03 モニカの環境1
それからモニカが学園へ復学するまでに、二十日もの日数がかかる。
カリストの見立てどおり怪我自体は、たんこぶと擦り傷だけだったので五日ほどで治った。けれどそれを確認する医者がモニカを診るまでに、十五日もかかったのだ。
別に、医者が忙しかったわけではない。忘れられていただけのこと。モニカにとってはよくあることだ。
「お父様、お母様。明日から学園に復学いたしますわ」
「ん? モニカは学園を休んでいたのかい?」
「まぁ! どこか調子が悪かったの?」
夕食の席。モニカの両親は、娘が怪我したことなどすっかり忘れた様子で、心配そうにそう尋ねてくる。
これもモニカにとっては、いつものこと。いちいち気に留めるだけ損なので、にこりと微笑む。
「階段から落ちて、軽い怪我をしてしまいましたの。お二人とも、三日に一度は私の様子を見にきてくださいましたわ」
そう。両親はちゃんとモニカを大切にしている。三日に一度、思い出したかのようにモニカの部屋を訪れては、娘が怪我をしたと大騒ぎしたのだ。
父は「医者を呼ばなければ」と部屋を飛び出し、母も「栄養があるものを作らせなければ」と厨房に走る。そして途中で忘れたのか、それっきりだった。
「おお、そうだったか。どうも最近、物忘れがひどくてな」
「大切な一人娘なのに困ったパパね。マニカの怪我が治って良かったわ」
(お母様。モニカです……)
モニカは存在感がなさすぎる故に、両親ですら忘れ気味になってしまう。
今まではそう思っていたが、前世を思い出し自分がモブだと知ったことで、すべてに納得がいった。
けれど、この現象が起きているのはどうやらこの家では、モニカだけのよう。
両親はこの家で揺るぎない存在感を得ているし、使用人たちも互いに協力し合いながら滞りなく仕事をこなしている。
(きっと皆は、ゲームに登場していないから普通なのね)
モブとして登場している者だけが、この現象に見舞われているようだ。
役が与えられていない者のほうが好待遇というのは解せないが、モニカとしては両親が同じ目に遭っていなくて良かったとも思える。
(私も、役を全うしたら普通になれるのかしら?)
翌朝。モニカは一人で起きて、一人で身支度を整えていた。
貴族令嬢ならばメイドが世話をしてくれるのが普通だが、モニカの家ではこれが日常となっている。
決してメイドたちに虐められているわけではない。ただ単に忘れられているだけ。
おかげでモニカは貴族令嬢でありながらも、自分のことはなんでも自分でできるし、家事もひととおりこなせる。
このような体質では結婚も望めそうにないが、細々と暮らしていく準備は整っている。
ちなみに婚約破棄の件は、父はまったく気にしていなかった。
「よく思い出せない者とは、婚約破棄して当然だ。もっと良い相手を見つけなければ」と張り切っていたが、それもすぐに忘れるのだろう。
あの時はモニカも、元婚約者についてはよく思い出せなかった。彼も同じく、モブに違いない。
モニカのような扱いを受けているモブが他にもいると思うだけで、モニカは少し気が楽になる。辛い状況でも、仲間がいるだけで前向きになれるから不思議だ。
モニカは鏡の前に座り、改めて自分の顔を見つめてみる。
この国ではありがちな緑の瞳と、これまたよくある茶色の髪。
貴族令嬢は皆、美しさを誇示するように手入れの行き届いた髪を長く伸ばしているが、モニカの髪は肩の辺りで切り揃えられている。
これにも残念な理由があり。何度も「髪を伸ばしている」と美容師に伝えても、間違えて肩の辺りで切られてしまうのだ。
まるで、『モブの髪型はこれだ』と言わんばかりに。
「お嬢様、遅れてしまい申し訳ございません!」
身支度がすっかりと終わったころになって、メイドは青ざめた表情でモニカの部屋へとやってきた。手には、顔を洗うためのお湯が入ったポットを持っている。
思い出してくれたのは嬉しいが、モニカはすでに前日に用意しておいた冷たい水で顔を洗い終えている。
「身支度は終わったから大丈夫よ。朝食の前にお昼のお弁当を作ってくるわね」
「お弁当でしたら、料理長が作っていると思いますが……」
「うーん。たぶん忘れていると思うから、行ってみるわ」
厨房へと向かったモニカは、忙しく朝食の準備をしている料理長に声をかける。
「料理長おはよう。バケットとハムとレタスをもらうわね」
「おや、お嬢様おはようございます。もうすぐ朝食ですが?」
「今日から学園に復学するので、お弁当が必要なのよ」
「あちゃー! そうだった。申し訳ございませんお嬢様。今すぐご準備いたしますので」
「これくらい私がするから大丈夫よ。料理長は朝食をお願い」
「そうですか……? 助かります、お嬢様」
これは、毎日のようにおこなわれる会話だ。
朝食と夕食は家族全員で食べるのであまり忘れられないが、それぞれ別れて食べる昼食は忘れられることが多い。
そのためモニカは、幼い頃から自分の昼食は自分で作る習慣ができている。
小さな子でも簡単に作れると料理長が教えてくれたのが、このバケットサンドだ。
(このバケットサンドは、ルカ様が大好きなのよね)
ルカと親しく……とは言い難いが、顔見知り……とも言い難い。とにかく知り合うきっかけになったのも、このバケットサンドのおかげだ。
モニカの父は、騎士団長であるルカの父の補佐官を務めているので、昔から両家は親交があった。
――その日。モニカは父と一緒にルカの家であるフエゴ公爵家を訪問したが、例によって父に忘れられて、モニカは庭園を彷徨っていた。
その時に、生垣の隅で泣いていたのがルカだった。