三、彼女の妹【15】
◆
ぶつぶつと独り言を言いながら黒猫。
「まさか本気で婚約する気じゃないだろうな、クルドの奴。バレても責任とらないからな」
エミリアの部屋前に辿り着いた黒猫は、座り込んで高い位置にあるドアノブを見上げた。
「――って、一人で来たはいいがどうやって開けるつもりだったんだ? オレは」
自分の阿呆くささに気付き、ドアノブを見つめたまま自嘲する。
「クルドが来るまで待つしかない、か……」
ふと独りでにノブが回った。
「え……?」
黒猫は唖然と声を漏らす。
ノブが回ったドアは かちゃりと音を立て、ほんの少しだけ開いた。
首を傾げる黒猫。
「エミリア、か?」
ドアを前足で押し開け、中を覗き込む。
人けのない暗闇の部屋。
ドアを開けた主は部屋のどこにもいなかった。
――ふわっ、と。
微弱な風が黒猫の毛を撫でていく。
バルコニーの窓かと思い黒猫は目を向けたが、窓は開いていなかった。
「エミリア……?」
誰もいないベッド。
バルコニーにも人影はない。
沈黙だけが支配する暗闇の部屋を、黒猫は見回しながら入っていく。
「誰もいないのか……?」
体毛を微かに撫でる夜風。
一体どこから吹いているのだろう。
黒猫は風を辿って周囲をもう一度見回してみた。すると、隣の部屋に続くドアが少し開いている。
不思議に感じながらも、黒猫はそのドアへと静かに歩み寄っていった。
光は漏れていない。もしかしたらこの部屋にも誰もいないのかもしれない。
それでも黒猫は、部屋のドアを前足でゆっくり押し開いていった。
部屋の中に入り、そしてある場所で視線が止まる。
開かれた窓。
一条に帯びる月の光と、揺らめく白いカーテンに包み込まれるようにして、背中を向けたエミリアが窓辺に佇んでいた。
彼女は呆然と、ネグリジェ姿で夜空を見上げている。
黒猫に戦慄が走った。
気付かれないよう息を殺して、そっと彼女の背後に忍び寄る。
そうすることで次第に見えてくる、窓の外に浮かぶ黒いローブを来た老婆の魔女。
魔女は窓の外へと導くように、エミリアの手を取った。
彼女の体が窓の外へとゆっくり傾いていく。
「エミリア!」
◆
「もしかしてクルドさん、私のような女はお嫌いですか?」
黒猫の姿が遠のいた後、シンシアは上目遣いで不安そうにぽつりと尋ねてきた。
激しく首を横に振るクルド。
シンシアは胸に手を当てると、ほぅと息をついて胸を撫で下ろした。
「良かった……」
「あの」
クルドが声を掛けたその時、すぐ側の窓――シンシアの背後から、下手な犬の鳴き声が聞こえてきた。
シンシアが恐る恐る後ろを振り向く。――と、そこには!
「きゃぁっ!」
悲鳴を上げて、すぐさまシンシアはクルドの背後に隠れた。
窓の外にボぅと。
不気味に浮かび上がる下顎のない熊のはく製。
………………。
しばらく、クルドと熊との間に白んだ空気が流れた。
やがてぷるぷると微動に震える右手が熊の横から現れる。その手に握られた四つ折りの紙。
「早く取れ馬鹿! この体勢けっこうキツイんだぞ!」
苦しげなうめき声が窓の外から聞こえてくる。
半眼でクルド。
「だから梯子はもうちっと高く作れと言っただろう?」
「う、うるさいっ! 余計なお世話だワンワン!」
「『ワンワン』じゃねぇよ。明らかに人間ってバレてるぞ、ラウル」
下から本物の犬の鳴き声が聞こえてくる。
その後、悲鳴を上げて逃げ惑う盗賊たちが聞こえてきて――。
ガクッと一瞬、右手が窓から消えた。かと思うと、入れ替わるように左手が窓枠にしがみつく。
「…………」
しばらくして、再びぷるぷると震える右手が窓枠から姿を現した。右手に握られていた紙を部屋の中に投げ入れて、右手もしっかりと窓枠を掴む。
苦しげだった声もどこへやら、窓の外から平然とした声が聞こえてくる。
「うむ。どうやら誰も俺様を支えてくれていないようだ」
「素直に『助けてください』と言え」
「助けてください」
「よし、わかった」
クルドは窓へと近寄ると、手を差し伸べた。
窓枠にしがみついていた右手がクルドの手を掴む。
引き上げて、ラウルは屋敷の中へと入ってきた。
シンシアは特に驚かなかった。
ラウルの身につけている物は全て貴族から盗んだ物。宝石の指輪も、そして靴も、見た目からして金持ちそうだ。きっとシンシアの目には『変な貴族が窓からやってきた』としか映っていないだろう。
入ってすぐ、ラウルはクルドに声を掛けた。
「お前に緊急の知らせ……ん?」
右手からなくなっている紙を探してか、きょろきょろと足元を見回し始める。
「これのことか?」
クルドは落ちていた紙を拾い上げてラウルに差し出した。
あぁそれそれ、と。喜んで手を差し出すラウル。
「良かった。そんなところにあったか、梯子代の請求書」
「持ってくるな、ンなもん!」
手渡す直前で、クルドはその紙を丸めて床に叩きつけた。
「クルド」
「なんだ?」
「突然で悪いが、実は魔女がターゲットを変えた。ターゲットは――」
と、ラウルはエミリアの部屋方向を指差して、
「彼女の妹だ」
「それを早く言え、この馬鹿!」
クルドはラウルに蹴りを見舞うと、急いでエミリアの部屋へと駆け出した。