二、狙われた彼女【9】
「お姉ちゃん……? 何、しているの……?」
シンシアはゆっくりとエミリアへ顔を向け、真顔で答える。
「何って……私は鳥になったの。ここから飛び立つのよ」
クルドは舌打ちした。
「魔女の幻覚か」
黒猫が小声で、
「魔女が来る」
クルドは汗ばむ手をぐっと握り締めた。
「まだ行くんじゃねぇぞ、クレイシス。お前まで幻覚に引き込まれるからな」
「やめて、お姉ちゃん!」
駆け出すエミリアをクルドは慌てて捕まえた。耳元にささやく。
「ここは俺たちに任せて、お前は親でも誰でもいいから口の上手い大人を呼んで来い。数人でいい。大勢来るとシンシアの心に拍車がかかる。逆に下に大勢集めろ。その方が飛び降りる恐怖心を与えやすい。万一を考えて、下にはクッションとなる物を用意しろ。いいな? 急いでだ」
「でも……」
今にも泣きそうな顔でクルドを見つめるエミリア。
「いいから急げ。時間は俺たちが稼ぐ。いいな?」
こくり、と。エミリアは頷いた。
クルドはそっとエミリアを離す。
急いで部屋を出て行くエミリア。
その姿をしばし見送って――。
入れ替わるように黒猫がクルドの足元に近づく。緊張と焦りをにじませた様子で、
「時間を稼ぐって、いったいどう説得するつもりなんだ? クルド」
クルドはふぅと息を吐くと全身の力を抜いて体をリラックスさせた。
「説得にマニュアルはない。臨機応変。まずは焦らないことだ」
スッと一息吸って。クルドはシンシアへと目を向けた。少し張り詰めた声で、
「よく聞け、シンシア。お前は鳥じゃない。人間だ」
シンシアは首を横に振る。
「見てよほら、私は鳥になっているわ。こんなに美しい羽が背中に生えている。まるで天使みたいに――」
言葉半ばで、クルドはフッと鼻で笑い飛ばした。
「見えているのはお前だけだ。鳥になれるはずがないだろう? この薬を飲んでいないんだからよぉ」
黒猫が首を傾げる。小声で、
「薬……?」
「黙ってろ。魔女の幻覚を利用するんだ」
小声で叱責して、クルドは懐からビニール袋を取り出した。その中に入っている赤い粉。――こういう時を想定して事前に準備しておいた、ただの香辛料である。
それを突き出すようにシンシアに見せ、迷いなき瞳でハッキリと言い放つ。
「いいな、シンシア。これを飲めば鳥になるんだ」
シンシアの心が揺れ動いたのが表情でわかった。外へと向いていた体がゆっくりと内側に入ってくる。
震える彼女の片足が窓枠から浮いた。
そのまま少しずつ部屋の中へと――
「シンシアぁぁぁッ!!!!!」
奇怪な悲鳴がクルドの背後から上がった。
直後に誰かが床に倒れ込む音と、飛んでくる心配に叫ぶエミリアの声。
「お母様!」
「あぁ母さん、しっかり……」
気弱な男性――きっと男爵だろう――の声も聞こえてくる。
クルドは両手をわななかせて怒りの形相で振り返った。
「何やってんだ、あんた達は!」
「それは私がこれから口にしようとしていた言葉なのだが……」
と、男爵。
無視してクルドはエミリアを指差す。
「お前なぁっ! 状況わかって行ったんじゃなかったのか? 説得できる大人を連れて来いって言っただろ!」
引かずに胸を張ってエミリア。
「だから両親を連れてきたじゃない」
「状況ぐらい読めよ!」
「クルド!」
黒猫の鋭い声に、クルドは黒猫へと振り向いた。
そこに黒猫の姿はない。
すぐに窓――シンシアへと目を移す。
無人となった窓にクルドは がく然とした。
「し、しまった!」
窓へ駆け出す。
すぐに窓から身を乗り出して真下を見て――
しばらく呆然と見つめて……。
やがてクルドは安堵の笑いをこぼした。
「どういうこった? これは」
落ちたシンシアは無事だった。
庇うような形でシンシアの下敷きになっている少年が一人いる。
――その少年に、クルドは見覚えがあった。