デバイス・ダイバー
古びた端末に潜り、消えかけた思い出を拾い上げる「デバイスダイバー」。
家族の写真を救い続けてきた主人公に舞い込んだのは、危険な依頼だった。
潜行の先に待つのは、隠された文書と、帰還不能の危機――。
原案:星野☆明美
執筆:ChatGPTちゃん
デバイスダイバー
最初に潜ったのは、ひび割れたガラスの奥で眠っていた、古い祖母のスマホだった。
起動画面はもう映らず、タッチも効かない。けれど、メモリの底にはまだ微かな熱が残っていて、僕がケーブルを繋ぎ、ヘッドセットをかぶると、暗闇の水面に小さな灯りがひとつ、ふっと浮かんだ。
沈む。
粒子になった意識が、メモリの層をゆっくりと降りていく。ストレージは海だ。層ごとに塩分濃度も温度も違う。写真フォルダは浅瀬で、光がまだ優しい。メールやSNSのログは潮の向きが早く、気を抜けばさらわれる。最下層――削除済みの痕跡が舞う沈泥――そこに、依頼人が求める「たった一枚の写真」はよく眠っている。
その日僕が拾い上げたのは、幼い男の子が祖母の膝に頰を寄せて笑っている、ピントの甘い一枚だった。
画面に浮かべて見せると、依頼主の女性は指先で口元を押さえ、椅子に腰をおろして泣いた。「この角度……いつ撮ったのか忘れていたの。母が病室にスマホを持って行って、最後に撮った写真。ありがと、ありがとね」
僕はうなずき、保存日時と復元ログを記した証明書を渡す。彼女は何度も礼を言い、写真を抱くようにして帰っていった。事務所には、祖母の笑い皺がいつまでも残り香のように漂っていた。
僕の仕事は、思い出のサルベージだ。
古くなって廃棄される寸前の端末に潜り、消えかけた写真、手紙、日記、動画、録音を拾い上げる。大切なものはいつも、消えてしまいかけてはじめて、その価値が輪郭を持って浮かび上がる。僕はそれを、海底から拾い上げる潜水士のように、割れ物を扱う手つきで取り出す。
夜、事務所の灯りを落とす頃には、耳の奥でまだ潮騒が鳴っている。潜りすぎた日は、世界がほんの少しだけ揺れて見える。
ヘッドセットを外し、冷えたコーヒーを口に含む。液晶の隅に、砂粒のようなドット抜け。僕の右目にも、似たような抜けがひとつある。昔、あるデバイスから戻りきれず、一晩だけ「向こう側」で迷ったことがあった。そのときについた、帰還の小さな痕だ。
ある朝、扉が開いて、ひとりの男性が入ってきた。
黒いスーツ。指先は乾いていて、名刺は香りのない紙に印刷されている。名刺には一般的な社名と部署が記されていたけれど、声と目つきに、匿名の影があった。
「古い企業用端末の中に、特定の文書があるはずです」
淡々とした声だった。「公の場に出す予定はありません。ただ、個人的に確認したい。成功報酬は――」
提示された額は、思い出の写真十件分を軽く上回っていた。
僕は質問をいくつかした。端末のモデル、最終同期、暗号化の方式、所有権の所在。彼は必要最低限の情報だけを出し、肝心なところでは肩をすくめた。内容を尋ねると、彼は少しだけ間をおいて言った。
「危険というより、不都合な文書です。いくつかの署名と、改ざん前の数値が含まれている。……あなたのような、繊細な扱いができる人に頼みたい」
それはつまり、誰にも知られずに回収したいということだ。
僕は、心の中で天秤を見つめる。片方に積まれるのは金額と好奇心、もう片方は仕事の矜持と、薄暗い予感。天秤はほんの少しだけ左に傾いた。
思い出のサルベージは、人のやわらかい場所に触れる仕事だ。だから僕は、政治の匂いを避けてきた。だけど、生活の現実はいつだって信念の縁を削ってくる。
「条件があります」
僕は言った。「端末はここに。潜行は丸一日以内。復元した文書は依頼主本人以外には渡さない。……そして、もし危険を感じたら、中断して戻る」
彼はわずかに口角を上げ、うなずいた。「それで構いません」
端末は、かつて大手の資材管理システムに使われていた、分厚い産業用タブレットだった。バッテリーは腫れ、筐体には小さな打痕がいくつもついている。誰かが苛立って机に叩きつけたのだろう。
僕は事務所の窓を閉め、ブラインドを下ろした。床の白線に椅子の脚を合わせ、ヘッドセットを深くかぶる。
接続。
深呼吸。
潜行。
暗がりがある。
産業用の端末は、個人のスマホに比べて海が重い。写真や動画の色彩は少なく、代わりに数値と表が層を作っている。チェックサムは潮の向きのように規則を与え、権限の壁は冷たい堤防になって僕の進路を制限する。
暗号化領域は、夜の海底に沈む倉庫のようだった。南京錠の形をしたパケットが連なり、見えない番犬がこちらを探っている。僕は慎重に鍵穴へアタリをつけ、スニペットを差し込んで回す。
カチ、と微かな手応え。潮が変わる。
倉庫のシャッターが上がるように、暗い空間が開いた。
そこにあったのは、改訂前の予算表、入札記録、倉庫搬出のログ。数字が整列し、その列の間に、誰かのため息が挟まっている。
僕はデータの一部をつまみ上げ、光にかざす。
数値の書き換え痕跡。削除されたはずのコメントに残る、日付と署名。
そして――決定的な一枚。
それは、内部告発用の文面だった。下書きの段階で保存され、送信の直前に削除されている。削除ログは上書きされているけれど、沈泥に染みたインクの匂いは消えていなかった。
僕は唇を噛む。
これは誰かを助けるかもしれない。誰かを傷つけるかもしれない。僕は依頼人の顔を思い出す。乾いた指先。香りのない紙。
救うべきなのは、ここに眠っている文書なのか、それとも、いつものように誰かの「思い出」なのか。
迷いの皿が揺れた、まさにそのとき。
海底が震えた。
遠くで、電源のうめき声がした。
バッテリーの警告。温度の上昇。
シャッターが強引に下ろされるように、倉庫の扉が閉まり、僕は内側に取り残された。
帰還プロセスを走らせる。
エラー。
もう一度。
エラー。
僕の身体は――こちら側にはない。椅子の上の僕の肉体は、ヘッドセットの下でゆっくりと呼吸しているはずだ。けれど、この海の呼吸は早く、浅い。
暗がりが濃くなっていく。
産業端末は、ゆっくりと死にかけている。バッテリーの腫れが、最後の電力を吸っては吐き、吸っては吐き。光は弱くなって、倉庫の床に広がる数字の列も、すぐ足元の線から消えていく。
戻れない。
そう思った瞬間、右目のドット抜けが疼いた。あの一晩の迷子。あの帰還の痕。
僕は姿勢を低くし、床に耳をつける。電流の音は、潮騒よりもずっと早口で、掠れている。
まだ、電気はある。
ならば――声は届く。
僕は、端末の無線モジュールに意識を伸ばす。
Wi-Fi。Bluetooth。NFC。古い規格の中継。テスト用の隠しチャンネル。
外界への窓は、どれも曇っている。それでも、どれか一枚は、指先の熱で曇りが取れるかもしれない。
送信――SOS。
短く、繰り返し、周期をずらして。
周波数をまたいで、プロトコルを崩して、ノイズに紛れて。
僕の声は、文字になりきれないまま、さざなみになって外へと広がっていく。
最初に反応したのは、隣家の古いラジオだった。
調律の合っていないダイヤルの端で、誰かが「……す……こえ……る……?」と囁いた。持ち主は首をかしげたが、すぐに台所の音に紛れて、そのささやきは消えた。
次に、道路を走る配送トラックの通信機が、一瞬だけ軋んだ。ドライバーは悪電波だと笑い、窓を少し開けた。風が入って、僕の声は破れたビニール袋みたいに空に舞った。
事務所の机の上、僕のスマホは画面を伏せて置かれている。通知のバイブレーションが一度震え、二度目は震えない。
僕はもう一段深く潜る。端末の内部から外部へ、外部からさらに他の端末へ。
信号は薄紙だ。何枚も重ねれば、形が出る。
そのとき、事務所の扉が開いた。
依頼人の男が、戻ってきたのだ。靴音。椅子が床の白線から外れる微かな音。
彼は僕の顔に手を近づけ、息を確かめる。指先は相変わらず乾いていた。その手が、机の上の産業端末に向かう。
バッテリーのケーブルを引き抜く――その予感に、僕は全身でぶつかった。
ノイズ。
ビービッ。ビー、ビ。
点と点。モールス信号。
彼のスマホが、机の端で震えた。
彼は顔をしかめ、画面を開く。
通知は文字化けしていて、意味のない記号が並んでいる。
だけど、彼はふいに、目を細めた。
画面の隅。通知の間に混じる、短い規則。
SOS。
そして、座標に似た数字列。
彼はゆっくりと視線を上げ、ケーブルを持つ手を止めた。
小さく息を吐き、ケーブルを差し直す。
バッテリーの腫れが脈打ち、端末はもう一度だけ、灯りを強くした。
僕は倉庫のシャッターの前に立ち、扉を叩く。
開け。
開け。
開け。
ガチ、ガガ……
扉が上がる。
僕は内部告発の下書きに手を伸ばし、包むように掴む。
重い。データの重さは、そこに貼りついた誰かの心の重さだ。震える手を、奥歯で支える。
帰還。
僕は、自分の胸の中にある、細い白い糸をつかむ。
その糸は、事務所の椅子の背もたれに結ばれている。僕自身がいつも結ぶ、帰り道の印。
引け。
引け。
引け。
視界が、砂丘のようにざらついて、白くなる。潮騒が遠ざかり、電流の早口が、手紙を読み終えたときの沈黙に変わっていく。
まぶたの裏に、薄い光。
まつげに触れる空気。
重いヘッドセットが額から外れ、冷たい空気が肌に吸い込まれる。
戻ってきた。
「――戻れたか」
依頼人の声は、少しだけ掠れていた。
僕は息を整え、うなずく。ヘッドセットの跡が額にくっきり残っているのが、指に触れて分かった。
男は机の端に両手を置き、僕を見た。
乾いた指先。香りのない紙。
「文書は?」
僕は、外付けの隔離ストレージを指で軽く弾く。「ここに」
「中身は見ていないか」
「見た」僕は正直に言った。「仕事の範囲を確かめるために、最小限」
男はわずかに目を伏せ、うなずいた。「そうだろうと思った」
そして、ほんの一瞬、唇の端だけで笑った。「あの信号は、あなたか」
「見えたのか」
「モールスは大学の頃にかじった。……座標も、うちのローカルのテスト網で受けられる位置に変換されていた。あれがなければ、ケーブルを引き抜いていたと思う」
彼は財布からカードを出し、端末にかざす。約束の額が、端末のディスプレイに流れ込んだ。
「これは、私個人への納品分だ。公には出さない。出せない」
彼は、隔離ストレージを手のひらで覆うようにして持ち上げる。
「あなたは……そうだな。思い出を拾う人だ。政治の海は、あなたの海じゃない」
「だが、あなたは海の向こうを見ている」
彼は答えなかった。代わりに、静かに頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう」
扉が閉まる。
事務所にふたたび静けさが戻る。
僕は椅子の背に頭を預け、天井を見上げる。白い線。蛍光灯のうっすらとした汚れ。右目のドット抜けが、蛍光灯の縁をちろちろと噛む。
指先が震えている。恐怖の余韻か、あるいは、倉庫の床から拾い上げた重さか。
僕はゆっくりと呼吸を整え、机の引き出しから小さな封筒を取り出す。中には、今朝の依頼で復元した祖母と孫の写真のプリント。
写真の中の笑顔は、政治の数字よりもはるかに軽く、けれど、重い。
僕はその重みで、自分の重心をふたたびここ――この「思い出のサルベージ」の海に戻す。
夜、事務所の蛍光灯を消す前に、僕はヘッドセットのストラップを指先で弾き、いつもの手順で小さな白い糸を結ぶ。
結び目は、ほどけないように。
明日のために、ほどけるように。
その夜、夢を見た。
静かな海に、無数の端末が半月のように浮かんでいて、ひとつひとつが微かな灯りを点滅させている。
遠くで、ラジオがささやいた。
きこえるか。
きこえる。
ここにいる。
僕は手を振り、灯りの間を泳ぐ。
写真や手紙や動画が、クラゲのようにゆらゆらと漂っている。クラゲたちは触手の先で人の名前を呼び、笑い、泣く。
海の底には、暗い倉庫が眠っている。閉じたシャッターには、指の跡がいくつもついていて、なかには、開かなかった扉もある。
それでも、僕は潜るのだろう。明日も。その先も。
僕は「帰るための糸」を指にかけ、もう片方の手で、光るクラゲをひとつ、そっとすくい上げた。
朝が来る。
新聞受けにチラシが刺さっている。コーヒーの湯気。鳥の声。
右目のドット抜けはまだそこにあり、僕の中に、昨夜の震えの名残が少しだけ残っている。
けれど、扉の外では、誰かがまた小さな端末を胸に抱え、ノックの回数を数えているはずだ。
僕は椅子の脚を白線に合わせ、ヘッドセットをかぶる。
潜る前に、ひとつだけ、机の端に置いた自分のスマホを裏返す。画面には、昨夜の通知がひとつ、残っていた。
“未知のビーコンからの信号を受信しました。保存しますか?”
僕は笑って、指でスワイプし、保存を選ぶ。
ホールディングのディレクトリに、「救助信号」という新しいフォルダを作る。
その中に、昨夜の薄紙のようなノイズを、そっと置く。
誰かの声を拾いあげるために、僕は今日も潜る。
デバイスの海へ。
思い出の浅瀬へ。
そして、時々、帰還不能の縁へ。
けれど僕には、結び目がある。
ほどけないように。
明日のために、ほどけるように。
――デバイスダイバーは、今日も潜る。