三、彼女の妹【5】
クルドは黒猫へと向き直ると、指を突きつけた。
「いいか、お前は絶対に会場内から動くな。余計なことはしなくていい。シンシアが外に出てもその対応はラウルがする。素人のお前が気にかける必要はない。――それと もう一つ。二階にも行くんじゃない。突き落とされたら終わりだと思え。そして、いいか。お前も必ず人が込み合っている場所を選べ。何があっても、誰が呼んでも絶対に二階と外には行くな。人けのない場所には気をつけろ。魔女はそこを狙ってくる。いいな? 勝手な行動だけはするなよ。理解できたら、ちゃんと返事を――」
何を思ってか、クルドはそこで言葉を止めた。少し間を置いて、自嘲するように自分の顔に手を当て吐き捨てる。
「……何か俺、父親みてぇだな」
「クルド……」
クルドは黒猫を抱き上げると、胸の中へと寄せた。
「いいか、これだけは俺と約束しろ。絶対に俺を助けに来るんじゃない。何があっても、魔女にどんなことを言われてもだ」
ぎゅっと抱き締めていく。
「お前を見ていると死んだアイツを思い出す。重なるんだよ。また、目の前で失ってしまうんじゃないかって……不安で……怖くてたまらなくなる」
黒猫はクルドの胸に顔を埋めた。
「……わかった。約束する」
◆
「ねぇねぇねぇねぇ黒猫ちゃん」
「あーもう! 何だよ、朝っぱらから何度も何度も何度も何度もうるさい奴だな! 今度は何だ?」
目覚め起きてからずっとベッドの上で、エミリアは今日もすこぶる元気だった。
「黒猫ちゃんって、いつも朝は何を食べているの? ミルク? お魚? それとも――」
「ウールドミルクだ」
「あら、意外と贅沢な猫なのね」
「で、言ったから何だ? 用意してくれるのか? してくれないのか?」
「じゃ、魚に決まりね」
にこりと微笑むエミリア。
黒猫はあまりの苛立ちに前足で頭を掻き乱した。
「あーもう、いいかげんにしてくれよ! オレが答えることに何の意味があるっていうんだ!」
「ねぇねぇねぇねぇ」
「うるさい! もう話し掛けてくるな!」
黒猫は前足で両耳を掴んで塞ぐと、ベッドに大の字で倒れ込み、顔を埋めた。呻く。
「あーもう嫌だ。どうにかなりそう……誰かオレを誘拐してくれ……」
後ろ足を泳ぐようにばたつかせる。
それを見たエミリアが、衝撃を受けた顔で口元に手を当てた。
「なんか黒猫ちゃんの今の姿、すっごくラブリー」
「誰かオレを誘拐してくれぇぇッ!」
黒猫は両耳を塞いだまま天を仰いで泣き喚いた。
パッと、エミリアの表情が明るく変わる。黒猫に覆い被さり、前足を捕まえて耳から引き離す。
「ねぇねぇねぇねぇ黒猫ちゃん」
身動きできない黒猫。ため息をついて、うんざりと口調を変える。
「……今度は何だ?」
「黒猫ちゃんって、けっこう面白いんだね」
「で、オレはそれに対してどう答えればいい?」
「そんな真面目なとこもかわいくて好き」
「会話不成立、か……」
「ねぇねぇねぇねぇ」
「はいはいはいはい、今度は何だ?」
エミリアは嬉しそうに笑った。黒猫を捕まえたままゴロリと寝転んで、天井向けて高く持ち上げる。
「ねぇ、あたしの側にずっと居てよ。こんなにいっぱいしゃべったのって何年ぶりかしら? おじさんと黒猫ちゃんがウチに来てから、今すっごく楽しいの」
くすくすと笑って。エミリアは持ち上げていた黒猫を自分の胸に引き寄せた。
ぎゅっと抱き締める。
「これからも、ずっとずっと側に居てよね。黒猫ちゃん」
黒猫は真顔でぽつりと問い掛けた。
「寂しくないのか?」
「え?」
抱き締めていたエミリアの腕の力が緩んだ。
黒猫はもう一度同じ質問を繰り返す。
「寂しくないのか? 猫相手に話し掛けて」
エミリアは黒猫から目を逸らすと、くぐもった声で小さく答える。
「黒猫ちゃんにはわかんないのよ。あたしの気持ちなんて」
「そのワーワーぴーぴー癪に障る言い方、どうにかできないのか?」
「だって……」
と、寂しそうに言葉を詰まらせる。
ぼそりと黒猫。
「黙っていればイイ女なんだけどなぁ」
「そう見える?」
「食いつくな。ただの独り言だ」
再びエミリアは黒猫を強く抱き締めた。嬉しそうに、
「あたし、黒猫ちゃんと結婚しよっかな」
くだらないとばかりに鼻で笑って黒猫。
「猫と結婚だなんて変な発想をする女だな、お前は」
エミリアは力強く頷いた。
「だって楽しければ、あたしの人生それでいいし」
黒猫はフンと嘲笑って、
「馬鹿馬鹿しい」
会話の無駄だとばかりに、エミリアの口を前足で塞いだ。
しかしすぐに退けられ、エミリアとの会話がまた始まる。
「だって貴族として生きていくより、黒猫ちゃんと結婚して庶民で暮らした方が楽しそうだもん」
「楽しくねぇよ、あんな暮らし。貴族で生まれた奴は一生貴族暮らしが性に合っているんだ」
「えーやだやだ、あたしそんなの! お姉ちゃんみたいに一生振る舞えだなんて、とても耐えられない。――そりゃぁ、一度は真似してみたけどさ、やっぱり我慢できなかった。あたしはこのままが一番自然なんだって、もう気付いちゃったから。えへ」
「何が『えへ』だ。開き直るな」
黒猫は呆れにも似た重いため息を吐いて、
「庶民暮らしはお前が想像しているよりもはるかに辛い。我慢できるのか?」
「やろうと思えばできるわよ。泥だらけになることも平気だし、ただ自分の身の回りのことをすればいいだけでしょ? 庶民はみんなそうやって暮らしているみたいだから、あたしにだってできるわよ」
「じゃ今からやってみろ。掃除、洗濯、風呂焚き、薪割り、買い物、食事の準備、仕事して金を貰う。貴族から離れて暮らす生活がどれだけ大変か、一度その身に味わってこい」
不満に口を尖らせてエミリア。
「そ、それは……その時になったらできるもんなのよ」
「無理だね」
「何よ、偉そうに――黒猫ちゃんの馬鹿!」
エミリアは癇癪に黒猫を横に投げ捨て、手短にあったピンクのクッションで叩くようにしてクッションの下に埋めた。そのままベッドから降りて、着替えを始める。
クッションの下からのそのそと姿を見せる黒猫。
「見ないで、エッチ」
エミリアは脱ぎたてのネグリジェを叩きつけた。
「だったら予告ぐらいしろ」
ネグリジェの中に埋もれたまま、黒猫が呻く。
その上にエミリアは無言で黄色いドレスを叩きつける。
「んっ?」
さらにコルセット。
「うおっ!」
さらに――。
だんだんと増してくる重さに、黒猫が悲鳴じみた声をあげる。
「やめろ、いいかげんにしろ! こっちは猫なんだぞ! ネグリジェだけでこの重さはないはずだ! いったい何を置きやがっ――ぎゃぁっ!」
トドメに、そこら辺に飾っていた小さな女神の石像を置く。
黒猫の声は完全に途絶えた。
「あたしが着替えるまでそうしてて」
エミリアは吐き捨てるようにそう言い残すと、使用人を部屋に呼び、いつもより遅いペースで着替えを進めていった。