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序章


 ※注意書き※

 

 この作品には残酷な表現が含まれています。


 この作品で何か問題点がありましたらお知らせ下さい。即刻、修正及び削除したいと思います。





 眠りにつく前に、あの【おまじない】を唱えてみた。

 魔女ならきっと、私の願いを叶えてくれる……。








  ◆



 暗闇の部屋に一つだけ、浮かび上がるように開け放たれた窓。そこから月の光が優しく差し込み、吹き入る風が白く柔らかな生地のカーテンを誘うように揺れ動かしている。

 シルク仕立てのネグリジェを着た彼女は落ち着いた足取りでその窓へと歩み始めた。


 一歩、二歩と……。


 部屋に、彼女以外に人はいない。静寂が支配するこの部屋に、彼女の素足の音だけが響き渡る。



 ふわり、と。

 窓辺に辿り着いた彼女を夜風が撫でていった。彼女の長い黒髪が波打つように舞い上がる。彼女は窓辺に向き合うと、滑らかな細い指先をスッと差し伸べた。繊細な彫り込みの入った木製の窓枠に触れる。片手を下の窓枠に置き、片足をその隣に置く。踏みしめて、もう片足も窓枠にのせる。窓枠を掴んで、よろめく体を支えながら、ゆるりと窓に立ち上がっていき――。

 ふいに、部屋の扉が二回ノックされた。

 彼女は動きを止める。驚いたわけでもなく、ただ普通に、何事もなかったかのように返事をする。

「はい」

 扉の向こうから少年の声。


「……姉さん。僕だ、クレイシスだ。入っていい?」


 彼女は普段通りに言葉を返す。

「どうぞ」

 扉が開いていく。


「明日開かれる、姉さんの婚約式の件で話したいことが……」


 扉の向こうから十四歳ほどの小柄な少年が姿を見せる。黒く清潔感のある短い髪。着ている紳士としての正装は一人の権力者として認められた者の証であり、しかし認められた者にしてはまだ幼き、世間知らずを残す少年だった。呆然と目の前の光景を見つめ、部屋の前に佇んでいる。

「……何……している……?」

 彼女は真下に広がるコンクリートの地面を見つめ、平然と答えた。

「私は鳥になったの。ここから飛び立つのよ」

「と……飛び立つって……」

 少年の表情はしだいに青ざめていった。焦りの色濃く浮かべながら、左右の廊下に視線を走らせる。

 誰の声も聞こえない静かな廊下を、何度も何度も。



 やがて少年は彼女へと視線を戻した。動揺を隠し切れないまま、恐る恐る部屋の中へと一歩踏み込む。

「姉さん……いいからこっちに来て。話は僕が聞くから」

 彼女に手を差し伸べる。

 しかし、彼女は首を横に振って拒んだ。

「もういいの。ここを飛び立てば、私は鳥として自由に生きることができる」

「何言っているんだよ、姉さん。窓から飛んだって自由にはなれない。さぁ、この手を掴むんだ。こっちに来てくれ、お願いだ」

 彼女はようやく少年へと振り返り、そして見つめた。少年の手をジッと……。

 彼女の表情からみるみる戦慄が広がっていく。小刻みに震えながら、ゆっくりと首を横に振り、

「嫌……」

「姉さん!」「嫌よ、もうたくさんだわ! 私はただ自由になりたいだけなの!」

「婚約式のことなら僕がなんとかする! だから早まるんじゃない!」

「どうせ何もできないくせに、そんなこと言わないでよ!」

「姉さん!」

「来ないで!」

 少年がびくりと身を震わせる。差し伸べた手は力無く下りていき……。

 彼女は必死に懇願した。

「お願いだから私のことはもうほっといて。自由になりたいだけなのよ……」

 少年は首を横に振った。もう一度手を差し伸べ、穏やかに話し始める。

「みんな姉さんのことを心配している。大丈夫だから。約束しただろう? 姉さんのことは僕が守るって。何も心配しなくていい。政略結婚は僕がするし、姉さんのこれからの幸せだって僕が――」

 彼女の表情がフッと緩んだ。

「ありがとう……」

 頬をつたう一筋の涙。

「でも無理よ。もう遅いの。何もかも……」

 窓の外に姿を現す、宙に浮かぶ漆黒の人影――醜き老婆の魔女。その魔女が抱き込むように彼女の体へと手を回す。

 少年の表情が強張る。

 最期に、彼女は優しく微笑みを見せた。


「ごめんね……クレイシス」


 魔女とともに彼女の体が窓の外へと傾いていく。

「やめろ!」

 叫び、少年は駆け出した。懸命に伸ばした右手は届くことなく空を切って――。

 彼女と魔女の姿は窓から消えた。

 その後、窓の下から響く鈍い音。

 少年は駆けつけた勢いのまま窓から身を乗り出し地面を見下ろした。


 地面に広まっていく血だまり。そこに横たわる彼女の姿。


 少年は現実を拒むように首を横に振りながら、窓から離れていった。そして崩れるかのごとく床に座り込む。

「姉さん……」

 声を震わせ呟いて、少年は空を掴んだ右手を広げて見つめた。

 届かなかった右手を悔やむように強く握り締め、少年は膝を抱えてうずくまると、小さく声をあげて泣き始めた。


 そう、彼女は鳥になることはなかった。その薄命は少年の心に深い傷を残すこととなり……。









 彼女の死から数日後――。

 少年は忽然と屋敷から姿を消した。











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