三、彼女の妹【7】
遠くで複数の犬が吠えている。
ウェルタ家のとある中庭で、茂みからゆっくりと様子を伺うようにラウルが顔を出す。
「――ん? 来た!」
ラウルは茂みに隠れた。
そのすぐ側を、黒服を着た体格の良い警備員が通り過ぎていく。
…………。
通り過ぎたことを茂みの中で確認してから、ラウルはまたゆっくりと顔を出した。
額を拭って、不敵の笑みをこぼす。
「人海作戦の勝利ってやつよ」
がさり、と。一斉に子分たちが茂みから顔を出す。
元々ここに茂みなんてなかった。木々の間の何もない芝生の空間に、茂み持参でみんな一列に固まってうずくまる。――すると、ほら。あっという間に茂みの出来上がり。
「よし、今の内に移動するぞ」
ラウルの声を合図に、足の生えた茂みがカニ歩きでちょこちょこと横に移動していく。目指すはパーティ会場の近く。ここから果てしなく遠い場所。
子分の一人がラウルにぽつりと問い掛ける。
「なぁ頭領。この作戦、犬がいたら終わりなんじゃ――」
「しゃらくせぇ!」
茂みが一つ、爽快に吹っ飛んでいく。
甲羅から手足を出す亀のごとく、ラウルは茂みを中心に肢体を生やした。ぐっと拳を握って力説する。
「いいか! 犬ってもんはな、この世で一番鋭い嗅覚を持つ生き物だ。奴の鼻から逃れられた者など過去一人としていなーい! その嗅覚に勝ってこそ、それが真の盗賊ってやつだろうが!」
頭領、犬の鼻は関係ないッス。と、内心感じながらも、他の子分たちは手を叩いて盛り上げる。
「来たぞ!」
一人の声を合図に、全員一斉にサッと茂みの中へ身を隠す。
そのあまりの手慣れた素早さに、警備員は異常を察知できずに通り過ぎていく。
「……何やっているんだ? お前ら」
聞き覚えのある声を耳にしたラウルは、そっと茂みから顔を出した。
そこにはフワフワと宙に浮いた箒に腰掛けたクルドの姿があった。黒のローブにフードを目深に被って、肩には死神の大鎌を担いでいる。
そんなクルドの姿を流し見て一言。
「相変わらず怪しげな格好だな」
「そういうお前に言われたくない。――それより何をしているんだ? こんなところで」
「人海作戦だ。見てわからんのか?」
「来たぞ!」
子分の声に、ラウルは慌てて茂みに隠れた。
警備員がクルドの背後を平然と過ぎ去っていく。
クルドは呆れるように顔を片手で覆って、ため息を漏らした。
「お前なぁ……。本当にシンシアとクレイシスを守る気があるのか?」
そっと、茂みから顔を出すラウル。
「おぅよ」
強気の返事。
クルドは軽く目眩のようなものを感じた。
「こいつに任せていたら本気で危ないかもしれん」
半眼でぼそぼそとラウル。
「なぁクルド。その悪魔崇拝者じみた服を俺様に貸せ。他の奴らに姿が見えないなんて卑怯この上ないぞ」
「この服は継承者限定の大切な服だ。それを人に貸すと後でロンがうるさいんだよ」
「ロン爺の例の小言か。あれは確かにすごかった。あの時お前は絶対に死んだと思っていた」
「あの時死ぬ気で魔術を発動させなかったら、俺はマジで死んでいた」
「そんなことよりその悪魔崇拝者じみた服を俺様に貸せ」
「やだっつってんだろ」
「洗濯ぐらいして返してやる」
無言で、クルドは右手をかざすと、その虚空に小さな白い魔法陣を出現させた。ラウルに狙いを定める。
すぐさま両手を挙げて降参するラウル。その威力が砲弾よりも危険であることは重々知っていた。負け犬のごとく野次を飛ばす。
「クルたんのいけずー。ロン爺にチクってやる。人間に魔術放ったらいけないんだぞー」
「半かじりの奴相手には使っていい許可出てんだよ」
「クレイシスの前で魔女裁判のこと全部しゃべってやる」
「それだけはやめろ」
さておき、と。クルドは魔法陣を消して話を戻した。
「魔女を見失った。とりあえずは追い詰めたんだが――」
真顔に戻ってラウル。
「らしくない失敗続きだな」
「トラウマが過って集中できねぇんだよ」
「んじゃ、シンシアちゃんは見殺しか?」
「させるか。邪魔する手立てならいくらでもある」
「なら取り返しのつかなくなる前にさっさと裁判を終わらせろ」
煽るように口端を歪めて笑い、
「魔女ともう少し遊びたいってぇんなら別だがな」
クルドは苛立たしく舌打ちすると、ラウルから顔を逸らしてハエを払うように無言で手を振った。
ラウルは鼻で笑い飛ばして話題を変える。
「ところでよ、クルド。クレイシスの奴、猫じゃなかったっけ?」
意外な質問だったのか、クルドは少々驚いた顔で問い返す。
「あぁ、猫だ。それがどうした?」
「ペットは家に置いてくるもんだろう?」
「アイツのことだ。姉の仇である魔女がやっと現れるんだぞ。黙って一人、安全な場所で留守番すると思うか?」
「たしかにな。言われてみりゃぁ何らかの行動は起こしそうだな」
「見習いならまだしも、アイツはただの一般人だ。下手に動かれると戦略が狂う。だったら見えやすい所に置いて何らかの役割を与えておけば『もしも』の時に対処しやすくなる」
「だが……猫だろ? パーティ会場に放り込んできて良かったのか? 見つかってどっかに連れていかれでもしたら――」
「アイツは貴族だぞ? どこが穴場かぐらいは自分で把握しているはずだ」
ラウルは呆れ眼差しでクルドを見やり、頬を引きつらせる。
「結果オーライな対応策だな」「気にかけてやる余裕はないんでね。――それよりラウル。予定を変更して、中庭に魔法陣を張って援護してくれ。俺は正面からあの魔女の行動を阻止する」
「正気か?」
「俺もなめられたもんだ。眼中に入れてもらえないんだからよ。頼んだぞ」
それだけを告げ、クルドは箒に跨がり空へと昇っていった。
◆
「――って、ふざけるなクルドの奴。絶対に許さねぇ」
立食パーティ。その長テーブルの下で、黒猫は前足をぐっと握り締め、拳を作った。
「よく考えてみりゃオレは猫じゃないか。魔女狩りが済むまで、ずっとこうしてなければならないのか?」
怒りを重いため息に変えて、黒猫は床まで垂れ下がっているテーブルクロスを前足で少し持ち上げた。
差し込む光。
遠く壁際にシンシアの姿が確認できる。
あの一件があってか、やはり彼女は壁隅にぽつんと立っていた。
冷たく囁かれる彼女の陰口。
それでも彼女は感情を表に出さず、ただずっと一人で佇んでいた。
「大した女だ。大抵の女はほとぼりが冷めるまで家に閉じこもっているというのに。あれだけ心が強ければ、もう見合いなんてする必要はないな。ほとぼりが冷めた頃には隣に紳士な男を連れて歩いていることだろう」
しかし、と。黒猫は肩を竦める。
「ま、それまでこの境遇に耐えられればの話だが」
しばらくするとシンシアは挨拶まわりの為か、母親とどこかに行ってしまった。
――急に、黒猫の視界を遮る真っ白のドレス。
黒猫は驚いて声を上げそうになり、寸前のところで両前足で自分の口をふさいで何とか声を押し留めた。だが行動までは止めることができず、黒猫はこてんと床に倒れ込んだ。
そのままの状態で息を殺して耳を澄ませ、人が去るのをジッと待つ。
…………。
去っていったことを靴音で確認し、黒猫は前足を口から退けると安堵の息をゆるゆると吐いた。
「……危なかった」
ここは食べ物の真下。当然、人が来ることは警戒しているつもりだった。しかしいつの間にか、つい油断をして人間のつもりでシンシアを観察してしまっていた。見つかればきっと、猫扱いされるに違いない。その扱いだけは勘弁してもらいたい。
黒猫は背筋に悪寒を走らせ身震いした。ふと――
コト、と。
真上から物音が聞こえてきて黒猫は目をやった。どうやらテーブルの上に何かが置かれたようだ。次いでこんがり焼きたての、香ばしい匂いが漂ってくる。黒猫は飛び起きて匂いを嗅いだ。そして後悔する。
黒猫の腹の虫が鳴った。
黒猫はがっくりと肩を落とし、耳を垂れ、尻尾も力無く萎える。
「腹減ったよぉクルド~。ここはおいしい匂いがするよぉ。こんなの生殺しだよぅ~」
しくしくと黒猫は前足で顔を覆って泣いた。
「テラスへ行こう。あそこなら隅ぐらいは置かせてもらえるはず。だってオレ、猫だし……」
少し間を置いて。
「……猫、だし」
復唱して。さらに屈辱を感じ、泣き崩れる黒猫だった。