二、狙われた彼女【10】
――翌朝。
クルドはフレスノール家の来客用の部屋――昨日案内された部屋のドアを開けた。
窓から吹き抜ける心地よい風に優しく揺らめくカーテン。整然とした簡易な家具は閑散としており、この部屋には必要な物だけしかなかったことに、クルドは今気付いた。
その部屋のベッドには、濡れたハンカチを額に置いた貴公子然とした少年が横になっている。クルドはその少年に親しげに声をかけた。
「よぉ。気分はどうだい? クレイシス侯爵殿」
するとベッドで横になっていた少年――クレイシスが苦々しい顔をして小声で呻く。
「その名で呼ぶな。バレたら厄介だ」
「こんなに馬鹿広いんだ。聞こえやしないさ」
クルドはベッドに腰を下ろし、尋ねる。
「それにしても、よくあの高さから落ちて助かったもんだな。それに姿も元に戻っているし……いったい何があったんだ?」
クレイシスは右手を顔に当て、深々とため息を漏らした。
「オレにも何がなんだか説明のしようがない。ただ必死でシンシアを助けようとした。それだけだ」
当てていた右手を天蓋へと向かってかざし、
「本当はこうやって、姉さんを助けたかった……」
クルドはその手を掴んだ。
「お前はよくやった、クレイシス。お前がいなければシンシアは死んでいた」
無言で、クレイシスがクルドへと顔を向ける。
目を合わすことなく顔を背けて、クルドは沈うつ気味に呟きを落とした。
「俺は阻止するどころか、お前がいなければまた新たに犠牲者を出すところだった」
クレイシスが慌てて上半身を起こす。
「な、何言って、あの時クルドがいなかったらオレだってシンシアを助けること――」
遮るようにクルドは両手で顔を覆うと、小さく自嘲した。
「なんてザマだ。ここまで腑抜けになるとはな。裁判者の名がきいて呆れる」
「ごめん、クルド。オレそんなつもりで言ったんじゃ――」
「どうやら俺は完全にこの仕事から足を洗った方が良さそうだ」
「そんな……嘘だろ、クルド。今更そんなこと」
クルドは気分を払うように手を振った。
「お前の姿も元に戻ったことだし、これからはもう二度と俺に付きまとうな。魔女のことも、もう忘れろ」
クレイシスが激しく首を横に振る。
「嫌だ」
すがるようにクルドの腕を掴んで、
「お願いだ、クルド。オレも手伝うよ。異常者扱いされたって構わない。オレも力になれることだったらどんなことだってする。だから――」
クレイシスの一方的な言葉に、クルドはベッドの裾をぐっと握り締めていった。口調が少し強くなる。
「いい加減にしろ、クレイシス。そういう約束だっただろう? 俺がどんな覚悟と気持ちでこの仕事をしているか、お前にわかるか? お前みたいな奴にこの仕事を手伝われると迷惑なんだよ。貴族のくせに戯言なんかに振り回さやがって。魔女のことは俺たちに任せてとっとと帰れ。そして忘れろ。いいな?」
「なんでそんなこと、平気で言えるんだ?」
「…………」
クレイシスが怒ったようにベッドから降りていく。
「だったらわかった。もういいよ。クルドに頼んだオレが馬鹿だった」
どこかへ行こうとする彼の腕をクルドはぐっと掴んで引き止めた。唸るように、
「お前にこの仕事の何がわかる?」
「じゃ、クルドにオレの何がわかるって言うんだ?」
「……」
クルドは答えなかった。静かに目を伏せて黙り込む。
掴まれた腕を強く振り払って、クレイシスは声低く続ける。
「どうせ他人事にしか思ってなかったんだろう? 別にそれはそれで構わないよ。でもオレは毎晩毎晩、同じ夢ばかり見続けるんだ。姉さんが窓から落とされる、あの日のことを……」
クレイシスはそっと右手へと視線を落とし、悔やむようにギュッと握り締めた。そしてクルドを睨むようにして見やり、
「シンシアを助けた時、何かがスッとしたんだ。気持ちが落ち着いたって感じで。もしかしたら、こうすることで姉さんの魂が浮かばれるんじゃないかって――ん? あれ?」
「…………」
少し考え込んでから、クルドは慰撫した表情をクレイシスへと向けた。
「なぁクレイシ――」
しかし。
「……猫だ」
そこにいたのはクレイシスではなく、一匹の黒猫だった。