。白い衣をまとい、顔にピエロの仮面をつけた小柄な人物。おそらく少女だ。彼女は口からククっと、くぐもった笑みを漏らしている。その細く小さな身体からは、この世のものとは思えぬ威圧感が発せられていた。間違いなく、ただ者ではない。
まったく気配に気づけなかった――直人の足が一歩後ろに下がる。すると少女はぬうっと彼に近づいてきた。直人の後ろに立つココナの口から、ひいっと恐怖にひきつる声が漏れる。
「お前はいったい……」
「……私は夕闇、ただのプレイヤー。あなたたちが面白そうな話をしてるから、お仲間に混ぜてもらおうかと」
「仲間? どういうことだ」
「あなたの後ろの子、ガルドの娘でしょう? 私は彼の作った星結晶の刀がどうしても欲しい。だから一枚かませてもらいたいの」
「……どこでその情報を仕入れた?」
夕闇は胸元に手を入れると、小さなナイフを取り出した。それを彼女は、勢いよく直人の首筋につきつける。その速さ、神速。直人が何かをしたと思った時にはすでに、ナイフが首元にあった。化け物――そう呼ぶのがふさわしい。
「大抵のことはこれでわかる」
「…………なるほど、わかりやすい」
直人はわずかに引き攣った表情で後ろを向いた。彼はそのまま姿勢を低くすると、半ば腰を抜かしているココナにそっと耳打ちする。
「どうする? 奴を仲間にするか?」
「バカ、あんな怪しいやつ仲間にできるわけないでしょ!」
ココナは目を丸くして叫んだ。その口を、直人は慌てた様子でサッと抑えつける。彼は額の皺を深めると、重く響く声でココナに告げた。
「仲間にしなければ、奴は俺たちを殺すぞ」
「そ、そんなことあるわけ……」
「間違いない。やつは何のためらいもなく、俺とお前を殺す」
直人の顔は確信めいていた。その口調は断定的で、力強い。ココナの背中をスウッと死の影が這って行った。彼女はたちまち蒼い顔をすると、必死に首を縦に振る。恐怖で引き攣ってしまって、声もろくに出ないようである。
「よし、ココナも良いそうだ。これで俺たちとお前は仲間だな」
「うふふ、賢明な判断ね。では、これからお世話になるわ――」