一、闇を狩る者【上・後】
「だいたいな、よく思い返してみろ。あのしつこく付きまとっていたクソガキがそんな大それた上流貴族の坊っちゃんだと思うか? 道端に落ちていた銅貨を拾っては『これでパンが食べられる!』と涙流して喜んでいたり、野良犬がおいしい肉でもくわえていようもんなら『オレより豪華な飯食ってんじゃねぇ!』とか言ってその犬と喧嘩していたり――ん? そういやいつ頃だったか、小さな女の子から『私のお小遣いあげる。だから頑張って生きてね、お兄ちゃん』なんてお金を貰っていたな。ま、そんななんだか見ていて、道にお金を落としてあげようかなと同情したくなるくらいの可哀想な奴だったぞ、アイツは」
「それって全部あなたの影響じゃ――」
無視して続ける。
「人生どう間違ったって、そこまで落ちぶれるはずないだろう?」
「失踪から一年も経つのよ?」
「たかが一年だろ?」
「たかが一年でも無一文で一年よ。元が豪華な暮らしなだけに、いきなり庶民暮らしとなると人格も変わるわよ。しかもあなたと一緒なら――」
「とにかくだな、あのクソガキは違うといったら違うんだ」
「だから――もう! あなたも大概頑固な男ね。いい? 何度も言うようだけど、間違いなくあなたと一緒にいたあの子はクレイシス伯爵なの!」
「いいから帰れ」
「嫌よ」
女性は諦めなかった。尚もしつこく食いついてくる。
「この件に関しては、あの鬼署長ですらも尻叩かれたように自ら探し回っている最優先重大任務なのよ」
クルドはコーヒーを飲み終えた。カップを置いて、面倒くさそうに頭をぼりぼり掻きながら答える。
「俺だって協力したいのは山々だが、あのクソガキが俺の前から姿を消して一週間。ここ最近はなんの音沙汰もないし、この街での目撃情報もない。きっと、もう家に帰――」
「なわけないでしょ。この仕事が未だ切り上げないってことは、あの子はまだ家にも帰ってないって証拠よ」
女性は席を立つと、足早にクルドの傍に歩み寄った。先ほどの態度から一変、急に下手な態度で両手を組み合わせ拝むように、目を潤ませて懇願する。
「ねぇ、お願いクルド様。本当はどこにいるか知っているんでしょ? この件に関しては私の命がかかっているの。クビだけで済む問題じゃないのよ。だから――」
「あーはいはい」
「ちょっと!」
無視するように、クルドは亭主へと向き直った。
「今日からフレスノールという貴族の屋敷を張り込むにした。二、三日はここに戻らねぇと思う」
「あぁわかった」
「待ってよ!」
席を立とうとするクルドの服を女性は慌てて掴み引き止めた。顎に両拳を当て、かわい子ぶった甘え声を出す。
「お願い、クルドさまぁん。もうあなたに対してストーカー行為的情報収集したりしないから、キャシーの最後のお願い、聞・い・て」
片目をウインクする。
クルドは女性――キャシーを引き剥がすと、素っ気ない態度で答えた。
「知らないものは知らない」
諦めずキャシーは自慢の大きな胸を押し付け、クルドの耳元で囁く。
「教えてくれたら情報料が通常の二倍――いえ、四倍出すわ。どお?」
鬱陶しく押し返す。
「値切りが得意なお前が四倍もの大金を出すとはな。たかが家出の坊っちゃんを連れ戻すくらいで――」
言葉の途中でキャシーが不敵な笑みを溢す。
「な、なんだ、その笑みは」
「たかが家出の坊っちゃん? あなた、ヴァンキュリア公家を馬鹿にしているでしょ?」
「はぁ?」
「私があの子を保護した時その謝礼がいくら貰えるか、あなた知っている?」
クルドの耳がぴくりと動いた。すぐに態度を一変。興味津々に食いつく。
「いくらだ?」
「三億」
「三億だとぉっ!」
「警察署にね」
「なーんだ。お前にがっぽりじゃねぇのか……」
急にテンションを落として、クルドは呆れ顔でそっぽを向いた。
半眼になってキャシー。
「あんたねぇ、よく考えてみなさいよ。私一人にがっぽり入ったら、思いっきり私が誘拐していたみたいじゃない」
影でぼそりと。
「そうなってくれりゃ、こっちとしても都合がいいんだが」
「何か言った?」
「いや、なんでもない。とにかく――」
念を押すようにキャシーへと指を突きつけ、
「俺に付きまとっていたあのクソガキのことは、もう忘れろ」
少し身を引いてキャシー。
「な、なんでよ……」
「俺の命に関わることだからだ」
「どうしてあなたの?」
「だからそういうわけで関わるな」
「な、なんで――」
無視して、クルドは黒猫を脇に抱えると、その黒猫を指で示した。
「簡略して言えばこういうことだ」
と、意味深長の言葉を残し、クルドは足早に店から出て行った。
◆
クルドが住む階級層――下級庶民の家々が並ぶ裏通りを、更にもう一歩裏に入れば、そこは無法地帯となるスラム街だった。複雑に入り組んだ狭い路地裏を通り、無法者たちと軽く挨拶を交わしながら、クルドは中心地へと向かう。ほどよく進めば一軒の古びた木造の家と出会うことができた。野蛮な盗賊どもの住処である。その家を、クルドは勝手知ったる何とやらで、普通に入った。
「よし、こんなもんかな」
息苦しい襟元を指で緩めたり締めたりと、鏡に映るモーニング・コート姿の自分を確認する。もう一度言っておくが、この服も、この家も彼の所有物ではない。
「どうです? 兄貴」
「ご不満なら、もう一度盗ってきやすぜ」
五、六人の人相悪い男たちが部屋の入り口から腰低く様子を窺っている。
振り返りもせず、クルドは言葉だけを投げた。
「やめとけ。捕まって監獄所に入れられても俺は責任をとらんぞ」
「処刑されてもいいッス。兄貴の為ならあっしはこの命、惜しくないッス」
「お、おいらもだ!」
「おれもだ!」
「おれも、おれも!」
「どこまでもついていきやすぜぃ、兄貴!」
クルドは疲労めいた表情で肩の力を抜いた。肺の空気を全部吐き出すかのように、深いため息を漏らす。
「だったら今すぐ持ち場に戻れ。こっちのことはもう充分だ」
「へぃ!」
一礼して、男たちは扉を閉めて出て行った。その一階へと降りていく足音をしばらく聞いてから、クルドは今着ている衣装に不満を漏らした。
「それにしてもこの服キツイな。盗難品だから仕方ないんだろうけど」
足音なく静かに、クルドの足元に近寄る黒猫。口を開いて不機嫌に、
「よくもまぁ口任せにペラペラと。黙って聞いていれば好き放題言ってくれたな」
「あぁ?」
クルドは足早にいる黒猫へと目を向けた。
黒猫もクルドを見上げて、
「言い方にも限度というものがある」
クルドは肩を竦めて惚けた。
「いったい何のことだ?」
「ふざけるな。キャシーと交わした会話のことだ。オレを侮辱しただろう?」
「あぁ……あれか」
思い出して。クルドは鼻で笑い、
「本当のことを言って何が悪い?」
黒猫は呆れるようにクルドを睨んだ。
「年相応に、たまには建前というものを勉強した方がいい」
「偉そうに年長者に説教か? そういうお前こそ、自分を嘘の言葉で固めるよりも、まずは言葉通りに生きてみろってんだ」
フン、と。黒猫は小馬鹿にするように鼻で笑う。
「『正直者が馬鹿を見る』という言葉を知っているか?」
クルドは「さぁな」と肩を竦めてわざと惚ける。
「俺は馬鹿だからな。だが、生意気なガキが吐くどんな言葉も冷静に受け入れる立派な大人であることは確かだ」
「それは根に持っていると解釈していいのか?」
クルドは無視して鏡の裏の古びた木製の戸棚から、びん付け油を手に取った。それを銀髪に塗りつける。鏡を見つつ、頭髪を整えながら、
「魔女探しも庶民暮らしも何一つ満足に出来ないお坊ちゃまのくせに口だけは立派な一人前だな」
「ぐっ……!」
黒猫は声を詰まらせると、負け惜しむかのようにツンとそっぽを向いた。
「俺の勝ちだな」
クルドは勝利の笑みを浮かべると、締めに黒のシルク・ハットを被り、黒猫の隣に腰を下ろした。そして黒猫の頭にポンと手を置く。
「お前の姉さんを殺した魔女がフレスノール家の屋敷に出没したとの情報を得た」
え? と、黒猫は面食らった顔でクルドを見上げる。
「受けてくれるのか? オレの依頼」
「この先いつまでもお前に付きまとわれたんじゃ迷惑なんでな」
黒猫の表情から笑みが溢れる。
「クルド……」
クルドは黒猫の笑顔を手で遮って、
「おっと。言っておくが、受けてやると言っても敵討ちの方じゃなく『なんでお姉さんが魔女に殺されたのかの調査』だけだからな。それと――」
と、そこで言葉を止めて黒猫をちらりと一瞥し、半眼で唸る。
「俺に逆怨みした魔女のとばっちりに巻き込んだとはいえ、その尻拭いはしておかないとな」
黒猫は改めて自分の姿を見つめる。
「元に戻れるのか? オレ」
「目には目を、魔法には魔法をだ。上手くいけば元に戻せる魔法をかけてもらえるかもしれん」
クルドは宥めの為に黒猫の頭に手を伸ばした。が、
「――ってことはだ」
クルドの手が空振る。
黒猫は急にパッとクルドから離れると、くるりと背を向け、前足をぐっと握り締めた。一人興奮気味に、
「もうこれからは、あのくそややこしい大量の書類を偽造していちいちちまちまと市場の裏工作を謀ったり、闇ルートを使って取引先との商談のあれこれを遠隔操作したり、執事を電話で脅してオレの代役として使い走らせたりする必要も、これでスッキリなくなるってことか!」
クルドの頬がぴくぴくと引きつる。非難の目で、
「ちょっと待て、お前……いつも影で何かちまちまやっているなぁと思ったら、そんなことをしていたのか?」
しかし黒猫は無視して、
「――となると、その作業にかかっていた人件費、消耗費、通信費、その他諸々の経費が削減となり、経費の矛先になっていたオレのへそくり預金通帳の残高はようやく止まるってわけだ!」
「その歳で『へそくり』とか言うな」
はぁ。と、クルドは気だるくため息をついて額に手を当てた。情けなく呟きを落とす。
「あのなぁ。お前、もう少し子供らしい発言とかできないのか?」
「ありがとうクルド!」
「おっと」
黒猫が無邪気にクルドの胸に飛び込んでくる。その黒猫の口を『にゅー』と横に引っ張って、
「本当にこれが済んだら素直に家に帰ってくれるんだろうな? クレイシス伯爵殿」
口を引っ張られたまま、黒猫はこくりと頷いた。
フッと笑ってクルド。どうでもいいとばかりに、
「ま。お前の満足・不満足関係無しに、元に戻った瞬間には今度こそ徹底的に叩き出してやるからな」
「へっははへ、へっは|(結果出せ、結果)」
「ははは。何言っているのか全然わかんねぇ」
ぽい、と。手荒く黒猫を後ろに放り捨てて立ち上がる。そして鏡の前で身だしなみをチェックし、足元に這ってきた黒猫の首根っこを捕まえ、目前に持ち上げる。
疲れきったようにげんなりとした声で黒猫。
「なんでそこを持つ?」
「猫だし」
「オレを誰だと思っている?」
「知らんな。俺は依頼人だろうが、お前があの恐れ多き大貴族のクソガキだろうが絶対に特別扱いはしない主義だ。ここに来たからにはお前は庶民だ。それが嫌なら帰れ」
「嫌だ。それ以前にこの姿でどうやって帰れと?」
「なら文句を言うな。――というわけで、これからお前にもキッチリと役割分担をもって働いてもらう」
「今までみっちりコキ使っておいて今更そんなこと言われてもピンとこないね」
「前慣らしはこれからだ」
「『前慣らし』は最初にやるものだ」
「貴族が相手となりゃ、お前がいれば天下無敵」
「つまり、遠回しに苦手分野をオレに押し付けてきたわけだな?」
ギクッと、クルドは表情を固めた。わずかに口端を引きつらせながら、
「か、勘の鋭い奴め……」
「図星か?」
「うるせぇ!」
吐き捨てて、クルドは黒猫を小脇に抱えた。