いつか、大きなレモンパイをあなたと。
「竜は?」
「さすがのうちでも竜は取り扱ってませんよ、先生。ただ……」
店主が声をひそめるのを聞いて檻の中の少女は顔をあげた。
「竜人族なら一つだけ在庫があります。十才ほどの子供なんで女性でも扱いやすいですよ」
檻にかけられていた布が無遠慮に取られ、不意に女と目があった。不健康そうな顔色に陰鬱な表情。カラスのように黒く長い髪も相まって絵本に出てくる魔女のようだと少女は思った。
〝先生〟は檻の中の少女をじっと見つめたあと短く言った。
「引き取りたい」
「毎度!」
でっぷりと太った店主が気持ち悪いほどのニコニコ顔で言うのを聞きながら少女は尻尾を抱えて丸くなった。売り物として檻の中に閉じ込められて数か月。次は一体、何として檻の中に閉じ込められるのだろう。
薄汚れた、服とも呼べない布切れの下からのぞく丸太ほどの太さがある尻尾はトカゲのソレに似ている。血のように濃く赤い髪からは水牛に似た黒く立派な角が生えている。肌にはうっすらと鱗模様が浮かび、手足の爪は黒く鋭く尖っている。
竜人族は半人半竜の一族。
少女の姿には色濃く竜の特徴が現れ、爬虫類に似た金色の目には何の感情も浮かんではいなかった。
***
店を出た先生は〝帰ろう〟と言って少女の前を大股で歩き始めた。鎖でつながれているわけではないけれど行く当てもない。魔女のような女のあとをついていく以外の選択肢は少女にはなかった。
少女の異様な姿にすれ違う人すれ違う人が振り返る。少女は人々の視線から逃れるように俯き、怯えたようにあたりのようすをうかがった。
「これは黒竜の血の杖。軍に調査を依頼された」
その間も先生は竜の装飾が施され、血のように赤い石が散りばめられた杖を手に話し続ける。
「いにしえの魔道保管庫で見つかったそうだ。保管庫を調査する考古学者が言うには媒体は竜の血らしい」
「……」
「竜は手に入らなかったがキミを見つけた。杖の調査のためにキミの血を使わせてもらいたい」
その言葉に少女は顔をあげた。どうやら売り物の次は実験材料になったらしい。
目の前の女も今まで出会った人間たちと同じように自分を物扱いするのだと知って逆に安堵し、安堵していることに自嘲気味な微笑みを浮かべた。
と――。
「ところで、さっきから何をきょろきょろしている」
振り返って先生が尋ねた。
黒髪黒目のありふれた外見をしている目の前の女には自分の気持ちはわからないだろうと少女は身にまとっているボロ布のすそをぎゅっと握りしめて俯いた。
そんな少女をじっと見つめていた先生は何かに気が付いたように〝あぁ〟と声をあげた。
そして――。
「あの甘い匂いか」
そう言うなり大股で目の前のカフェに入っていってしまった。一人、道に残された少女がおろおろしている間に茶色い紙袋を持って戻ってくる。
「この店で買うならレモンパイ、だそうだ」
店の常連客にでも言われたのだろう。先生は道の脇に置かれたベンチへと、これまた大股で向かった。今度は少女も小走りに追いかける。
うながされて先生の隣に座ると紙袋の一つを差し出された。紙袋の中からは甘い匂いがしている。でっぷりと太った店主のもとでほんのわずかな食事しか与えられていなかった少女には垂涎モノだ。
でも、すぐに手を伸ばしたりはしない。
これまで出会ってきた、少女を売り物として扱う人たちはことあるごとに少女を鞭で叩いた。紙袋に手を伸ばした瞬間、目の前の女も叩くかもしれない。怖くて手を伸ばせないまま、少女はごくりと唾を飲み込む。
そんな少女を見つめていた先生は何かに気が付いたように再び〝あぁ〟と声をあげた。
「そうか、そうだな」
そう言うなり少女の小さくて傷だらけの手を取る。
そして――。
「ヒール」
治癒魔法を唱えた。途端に鞭で叩かれた腕や手のひらの傷がふさがっていく。痣ができていた唇の端もキレイに治った。スーッと消えていく傷と痛みに少女は目をしばたたかせた。
「すでに治って痕になってしまった傷は治らないが、これで食べられる。痛くない」
大真面目な顔で言って改めて紙袋を差し出す先生を見つめ、それでも少女は手を伸ばすのをためらっている。
「遠慮しなくていい」
「でも……私は、ただの実験材料なんでしょ? それなら、こんなこと……」
か細い声で言って少女は俯いた。
生まれたときから檻に入れられていたわけではない。幼い頃には同じ竜人族の家族や友人とともに隠れ里で幸せに暮らしていた。でも、里が襲われ、そうして始まったのが檻の中での暮らし。しばらくは泣いたり逃げようとしたりしたけど何度も鞭で叩かれてあきらめた。
だから――。
「キミを買ったのはキミの血を使わせてほしいからではあるが〝ただの実験材料〟として扱うつもりはない」
そんな風に言われてもどう答えたらいいかわからない。
「親代わりなどとおこがましいことを言うつもりはないがキミのことは責任を持って養育するつもりだ。キミも私のことは家族か友人だと思って接してくれればいい」
そんな風に言われてもどんな表情をしたらいいかわからない。
「これからよろしく」
握手を求めているのだろう。差し出された白く細い手を見つめ、しかし、少女はその手を取ることなく俯いた。
そんな風に言われても人間の言うことをどうやって信じればいいのかわからなかった。
握手を求める手を取らない代わりにレモンパイの入った紙袋に手を伸ばす少女を先生は困り顔で見つめた。でも、少女がまとっているものが薄汚れた布一枚なことに気が付くと〝あぁ〟と声をあげて勢いよく立ち上がった。
そして――。
「服……子供服!」
そう言うなりすぐ近くの電話ボックスに入っていってしまった。
ベンチに座ったまま、きょとんと目を丸くして先生の背中を見送った少女はレモンパイをちょびりとかじり――。
「……!」
目を輝かせたのだった。
***
切ってもいないパンとハム、チーズの塊をドドンとお皿に乗っけただけの先生が用意した夕飯に少女が困惑している頃、その黒い軍服姿の男性はやってきた。
「いきなり電話をかけてきて子供用の服なんて言い出すから何事かと思ったじゃないか」
先生が〝少将〟と呼ぶ白髪混じりの男性は困り顔で微笑んだ。目尻にしわを作って微笑む様子は温和な紳士に見える。一見すると、だが。
「なるほど、竜の代わりに半人半竜である竜人族の血を使うのか。考えたな」
ニコニコと微笑んではいるが少将の目は値踏みするように少女のことを見つめている。
少将の視線から逃げるように先生の後ろに隠れるとそっと髪をなでられた。少女が上目遣いに見ると先生もちらりと視線を返す。にこりともせず、しかし、少女を安心させるように小さく頷いて先生は再び少将に向き直った。
「そういうわけで子供用の服をお願いします」
「そういう事情なら研究費として請求してくれて構わない。しかし、子供……それも女の子の服となると私も部下も専門外だ。明日、家内を寄こすから今夜のところは君の服で凌いでくれ」
わかったというように先生が頷く。寡黙な部下に苦笑いして少将はテーブルに目を向けた。パンとハム、チーズの塊が白い皿の上にドドンと乗っている。
「このパンとハムとチーズは?」
「こんなに痩せていては血を抜いたら倒れてしまいます。食べて血を作らないといけません。私も食べないと死にます」
「つまり君たちの夕飯ということか」
食物を摂取さえすればいいだろうと言わんばかりの代物に少将は額を押さえた。育ち盛りの少女に出すにしても、若い女性の食事にしても栄養バランスだとか見た目だとかを気にしなさすぎだ。
処置なしとゆるゆると首を横に振って少将は少女の前にひざをついた。
「こちらも家内の専門分野だ。明日、服だけじゃなく生活全般のアドバイスを受けるといい」
「なぜ彼女に言うんですか、少将」
「研究に没頭すると視野が狭くなるところはあるが根は悪い人間じゃない。私にとっては大切な部下でもある。よろしく頼んだよ」
「なぜ私ではなく彼女に言うんですか、少将」
真剣な表情で言う少将と首を傾げる先生の顔を交互に見上げ、少女はあいまいに頷いた。
少将の言葉の意味を少女が理解するのは半日ほどあとのこと。一年が経つ頃には深く深く頷いた上にため息が勝手にもれるくらい理解できるようになっていた。
***
「起きて! ほら、起きて!」
少女の元気な声が寝室に響く。カーテンを開け放つと朝陽が差し込み、部屋は一気に明るくなった。固く目を閉ざしたままの先生は眉間にしわを寄せると――。
「……」
ふかふかの布団を頭からすっぽりと被って隠れてしまった。少女は腰に手をあてて盛大にため息をつく。
「もう……起きてってば! 今日は少将のところに報告しに行く日でしょ? 出かけなきゃなんでしょ?」
「……少しくらい遅れても待ってくれる」
「少将はそうかもね。でも、私が作った朝ごはんは待ってくれないよ。テーブルの上でどんどん冷たくなっていくんだから!」
少女の言葉に先生は押し黙った。
そして――。
「それは大問題だ」
小さな声でぼやくと名残惜し気に枕を抱きしめてからのそりと体を起こした。
「おはよう」
どうにか目を覚ましてくれた眠り姫に少女はにっこりと笑いかけた。
「おはよう、先生!」
少女が引き取られて一年が経っていた。
家具がそろった広い部屋を与えたり、量だけは十分すぎるほどの食事を用意したり。〝キミのことは責任を持って養育するつもりだ〟という約束を先生は生真面目に守ろうとしてくれた。
でも、圧倒的に家事スキルが足りていなかった。
ついでに家計を守るだけの経済観念も足りていなかった。
少女の部屋は蜘蛛の巣が張って綿埃が転がっている程度だったからマシな方。先生自身の部屋はカビにキノコまで生え、お風呂やキッチンなんかの水回りはぬるぬるのぬめぬめ。
さすがにこのままではまずいと先生が頼もうとした家事代行業者の一回の金額と、先生が想定している利用頻度を聞いて少女も、子供服を持ってきてくれた少将の奥さんも悲鳴をあげた。
そんなわけで少女が〝家事は全部、私がやる!〟と言い出すまでに半日。
〝やりくりは私がするから一か月分の生活費をちょうだい!〟と言い出すまでに一週間しかかからなかった。
一年が経った今では広い家のどこにもカビもキノコもぬるぬるぬめぬめも存在しない。室内はすっかり明るくなり、しっとりかび臭かったベッドもふかふかお日様の匂いになり、気を失うように床で寝ていた顔色の悪い魔女こと先生も少女が用意する栄養バランスばっちりの美味しい食事のおかげでお肌つるつる髪の毛さらさらの眠り姫に変わり――。
少女もまた、一年前よりもずっと背が伸び、ふっくらと女の子らしい体つきになり、濃さを増して黒に近づいた赤髪を揺らして金色の目を細めて笑うことが多くなっていた。
***
「終わった。……めまいは?」
「大丈夫!」
採血を終えた先生は少女の返事にほっと息をついた。
一年前は何度も刺し直し、少女の腕を針の穴だらけ内出血だらけにしていた先生だったけど今では一発で成功させられるようになった。腕を針の穴だらけにされながらも練習台になってくれた少将の部下たちのおかげだろう。
採ったばかりの少女の血を先生が黒竜の血の杖についている赤い石に落とす。ぽたりと一滴。血は伝い落ちることなく赤い石に吸い込まれ、竜の目が赤く輝いた。
杖が起動したのだ。
杖の先を計測器に押し当て、表示された魔力の推定増幅量を先生が読み上げる。
「……三二〇一倍」
数字をノートに書き写した少女が顔をあげると先生の眉間にしわが寄っていた。
「どうかしたの?」
「一年前の半分ほどになってる」
杖は媒体を用いて起動し、魔力と魔法式の入力を行い、魔力を集約・増幅して魔法を出力する道具だ。本物の黒竜の血の杖は出力部分が壊れているか、特殊な仕掛けがあるらしい。一年経った今も起動、入力まではできるが出力はできていなかった。
本物は、というのは黒竜の血の杖の複製品を先生が作ったからだ。
「本物とはずいぶんと見劣りする。推定増幅量が雲泥の差だ」
先生はそう言って口をへの字に曲げていたけど〝複製品ができたから試してみたい〟という報告を聞いた少将の、電話から漏れ聞こえる声で十分にすごいことだと少女にもわかった。
先生は今日、その複製品を試すために軍の施設に行くのだ。
複製品の杖と媒体である少女の血をカバンにしまい、先生は研究室を出た。少女も小走りに追いかける。玄関までお見送りだ。
「ねえ、先生。本物の黒竜の血の杖が使えるようになったらどんなことができるの? 複製品をたくさん作って何をするの?」
「すごい魔法を使えるようになる。たくさんの人がすごい魔法を使えるようになる」
大真面目な顔で答える先生を見上げて少女は首を傾げた。
「すごい魔法で何をするの?」
そう尋ねられて先生は黙り込んだあと――。
「……さあ」
結局、首を傾げた。
「この杖や魔法道具自体には興味があるがこの杖を使って何をするかには興味がないし、何をしたいかなんて考えたこともなかった」
世紀の発見でもしたかのように目を見開いて言ったあと、先生はまばたきを一つ。
「キミなら何をする?」
少女に尋ねた。少女はまばたきを一つ。
「大きなレモンパイを作りたい。すっごく大きなやつ! 家に入らないくらい大きなやつ!」
金色の目をキラキラと輝かせて両腕を広げてみせた。
「そんなに大きくてはオーブンに入らないのでは? 乗せる皿もないし、そもそも皿に移すときに崩れてしまう。すべて食べ終わる前に傷んでしまう可能性も……」
「そのためのすっごい魔法だよ!」
少女の答えに先生はなるほどと深く頷いた。
「なら、本物の黒竜の血の杖が使えるようになったら大きなレモンパイを作ろう」
「すっごく大きなやつ!」
「すっごく大きなやつ」
復唱して先生は玄関のドアを開けた。
「それじゃあ、行ってくるよ。……今日のところは普通のレモンパイを買ってくるから」
「……!」
途端に少女の目がキラキラと輝いた。
先生と初めて会った日以来、レモンパイは少女の大好物になっていた。
***
先生を見送った少女は朝食後、そのままにしていたテーブルを片付けながら考えていた。
まずは皿洗い。そのあとは洗濯だ。天気がいいから布団も干そうか。いや、先生が留守の間に研究室の掃除を――。
ジリリリ……と玄関ベルがけたたましく鳴った。
「はーい!」
慌てて玄関ドアを開けた少女はそこに立っているでっぷりと太った男を見上げて凍り付いた。
「おはようございます。こちら、先生の……と、お前か。一瞬、誰だかわからなかったよ」
少女を売り物として扱い、檻に閉じ込め、ことあるごとに鞭で叩いていた店主がそこにいた。客に向けるニコニコ顔はドアから顔を出した少女が店の売り物だった少女だとわかるなり冷ややかなものに変わる。
「先生はずいぶんとお前のことを丁寧に扱っているようだね」
「……先生は出かけてます。用件はなんですか」
首をすくめながらもきっぱりとした口調で言う少女に店主はますます目を細く、鋭くする。
「買い付けのためにしばらく街を離れるからその前にお得意さんまわりをと思ってね。しかし、これは……もう少し早くに様子を見に来るべきだった。取扱説明書をきちんと読むようにと言っておいたのに少しも読んでいないと見える」
ため息をつく店主を見上げて少女はドアノブを強く握りしめた。取扱説明書に何が書いてあったのかはわからない。でも、ろくでもないことが書いてあるのだろうことは想像できた。
「先生が欲しがっていたのは竜だ。半人半竜の竜人族であるお前は代替え品。でも、竜人族は常に半分が人で半分が竜というわけじゃない。竜人族は――」
頼んでもいないのに店主はペラペラと話を続ける。耳をふさいで逃げ出したいのに少女の足は震えてその場から一歩も動くことができなかった。
***
ただの歩兵が放った火炎魔法の熱風に、腕で顔をかばいながら少将は言葉を失った。魔法を放った歩兵自身も呆然としている。
「本物の黒竜の血の杖と比べると十分の一ほどの威力ですが」
長い髪が熱風で乱れるのも気にせずに先生は計測器を見つめて淡々と言う。唇がへの字に曲がっているのは複製品の出来に満足していないからだ。
苦笑いして少将はひらりと手を振った。
「十分だ」
この世界のほとんどの人間が魔力を持っている。しかし、魔法兵として魔法攻撃を行えるほどの魔力を持つ者は軍全体で三パーセントほど。
でも――。
「この杖があれば五○パーセント以上を占める歩兵が魔法兵に化けることになる。それも歩兵としてのスキルと体力を持った、魔法兵に」
というわけだ。
何を想像したのか。少将は身震いして満足げな笑みを浮かべた。
「では、複製品については一旦、ここまでで」
「あぁ、設計書を提出してくれ。それと明後日、定例会議があるから出席を。……基本的には私が喋るから」
会議と聞いて露骨に嫌そうな顔をする寡黙な部下に少将は苦笑いする。先生は渋々、承諾すると用件は済んだとばかりに荷物をまとめ始めた。
「本物の杖の解析は引き続き行います。人工的に竜の血を生成できないかの研究も引き続き」
「媒体である竜の血の確保が最優先だ」
「わかりました。竜の血の研究を優先させます」
短く言ってカバンの中に入れておいた複製品の設計書を取り出そうとして――ふと先生は手を止めた。
「少将、本物の黒竜の血の杖も複製品も通常の杖より遥かに〝すごい魔法〟が使えますよね」
「ん? あぁ、そうだな?」
寡黙な部下の唐突な質問に、意図がわからず少将は首を傾げる。少将の困惑など気にもせず先生はさらに尋ねた。
「少将はすごい魔法で何をしたいですか」
先生の質問に少将は目を丸くした。そして、ハハ! と思わずといった感じで笑って、当然と言わんばかりに答えた。
「我が国の輝かしい未来を邪魔する者をせん滅する。まずはアザラシ共だな」
〝アザラシ〟が北方の大国を指す蔑称だということは魔法道具の研究にしか興味のない先生でも知っていた。
一年前よりもずっとサラサラになった黒髪を耳にかけ、指に触れていた複製品の設計書は出さないまま。
「では、また明後日。設計書もそのときに持ってきます」
先生はそう言ってカバンを閉めたのだった。
***
家に帰った先生は目を丸くした。
「……叩いて」
いつもなら玄関を開けると元気いっぱいの笑顔で〝おかえりなさい!〟と言われ、せがむように差し出された少女の手のひらにレモンパイが入った紙袋を乗っけるのだが。
今日、言われたのは〝叩いて〟という不穏な言葉。出迎えたのは俯き、青ざめた顔の少女。差し出された手のひらにはどこから見つけて来たのか、おそらく馬用の鞭が乗っていた。
「これは?」
「いいから!」
「いや、しかし……」
「いいから叩いて!」
「……」
鞭を胸に押し付けられて、それでも戸惑うばかりで一向に叩こうとしない先生を睨むように見つめているうちに少女の目にはじわりと涙が浮かんだ。
「……私を買った店、覚えてる?」
「あぁ」
片膝をつくと先生は白い指で少女の涙をそっと拭う。
「その店の店主が今日来て話してったの。竜人族は常に半分が人で半分が竜なわけじゃないんだって。竜を好むか人を嫌えば竜に、人を好むか竜を嫌えば……人に、近付くって」
先生が必要としていたのは竜の血だ。竜の代替品としての少女だ。
「だから、先生は私に優しくしちゃいけなかったんだよ」
日の当たり具合によっては黒色にしか見えない髪からほんのわずかのぞいている角を撫でながら吐き出すように言った。
この一年で少女の外見はずいぶんと変わった。
背が伸びた。ふっくらと女の子らしい体付きになった。血のように濃い赤色だった髪はほとんど黒色になった。水牛に似た黒く立派な角は親指ほどの大きさにまで縮んだ。丸太ほどの太さがあったトカゲに似た尻尾も細く短くなって長いスカートの下に隠れてしまうようになった。肌の鱗模様はずいぶんと薄くなって目をこらさなければわからない。
少女の姿は竜よりもずっとずっと人に近いものになっていた。
「今朝、言ってたでしょ? 杖の推定増幅量が一年前よりも減ってるって。きっと私が竜よりも人に近くなったせい。私の中の竜の血が少なくなったせい。だから……」
少女が再び差し出した手のひらには薄茶色の線がいくつも残っていた。鞭で叩かれてできた痕だ。一年前、まだ血が滲んでいる新しい傷は先生の治癒魔法でキレイに治った。でも、すでにふさがっていた古い傷は少女の体のあちこちにそのまま残っている。
小さな手のひらに今も残る痛々しい傷痕を見て。
俯いてギュッと目をつむる少女を見て。
胸に押し付けられた鞭をにぎりしめて――。
「もう、必要ない」
先生は少女の震える手を取ると手のひらにキスをした。柔らかくて、でも、ちょっとだけひんやりとした唇の感触に少女はハッと顔をあげ、目をしばたたかせた。
「……先生?」
「竜の血はもう必要ないんだ。だから、キミを叩く必要もない」
手のひらにキスするために俯いた表情がどこか暗いことに気が付いて少女は心配そうな表情で先生の顔をのぞきこんだ。
「杖のこと、少将から何か言われた? 怒られたの?」
少女の問いに先生は力なく首を横に振る。
「軍からの依頼なんだ。この杖が……〝すごい魔法〟が何に使われるかなんてわかりきっていたのに。私は魔法道具の研究にしか興味がなくて、そんな単純なことに気付きもしなかった」
長い黒髪がさらりと落ちて先生の表情を覆い隠す。でも、途方に暮れた迷子のような顔をしているのだろうことはこの一年、家族か友人のように接してきた少女には簡単に想像できた。
研究に没頭すると視野が狭くなるけど根は優しい。自分の研究の成果がたくさんの命を奪うことに繋がると気が付いて平然としていられる人間ではないのだ。
「私は黒竜の血の杖と研究成果を持ってこの国を出ようと思う。私以外にも杖を解析できる者はいるから」
解析できる者がいるということは、置いていけばいずれまた複製品が作られ、いつか本物の黒竜の血の杖も使えるようになり、たくさんの命を奪うことになるかもしれないから。
「だから、この杖と研究成果は持っていく。きっと軍に追われることになる。だから、キミは……」
「うん、私も一緒に行く」
先生の言葉をさえぎって少女はきっぱりと言った。弾かれたように顔をあげると先生は勢いよく首を横に振った。
「殺される可能性もあるんだ。だから、キミは……」
「うん、先生と一緒に行く」
話の流れを完全に無視して少女はやはりきっぱりと言った。困り顔の先生を見つめて少女はくすりと微笑んだ。
「黒竜の血の杖を持っていくんでしょ? だったら私も行かなきゃ。この先、どれくらい竜の血が私の血の中に残るかわからないけど私の血を使って研究を続けてよ」
「でも……」
「この杖は武器じゃない」
武器として使おうと思えば武器になるけど、武器として使おうと思わなければ武器にはならない。
少女と先生にとっては――。
「この杖はすっごく大きなレモンパイを作るための魔法道具だよ!」
太陽のような少女の笑顔を先生はぽかんと見つめた。そのうちに困ったように、でも、どこか嬉しそうに微笑んだ。先生の微笑みに少女も笑い返す。
「誰に追われても、殺されるかもしれなくても、私は先生と一緒に行く。だって、私は人が好きなわけでも竜が嫌いなわけでもないもの」
小さな手で前髪をかきあげて少女は手のひらへのキスのお礼に先生の額にキスをした。
「私は先生が好きで、先生と一緒にいたくて、先生に近付いただけだも」
***
巨大な船が到着すると港は一気に騒がしくなる。各国の新聞を取り扱う売店にも船旅で得られなかった情報を求めて人だかりができた。
自分よりもずっと背の高い大人たちにもみくちゃにされながらもどうにか手に入れた新聞を道のすみに落ち着くなり広げる。
新聞の一面を飾るのは軍所属の研究者が貴重な古代の魔法道具を盗み、奴隷の竜人族の少女を連れて逃亡したというニュースだ。先生と少女の似顔絵も大きく載っている。
でも、この似顔絵で見つけるのは難しいだろうと少女は微笑んだ。
この世界に黒髪黒目の細身の二十代女性は山ほどいる。だからこそ少将は少女の似顔絵も公開したのだ。水牛に似た黒く立派な角、トカゲに似た丸太のように太い尻尾、鱗模様が浮かぶ肌の竜人族の少女は目立つから。
だけど、それは一年前の少女の姿。
今の少女とは別人だ。
「道を聞いてきた。レモンパイを食べに行こう。そのあと宿探しだ」
「はーい!」
先生に呼ばれて少女は元気いっぱいに返事をすると駆け出した。少女の姿にすれ違う人すれ違う人が振り返り、微笑む。
サラサラの黒髪から角らしきものは見えていない。短いスカートの下から尻尾がのぞいたりもしていない。肌の鱗模様はすっかり消えてなくなっていた。
先生の腕にしがみつく少女の姿は誰の目にも甘ったれの妹にしか見えないだろう。