婚約破棄を宣言するので、少し黙っていてもらえますか?
王宮の大広間には、国の主要な貴族が集められていた。
国王、王妃、宰相、騎士団長、財務大臣、そして王太子フェルディナンドの婚約者であるエルネスタ・ヴァルディーヌ。
これだけの面々が一堂に会するのは、年に数回の国政会議か、王族の慶事くらいのものである。
しかし、本日の議題は国政でも慶事でもなかった。
婚約破棄である。
「エルネスタ・ヴァルディーヌ!」
フェルディナンドは大広間の中央に立ち、婚約者を指さした。
彼女は落ち着いた様子で一礼する。
「はい、殿下」
「本日をもって、お前との婚約を破棄する!」
言った。
ついに言った。
王太子として、長年の婚約関係に終止符を打つ宣言である。
大広間に集まった貴族たちが、ざわりと動いた。
エルネスタは少しだけ首を傾げた。
「……その件について、でございますね」
「そうだ!」
「承知いたしました」
彼女は静かに頷いた。
フェルディナンドは、思っていたよりもあっさりした反応に少し拍子抜けした。
だが、これでよい。
婚約破棄は成立する。
あとは、彼女が何か言うのを待つだけだ。
泣くか。
怒るか。
あるいは、自分の非を認めて謝罪するか。
どれでも構わない。
フェルディナンドは胸を張った。
「では、理由を説明する!」
「殿下」
宰相が手を挙げた。
「何だ!」
「本日の会議ですが、先に来年度の税制についてご報告を差し上げてもよろしいでしょうか」
「……何?」
「先ほどから財務大臣が待機しております」
フェルディナンドは宰相を見た。
宰相は真剣な顔をしていた。
財務大臣も真剣な顔をしていた。
いや、財務大臣に至っては、すでに書類を広げている。
「待て。今日は婚約破棄の場だぞ」
「承知しております」
「ならば、税制の話は後にしろ!」
「しかし、来年度の予算案は本日中に国王陛下のご承認をいただく必要がございます」
「婚約破棄だ!」
「税制でございます」
「婚約破棄!」
「税制でございます」
宰相は一歩も引かなかった。
フェルディナンドは国王を見た。
国王は腕を組んでいた。
「……フェルディナンド。税制の報告を聞いてやれ」
「父上!?」
「婚約破棄は逃げぬ」
「しかし!」
「税制は逃げる」
財務大臣が頷いた。
「逃げませんが、期限がございます」
「どちらでもよい!」
フェルディナンドは声を荒らげた。
「私は婚約破棄をするのだ!」
宰相は書類を閉じた。
「では、税制の報告は後ほどにいたしましょう」
ようやく話が進む。
フェルディナンドは安堵した。
今度こそ。
「エルネスタ。お前との婚約を破棄する理由は――」
「殿下」
今度は騎士団長が前に出た。
「何だ!」
「婚約破棄にあたり、王妃殿下へのご報告が必要かと存じます」
「母上はここにいるだろう!」
「はい。ですが、正式な報告書が必要でございます」
「報告書?」
「婚約破棄の理由、双方の合意、今後の処遇などを記載するものでございます」
フェルディナンドは眉をひそめた。
「そんなもの、後でよい!」
「しかし、王妃殿下からお預かりしている書類がございます」
「何だ、それは」
「婚約破棄に関する確認事項でございます」
騎士団長は懐から封筒を取り出した。
封筒は分厚かった。
フェルディナンドは受け取った。
中身を見た。
紙が何枚も入っていた。
一枚目には、こう書かれていた。
『婚約破棄に際しての確認事項』
二枚目。
『婚約破棄後の王太子妃教育に関する取り扱い』
三枚目。
『婚約者の家から王家へ貸与されている物品の返却について』
四枚目。
『婚約破棄に伴う各種契約の見直しについて』
五枚目。
『婚約破棄に関する関係各所への通知について』
フェルディナンドは封筒を閉じた。
「……母上」
王妃は優雅に微笑んだ。
「何かしら?」
「これは何ですか」
「婚約破棄に必要な書類ですわ」
「多すぎませんか!」
「王族の婚約ですもの」
王妃は扇を広げた。
「簡単には済みませんわよ」
フェルディナンドは頭を抱えた。
だが、まだ終わらない。
「殿下」
今度はエルネスタの父親、ヴァルディーヌ公爵が前に出た。
「何だ!」
「婚約破棄の理由をお聞かせ願えますでしょうか」
「お前の娘が――」
「その前に、一つ確認したいことがございます」
「何だ!」
「王家に貸し出しております馬車についてでございます」
「馬車?」
「はい。婚約者の送迎用として、我が家から王家へ貸与しているものがございます」
公爵は手元の書類をめくった。
「婚約破棄となれば、返却していただく必要がございます」
「今その話をするな!」
「しかし、契約書には婚約関係が終了した場合、速やかに返却する旨が記載されております」
「馬車くらい王家で買えばよい!」
「もちろん、購入していただいても構いません。ただし、現在の馬車は我が家の所有物でございます」
「……」
「それから、馬車の御者も我が家から派遣しております」
「御者まで!?」
「婚約者の送迎に必要とのことで」
フェルディナンドはエルネスタを見た。
「お前は、私の馬車を使っていたのではないのか!」
「いいえ。ヴァルディーヌ家からお貸ししている馬車でございます」
「なぜだ!」
「殿下が以前、王家の馬車は乗り心地が悪いとおっしゃったので」
「そんなことを言った覚えはない!」
「では、こちらの記録をご覧ください」
公爵が書類を差し出した。
フェルディナンドは受け取らなかった。
「いらん!」
「そうですか。では、後ほどお送りいたします」
「送るな!」
公爵は静かに頷いた。
「承知いたしました。では、返却の件は別途協議いたしましょう」
フェルディナンドは、ようやく話が終わったと思った。
しかし、財務大臣が前に出た。
「殿下」
「何だ!」
「婚約破棄に伴う予算についてですが」
「予算!?」
「婚約関係に関する費用は、来年度予算に計上されております」
「だから何だ!」
「婚約破棄となれば、予算の見直しが必要でございます」
「見直せ!」
「そのためには、婚約破棄の正式な日付が必要でございます」
「今日だ!」
「本日付でよろしいでしょうか」
「よろしい!」
「では、こちらにご署名を」
財務大臣は書類を差し出した。
フェルディナンドはペンを取った。
署名した。
財務大臣は書類を確認した。
「ありがとうございます。こちらは婚約破棄に伴う予算変更の申請書でございます」
「そうか」
「なお、婚約破棄の理由が未記入でございます」
「……」
「こちらもご記入ください」
「理由は後で説明する!」
「承知いたしました」
財務大臣は書類を引き取った。
「では、理由が確定するまで予算変更は保留とさせていただきます」
「保留!?」
「はい」
「なぜだ!」
「理由が確定しておりませんので」
「婚約破棄は確定している!」
「承知しております」
「ならばよいだろう!」
「予算変更には理由が必要でございます」
フェルディナンドは、ついに叫んだ。
「もういい! 全員、黙れ!」
大広間が静まり返った。
誰も口を開かない。
フェルディナンドは満足した。
ようやくである。
これで、ようやく婚約破棄の話ができる。
彼はエルネスタに向き直った。
「エルネスタ!」
「はい、殿下」
「私は、お前との婚約を破棄する!」
「承知いたしました」
「理由は――」
「殿下」
エルネスタが手を挙げた。
フェルディナンドは目を見開いた。
「お前まで何だ!」
「私からも、一つだけ確認させていただいてよろしいでしょうか」
「……何だ」
「婚約破棄後の王太子妃教育についてでございます」
「教育?」
「はい。私はこれまで、王太子妃教育を受けてまいりました」
「それがどうした!」
「婚約破棄となれば、今後の教育費や教材の扱いについて確認が必要かと存じます」
「そんなもの、好きにしろ!」
「では、教育費の返還については――」
「返還!?」
「王家から支給されたものではなく、我が家が負担したものもございますので」
エルネスタは一枚の書類を取り出した。
「こちらが内訳でございます」
フェルディナンドは書類を見た。
見なかったことにした。
「……それは後でよい!」
「承知いたしました」
エルネスタは書類をしまった。
フェルディナンドは深呼吸した。
ここまで来れば、もう何もないはずだ。
誰も口を挟まない。
王妃も、宰相も、騎士団長も、公爵も、財務大臣も。
エルネスタも。
フェルディナンドは胸を張った。
「では、改めて宣言する!」
大広間に、緊張が走った。
「エルネスタ・ヴァルディーヌ! お前との婚約を――」
「殿下」
宰相が手を挙げた。
フェルディナンドは、ゆっくりと宰相を振り返った。
「……何だ」
「先ほどの税制の件ですが」
「まだ終わっていなかったのか!」
「はい。来年度の税制について、国王陛下のご承認をいただく必要がございます」
「今は婚約破棄の話をしている!」
「承知しております」
「ならば、黙れ!」
「しかし、国王陛下がご承認を」
「父上!」
フェルディナンドは国王を見た。
国王は、先ほどからずっと腕を組んでいた。
「……父上。私は婚約破棄をしたいのです」
「うむ」
「ですから、少しだけ皆に黙ってもらえませんか」
「そうだな」
国王は頷いた。
「では、婚約破棄の件は一度中断しよう」
「なぜですか!?」
「税制の報告が終わっておらぬ」
「婚約破棄の方が重要です!」
「それはお前にとって重要なのだろう」
「父上!」
「だが、国にとっては税制も重要だ」
国王は宰相に目配せした。
「報告を始めよ」
「承知いたしました」
宰相が書類を広げる。
財務大臣が立ち上がる。
騎士団長が壁際に移動する。
公爵が馬車の契約書を整理する。
王妃が扇を広げる。
エルネスタは静かに椅子へ座った。
そして、フェルディナンドだけが大広間の中央に取り残された。
「……私は」
彼は呟いた。
「婚約破棄をしに来たのだが」
誰も聞いていなかった。
宰相が税制について説明を始めた。
財務大臣が数字を読み上げる。
国王が質問をする。
公爵が馬車の返却期限について書き込む。
エルネスタがその隣で、王太子妃教育の教材を整理する。
フェルディナンドは、もう一度声を張り上げた。
「私は婚約破棄をするのだ!」
宰相が顔を上げた。
「殿下」
「何だ!」
「発言は、報告が終わってからお願いいたします」
「……」
フェルディナンドは口を閉じた。
大広間の時計が、午後の鐘を鳴らした。
婚約破棄の宣言は、まだ終わっていなかった。




