第3話 まるで友達みたいな
とある昼休み。
屋上には、昨日の一件で引きちぎれたフェンスを撤去するため、二人の用務員がやって来ていた。
「あらら。こりゃ随分派手に折れちまってんなぁ」
「老朽化って聞いてたが、本当か?」
「学生サンのイタズラかね」
古びて自然に折れたとは思えない、ひしゃげた様子のフェンスを見て、用務員は首を傾げた。
「鍵はかかってたはずだが……つってもあんな古い鍵、あって無いようなもんか」
「そうだな。最近のガキは何しでかすか分かんねえ」
50歳近い二人の男は、雑談に興じながらダラダラと作業を始めた。
「そういやぁ昨日のニュースでもあったよな。ガキが母親を噛み殺したって」
「あー、おっかねぇ中学生もいたもんだ」
「怖い世の中だぁな。俺たちが若い頃はよ──」
「あっ……」
「ん?」
男が手を止めて振り返ると、相棒は俯きしゃがみ込んでいる。
「どうしたよ? 具合悪いのか?」
自身の顔面を覆っている彼の手を伝って、赤黒い液体がポツンと床に垂れた。
「あぁ鼻血か。ティッシュ貸してやるよ」
「うぅ……」
「何だ? 苦しいのか?」
彼は両手で顔を拭うと、真っ赤になった自分の手の平を見つめ動かなくなった。
「おいおい、どうしたってんだよ? 嫁サンに嫌われ過ぎておかしくなっちまったか?」
「……れは……くない……」
「え? 何て?」
ボソボソと呟く相棒の声を聞きとろうと、傍らにしゃがんで耳を寄せる。
「俺は……俺は悪クない……」
「お前本当に大丈夫かよ?」
とりあえずティッシュを差し出そうとポケットに手を入れた瞬間。
血まみれの手のひらが、介抱しようとする男の喉元を掴み締め上げた。
「グッ……やめ……」
「おれはわるくなイ……わルクないぃぃ……わるくなぃいおおれはおレはおレわオれわ──」
全身の肌が青白く染まり異形と化した彼は、男の喉を片手でがっちり掴んだまま引きずっていく。
そしてそのまま屋上の縁に立つと、ゴミ袋を集積所に出すかのように、男の身体をポーンと放り投げた。
「なん……で……」
上空20メートルに放り出された男の視界に、”相棒だった男”が映る。
それは鼻血ではなく、目から血を流すバケモノの姿だった。
***
同じ頃。
フェンスの修繕作業により憩いの場を奪われた芥は、体育館前のベンチで一人、購買で買った焼きそばパンを食べていた。
モグモグとパンを頬張りながら、校庭の方を見た。
さっきまで雨が降っていたせいで、植え込みの緑色がキラキラと輝いて見える。
場所が変わっても、ボッチ飯である事に変わりはない。
一人が好きな彼は別に、寂しいなどとは思わない。
しかし、なぜだろうか。
夜島の顔がやけに頭に浮かぶ。
それにしても、昨日あれだけの事があったというのに、あれ以来一言も喋ってない。
放課後もすぐに帰った様だったし、ジマミのアカウントも消えていた。
そういえば夜島さんって、誰と昼食をとっているのだろう。
いつも一人でいるイメージだけど。
そんな事を考えていると、芥の肩越しに近い位置から声がした。
「ねえ」
「うおっ!?」
少し驚いて振り返る。
横を見ると、いつの間にか夜島が同じベンチに腰掛けていた。
「隣、良い?」
「良いって……もう座ってんじゃん」
「たしかに」
そう言って彼女は、弁当を取り出した。
小さく手を合わせてから蓋を開ける。
──不思議な子だな。
パンをかじりながら、黙々と弁当を食べる彼女の横顔を見る。
肩にかかるくらいの真っすぐな黒髪に、スッと通った鼻筋。
和美人って、こういうのを言うんだろうか。
でも少しあどけなさが残ってたりして……あれ、もしかして夜島さんってけっこう可愛い?
「芥君」
「ん?」
見とれていたのがバレたかと跳ねる心臓を抑え、校庭を見つめ平然を装う。
「昨日ね、見ちゃったんだ」
「え、何を?」
どちらかと言うと、決定的瞬間を見ちゃったのは芥の方だが。
「その、手首」
「……ああ」
そういえば昨日、彼女は芥の左手首を思いっきり掴んでいた。
その時見たのだろう。
彼の手首に散乱する、無数の切り傷を。
「これね」
芥は、何て事ないという風に手首をさらけ出して見せた。
実際、見られたってかまわないというのが本音だ。
これらの傷ができたのも数年前なので、跡はだいぶ薄くなった。
若いうちの傷は消えやすいらしい。
「もうほとんど見えないっしょ」
「そう、かな……」
彼女は興味深そうにじっくりと傷を見る。
「何で切ったの、それ」
「ハサミ」
「へえー。私カミソリ派」
そう言って彼女も、自分の袖をめくって見せた。
芥と違って新しい傷らしく、数本の赤い線がくっきり残っている。
「カミソリかぁー、思いっきりやると死ぬやつじゃん」
「そうそう」
奇抜すぎる会話。
少なくとも、高校生の男女がランチ中にする会話ではない。
夜島もそれ以上深掘りしてこなかったので、芥は別の話題を探した。
「えっと……夜島さんってさ、そのお弁当自分で作ったの?」
「ヤミコね」
「あ」
そういえばそうだった。
「ヤミコって呼んでって言ったじゃん。あんな事あった後で、他人行儀にする方が変でしょ」
「そうだね。ごめんヤミコ」
「自分で作ったよ」
「え?」
「だから、お弁当よ」
ヤミコ。
浅からざる闇を抱える彼女にはうってつけの名前だと、芥は思った。
「ところで芥君は、あだ名とか無いの?」
「うーん。高校入ってから仲良いヤツいないからな……」
「中学ん時とかは?」
「ああ……」
中学の時の事は、出来れば何も思い出したくない。
出来れば、何も。
「じゃあ私がつけてあげる」
芥の返事を待たずに、夜島は切り出した。
一人で黙っているイメージだった彼女が普通に喋る意外性に、芥は若干押されていた。
「えーと、下の名前って何だっけ」
「千隼」
「芥千隼ね。アク……チハ……うーん」
夜島はしばらくぶつぶつと考えていたが、やがて顔を上げた。
「アクヤ。アクヤ良いじゃん」
「アクヤ……」
響きが”悪役”に似てるな、というのが芥の第一印象。
しかし、やけにしっくり来た。
「まあ悪くないな」
「じゃあアクヤで決まり。改めて宜しくね、アクヤ」
夜島はそう言うと、真顔のまま右手を差し出して来た。
「お、おう」
パンをベンチへ置いて右手で握り返す。
改めて握手って何だよ。
欧米か?
握手が終わると、夜島は何事もなかったかのように弁当を黙々と食べ始めた。
芥の右手にはまだ、妙に温かく柔らかい感触が残っている。
(こんなのまるで、友達みたいじゃないか)
芥は感情を殺すかの様に、焼きそばパンを強めに握った。