第34話 祈りを込めて
あの不思議な公衆電話で、遠い銀河の少年と繋がった夏から三年後。
ほたるは中学三年生になっていた。
進学してすぐに詩織を巻き込んで水泳部に入部したほたるは、相変わらず真っ黒に日焼けしていた。
小学校の時からずっと変わらない、前髪ピッチリのショートヘア。
馴染みの美容室のおばちゃんは、何も言わずとも椅子に座ればこの髪型にしてくれる。
プールで汗を流すほたるには、濡れた髪を容易に乾かせられるこの髪型が、おあつらえ向きで丁度良かったのだ。
部活一本でとにかく練習に明け暮れるばかりのほたるは、少なからず異性を意識し始めた周りの同級生から、変わった子だという目で見られていた。
殆どの女子たちが気になる異性に惹かれる中、ほたるだけは周りにいる男子に目を向けることなく、もっと遠いところを見ている様だった。
それはきっと三年前のあの夏の日があったから。
少し大きくなったほたるは、あの時気付けなかったことにもう気付いていた。
そう、私はあの少年に恋をしていた。
そして失恋した。
思い出すと今でも胸の奥が切なく痛む。
あの台風の日の夕方、はるか遠くの君に会いたいと叫んだ私は、もう恋に落ちていたんだ。
甘酸っぱいと言われる恋の味。
ほたるの初恋は、甘さよりも痛みを伴う苦み、そんな味だった。
夏休みの初日、午前中の練習を終えて、ほたるは自転車であのタバコ屋の前を通りがかった。
あの日と変わらず店先のカウンターの上に居座るピンクの電話。
最近しばらく見かけていないおばあちゃんと、いつも丸くなって寝ていたあのキジトラ猫。
いつからか閉まったままの開閉式の窓は、今度いつ開くのだろうか。
何時までも変わり映えしないと思っていた見慣れた景色も、ゆっくりと少しずつ変化しつつある。
ほたるは自転車を停めて、あの懐かしいピンクの電話と久しぶりに向き合った。
おばあちゃんがいないせいだろう、ピンクの電話はしばらく磨いてもらえていない様でうっすらと埃が積もっていた。
ほたるはポケットからハンカチを出して、電話の埃を丁寧に拭いてやった。
「この店の看板なのにね」
受話器を手に取って丁寧に拭いたあと、ほたるは小さく唇を結んで受話器を耳に当てた。
懐かしいプラスティックの硬い感触。
そしてほたるは目を閉じる。
そこから少年の声が聴こえてくることはない。
遠い波の音が潮風に乗って、ほたるの耳に届いてくる。
かつて少年が憧れた潮騒の音を、今は一人で聴いていた。
そっと受話器を戻し、ほたるはまた自転車に乗った。
ペダルをこぎ始めた少女の頬に、あの日感じた潮風が優しく吹き抜けた。
それから一週間経ったある日、しばらく姿を見なかったあの電話のおばあちゃんが亡くなったという知らせを聞いた。
しばらく市内の病院に入院していたらしく、そのまま息を引き取ったのだそうだ。
お葬式に訪れた大勢の人たちの中に、ほたると詩織の姿もあった。
こういう時、大人というのはどうしてこうなのだろう。
葬儀が終わり、振舞われたお弁当に箸をつけながら酒を飲み始めた大人たちの何人かが大きな声で騒ぎ始めた。
ほたるは赤ら顔で笑い声をあげる姿にうんざりして部屋を出た。
そしておばあちゃんの家の敷地内にある、少し離れたあの電話機のあるタバコ屋へとやってきた。
親類の誰かが鍵を開けたのだろう。狭い店の戸は少し開いていた。
ほたるは滑りの悪い引き戸に手をかけ、グッと力を込める。
戸はギシギシ音を立てながら開いた。
「こんな感じだったんだ」
外からは伺い知ることの無かった、おばあちゃんがいつも座っていたタバコ屋の店の中。
開きになっている窓を開けて、ほたるは潮風を店の中に招き入れた。
そしておばあちゃんも目にしていた窓からの景色に一息ついた。
「こんな感じかー」
丁度三年前に、あの少年と話をしていた時間帯。
開いた窓からは、夕日に染まった海が遠くまで見渡せた。
しばらく頬杖をついて波の音を聴いていたほたるの背に、誰かが声を掛けてきた。
「あ、ほたるちゃんも来てたんだ」
「詩織ちゃん」
狭い店内は中学生の少女二人が収まるにはやや手狭だったが、詩織は興味深げに中へと入って来た。
簡素な木製の椅子に腰かけていたほたるは、お尻をずらして詩織の座れるスペースを作った。
お尻半分しか乗せられないスペースに強引に半分だけねじ込んで、何とか詩織も落ち着く。
おかしな座り方をした二人は、クスクス笑いながら視線を海へと向けた。
「こんな感じだったんだね」
「うん、私も今感心してたとこ」
二人の瞳には、ただただ穏やかな景色が映っていた。
この店の主人が亡くなった今も、変わらない海と空の色が広がっていた。
「おばあちゃん、ここで毎日通学する子供たちを見守ってくれてたんだね」
「うん。目が合ったらいっつも会釈してくれてた」
二人はしばらく狭いタバコ屋の店の中で、懐かしいおばあちゃんと絶対に触らせてくれないあのキジトラの猫の話をしたのだった。
「あの猫、何て名前だったんだろうね」
「さあ、そもそも野良猫だったんじゃないかな。名前も何も無いんじゃない?」
そうして二人で笑い合う。
「この電話、思いだすな」
懐かしそうに詩織が見つめる先にピンクの電話があった。
ほたるは詩織に、詩織はほたるに気を遣ってか、長い間この電話のこと、テルのことを話さなかった。
「もう三年経つんだね」
詩織は手を伸ばしてカウンターの電話機に触れた。
「そうだね」
ほたるも手を伸ばして電話機に触る。
「ねえ、ほたるちゃん」
「なあに?」
「今更なんだけど、ほたるちゃんに内緒にしてたことがあるんだ」
「どうしたの、あらたまって」
肩の触れ合う狭い店内で、詩織は背筋を伸ばして座り直す。そして長い間しまっていた話をほたるに聴かせた。
「私、テル君のことが好きだった」
「うん、知ってたよ」
「えっ? 言ってないよね」
「言わなくっても分かるよ。それぐらい」
「私の知る限り一番鈍いほたるちゃんにバレてたなんて」
「なによ。失礼な言い草ね」
二人はまたクスクスと笑い声をあげた。
「でも失恋しちゃったんだ」
「え、告白してフラれてたの?」
「そんなんじゃないよ。告白する勇気なんて無かったし」
そして詩織は間近でほたるを軽く睨んだ。
「先に言われちゃったの。テル君に」
「え? 何を?」
「やっぱり鈍いわね。つまりテル君は、ほたるちゃんのことが好きだったって言ったの」
ほたるは一瞬呼吸を止めた。
「えーーーーっ!」
大声を上げたほたるに詩織は顔をしかめた。
「耳の近くで大声上げないでよ。まあ今更になったけどそういうことなの。テル君からほたるちゃんには言わないでって言われてたから、ずっと黙ってたんだけどね」
「どうして今話したの?」
「どうしてかな。なんだかそうしないといけない気がしたんだ。ほたるちゃんは知っておくべきなんだって、テル君が残していった全部を」
「うん、ありがとう……」
またほたるは気付かないうちに涙を流していた。
「ごめん、思い出させちゃったね。私そろそろ帰るね」
「うん。話してくれてありがとう」
詩織は最後に、ほたるの背中をポンと叩いて店を出て行った。
「はー」
ため息をつきながら、沈んでいこうとしている夕日に目を細める。
小さな椅子に座ったまま、作り付けの狭い机の下で足を動かすと、つま先がぐにゃりとしたものに触れた。
「ひいっ!」
思わず叫んでそのままひっくり返りそうになったが踏みとどまった。
陰になっている机の下に目を凝らすと、黄緑色の二つの光と目が合った。
「わっ!」
もう一度ほたるが驚くと、あの愛想の無い、やさぐれたキジトラ猫が跳び出て来た。
「あーびっくりした。なに? あんたずっとそこにいたのね」
キジトラの猫は部屋の隅っこに移動して、ほたるを鋭い眼差しで睨み、警戒している。
ほたるは長い間ずっと触ってやろうと機会を窺っていたので、チャンスが到来したとほくそ笑んだ。
「さー、おいで、怖くないよー」
手招きしながらそおっと近付く。
もう少しというところでキジトラは跳んでかわす。
跳び上がって机の隅に逃げたキジトラを、ほたるは執拗に追い詰める。
「さー、観念なさい。大人しくスリスリされなさい」
手を伸ばしたほたるの指先に、キジトラの猫パンチが炸裂した。
「キャッ」
「シャー!」
キジトラは机の上にあった物を蹴とばしながら、ほたるの手をかいくぐり、開いた窓から飛び出して逃走した。
「あー、惜しかった。なによ、盗み聞きしといて触らせてくれないなんて」
ほたるは、さっきキジトラが逃げるときに蹴とばしていったものを床から拾い集める。
「千載一遇のチャンスだと思ったのに……」
ブツブツ言いつつ、ほたるは床に散らばった物を綺麗に机の上に並べていった。
「これ何かな?」
ペン立てとセロハンテープを机に置いたあと、ほたるは床に転がっていた丸い缶に手を伸ばした。
あちこち錆びた缶は、薄っすら印刷の名残りがあった。
「ああ、蚊取り線香ね」
ほたるはなにげに持ち上げてみる。
「ん?」
ほたるの手の中で、じゃらりという感触があった。
「小銭でも入ってるのかな」
ほたるは錆び付いた缶に爪をかけると、ぐいと力を入れた。
「ああ、そういうことね」
缶の中には十円玉がたくさんあった。
しかしどれも変色している物ばかりだ。
ほたるの見る限りそこそこ綺麗な十円玉は一枚も無かった。
そしてほたるはそこに信じられないものを見つけた。
薄青い十円玉大のコイン。
取り出して表と裏を確認したところ、見たことも無い模様が刻まれてあった。
「これって、もしかして……」
ほたるはずっと前にあの少年が言っていた言葉を思い出していた。
遠い銀河の星に住む少年と私が初めて繋がった時に使ったあのコイン。
「熊取さんが拾ったそのコインはプルトンって言って高エネルギー圧縮体なんだ」
銀河の果てとの恒星間通信を可能にするコイン型の高エネルギー結晶。
「きっとそうだわ……でもどうしてここに……」
通学する子供たちを、毎日にこやかに見守ってくれていたおばあちゃんを思い出す。
「きっと、電話を掛ける際にお客さんが落した十円玉を保管してたんだわ。いつか落とし主が取りに来るんじゃないかってこの缶の中に……」
ほたるは薄青いコインを握りしめ、その手を額に押し当てた。
「ありがとう。おばあちゃん」
そう呟いて店を出ると、ほたるはそのまま外に回り込んだ。
コインを握りしめたまま、あのピンクの電話機と向かい合う。
そして三年前のあの夏の日と同じように受話器を取った。
「ふーーー」
大きく息を吐いてから、ほたるはゆっくりと手を伸ばす。
「お願い。繋がって」
願いを超える祈りを込めて、ほたるはコインを投入した。